ALTERED DIMENSIN
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2008.06.19
[ひとりごと]

環太平洋圏の超古代トランス文化

 ブランコと滑り台は公園の定番。住宅街の一角の小さな空き地ほどの児童公園にもある。幼稚園なんかでもこの2つの遊具は置かれている。ごく当たり前の見慣れた光景だが、人間の意識の世界、変性意識というテーマから見ると、幼い子供に浮遊感覚や加速感を体験させる器具を配置しているのは興味深い。
 よく公園で、幼児を両手で抱えて滑り台に乗せ、手を離して1〜2メートル滑らせては受けとめているお母さんを見かける。ブランコも幼児を抱いて乗ったりしている。子供の運動神経の発育にプラスしているのか、親子のふれあいとか、たぶんそんな意味があるのではないかと思うが、全く別の視点から、ブランコも滑り台もトランス体験のための器具ではないか、そんな見方ができる。
 
 トランス──ここでは日常意識とは異なる意識の状態、例えば、憑依や脱魂が起きるようなシャーマン的意識もそうだし、レイヴのトランスも、性的なエクスタシーも含めた意識の飛んだ状態をそう呼んでおく。
浮遊感覚や加速感は、意識を体から飛ばす引き金になる(そういえば酩酊や酔いも似た実感をもたらすことがある)。ブランコや滑り台は、トランスを薄めて、僅かに、極々僅かに垣間見させてくれる。
 
 人間がトランス体験を求めるのは、遙か昔、超古代の精神文化に由来しているはずだ。あえて超古代といったのは、メソポタミアやエジプトの古代文明より古い時代から人類に伝わってきた精神文化だからである。いまの人間の意識からすれば、その時代の人間は常時トランス意識でいた。
 今日、都市に住んで普通に生活している人間がトランス意識になる機会は減っている。普段の日常意識、シラフのときの意識と労働=仕事時間は対応している。多くの人間は、人生の大半をその時間の中で過ごしている。経済学は物の生産やお金の動きを追っても、それと関わる人間の意識については無頓着なように見える。
 
 20〜21世紀になって、先進国の社会は宗教のくびきから抜け出しているが、その前は1000年単位で宗教に意識が支配されていた時代があった。現代は宗教のくびきからは自由になったが、何もくびきが存在しない世の中などとは言えない。今は法律や国家というシステムがそれに代わっているのだから。
 人類の歴史を見ると、宗教は呪術を母体にして生まれている。さらに呪術を生んだ母体を探すと、何万年も前になるが、それは遊び(遊戯)だった。そして、さらにその何十万年か前、トランスが日常意識だった時代が人類にあったはずだ。ここがさかのぼれる限り、最古の人間の意識だった。その後、トランスは、日常意識から閉め出され、辺境の地に住む人々の世界や遊びの中(その時間)が居場所になっていった。
 トランスのノウハウは現代に至るまで狩猟採取の生活を最近まで続けてきた人々に受け継がれてきた。特に環太平洋の島々では、遊びの中にこの種のトランス文化が色濃く残っているように感じる。それは別の言い方をすると、その地域の伝統的な舞踊や音楽の核にあるエーテル体(生命意識)の文化でもある。
 
エスキモーのトランポリン
 少し前、テレビを見ていたらニュースの合間に短い海外のトピックスになった。……たくさんの人が絨毯か幕のようなものを広げて端を掴んでいる。そして、みんなで息を合わせて、一斉に引っ張ると、シートのまん中にいた人が、宙に放り出された。数メートルは飛び上がったのではないか。
 トランポリンの原型はこれだったのかな? ナレーションではエスキモーの人たちの伝統的な行事のような説明があった。
 毎年7月、アラスカのフェアバンクスで世界エスキモー・インディアン・オリンピック(WEIO)というスポーツ大会が開催されるという。当初はエスキモーだけであったが、インディアンも加わり、アラスカ先住民の土着スポーツ大会のような催しだ。その中に、このトランポリンも入っていて、ジャンプの高さを競うのだという。シートは、アザラシの皮を何枚もつなぎ合わせて作っている。
 
朝鮮半島のノルティギ
 空中浮遊の感覚を体験する遊びというと、朝鮮半島のノルティギはそれに特化した見本といえる。藁の束や穀物の入った袋を地面に置いて、その上に細長い一枚板を置く。シーソーに似てなくもない。板の両端に二人が立って、互いにジャンプする。相手方が落ちてくるタイミングをあわせれば数メートルは飛び上がれる。ノルティギもブランコも脱魂型のシャーマニズムと相性がいいように思う。
 
