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2007.11.27
[ひとりごと]

テント芝居と自由

 今年(2007年)の7月14日、土曜日の夕方、テント芝居の劇団「野戦の月」を観にいった。11日から5日間、「変幻痴殻城(へんげんかさぶたじょう)」の上演があった。この日は、台風4号が近づいていて外は暴風雨

野戦の月、テント公演。この日、台風4号が接近中。

 京王線の八幡山駅から歩いて7〜8分。横なぐりの雨で人通りも少ない。歩道には水たまり。環8の陸橋に接した空き地の奥に、白いライトに照らされた青い大きなテントが見える。近づくと雨が強く当たって小さな水柱が立っている。まわりはごく普通の住宅地。入口にある受付の小さなテントの前には傘をさした人が並んでいる。
 テントの中に入ると、まず金属パイプの柱と骨組みが目に入る。飯場とか工事現場のようだ。土間の中央には通路、左右に観客の桟敷(さじき)席がある。一番前の席は土間に敷物を敷いただけのスペース。後ろにいくに従い、階段状に段差があって高くなっていく。床にはゴザが敷かれている。席に上がるとき、靴を脱いで入口でもらったビニール袋の中に入れた。この日、大荒れの天気の中、観客は70〜80人ぐらいだろうか。

桟敷席(さじきせき)で開幕を待つ

 桟敷席とは仮設の観客席のことで、平安時代からあったそうだが、江戸時代に庶民は芝居や相撲、花火など桟敷席で観ていた。昭和40年代には姿を消している。腰かけると背もたれがなく、ベンチのようでありながら、後ろに奥行きがあって、妙な座り心地だ。
 舞台の、といっても土間だから土の地面そのままだが、幕はまだ閉まっている。この劇団の歌が流れてる。〈分からない、ああ、分からない、みんな分からない……〉といった能天気な歌詞。観客は、みんなよくこんなに喋るなというほど何か大きな声で言いあっている。人の声が唸りに聞こえる。
 暴風雨がテントを叩く音のため大きな声を出さないと隣の人の声でも聞こえない。そうか、だからお喋りが大きな唸り声になっていたのか。

雨漏りのため洗面器が……

 開幕を待つ間、ズボンの裾が濡れてジメジメしているのが気になっていた。天井から吊り下げられている裸電球の透明な光。光に誘われてテントに入ってきた虫が頭の上を飛び回っている。劇中で火を使う場面の準備にガソリンを燃やす匂いと黒い煙。テントが雨漏していて所々に洗面器が置かれている。
 ふと、こんな雰囲気に浸るためにここに来てるんだなと思った。外が台風なのも非日常性を高めるセッティングとしてはプラスになっている。なんとなく避難所に肩寄せあっているような一体感もある。
 この雰囲気は何なのだろうか。どこか秘密めいて、隠れ家のような、ちょっと怪しい感じ。おぼろげながら、これが自由の空気なのかもしれないと思い当たった。ここにいると、これまでの人生で経験してきた「自由」の記憶とどこか通じるものを感じる。そうか! 自分は自由の雰囲気を味わうためにここに来てるんだ。
 そう思って、改めてこの場を見まわすと、テントの中は、外の世界、世間、一般社会とは別の世界だ。薄いペラペラのシート1枚が、外の世界を遮断する結界となっている。社会秩序や法律がここでは部分的に解除されている、そんな空間、解放区の雰囲気がある。
 ここで別に犯罪的なことが行われているわけではない。ケンカや騒動が起きているわけではない。社会秩序や法律が部分的に解除されていると言っても、誰もそれを破っていないのだから、目の前の現実は何も変わっていない。目に見えるものは何も変わっていないのに、何が解放されているのか?

 自由の雰囲気と言ってきたが、もう少しはっきりさせると、ひとつにはこの内部には思想の自由、考えること、空想・妄想する自由がある。
 自由と言っても、それだけでは漠然としているし、いろんな意味があって話しが噛み合わないかもしれない。これから語る自由は、制度や社会システムの問題ではなく、個人の世界の中でのことである。また、自由とは何か、と大上段に語れるほどの才覚はないので、言っていることは断片的で、整合性もないかもしれない。せいぜい感じたことを、正直に書いてみたい。
 思想の自由という言葉自体、どこか戦後日本、新憲法といった半世紀ぐらい前の古いイメージもある。しかし、今の世の中の風潮を見ると、思想の自由はその時代よりも逆に、狭まっているようにも感じる。
 例えば、21世紀の日本でもタブーはあるし、いや新しいタブーが生まれていることに気づいているだろうか? その代表的なタブーが大麻をはじめとする薬物問題だと思っている。ここでは、それを指摘するだけにする。
 あるいは、自由を高尚な、精神性の高い言葉で説いてしまうことに落とし穴はないだろうか。例えば、鈴木大拙は、禅を西洋に紹介した高名な仏教学者で、禅の主客対立を超えた絶対自由を説いていた。しかし、高尚な境地を本で説いていても、現実の生き様では、案外、精神的に不自由であったではないかと梅原猛に辛い言葉を投げかけられている。(注)
 今の時代、情報や知識は過去のどの時代よりも豊かなようでいて、思想の自由に関しては、さほど進んでいないように感じられる。
 また、個人が頭の中で懐いている思想、想像、妄想は黙っている限り誰にも分からない。テントの中は不特定多数の、見知らぬ人同士が観客として集まっている空間だ。この中で、作者も役者、裏方、そして観客も一緒になった共同的な自由を現出させている、そんなイメージがある。観客も劇の世界に参加して、妄想を共同謀議しているような能動的なイメージだ。この感覚は現代の日本では実感することがすごく難しい。

