二種類の戦争(Die deppelte Art des Krieges)

1.二種類の用語解説
2.最初の解説
3.新しい本文(製作中)
4.資料部分
(「戦史に学ぶ 勝利の追求」ブライアン・ポンド)
(近代戦争論の発生について−クラウゼヴィッツ「戦争論」の発生史−(1953)エーベルハルト・ケッセル著、新庄宗雅訳)
(デルブリック、クラウゼヴィッツとフリードリッヒ大王の戦略−一つの回答−オットーヒュンツェ著(1921))
(「クラウゼヴィッツ論」ハンス・ロートフェルス 人物評)

クラウゼヴィッツの手記(改定予定のメモ)に出てくる。 二つの戦争=打倒を目指す戦争(絶対戦争)と限定された戦争(制限戦争)
しかし、その後改定されたと確定できる。第一編一章を見ると二つの区分は消えてしまう。
つまり戦争とは可変状態であって「敵の打倒」は戦いが非常に有利な場合に出てくる解にすぎず限定された目標を狙う戦争も打倒が不可能な場合に選択肢として浮かんでくる。戦力バランスによって自然に浮かんでくる戦争の方法であって、これは戦争区分ではない。

方針(Nachricht)に出現する「二つの戦争」解析

岩波(上)P13
「その第一は、敵の完全な打倒を目的とする戦争である、なおこの場合に国家としての敵国を政治的に抹殺するか、それとも単に無抵抗ならしめ、従って我が方の欲するままの講和に応ぜざる得なくするかは問うところでない、また第二は、敵国の国境付近において敵国土の幾許かを略取しようとする戦争である、なおこの場合略取した地域をそのまま永久に領有するか、それとも講和の際の有利な引き換え物件とするかは問うところでない。」

しかし、論文の引用部分を見ると(オットー・ヒュンツェ−一つの回答−P22〜23)
「・・その目的が相手の打倒、相手を政治的に抹殺するにせよ、相手を単に武装解除するにせよ、相手を自己の意のままに講和に強制せんとする戦争、・・・永久に併合するためにせよ、講和の際の交渉材料に利用するためにせよ、国境地帯において相手の若干の領土を征服せんとする戦争」

となっていて違っています。

1.相手を打倒して自己の意のままに講和に強制せんとする戦争
2.国境地帯において相手の若干の領土を征服せんとする戦争

そこで、色々な「完全な敵の打倒」部分の訳を比べて見ると...

英語版 overthrow the enemy (敵を転覆させる)
独語「打倒」Niederwerfen (敵に)打ち勝つ、(暴動などを)鎮圧する
岩波 P13 「完全な敵の打倒」
清水訳P24 「敵対者の打倒」
レク P14 「敵の撃滅」

英語版の戦争論(On War )、マイケルハワードとピーターパレット共著
単語訳 overthrow 転覆させる(亀をひっくり反して手も足も出なくするという意味)
(ここでは武装解除的な表現)


対比できそうな部分を探すと... 第一遍第一章25に象徴的形態についての説明に「敵の完全な打倒」(岩波(上)P59)と言う表現が有るので、比べてみると...

英語版 destruction of the enemy (敵を破壊する)
独語「撃滅」Vernichtung 根絶、絶滅、破壊、破棄
岩波 「敵の完全な打倒」
淡訳「敵の粉砕」
清水訳「敵を屈服させる」
レク 「敵の撃滅」

英語版の戦争論(On War )、マイケルハワードとピーターパレット共著
destruction of the enemy
単語訳 destruction 破壊、滅亡、破滅
(象徴的なエスカレーションでは破壊的表現)

日本語に翻訳された「戦争論」は両者が同じになったり、意味や対比的に合わなかったりして良くないようです。

「戦争を考える」レイモンアロン(仏)P436でも 二つの戦争とは・・・強制された和平と交渉による和平の対比
とされているので、英語版とも合う。 「撃滅」(Vernichtung)ではなくて「打倒」(Niederwerfen)を使おうと思っています。

(現実の二つの戦争と象徴的部分の絶対戦争は違うものだと研究で解ってきた結果の違い。)
(現実の戦争では絶対、制限も可変なベクトルの両端にすぎず、重要なのは、戦果と自軍が被る損害のバランスによってこれが決定され、ナポレオン戦争すら絶対戦争では無くて制限があると解析される)

「ナポレオンの時代においてさえも現実の戦争とその絶対的観念との間にはいつも一つの間隙が残されている。」
エーベルハルト・ケッセル「二種類の戦争」(Die deppelte Art des Krieges)P152

(つまり、撃滅は、象徴的部分の絶対戦争にしか出てこない。)(消えてしまう絶対戦争部分)
(2篇〜7篇の古いクラウゼヴィッツの解釈をしながらを読む場合の重要な変更点)


古い戦争論の翻訳は研究が進んでいない結果だからしょうがないが新しい結果を反映できるはずのレクラム版が「撃滅」で統一されているのは許されない?(一般的に英語圏で流通してる書籍以下(T_T)...)