ブランコと空中浮遊感覚
 ブランコは最も手軽な(疑似)空中浮遊の器具である。ブランコの発祥地をひとつに絞れるかはっきりしていないらしいが、アジアに関してはインドが起源だといわれる。インドでは、紀元前2000年には座板を2本の綱で懸垂するいまのブランコがあった。「ブレンカ」と呼ばれ、宗教の儀式として毎年、冬至の日に執り行われた。
 ブランコは、インドから北方経由で中国、朝鮮半島に伝わった。中国でも朝鮮でも女性の遊びだったという。朝鮮ではブランコをクネティギと言って端午の日の伝統的な遊びになった。
 多民族国家の中国には全国少数民族伝統体育運動会という催しがある。竹馬競走やムカデ競走、綱引きなどが種目に入っている。55の少数民族のうちのひとつとして参加している朝鮮族は、伝統的なブランコの技を披露している。ブランコといっても公園のブランコとはかなり違って、綱が長く大掛かり。写真を見ると雄壮というか、すごい迫力。角度が水平になるぐらいまで振れ、かなりの高さに上昇する。乗っている人間は、スリリングなはずだ。乗るのは女性で、上空に掛けた鈴を蹴り、その高さを競う。
 
 現代のオリンピックは、長さや距離、高さ、重さ、速さ=時間などを計れる競技が中心になっている。近代以前は現代のようなスポーツは存在せず、遊技、イニシエーション、神事、祭り、さらには戦闘(武術)といったものだった。どうも測ったり、点数を数えたりできる形式にまとめ上げたのがスポーツ競技のようである。そんな見方からすると、スポーツ競技になることで抜け落ちてしまった要素があるかもしれない。先の世界エスキモー・インディアン・オリンピックや中国の少数民族運動会の「競技」をそんな目で見てみると面白い。
 
ブランコのシャーマニズム
 シャーマンがブランコに乗ってトランスする……そんな実例があるらしい。ブランコは、前述のようにインドから周辺の地域に伝わったが、シャーマニズムの盛んな地域に伝わると、シャーマンの儀礼具になった。以下は、『民族遊戯大事典』(大修館)の「ブランコ」の項目を参考にした。
 例えば、ボルネオ島沿岸地域では、ブランコは聖なる世界にシャーマンが訪れるための道具だった。シャーマンの呪術医は、病を治すためにブランコに乗って精霊界と交信したという。
 この逸話は、今も南米のアマゾンのシャーマンが行っている呪術の治療と瓜ふたつである。アマゾンではアヤワスカを飲むところが、この地ではブランコに乗ることになっている。共に脱魂型のシャーマニズムである。
 ボルネオとアマゾンという近代文明の辺境の地同士で、どちらから他方にシャーマンという存在のあり方が伝わったとは考えにくい。第三のどこかの地から、ボルネオとアマゾンに伝わったというのも同様だ。もともと古い時代には普遍的であった精神文化がボルネオとアマゾンに残っていたということではないか。
 
サーフィン
 太平洋の島々を発祥地とする遊びというかスポーツの中には、浮遊感覚をもたらすタイプのものが目につく。例えば、サーフィン。1500年ぐらい前に、タヒチのポリネシア人が波に乗る技を会得したことに由来しているらしい。そこからハワイ諸島に伝わり、20世紀になって欧米人がマリンスポーツにして世界に広まった。
 肉体をコントロールし、動かすのがスポーツなのに対し、意識をコントロールするのには体の動きはあまり関係ない。動きがあったとしても、それは意識を変える=動かすための導入、補助のような役割にとどまる。体のバランス感覚やタイミングが操作を左右するサーフィンやソリは、内的には意識のコントロールに近いことをしている。
 
重力感覚とジョン・C・リリー
 ブランコや滑り台の浮遊感覚、加速感は、重力感覚のことである。この重力感覚が人間の意識に与えている影響について、あまり関心を持たれていないが、ここに何か新しい意識を生み出す鍵があるのかもしれない。
 地球の生物は、全て重力の基で進化してきたが、人間は1960年に重力のない宇宙空間に進出した。ジョン・C・リリーの関心もこのあたりにあったのではないかと思う。リリーをモデルにしたSF映画「アルタード・ステーツ」(1980)は、感覚を遮断するタンクの中でLSDを体験する人間の物語であった。タンクの中で体験する意識状態と、それによって人間が別種の存在に変容すること、そんな映画だった。リリーが作ったアイソレーション・タンクは、五感、プラス重力感覚のない状態をもたらす器具である。
 
