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2009.08.10
[ひとりごと]

地球の匂い、アジアの匂い

 国際宇宙ステーションに4ヶ月半滞在して、地球に戻ってきた若田光一さんのインタビューを読んでいたら、こんな言葉があった。
 
「(着陸後)ハッチが開いて草の香りがシャトルに入ってきた時には、やさしく地球に迎えられたような感じがした」
 
 草の香りが、地球の匂いだという言葉は、実感がこもっている。植物、雑草の葉の青臭さは、いのちの匂いだと思う。宇宙では、密閉された空間で生活していたので、基本的には無臭、無音のクリーンな状態に保たれていたはずだ。そんな環境から唐突に、大地の草いきれが胸に飛び込んできたら、どんな気持ちになるのだろうか。その変化が大きい分、匂いのもたらす情感もより強烈になっているはずだ。
 
 その土地に着いて、最初に気づいた匂いは、なぜか記憶に残っている。
 インドにはじめて行ったときのこと。デリーの空港に真夜中、着いた。外は真っ暗で、遠くに電球らしき明かりが見えるだけだったが、むっとする熱気とべっとりと脂っぽい空気の匂い。なぜか菊の花のような癖のある匂いも混ざっていた。インドの第一印象は、匂いだった。
 
 これは全然、違う所に来てしまったんだな、と思った。台湾、香港、バンコック、ベトナム、東京の匂いは、どこか共通するものを感じていた。醤油やニョクナム、味噌や漬け物の発酵した食べ物のかもし出す匂いと、高温多湿のべたつくような蒸し暑さが入り混じった空気は、アジアの下町の匂い、生活の匂いだった。
 匂いの濃淡ということでは、東京は、薄い方だった。南の国に行くほど濃密になっていく。街を歩いていると、匂いのスポットに入ったり、あるいは、どこからともなく匂いが漂ってきた。マンゴー、ドリアン、ライチ、ジャックフルーツ……、魚の腐臭、スパイス、熱帯樹のフローラルな香りが混濁した匂いにクラクラした。
 初夏の夕方、浅草寺の裏手、言問い通りを歩いていたとき、醤油と卵を煮ている匂いが漂っていて、思わず足が止まってしまった。小さな定食屋さんの換気扇が回っている。遙か南の国の匂いのような豊潤さとまではいかないが、根っこがつながっている匂いだ。
 
 1990年代からだろうか、東京 は、ビル、地下街、ショップ、学校、駅、地下鉄どこもかもが無臭化していった。いつの間にか繁華街から匂いが消えているのだが、なんとなく日常の中で、気づかないうちにそうなっていた。匂いの世界は、目に見えない。写真や映像、あるいは音で記録できない世界なので、かって匂いがあったことは、人のあやふやな記憶の中だけにしか残っていない。
 同じ時期、街がきれいに、清潔になっていった。公共空間は、床も壁もピカピカに磨かれ、ゴミひとつ落ちていない。人々の潜在意識の中で、生活空間を限りなく清潔にしていく、そんな力学が働いているようだ。
 今年、「新型インフルエンザ」を巡って日本では社会的パニックが起きたのも、そんな日本ならでは騒ぎだった。メディアの報道や駅員のマスク姿を見て、これは正真正銘のパニックではないかと思った。なぜか、そういう視点で見ている人は少ないようだが、今の世の中、紛争や大きな対立もなく平和でありながらも、全然、別のところから自壊現象が起きているのかもしれない。
 
 公共空間の無臭化は、必要性があって進行しているというよりは、一種の嗜癖(しへき)のようにも見えつつ、その核には神経症的な心理があるのではないか。結局、それは日本人だけのことなのか、もっと普遍化できるのかはっきりしないが、人間の生が反自然の方向に進んでいるように思える。