「方針、手記、覚書」など色々な書かれ方をしてるので調べてみると... 岩波(上)「方針」(Nachricht)
清水訳は、「覚え書」
レクラム版は「手記」
独単語訳 Nachricht 知らせ、通知、消息、報道、報告、ニュース
通知とか報告って意味もあることを考えると(意訳の)「方針」のほうが良さそう?


戦争論について調べていくと色々疑問な点が出てきますが、その中で一番大きなものは未完成に終わったこの作品が完成したらどのようなかたちになったか?(修正されて消える部分はどこか?)という点です。
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この問題を解決しないと、細かい部分(攻撃や防御の解説)にも影響が出そうなので、先にまとめてみます。
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最初は、第一次世界大戦の反省からドイツで戦争論の正確な解析が、書かれている文章の理論研究から進み...

(大戦前は、決戦称賛や防御部分の否定など偏った読まれ方がされていました。)
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発生学歴史学的研究(当時の文献の発掘や手紙の研究など)から戦争論の執筆状況やクラゼヴィッツが何を考え何をしようとしていたのかまで研究が進んでいます。
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最初「方針(覚書)」に書かれた、「二種類の戦争について注意しながら改定作業を進める必要がある。」 と書かれている部分。
(二つの戦争とは・・・強制された和平と交渉による和平の対比)
(「戦争を考える」レイモンアロンP436)
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ワイマール時代の研究でかなり研究が進み、この中に二つの要素が混ざっている(四つの方向のベクトルがある)とされた。
(政治的要求と時代による戦闘効率の差(武器の強さや兵力の価値などにより発生する))
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「1827年と30年の方針(覚書)、二つの覚書」と戦争論第1篇第1章から推定した形がワイマール時代の研究論文で発表されています。
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後の研究で判ったことは、
最後の3年の間にクラウゼヴィッツのやっていたことは、皇太子の講義用に歴史をまとめながら戦争論改定のためのデータ−解析をしていた...
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そのため、改定作業用の理論研究段階でハッキリした答えはまだ彼の頭の中に無かった...
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1957年のケッセルの論文によると、クラウゼヴィッツが病死せずに長生きしても、戦争論の完成はクラウゼイッツには不可能だった。(資料不足?)その後の長い戦争(第一次第二次)の研究が無ければ今日のような戦争論の解析理論研究(聖書を解釈して現代に使えるように当てはめる?)はできなかった...
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最近の論文では、「戦争論」の元原稿は酷いできで、最後の3年に改定されるまでナポレオン崇拝の血まみれの理論だけだったそうで、もし全面的に改定作業が行われていたら絶対戦争部分は消されてしまう可能性が高い...(歴史の研究からナポレオン時代の絶対戦争が特異な一時的な現象と気づき)
(単なる戦争の強度という可変要素に含まれる部分になる)
(戦果と兵の消耗を考えねばならず、非常に有利な状況でしか敵の壊滅は行えない)
(という当たり前の答えに変わる。)
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(ナポレオンの場合の有利の状況は、フランス革命と徴兵制による大兵力の使用)
(この兵力差があって始めて敵の打倒(セン滅)戦による短期決戦が可能だった)
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(注意、兵数差は、決戦場所だけの兵力を見てはいけない、フランスの大軍を動員して追いこんだ)
(結果起こった、フランスに有利な状況での決戦なので...)
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(数年で各国はこのことに気づき軍組織を改革したため、ナポレオンの優位は消え...)
(短期決戦による勝利も敵の壊滅による講和の強制もできなくなり、戦場は大規模な兵力の消耗戦に)
(落ちた...)
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(最後は、フランス一国では対抗できず国ごと消耗して敗北した...)
(政治的にも、敗勢が決定した後も兵力を極限まで引き出して使ったナポレオンは非難される)
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(ナポレオン戦争後の大規模動員の否定は、反動政治よりも荒廃したヨーロッパを見た結果)
(維持するだけで国が荒廃する軍隊は使えない...)
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(クラウゼヴィッツ後の時代を考えると...)
(大量動員の成功による1870年のプロシアの勝利...)
(各国の模倣により有利が消えて大消耗戦に終わった第一次世界大戦...)
(機甲師団の電撃戦という新しい戦法を使った第二次世界大戦初期のドイツの勝利...)
(やはり、第一次と同様、各国の模倣により有利が消えて大消耗戦に終わった...)
(冷戦、###)
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(総力戦は(優位点がなければ)良い方法では無いと解り、国境を武力で変えようとする試みは、)
(国際的に忌避されるようになった。)
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最初に書いた説明...
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新しい本文(製作中)
第一次第二次世界大戦で行われた「総力戦」は戦争の中の一つの方法にすぎない。 ナポレオン戦争の初期や1870年にプロシアが行った時(対仏戦)は敵がこの方式を採用していなかったため、一方的に敵を打ち破り勝利を得ることができたが... .
その結果「総力戦」は、その後の時代の支配的な戦争方式になった。 敵に勝る兵力を持つことが勝利の秘訣だと広まり、 各国は敵に勝る兵力を蓄えるために軍拡競争に突入した...
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「・・・絶対戦争のこの観念がひとたびークラウゼヴィッツ自身を通してー人間の意識の中に導入された後には、戦争遂行の強度の斬次的上昇がこの観念の実現の道程においてますます注目されざるを得ないことは予見できなかった。」
「相手の征服や政治的目的の到達のためには、・・・力の一層の緊張こそが必要であると明確に認識されると・・・いずれの国家も最初から戦争の中に利用し得る限度のすべてのものを投じ、この力をあらゆる手段をもって維持し、または上昇させようとすることに立ち到った。」
(結果)
「クラウゼヴィッツがただ単なる悟性の極端な構成物として定立した絶対戦争の観念が完全な範囲にわたって実現されることになった。」
エーベルハルト・ケッセル「双極的戦略」(Doppelpolige Strategie)P79
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(もう一つ、(ナポレオン起源の)短期決戦で敵に決定的に勝利して戦争に勝つという考え方が兵法書に刷り込まれていたため、時代との不整合(産業革命の結果、強力で膨大量の武器が量産され徴兵制))

