アルフレッド・セイヤー・マハン

1840年9月27日生まれ

父、デニスハート米国陸軍士官学校教授(軍事・土木工学)
(南北戦争に従軍した数百人の士官に軍事理論を教えた)
著書、「野戦築城」、「戦術の起源と進歩の基礎理論」

マハンは、12歳でメリーランド州、セント・ジェームズ神学校送られ、コロンビア大学時代は、叔父(神学校、教会史教授)の元へ下宿した(ミロ・マハン、イギリス国教会派牧師)マハンの青年時代の教育は父の影響や教えを受けた形跡は無く。軍事学ではなくて宗教者として教育を受けた。

父に逆らって、軍人の道へ進み。アナポリス海軍兵学校へ1856年入学、(成績二番で卒業)学校では、友人より多くの敵を作った。
帆船への愛着と蒸気船への憎悪(煤煙、騒音、石炭扱い難さ)軍艦が帆船から蒸気船に変わっていった結果、マハンは、海上勤務から陸上勤務へ逃げた。

1861年南北戦争
南軍の沿岸哨戒任務に従事(戦闘無し...)
1時期、海軍兵学校の運用術教官
終戦時に少佐
その後20年間、教官、艦長などを歴任
海軍兵学校、アジア派遣艦艇
1886年から、海軍大学校、校長兼海軍史、海軍戦略教授
海軍大学校長二期
1886年〜1889年1892年〜1893年
海軍大学当時は新設されたばかりで教材も教育方法も確立されてなかったためマハン自身が教材を集め制作した。「海上権力史論」はマハンの講義をまとめて本にしたもの。
この本は英国で高い評価を得て...
1894年にはオックスフォードとケンブリッジから名誉博士号を受け、ヴィクトリア女王、皇太子、首相、海軍協会などから招待を受ける...

現代戦略思想の系譜P394
「全編を通してイギリスの勇気、忍耐、手腕、力に対する素晴らしい神格化である」
(大英帝国を歯の浮くようなお世辞で賛美した)
(つまり正確な歴史でなく飾り立てた歴史...)
海軍史研究家ジョン・ノックス・ラフトン

海軍大学で講義1895年〜1896年
その後現役から身を引き執筆活動に入る。

1899年第一回ハーグ平和会議アメリカ代表団顧問
当時の(平和な)アメリカ人はヨーロッパの帝国主義的な考え方についていけなかった。
植民地統治とか力による世界分割とか。。。マハンのおかげで米海軍はなんとかついていくことができた。(陸軍はヒューマニズムが国境で止まってしまうような状態に全くなじんでいなかった)
(帝国主義=国の安全性より国家的膨張を求める状態)


1902年アメリカ歴史学会、会長

1914年12月1日心臓疾患で死亡


「歴史の経過と国家の繁栄に、シーバワーがどのような影響を与えたか?」

シーパワー
1.海軍力の優勢によって得られる海洋の支配
2.国家に富みをもたらす海上貿易、海外領土、外国市場を利用する特権などの総合的なもの。
(生産物、海運、植民地、市場)

「貿易を封鎖停止させることができれば平和をうけいれさせることができる。」
海洋を支配するものは敵を経済的に窒息させることにより戦争に勝つことができる。

海洋を支配し海上貿易をコントロールすることが海軍の主要な任務。


マハンの時代には新しい機械駆動の船舶による艦隊戦闘の実例はほとんど無く、 帆船の戦いの研究は時代遅れだという意見が多かった。

マハンは、陸上戦闘の一般原則から海洋戦闘に適応できる原則を探し出す研究を行なった。

戦略と戦術の区分、艦隊が接触するまでを戦略、接触してからが戦術、



マハン
クラウゼヴィッツから...
「敵艦隊が最高の目標であり、これを撃破して制海権を確立するのが最重用」

「決して艦隊を分割するな。」
「艦隊の最大の攻撃力は単艦が最大の力を持つことではなく艦隊として最大の力を持つことであり、そこに艦隊を編成する真の意味がある。」

海軍は戦術的にも戦略的にも攻撃的に使われる。
敵の砲火には砲火をもって対抗するのが最大の防御になる。
(敵を沈めるのが黙らせる方法)

注、マハンは、1910年まで「戦争論」を研究したことはなく、要約を読んだにすぎない。
注意点。
1.陸戦と違い海では、防御側が地形効果を得られないため防御の優位が存在しない。軍艦は歩兵と違って独自に(戦車のように)防御装甲を持っている。