野戦の月
 「野戦の月」についてふれておきたい。1973年に結成された「曲馬館」というテント劇の劇団があった。テント劇の劇団としては後発のスタートだった。
 テント劇は、1970年前後に登場したころはアングラ(underground)と呼ばれていた。地下、イギリスでは地下鉄のことだが、対抗文化といわれるような文化・社会現象を指していた。
 その後、80年代に「風の旅団」、世紀の変わり目ごろ「野戦の月」と劇団の名が変わった。劇作家であり俳優の桜井大造という人が主宰者で、その過激なノリの演劇活動は一部の人たちに強烈な印象を与えてきた。桜井大造は、眼光鋭く容貌魁偉、妄想にとりつかれた脳外科医みたいな役がすごくハマっている。
 曲馬館以来、発し続けていているメッセージは、言葉にするとアナーキズム、ブランキスムといった思想になるのだが、とにかく常識外の仕掛けが次から次に現れ、観ていて面白いのが魅力だ。興行ではなく行動。アナーキズムを主張するというよりも、アナーキズムを行う、そんな演劇なのか直接行動なのか、そのどちらでもあるような公演を続けてきた。

 公演は100人規模の収容人数のテントを自分たちで組み立てて行われる。テントを立てる場所は、空き地が多い。場所を見つけるのには苦労しているようだ。公共のスペースは、一般の公演には貸さない自治体が多い。公演は騒音やゴミが出る。それに劇で火や水を使ったり、世間の常識外のことをして騒動になることもあり、地域の住民から排除されることが少なくなかった。1990年代には東京のドヤ街(「ドヤ」は、「宿」(簡易旅館)を逆さまに呼んだ隠語。はじめはテキ屋の世界で使われたという)の山谷に近い、南千住の空き地でよく公演を行っていた。
 この数年、全国をまわる巡業は年に一度ぐらいと劇を観る機会は少ない。一方、今回は、台湾、東京、北京でテント公演が行われた。劇の舞台の「痴殻城(かさぶたじょう)」は、日本、台湾、中国の大都市のどこか、想像上の貧民地区という設定だ。

 ほとんどのアングラの劇団が、5年たち10年たって「大人」になっていくに従い上(メジャーというか、体制というか)をめざしていったり、上と融合していったのに対し、彼らは逆に、さらに下、下をめざしていった。underground のさらに下とは、どんな世界だろうか。

昭和の「異界」のキーワード
 ちょっと別の話になる。この秋、久しぶりに旧知のA さんと会った。いま映像の監督をしているAさんは昔、黒テントという劇団に入っていた。テント劇では、黒テントと紅テントが二大勢力で、曲馬館はそれに比べるとマイナーな存在だった。Aさんとの話しは、テント劇や河原、サーカスといった話題になり盛り上がった。
 さらに横道に逸れてしまうが、Aさんのお母さんが子供のころ、昭和のはじめ、地元、大阪では「ことり」──人さらいのことで、子供を盗るので「ことり」と呼んでいたという。耳で聞くと奇妙な語感がある──が出るとか、サーカスに売られる子供がいたとか、事実かどうかはっきりしない都市伝説めいた話しがあったらしい。

 戦後になっても、親が子供を叱りつけるときに、お前なんか河原で拾ってきたと言って脅かすことがあった。ひとつの定型のようで、耳にした人も少なくないのではないかと思う。今の感覚からすると、ずいぶん荒っぽいのだが、それがまかり通っていた。
 多摩川の河原にサーカスのテントがあったような記憶もある。地球儀のような球形の柵の中をバイクが走っていた。テントまで土手の道を歩いていったような記憶がかすかにあるが、砂利の小石が敷かれた道で、靴に当たった小石が跳ねたのだけはなぜかよく憶えている。
 1960年代、家の近所で年末年始に開かれている市に見世物のテントが出ていたことがある。へび女やフリークス、カッパのミイラといったものを見世物にしていたと思う。中に入ったことはなく、外から看板の絵を眺めていただけだったが、おどろおどろしく生々しい絵には強烈な印象が残っている。
 お祭りや縁日、市は、子供にとっては年に1〜2度の非日常だったが、見世物のテントになると、もう非日常世界の極み、闇の、タブーの世界だった。夏休みになると、遊園地やデパートの一角に、お化け屋敷が出来た。それもまた非日常で、スリリングだったが、どこか子供騙しっぽく、たかをくくっていた。しかし見世物の方は大人の世界、本物の世界といったイメージがあった。
 好奇心で一杯なのに、そこへは入ってはいけない、ダブルバインド(二重拘束)の心理だった。後年、タブーを破ること即自由のような、それは無前提的に肯定すべき、良いことのように思ったりもしていた。今はもうそんな思いはない。タブーを破るなんてきばっても、他愛ないことで、そんなことにこだわていること自体、遅れてた。自分は単純な人間だったと思う。