敵味方双方がこの「総力戦」を行うと国力を消耗させる消耗戦となり膨大な被害が発生する。
その結果戦争に勝利しても敗北しても利益よりも損害の方が増し、総力戦は割りの合わない戦争方式となった。

その結果、冷戦期には、両陣営で戦場を制限した局地戦、代理戦争が行われた。

冷戦自体は、米ソの軍拡競争という国力を総動員した武器の並べ合いになった。
これは、東側陣営にレーニンから始まった戦争論の解析(理論と宣伝と嘘の入り混じった戦争論)が浸透していて、敵との妥協や話し合いといった考え方が無かったため。

最近の戦争を解析するには、戦争論で使われている理想の政治と軍事の関係では無く、国内の勢力バランスを反映させた別のモデルが必要になる。

クラウゼヴィッツの手記(1827)の「二つの戦争」について...
増えてきたのでまとめると

1.戦争論の文章からの解析

2.歴史的研究、当時の状況や個人的手紙から導き出される解析

3.この問題から導きだされる、戦争論の完成度

4.読み方、消去される部分、(こちらのほうが重要)

5.時代によってどう理解されかた。

これで何を執筆すればよいかまとまりました。
特に「3.戦争論の完成度」「4.読み方」は最近の戦争論解説から何故か抜けてる部分なので(歴史や問題があることは書いてあるが実際どう読むかは書かれていない。)重要点、

これは、5.で第一次世界大戦前の状態と比べる必要がありそうです。
読み方や使い方の書いてない説明書は無意味だ...
英語圏に比べて戦争論の正しい普及がどれだけ遅れているかこれではっきり解ると思います...


さっそく、まとめてみました。本文一部執筆

1.戦争論の文章からの解析
ハンス・デルブリュック
問題点は、数十年にわたる議論でデルブリュック自身の解析も変質してしまい当たりさわりの無いものに変わってしまってるので簡単な「デルブリュック」の理論説明では何が問題だったか解りにくい。
(当初の問題点は「消耗戦略」「打倒戦略」で戦争術の歴史を分けたこと...)
(「消耗戦略」はWW1で大量に人命を消費した作戦と同名になってしまったため途中から「機動」に変わった。)

ハンス・デルブリュック批判の論文から戦争論について多くのことが解りだした...

相手の打倒とか相手を消耗させるといった原理または傾向はすべての戦略の中に種々様々の混合状態で含まれ・・・人はそれを岩石や植物のように分類することはできない。
P17〜P18、オットー・ヒュンツェ(Otto Hintze)

1827年の手記にかかれている二つの戦争は粗野な二区分で中間部分の指摘もあるが戦争分類のようにも見えてしまう。
(デルブリュックは暫定的で未完成の手記の表現からクラウゼヴィッツの最後の回答を読むという誤りを犯した)

第一遍第一章(クラウゼヴィッツが唯一完成した部分と呼んだ)では、「積極的表現、敵の打倒」から「無名のままの消極的表現」の連続的な変化を表わす可動的な原理に変わっている。
(ナポレオン戦争を表わす「絶対的戦争」とそれ以前の「歴史的な戦争」の2区分から「抽象的戦争」から離れていく可変の表現に変わった。)
(デルブリュックの図式はクラウゼヴィッツの補完ではなく奇形化にあたる。)
※可動要素の詳しい説明はケッセルの論文のほうが判り易い。

戦略の二つの極は、「敵戦力の撃滅」と「自己の戦闘力の維持」であって攻撃と防御、戦闘と機動は単に戦争遂行の手段でしかない。

つまり、「敵戦力の撃滅」と「自己の戦闘力の維持」の下に優勢側の攻撃とか弱小側の遅滞戦術とかさまざまな状態が生じて来る
(攻勢とか防御とか言う前に考えなければならない視点)