2.長い建造時間と膨大な建造費のかかる戦艦が大海戦を行なうと僅かの時間で沈没してしまい負ければ取り返しが効かない。
そのため、決戦はリスクが多き過ぎる面があり、回避や消極的な戦法が選択される場合もある。


ジョミニの流用、海戦の少ない時代に陸戦から使えそうな理論を持ってきて使用しただけ。
海軍大学校講義の準備時間が無かったため、ジョミニの軍事史27巻を研究することはできず、戦略概要の基本原則を流用した。

マハンは、
艦船による地上砲撃と上陸作戦(陸軍との共同作戦の有効性を著作から省略した。)

現代戦略思想の系譜P410
「マハンは単なる海軍第一主義者ですべてはその次であった。」
ピーター・カルステン

「マハンの主たる狙いは、単により多くの軍艦を建造するための議論を展開するにあったという印象に抗することは困難である。」
ウォルターミラー

アメリカ海軍は南北戦争後に縮小され5万8000人いた兵員が約9000人に縮小された。
そのため将校の昇任は遅延し将来の昇進をかなえるためには艦隊建造の拡張しかなかった。




ミリタリズムの歴史P432
1899年ハーグ平和会議
すべての代表がこの協議を不首尾に終わらせようと努力した。
各国代表団の陸軍海軍の団員はもっとも敵対的だった。
「靴の制作に従事している人々に靴の禁止に賛成することを期待するようなもの...」
将校たちは、しばしばその帰属している国家の枠を忘れ、職業的友愛で結ばれたメンバーのように、文官たちにたいしてできるだけわずかの譲歩しかしない点で一致団結した。
マハン大佐
「毒ガスの禁止にたいして抗議し、モンロー主義に関するいかなる制限にも反対し、それどころか、彼自身の代表団がとくに主張すべく訓令されていた方針のいくつかにも反対した。」


マハンの言葉は時代遅れ
1907年ごろ、海軍内部での影響力が衰えた。

新しい技術革新についていけなくなり、論争に敗北した。


マハンの著作
「海上権力史論」1890年
「仏国革命時代海上権力史論」1892年

南北戦争後冷遇された、海軍を復活し海軍拡張のために...
海軍増強に有利な理論と歴史を集めて作った書籍。
正確な歴史や理論ではなくて随所に神格化や不利な歴史の省略を含み、書かれた意図を知らずに読むと海軍馬鹿になってしまう。

戦前の日本では、熱狂的に受け入れられた。
大臣、国会議員、官僚、軍人、実業家、天皇、皇太子にも献上され、勅命によって中学、高校、師範学校にも常備された。
陸海軍のあらゆる学校の教科書になった。

ドイツでは戦艦艦隊建造認可を得るためのキャンペーン用に印刷されて国会に配られた。
ドイツ皇帝ウィルヘルム二世は、「海上権力史論」に心酔し...「余の全ての艦艇に備え付け艦長や士官がつねに引用して。。。」


マハン主義者
決戦においては戦艦がもっとも優れている。主力艦過大評価、固定観念化
第一次世界大戦の教訓を軽視し、米軍では対潜水艦作戦の研究を怠った。
(第二次世界大戦のドイツUボートによる大損害を招いた)

日本の巨艦巨砲主義をこの流れ...
(真珠湾で戦艦だけ沈めて帰ってしまったのも、)
(無用の長物大和と武蔵の建造も、)

第二次世界大戦では、主力艦同士の(砲戦による)決戦は行なわれず、マハンが否定した陸上への艦砲射撃が戦艦の一番重要な仕事なった。
主力は空母と航空機に変わった。

日本の商船艦隊を壊滅させたのは潜水艦部隊だったし、連続的な強襲上陸作戦が攻撃の大きな部分だったし、日本の息の根を止めたのはB29の爆撃だった。

マハンの唱えるシーパワーの勝利などではなく、各軍の共同作業の結果の勝利

P399
「マハンは必要条件と十分条件を混同し・・・「複雑なものを単純化し、多様性に富むものを一様に扱うという還元主義の誤りを犯している・・・マハンの論理学者としての(従ってまた歴史学者としての)失敗は、・・・あらかじめ決められた結論を明確に証明するために事実を集めた・・」

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