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2011.01.29
[ひとりごと]

タバコ・嗜好品・資本主義

  2010年10月からタバコが大幅に値上がりした。
 ある友人は、袋入りの刻んだタバコに切り替え、それを細長い紙で巻いたり、キセルで吸ったりしている。 値上がりした数日後、葉巻やパイプを扱っている専門店の人に話を聞くことがありました。なんでも、その手のタバコ原料(というんでしょうか)が予想以上の売り上げで驚いたとか。
 なるほど、タバコという嗜好品の1世紀続いた「バブル」がはじけたってことですね。
 タバコは西部劇にもそんなシーンが出てきますが、じぶんで紙を巻いたり、あるいはパイプで吸われてきたのだから、100何十年か前の摂取法に戻ったわけです。いま、自分で紙を巻いている人は、生活防衛のためにやってるだけなので、そんなことを意識してないでしようが。
 
 お茶、酒、コーヒー、タバコを 世界の四大嗜好品と呼んでいます。「嗜好品」とは、「栄養摂取を目的とせず、香味や刺激を得るための飲食物。酒、茶、コーヒー、タバコの類」(広辞苑)とある。
 嗜好品は、生活必需品ではない。健康のために摂取しているわけでもない。なくても死ぬことはないですが、あれば生活に潤い、憩いが生まれる、ちょっとした幸せを感じる。心が癒される。仕事、労働に対して、遊びのようなものとも言える。
 ふと、気づいたのですが、嗜好品と遊びが共通しているのは、まず、それが楽しい、面白い、心地よい、気持ちいいから。それに尽きている。両者とも何かの目的のための手段ではないという言い方もできます。
 例えば、一般的には生きていくため、生活していくため(目的)の手段として、仕事、労働(手段)があるという関係になる。この社会、衣食住にお金がなければ生きてけない。だからお金を得るために働いている。お金はいらない、仕事が好きだ、仕事がしたいなんて人、いない・・・当たり前すぎる話しですね。
 一方、人が遊びや嗜好品を好む理由、その根源を突き詰めていくと、それをすること自体が目的であり、それで完結している。考えつく限りさかのぼれないところまで理由を探していっても、それ自体が目的だという行為です。こういうものって、人間にとって、目的のためにする行為と違って、何か別格のように思います。他に、こういうもの、あったでしょうか? ああ、愛がそうでしたね。
 
 嗜好品の話しをするときは、わたしもそうなのですが、誰もまず、その味わいや美味さ、癒し、心地よさを語ります。それがいちばんの魅力でもあるので当然です。
 ここで視点を変えて、嗜好品の歴史を見ていくと、過度の商業主義が生みだす弊害が否応なく目につく。タバコはその典型のように見えます。
 今の社会では、タバコについて発ガン性とか間接喫煙とか、健康への有害性が議論されてますが、歴史的に見ていくと、そういった昨今の議論には大きな陥穽があるように思える。
 というのは、今、言われているようなタバコの健康問題は、もし19世紀半ばから20世紀のはじめ欧米で(1)紙巻きタバコ(シガレット)という摂取法が発明されていなければ、そして、(2)その摂取法をオートメーション方式で生産し、原料のタバコの葉をプランテーション栽培するようなシステムを、つまり巨大ビジネスにしなければ、起きなかったということです。
 20世紀、アメリカで自動車をオートメーションで生産するシステムが生まれたのですが、嗜好品であるタバコの生産もそれでやれば、安く大量に作れるようになり、大きな富を生むと考えた資本家たちがいた。ここにタバコの問題の根因があるように思えるのですが。
 
 日本にタバコが伝わったのは、戦国時代末期のことです。徳川幕府は、何度もタバコ禁止令を出してたのですが、結局、受け容れることになった。その間、解禁されるまで100年ぐらいかかっている。
 では、幕府はどうしてタバコを禁止したのか? 健康問題だったのだろうか。
 幾つかの理由があげられているが、その中で最も大きかったのは、当時の世の中のアウトローであった「かぶき者」、いまふうに言うと、反社会、反体制的で享楽的な人間たちってことになるのですが、彼らのカルチャーとして南蛮渡来(つまり異文化)のタバコやキセルがあり、その取り締まり政策の一環としてタバコ禁止令が出されました。
 これは実に興味深いことです。現在の日本で大麻は厳しく取り締まられていますが、深層では同じような構造があるのかもしれない。
 
 少し、横道に逸れましたが、20世紀のはじめに発明された紙巻きタバコの大量生産によって何が起きたかというと、それまでのパイプや噛みタバコ、嗅ぎタバコという摂取法では、ありえなかった状況が生まれた。
 誰でもどこでもタバコが吸えるようになり、その結果、仕事中でも、食事中でも、歩きながらでも、起きているときはいつでもタバコが吸えるようになり、新たに女性や青少年の喫煙者も生まれた、そんな世の中になりました。遠い未来の人々は、20世紀の人間たちって、ずいぶん変な風習してたんだなと感じるはずです。
 
 20世紀の後半には、それが既成事実化していた。例えば、1970年代ごろまではバスや列車の座席に吸い殻入れがついていて、車内でタバコを吸っているのは、自然な光景でした。
 1960年代の石原裕次郎主演の日活映画には、足を骨折した裕次郎が病室のベッドに寝ながらタバコを吸っていたり、見舞いにきた仲間がやはり病室でタバコを吸っているシーンがあったりする。今では信じられない光景ですが、40〜50年前は、それが普通でした。
 
 タバコは20世紀の巨大産業に成長するとともに、マスメディアとタイアップして広告を増やし、消費者、ユーザーを世界中で増やしていった。タバコは消費財であり、依存性があるので、商品化したときの儲けはものすごく大きい。タバコ会社は大儲けし、税収で国にもお金が入ってきた。
 その結果、最盛時は成人男性の8割が喫煙者という状況にまでなった。 しかし、必然的に過剰摂取によって健康を害する人たちが次々と出てきた。考えてみれば、当たり前のことです。そして21世紀のはじめには社会的に規制されるようになり、1世紀続いたバブルが崩壊した。
 ある物質が、具体的にはタバコが、人体に生理的に有害か否かを議論することは、一見、科学的で公正なようでいて、しかし、こういう視点を抜きにしたまま語っていると大きな陥穽(落とし穴ですね)があるように思える。
 
 もし、紙巻きタバコという摂取法が発明されなければ、そしてそれをビジネス化して大量生産しなければ、つまり(過度の)資本主義のレールに乗っていなければ、タバコによる健康問題は起きなかったのではないかと思う。
 
 今のところ世界的な嗜好品は、四大嗜好品、 お茶、酒、コーヒー、タバコがメインですが、どうも次は、酒がやり玉にあがりそうな気配があります。
 また将来は、四大嗜好品とは違う種類の嗜好品が広まるようになるかもしれませんが、この(過度の)資本主義がもたらす問題は同じように関係してくると思います。