二つの戦争=打倒を目指す戦争(絶対戦争)と限定された戦争(制限戦争)

二つの戦争区分が単なる可変部分に消えるとはどういうことか?
P28〜29
「限定された目標を持つ戦争は、相手の打倒のための条件が満たされないときに現れてくる。それは攻撃型又は防御型の戦争として遂行され得る。攻撃型の場合は敵領土の一部分の征服に向かう。攻撃が不適当ということになれば、戦争は単なる防御ということになるが・・・」

「・・・相手の打倒は状況がそれを妨げない限りあらゆる将師が狙うところの自然にして最高の戦争目標として現れる。彼が最高の目標に達し得ないかあるいは到底その目標を狙い得ないとすれば、彼はより小さな目標に、結局単なる防御に満足せざる得ない。」

将師が狙うものは「相手の打倒」=>「敵国の一部分の占領」や「敵軍の消耗」=>「防御戦」チャンスを待つ、敵軍を消耗、疲弊させる。=>あきらめて撤退する、降伏する。と落ちて行く可変なものである。

つまり戦争とは可変状態であって「敵の打倒」は戦いが非常に有利な場合に出てくる解にすぎない。

未熟な初期のクラウゼヴィッツと最後の三年に改訂作業に取り組んでいたクラウゼヴィッツの違いで一番大きな部分。





2.歴史的研究、当時の状況や個人的手紙から導き出される解析

戦争論の執筆時期は3っに分類できる。
1.1815年から1818年の間のバラバラの草稿状態
2.最初の6編の体系的仕上げ、第七編、第八編に関する草案(1827年7月まで)
3.第一編の修正(1827年から1830年の間)


初期の戦争論の元原稿と言われるものが駄目な理由(クラウゼヴィッツ自身の能力不足)

クラウゼヴィッツは12の時から軍隊の中で育ちました。そのため兵隊の持つ固定した考え方が強かった。つまり、知識を馬鹿にする傾向...
ケッセルは、初期のクラウゼヴィッツには「将師が大量の細部知識を持つことを軽蔑するという特色」があり「彼が生まれつきそのものとしては決して思索者(denker)でなかった」と書いています。

実戦向きの将軍達と違いクラウゼヴィッツは文筆才能に恵まれましたが当初は、(文章の不得意な)将軍達の代筆のような立場にいました。(初期の論文は彼の作品というより軍や将軍達の代弁と言ったほうが良いと考えられます。)クラウゼヴィッツの思索者としての能力は軍上層部の考え方に触れることによってゆっくりと発達していったと考えられています。

その後、彼は、軍のためにさまざまな論文を書けるようになり、実戦で兵隊達を操るよりも文筆方面で活躍することになりました。(現代の我々が想像するのと違いクラウゼヴィッツは実戦下手だったようです)

クラウゼヴィッツの戦争理論は実戦のさまざまな話を聞くことや分析によって発展していきました。



クラウゼヴィッツは(改定作業の方針を書いた)1827年「方針」から1830年砲兵監就任のための作業中断までの三年間(実質2年半)の間何をしていたのか?
グレーベン宛の手紙から
グナイゼナウの通信文から




3.この問題から導きだされる、戦争論の完成度

1827年以降にクラウゼヴィッツの行った改定
ピーター・パレットは、「第1篇1章、2章、3章、第2篇2章、第8篇の一部」を改定したと考えた。
しかし、この改定部分も歴史的研究で明らかにされたように最終的な完成形態に達していない。
(注、改定部分については、研究者によって諸説がある。)
(一般的なピーター・パレット説を採用)
もっとも完成された章とクラウゼヴィッツが呼んだ「第1篇1章」ですら未完成で問題を含んでいる。
(抽象的思考の遊戯として残した絶対戦争の概念部分)
(第一から第三の交互作用、戦争のエスカレーション部分)
(不要なものとして消されるべきだった...)
最初に持ってくるべきものは、
(交互作用部分)中途半端なエスカレーションでは無く
敵戦闘力の撃滅と自己の戦闘力の維持の関係
(この関係から戦闘と機動、攻撃と防御などの関係が定まる)
大きくは、戦争によって得る利益と自軍や国土に受ける損害の関係

縄張り争いする猿でさえ、戦う前に相手の強さを調べ自分達より十分劣っていると確信して初めて戦いを始める。
(自己保身が一番根元に来る。)
(決闘をモデルにするなら、自己の安全が敵を倒すより優先されることを書くべきだった)


4.読み方、消去される部分

概念部分の消去
第一遍第一章の2〜5
(戦争を決闘に見立てる部分から競い合う力は極度に達せざる得ないと書いてある第三の交互作用まで)
戦争論の説明にこの部分を使った解説を行う本は最新の研究結果を反映していない古いものになる。


