ALTERED DIMENSIN
トピックス
麻生 結のひとりごと
変性意識
植物の文化
おすすめアイテム
ショップ
ナチュラル・インセンス
2009.12.25
[ひとりごと]

「関のボロ市」と射的・クジ

1.射的のコツはできるだけ体を乗り出し、銃口を的に近づけること
 
2.輪投げって、今もあったんだ! と驚く
 
3.露店の真ん中にある箱の中にクジが入っている。落ち葉が雰囲気を生んでいる

 12月10日(木)、「関のボロ市」を見にいく。この日の朝刊で、練馬区で約270年続いている市が開かれているという記事が目につき、気まぐれで出かけることに。地元の本立寺(ほんりつじ)の門前で、昔は古物や農具を売る市だったのが、いまは年末の恒例行事になっているとか。夜は、日蓮宗の万灯行列が行われると紹介されていた。

 午後4時すぎ、西武線武蔵関駅のホームに降りると、屋台のテントが見える。駅を出て、少し歩くと、どこにでもあるような住宅街になるが、空が広く、武蔵野なんだなと思う。冬至も近く、夕暮れのよう。気温が下がってきて、頬や手に寒さを感じる。大きな鍋で、串刺しのこんにゃく玉を煮ている露店があった。白い湯気が立っている。歩いていると、フッと漂っている匂い。こんににゃくのしょう油煮は、冬の匂いがした。

 駅前から本立寺あたりまで、住宅街を通る細い道路の両脇に露店がびっしり並んでいる。多くは、タコ焼き、焼きそば、大判焼きといったお祭りや縁日で見かける定番の店。裸電球が灯り、丈夫そうな厚いビニールを張った画一化した造りの露店ばかり。この市は、テキ屋さん系統の露店が主流を占めているようだ。
 実は、各地のお祭りや縁日で、その手の系統の露店が減っているように思え、少し気になっていた。行政が出店を許可しないように指導し、締め出しているという背景がうかがわれる。
 露店は子供たちで賑やかだが、寺の短い階段を上り、本堂で手を合わせる人はあまりいない。境内にいると読経が大きく響いるので本堂の中を見ると、ガランとしていて若い僧侶が一人だけ。マイクを前にお経を唱えていた。
 この市に来ているお客は、小中学生ばかりやけに多い。茶色っぽいダウンジャケットを着た保護者のお母さんはいるが、普通の成人男女、学生、フリーターふう、勤め人、おじさん、おばあさんは、あまり見かけない。
 新聞の見出しには「掘り出しものが楽しみ」と書かれていたが、骨董市ではないし、テキ屋さんの露店ばかりで、掘り出しものなんかあるわけがない。市の実態とかけ離れているのがおかしい。フリマでもないし、地元のショップやメーカーの出店もない、あるいは産直とか地方の物産が出ているのでもない、つまり、最近、どこでもよく見かけるような市とは趣が違うのだ。

4.南インド、聖人モンテスワミのお祭り。ルーレットの賭をしている露店
 と、露店を見ていて、面白いことに気づく。道路から少し高台になっている本立寺の境内にも露店が出ているが、山門を入ってすぐの一角は、7〜8軒の出店ほとんどが射的やクジ引きなのだ。オモチャの空気銃にコルクの弾を詰めて的に当てる射的。輪投げ、太い紐を引いて賞品を当てるくじ引き、紙の札を引くクジ。
 薄い板菓子に刻まれた型をうまく抜くと当たりになる出店もある。昭和30〜40年代の駄菓子屋さんやお祭りにあったのではないか。平成になっても、いや21世紀になっても存続していたとは。この露店、おばあさんがひとりで采配していた。
 境内を小学生の男の子、女の子が燥(はしゃ)いで、仲間と走り回っている。もう夕闇の中、裸電球の白い光りに照らされた松の樹の影。どこか微かにトランス的な気配がある。この場所で、起きている人の、といっても子供たちなのだが、雰囲気、空気、わたしは、バリや南インドのお祭りでも感じた人間の集合的な情動を感じる。
 土の地面を子供が飛び跳ねる足音は、くぐもった音がする……こんなこと、今、気がつかなければ、ずっと忘れたままだった。射的の肘当ての台に上っている女の子がいる。細長いベンチに跨り、夢中になって型を抜いている子がいる。日本で、こんなに元気な小学生たちを見るのは久しぶりだ。こんな光景、昔は、よくあったのに。

 射的やクジは、子供に射幸心を植え付ける、不健全だと見なされ、出店が難しくなっているが、ここでは、何故か大勢を占めている。境内だけでなく道路にも、そんな露店が点々と続いている。そう言えば、南インドの村のお祭りにも、ルーレットの露店があった。大人が小銭を賭けていて、店のまわりは人垣が出来ていた。
 お祭りや縁日の露店は、神道や仏教の宗教行事に付随して開かれるのだが、その場に足を運ぶ多くの庶民の本音は、ハレの日の楽しみを期待して来ているのだ。そして、まったくもって当たり前のことなのだが、人間はこういうものに惹かれる。面白い、ワクワクする。

  「関のボロ市」は、正直、見応えがあった。伝統行事などと言った、そんな野暮なことではない。今の時代には、稀な、一昔も二昔も過去のお祭りや縁日がそうであったような本物のリアリティが生きているのだから。