 一昔前、いやもっと昔になってしまった、アイソレーション・タンクの記事を雑誌で読んで、どんなものかと試してみた。やってみると、比重の重い液体の張った浴槽に仰向けに寝て、プカプカ浮いたような状態になる感じ。体を伸ばしたまま横になった上程で、自由に動かせない。浮かんでいても微妙に体が揺れ液体が顔にふれるのが気になったり、タンクの縁に手足が当たり、その反動で反対方向に体が進み、また縁に当たったりと、まあ、現実は往々にしてこんな感じなのだが。
 当時、1980年代の後半だったか、電子ドラッグと言って、変性意識をもらたすというふれこみでいろんな器具が流行ったことがあったことを想いだす。今、振り返るとあれは、バブルの時代の落とし子だった。派手な宣言文句の割には、効果がそれほど感じられないのが分かると、あっという間に廃れていった。
 その後、1990年代の中頃になるとマック・マッシュルームや2CBなど、(当時は)規制外のサイケデリックスが人々の前に現れる。こちらは正真正銘、人間の意識を変える本物だった。ああ、どんどん横道に逸れている! 何が言いたいかというと、リリーが着目したのは、人間の意識に重力が与えている影響であり、重力感覚のない世界、要は宇宙空間で人間の意識がどう変わるか知りたかったのではないかということである。
 別の言い方をするならば、人類は必ずや宇宙に進出していくと確信していたリリーは未来の人類の意識を知りたかった=体験したかったのだと思う。意識の世界では、「知る」と「体験する」は、ほとんど同じことである。
 
バンジージャンプ、カバ 
 高い塔や崖、橋から足にゴムロープをつけて飛び降りるバンジージャンプ。これは脱魂のような体験をもたらすはずだ。高所からの飛び込み、あるいはスカイダイビングも同じような意識になることがある。
 バンジージャンプの発祥はニューカレドニアだ。現地では成人になる際のイニシエーション(通過儀礼)として行われていた。やはり欧米人が世界に広め、今ではテーマパークの度胸試しアトラクションになっている。
 
 酒、あるいはポリネシアからハワイにかけて飲まれてきたカバについても一言だけふれておきたい。これまでの文脈を踏まえて、太平洋の島々で、酒やカバといった酔いをもたらす飲み物もまたシャーマニズム的意識をもたらすために使われていきた。
 
アボリジーニの使っていた器具
 エンジェル・コンタクティという奇妙な形をした器具がある。一見すると、調理器具かと勘違いしそうな形状。頭のマッサージ器具として製品化されている。
 カーブした針金の先に小さな粒が付いていて、頭皮をごく軽く刺激する。むず痒いような、ゾクゾクするような、不思議な感覚になる。たぶん、ほとんどの人にとって生まれてはじめて体験する触覚なのではないかと思う。
 元はオーストラリアの先住民、アボリジニが使っていたという。何の目的だったか、潜在能力の開発といった説明があったが、どうも欧米文化のフィルターのかかった解釈のように感じる。
 ひょっとして、これはトランスするための器具だったのではないか。意識を変えるきっかけを作る、誘発する道具だ。というのは、さきほど不思議な感覚と書いたが、比喩的に言うとブランコの加速感のような、あるいはサイコアクティブなドラッグ体験を重ねてきた人がよく“意識を持っていかれる”という表現をするが、あれと似ているからだ。はじめに意識を体から飛ばすと書いたのも同じことである。
 
 文字のない時代、古代の遺物で何に使われていたのか、用途が分からないものがある。今の人間の合理的な思考で、その用途を推測している。しかし、現代に生きている人間と、過去の人間では違う意識の世界に生きていたのではないか。それが数世代から10〜20世代の範囲ならば、推測できても、もっと遠い過去の場合は、どうなのだろうか。
 昨年、チンパンジーの直観像記憶能力は人間の大人よりも高いという実験結果のニュースがあった。人間の祖先は、言語を獲得するために短期記憶の一部を捨てたのではないかという仮説が立てられている。ある方向に進化していくことで、不必要になった能力は衰えていく。
 遺物の中には、それを持ったり、触ったりすることはできても、今のわれわれの意識では、その機能がとらえられなくなったもの、分からなくなったものがあるかもしれない。そんな夢想をしている。
 
 アラスカーボルネオーニューカレドニアーオーストラリアータヒチと、環太平洋沿いをつなぐトランス文化が垣間見える。
 
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