絶対戦争の概念の放棄
ナポレオン戦争の時代から戦争を眺めたクラウゼヴィッツの戦争解析はせまいものだった。

優位な条件も無く




簡単な文章を書くだけでもこれだけの資料が必要になります。

資料部分
1.「戦史に学ぶ 勝利の追求」ブライアン・ポンド

「戦史に学ぶ、勝利の追及(ナポレオンからサダム・フセインまで)」
ブライアン・ポンド(ロンドン大学キングス・カレッジ戦争研究学部軍事史学教授、英国軍事史学会会長)
(防衛大学の副読本として翻訳された。)

題のせいで(似たような題の二流の書籍が多数出てるので)損をしているが、 リデルハートの弟子?が書いた本なので内容は保証できる。


絶対戦争の時代に生きたクラウゼヴィッツは、最初自分の時代に合わせて戦争理論を作ったが、歴史研究から絶対戦争が稀なことに気づき自己の理論を修正しようとしたが、果たせなかった。

第3章 ナポレオンの遺産ージョミニとクラウゼヴィッツ
(この章に戦争論の最近の研究の要約があります。)

P73
アザー・ガットとヤン・ヴィレム・ホーニッヒは、クライゼヴィッツが1827年以降に修正を行うまで「制限戦争」の用語を使用していないばかりではなく、これを正当な選択肢と認めていないことを指摘している。

P71
最初期の1804年のノートから1827年にいたるまで、一貫して、しかも情熱的にさえ、理想としての「絶対戦争」がもっとも重要であると主張している・・・

(若いときのクラウゼヴィッツは、戦争の遂行は常に相手の最大可能の弱体化に向って努力するという単純な見方をしていた。)

P73
壮大な決定的戦闘によって敵の軍隊を撃破するナポレオン的スタイルの「絶対戦争」の再三再四の強調は、「戦争論」の大部分である第2〜7篇を構成している初期の未修正原稿の中に見られる。
(第1篇第1章ですら完全に完成したと言えないことが後で、判明している。)

P73
クラウゼヴィッツは、歴史的な証拠の大勢は彼が優先的な地位を与えた前述のような総力による「絶対」戦争の理論に反しているという事実は遅まきながら直面した時に、彼の戦争哲学と方法論全体にかんする危機を経験した。

P74
要約すれば、戦争の真の姿をあらわしているナポレオン的な「絶対戦争」は非常にまれなものであると彼は述べている。・・・クラウゼヴィッツは、彼の戦争にかんする理論的な枠組みの土台が揺らいでおり、理論上の戦争に基礎を置く彼の論理が歴史上の現実の前に危うくなっていることを自ら認めた。

P75
クラウゼヴィッツは、絶対的な戦争を理想のものと評価できないようなあらゆる歴史上の事実の正統性を受け入れるという長い道のりを歩みだした。
(彼は、年度ごとの戦役史の執筆作業に取り組んでいて新しい見方はその作業の中から現れた...)

P76
クラウゼヴィッツがもっと長生きしたならば、彼は、戦争論の中に残されている緊張や対立をすべて解決したかどうか、もはや知ることはできない。
マイケルハワードは、肯定的...
アザーガットやギャリエは、懐疑的で...
(クラウゼヴィッツが理想としての絶対戦争の概念を放棄することに非常に気が進まなかったこと・・・から改定されても理想的な書までは届かないとした)

P75一時的な解決法
・・・(クラウゼヴィッツは)破壊的な「絶対」戦争の概念を放棄することに気が進まなかった・・・破壊的な「絶対」戦争は戦争の真の性格を代表するものであり、優先されるべきであると主張する一方で、二種類の戦争を認めることによって理論と実践の相違を橋渡しすることを試みた。
(その結果クラウゼヴィッツの理論とは原則的に矛盾するような意見についてさえ彼を権威として引用する状況が生まれた。)


2.近代戦争論の発生について−クラウゼヴィッツ「戦争論」の発生史−(1953)
エーベルハルト・ケッセル著、新庄宗雅訳


P170
戦争指導と政治の関係について、ハールヴェークは、「戦争論」の校訂出版において新たに彼の説の影響と誤解を一層精密に論じた。ただ私としては1853年の「戦争論」第二版における第8篇第6章Bの文章改ざんを全くその言う通りに重要視したくはない。この改ざんについて・・・彼らはプロセイン参謀本部が自らの領域の自立性を狙って行った努力と深く結びつけて考えている。

(ケッセル教授は、ブリュール将軍の編集による第二版以降の相違をそんなに問題視していないようです。)


P137「戦争論」使用上の注意
(戦争論は未完成で、結論や2,3の章が欠けているばかりではなくて、)現存するものが決して最終的定義を与えられたものではないという意味においても未完成である・・・提示されている未完成の形態においてすら・・・最も小さな断片にいたるまで完結した理論として認め得る・・・その理論たるやそれ以後の新しい時代の戦争における軍事思想を規定することになった・・・

その際つねに著者の思想全体に着目することが正しい理解のために必要である、引用の形で個々の部分を引き抜いて論じるのは、いずれにせよクラウゼヴィッツの論証の弁証法的形態に照らして特に危険な事であって、継続的な誤解の尽きることのない源泉であることを自ら実証している。

(第一次世界大戦前の適当に自説を強化するために引用する手引書として使われた反省...)
(しかし、現在でも軍拡用に使われている(冷戦期のアメリカでもかなりいいかげんな派閥があった。))


P152
クラウゼヴィッツは絶対戦争という彼の理念をもちろん単なる概念からのみ開発したのではなかった・・・ナポレオン戦争が経験的事実として同じく彼をそこに導いた・・・現実の戦争の、その絶対的観念に対する関係は、彼には言わば過去の現在に対する関係のようなものとして現れた。

ナポレオンの時代においてさえも現実の戦争とその絶対的観念との間にはいつも一つの間隙が残されている・・・つねに肝要であるのは、現実の戦争がその象徴的な概念に接近することだけである。

個々の場合に行われる戦争において相手の打倒ということが全くその目的でないならば、その場合かかる接近さえもまことに正当にも行われ得ない・・・その結果は、1種類の戦争だけがあってそれと異なるものはただそれの退化したものであるということではなく・・・やはり二つの同じく正当な権利をもち相並立する基本型がある・・・

P153〜4
人は今や戦争の二つの種類の原則的区別を全く真剣に取り上げ、この著作の中でそれが十分に願慮されていないと思われるところではどこでもそれを付け加えて読み込まねばならない。けだしこの著作の比較的早く書かれた部分では、しばしば第二の種類の戦争は自立的なものとしてではなく、第一の種類の戦争の修正としてのみ取り扱われているからである。

(注、1950年代のケッセル教授のクラウゼヴィッツの補完のしかた...)
(第1篇第1章から二区分では無く可変とするほうが一般的)


P157
最後の手記の中の第6篇(防御について)に対するクラウゼヴィッツの特別な言及・・・防御に関しては一つの戦争が両種類の戦争のうちいずれかに属するかという問題が特別に重要である、何故ならば防御はこの点についてもまた相手方の決定に左右されるからである。


P157
クラウゼヴィッツにとってその際重要であったのは絶対戦争の観念であったということを確認し、・・・かれの理論の発展史の中から、いかに彼が現実の戦争と絶対戦争との分裂のために苦労してその説明根拠を探し求めたか・・・遂に戦争遂行者が時としてまさに全く単純に全然極度を欲しない事があるという認識に到達した・・・

われわれは「そうすることを望まない」という事のみならず「そうすることができない」という事も問題となり得ることを、そしてその事のうちに特別の問題がひそんでいることも十分考えてみなければならない。従ってこの方面においても「戦争論」は未完成のまま残されており・・・

(「そうすることができない」この部分は18世紀の兵力が貴重だった時期に対応する、この部分はオットー・ヒュンツェの論文が詳しい「資料3」)

P158
第1篇第1章は1829年初めには現在の最終的表現が出来上がったと思われるのであるが、われわれはこの時期にもう一度彼の漏らした告白、「今でもずっとそう考えているが、まだ最終的に落着したとは思っていない」という言葉を有しているのである。
(破壊的な「絶対」戦争概念の放棄の可能性?)
(1829年11月1日、クラウゼヴィッツよりグレーベンへ宛てた手紙)


1812年、まだシャルンフォルストの攻撃の絶対的有利を弁護していた。


イエナとアウエルシュタットの戦役で始めて摩擦の概念が出現した。
シャルンフォルストの出逢った困難から



クラウゼヴィッツの友人への手紙、(皇太子についての愚痴?)P163〜4

1829年1月2日ベルリン、クラウゼヴィッツよりグレーベンへ

私は昨年、1796年のイタリア戦役のみならず、レオーベンの休戦に至るまでの1797年の戦役を現存の公判された資料に従って、君もよく知っている私の流儀で仕上げた。その中から一つの論文が出来上がったが、それは、昨年私が光栄にも皇太子の前で講義した1815年の戦役に関するものと同じようなものであった。・・・私には表面上良く見えるものを書くことは肝要ではなくて、私及び他の人々にとって疑いのない真理と教訓を求めることが肝要なのだ。・・・歴史的著作が大方の人々に対して与える退屈の非難をたっぷり聞かされているので・・・皇太子のためには、最も生き生きした地方色や、最も個性的な相貌や、最も皮肉な対比や、最も劇的な軍隊の結合と分散に満ちた荘厳な絵画的描写が似合いであろう。私にはそのような能力は全くない。先ず私にはその才能がないし、次に私は無味乾燥な真理の熱心な愛好者であるからである・・・それが精神と心情の上に作り出す印象はあながち軽蔑すべきものでない・・・皇太子に対して私と比べて退屈さが目立って少ないようにこの課題をうまく解決し得る人を知らないことを君に白状する。・・・

(この中の記述でクラウゼヴィッツがこの時期、戦役の執筆に取り組んでいたことが判る。)
(そして、戦役の内容を比べると(ロシア戦役などの昔に書いたものと)クラウゼヴィッツの進歩が判ってくる...)

P161
(1815、1796、1799戦史)これらの労作は同時に彼の理論的な仕事のための予備的研究であった・・・第二の種類の戦争の理論的取り扱いより一層歴史的材料に対する集中的な取り組み方を要求したから・・・彼を一層深く歴史の中に導いたものは、まさに歴史の具体的な現実においてのみ追求すべき、限定された目的をもつ戦争であった。・・・彼は1827年にこの歴史的研究目的のためにその主著に対する仕事を中断したのである

彼がもっと長生きしたとしてもそれで仕事を完成することはできなかったであろう。クラウゼヴィッツと彼の世代が自由に使い得た認識手段は、単純な歴史的事実認識だけでもって十分適切な理論研究的成果を得るには十分ではなかった。・・・正しい理論的結論に達するためには、その前にまず幾つもの世代が歴史的な原史料を仕訳けて吟味のしなおしをしなければならないのである。

ケッセル教授は、1950年代にすでにアザーガットやギャリエと同じく戦争論が完成しないと考えていました。

50年近く前の論文なので絶対戦争理念の放棄まではいってませんが色々な概念が戦争論の原稿に取り入れられた時期が解る重要な論文の一つです。


注、ケッセルは、二区分として考える特殊な立場
第1篇第1章に基づく二区分の無い「さまざまな種類の戦争」として問題を考えるのが一般的

二つのベクトルが有り...
政治的な緩和政策と極度状態の政治的理由からの場合
兵力の貴重さや戦闘力不足から打倒戦略が不可能になる場合

注、政治を二通りの意味にクラウゼヴィッツは使用している。
論文自体はケッセルが指摘した新しいアプローチの説明
資料2へ追加
二種類の戦争、エーベルハルト・ケッセル(1953)

P183
経験的判断は、18世紀が現実に限定された目的の戦争指導によって支配されていることを示した・・・ 時代の物質的、精神的及び政治的諸前提は事実上、かかる戦争形態を広く歓迎していたし、あるいはそれを要求することさえあった。それにもかかわらず、ここでも二つの種類の戦争が相並んで存在していた。7年戦争におけるようにすべてが賭けられていた戦争と、より軽少な利害が賭けられていた戦争である。 P182
二種類の戦争というのは、その本質によれば、1827年の「方針」における定義によって一見そうであるように見えるものとは異なる別のものである。・・・二種類の戦争とは、極度の法則の下にある戦争と、政治の緩和的影響下にある戦争、この二つである。

P181
十分な実証的な歴史認識を思うままに利用しえないところでは、彼を誤った解釈に誘うことになった。たしかに、クラウゼヴィッツは7年戦争におけるダウンの戦争指導を欠点のあるものとして批判することにおいて完全に正しかった。けだしダウンは皇帝の政治を支配した「相手の撃滅」という政治的目的に反して、相手を打倒する戦略を追求しなかったからである。従ってクラウゼヴィッツは、後のハンス・デルブリックの命題のごとき、18世紀は一般に敵を打倒する戦略を追求することができなかったという推論にはるかに遠かったのである。・・・

われわれは今日、フリードリッヒ大王が1757年には相手の打倒という軍事目的を追求したことをはっきり知っている。

ナポレオン戦争以前にも相手の打倒を目指す激しい戦争とそうでない戦争が存在した。

戦闘兵力の時代による大小は国家の存亡のかかっている戦いかそうでないかの規準にはならない。
ナポレオン戦争の時代から見ると限定戦争のように見えても実際には国家の生存のかかっている激戦の場合もある。

18世紀はナポレオン戦争の時代よりも戦闘が起こった場合、死傷者が多くなる。
フリードリッヒ大王の偉大さは、将軍としてではなく国王としての正しい政治判断能力 自国の戦争できる限界を正確に測り、決して限界を越える戦いをしなかったこと。

機械のような正確な運動で斜行隊形戦法を使って敵の側面の一部分に全軍で攻撃をかけて 同数や敵より少ない兵数でも優勢勝ちできる戦法を編み出した。

オーストリア軍が平地での戦闘は不利だと悟り、陣地を構えて砲兵を使って応戦する戦法に後期は変わってしまったためなかなか勝てなくなった。

「何事においてもそうだが、とくに戦争において人間のできることは能力の範囲にとどまり、願望に沿うことは稀有である。」

オットーヒュンツェP41
オーストリアの戦争方式はプロセインの軍隊の戦術的優勢のために広潤な地域における決定的戦闘を回避し、むしろダウンによって完成された方式に従って堅固な陣地で相手の攻撃を待ち受けるのである。これは最近の時代の戦争遂行のむしろ現実主義的な方式である。

資料3
デルブリック、クラウゼヴィッツとフリードリッヒ大王の戦略−一つの回答−
オットーヒュンツェ著(1921)


有名な命題論争の論文です、
「打倒」が絶対戦争、「消耗」が制限戦争のこと、用語解説は別資料として後でまとめます

P7
相手の打倒及び消耗は・・・絶対的な不変の強度においてではなく相対的な変化する強度において一方から他方への漸層的変化と中間的移行を伴う・・・一般的な戦略原理又は傾向を表現する・・・いずれの場合でも戦争遂行の強度の表現である。

P26
1827年の手記の中の粗野な2区分があるが、これは二つの形態の間の多様な中間態を手落ちなく指摘しているとはいえ、戦争の分類に近いものを思わせる。・・・

・・・ここ(第一遍第一章)では、抽象的戦争の原理への接近のさまざまの程度についての絶対的ではなくて相対的な区別をあらわす、精細な一連の関数敵関係、限りなく多数の中間態及びニュアンスの差をもつ連続的変化尺度が重要なのであって、それは一つの分極的対立によって支配されている、

その積極的な分枝は「敵の打倒」と呼ばれるのに対し、もう一つの消極的分枝は無名のままにとどまり、戦争の政治への接近や敵の打倒の原理からの乖離によってのみ特徴づけられる。

相手の「打倒」と「消耗」はクラウゼヴィッツの意味では硬直した体系ではなく、戦争遂行の極度に可動的な原理または傾向であることは明らかであろう・・・

P28
大いなる決戦を伴う又はそういう決戦のない戦争のことを述べている第6篇及び第7篇の中にある戦争の区別・・・明らかにより旧い形態の理論を相手にしているのであって、そこでの理論は政治的ではなくて純軍事的に方向づけられ、また余りに無条件に打倒思想の極点に達している。

P28
恐らくクラウゼヴィッツの改定計画の最重要な対象の一つであったと思われる。限定された目標を持つ戦争は、相手の打倒のための条件が満たされないときに現れてくる。

現実の戦争は「打倒のための条件が満たされないとき」の方が多く
第一篇第二章の敵戦闘力の撃滅、が適わない場合になり

敵戦力の壊滅を目指すのは味方への損害も大きく危険である。
このような大きなリスクを冒せない場合以下の行動を取る。

第二、(敵国力の消耗)、敵戦力の損耗
敵軍を攻撃して減らし、弱体化させる。一地方の一時的な占領。
第三、敵に損害を与え疲弊させる。
1.敵国への一時的な侵攻、敵地での軍税取り立て、略奪、
2.敵の損害を大きくするように行動する。
3.連続的な戦闘により敵を疲弊させる。
小さな目標(確実に勝利できる)に連続攻撃をかける。

自分の方が弱者の場合の作戦。
敵の消耗を政治目標と釣り合わないぐらい大きくすることができれば敵に政治目標を放棄させることができる。
目的は、敵の弱体化

可変の強度を持つようになる。


資料4 人物評
クラウゼヴィッツは、マキャベリと同じく実際の部隊運用は苦手だった...

クラウゼヴィッツ論、P196、ハンス・ロートフェルス
グナイゼナウが1812年に彼を皇帝に重要な戦争理論家として推薦したとき、参謀本部将校としてのこの推薦資格は本来の前線任務から、またそれとともにロシア軍における定着から彼をしめ出すことになった。

クラウゼヴィッツの軍事的失敗の本質的な点もまた明らかとなる。彼の本性の感じ易い反省的な性質は、行動の世界では荷厄介な持参金であった。本能的な確信の不足、これが戦略的のみならず戦術的領域において彼を強くその友人のグナイゼナウと区別する点であった。グナイゼナウは無意識の独創性を持った天性の将師タイプである・・・かかる偉大な将師の資質はクラウゼヴィッツには全く欠けていた、伝えられるところでは、彼は部隊の前に立つと不器用で不得手だったという。・・・


初期作品が流血賛礼になった理由のひとつ?
「戦争論」完成にはクラウゼヴィッツ自身の成長が必要だった...

カール・フォン・クラウゼヴィッツ「出身と人物」P127、エーベルハルト・ケッセル
彼の戦争理論の構築の中では大きく後退したが、しかし、この点において注目に値する一つの特色がある、それはクラウゼヴィッツの初期の表現の中に認められるが、将師が大量の細部の知識をもつことに対する軽蔑という特色である。・・・彼の特質及び人柄を知るためには、この最初期から見られる細部知識の軽蔑は非常に重要である。それは、彼が生まれつきそのものとしては決して思索者(denker)でなかったことをわれわれに示すのである。彼が思索者になったのは、むしろ彼の経歴の発展の中で初めてそうなったのである。

(注クラウゼヴィッツは12の時から軍隊の中で育ったため、現代人には受け入れられない考えかたをする部分も多い...)


製作途中...
全体的に未整理状態(資料を作っただけ)...
翻訳の正誤をやる羽目になったため止まってる。
解り易い本文製作予定

カルル・フォン・クラウゼヴィッツ
経歴... クラウゼヴィッツの誤用... フランスの将軍の悪例
二種類の戦争(Die deppelte Art des Krieges)
初版本(first edition)
第1篇 戦争の本質について
「戦争とは政治の継続」
用語=>「絶対戦争」
文章集積

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