 河原、サーカス、テント、見世物、人さらい……東京と大阪、共通する、たぶん昭和の「異界」のキーワードで、自分たちのいる日常とは全然別の世界がその向こうあり、それは謎めいていて、怖いような、それでいて何か強く惹かれる妖しい世界だった。Aさんもわたしも記憶をたぐり寄せると、子供心に共通したそんな「異界」のイメージがあった。
 一言付け加えると、以前は「異界」という言葉に夢中になっていた。しかしよく考えてみると、この場合の「異界」は、賤民、被差別民の人々の生業の一端をかいま見たということだ。いや、かいま見たというほども近づかないまま、遠くから想像していただけだったが。
 「異界」は、子供のころのわたしにとって、それは見世物の世界だったのだが、自分たちの世界の向こう側にあるといった、日常世界=安全圏から怖いものを覗くような視線でものを見ていた。あるとき、それは偏見や差別に満ちた視線であるのに気づき、かなり興ざめしてしまった。

 ……話しをもとに戻そう。四方山話の中で、野戦の月の公演に行った話しをすると、自分も行きたかったとAさん。黒テントや紅テント、アングラを標榜していた劇団はいくつもあったけど、有名になったり、関係者が年をとったりして、みんな変わってしまった。今も変わってないのは、あそこだけという見立てだった。

裏と逆の違い
 1970年代の半ばには、アングラの熱気は冷めていき、時代の空気は、挫折やシラケといった雰囲気にとって替わられた。同じころ、この劇団は、明治以降の日本の最大のタブーを完全否定する、そんな演劇を行っていく。80年代になると、演劇の世界は、軽やかな喜劇を基調にした小劇場演劇が人気を集めテント劇は過去のものになる。そして、80年代半ばになるとバブルの波が世の中を飲み込み、アングラはその痕跡も消えていった。
 世の中がバブルで浮かれていた時代、この劇団は、寄せ場の街、山谷、大阪の釜が崎、横浜の寿を中心に活動を続け、21世紀に入ってからは、韓国、台湾、中国の下層流民、非差別民、ドヤ街、スラム、貧民街とのつながりを求め活動を広げていった。日本の世の中の大勢、体制とはまるで正反対を貫いてきた。
 世の中の「裏」を行くのではない。「人の行く裏に道あり、花の山」という格言も、逆に道ありとまでは言っていない。世の中の「逆」を行く。この違いはすごく大きい。「表」を行く人が100人いれば、「裏」を行く人が10人いる。しかし「逆」を行く人は1人いるかいないか。「野戦の月」は、この針の穴のような、そして険しい道をよく切り抜けてきた。
 普通は、世の中の大勢にはなかなか逆らえない。世の中の裏を行くといっても、それは大勢に従いながら、その中の抜け道を行くといったところで、大勢に逆らったりはしない。

 一昔前、オウム事件騒動のとき、マスメディアにオウムに荷担していたという虚報によって世間からパッシングを受け、失職した宗教学者がいた。最近の新聞のインタビューで、あの時、自分の正当性を訴えて戦おうとは思わなかったのかと尋ねられて、こう答えている。
 「そういう気力とか頭とか、あまり働かないんです。圧倒的な世の中の流れができたときは、どうしょうもないんです」
 その時、どんな気持ちだったかよく分かる。わたしたちは、サイケデリックや大麻と変性意識をテーマにした小冊子を作ってきた。サイケデリック効果のあるキノコや2CB、2CT-2、MBDBなどをユーザーに供給していたこともある。もちろん法律にふれることはしていないので、規制が実施される前には停止していた。
 いわばサイケデリック体験の仲介役をしてきた。それは人間の聖性に関わる、最も崇高なことをしているという想いがあったが、マスメディアからはダーティな存在であるかのような偏見の目で見られ、非難される、そんな経験をしてきた。
 日本ではサイケデリック体験は、世間の言い方では薬物汚染と同一視されてしまう。そのためわたしたちは、多くの障害を引き受け、そして乗り超えてきた。圧倒的な世の中の流れに抗することの大変さは身を持って知っている。

 話しを野戦の月に戻そう。世の中の流れに抗して、よくやってこれた。孤立し、最底辺にいながらも屈しない強さ。この強さ、正直さ、一途さは、イデオロギーとは違うように思える。イデオロギーの偏狭さ、硬直さはなく笑い、可笑しさがある。怒りや悲しみ、意地や反発はあるが、それだけではない。
 結局、なぜこの劇団に、そのどこに惹かれているのだろうか。それは、野戦の月の放射している自由を求める一途な、妄想的にまで高められた激しい衝動に対する共感なのではないか。 (続く)

(参考)
野戦之月海筆子のホームページ
桜井大造インタビュー(上) 
桜井大造インタビュー(下) 
(1987年のインタビューで少し古いが、何を考え、行動してきたかが表裏なく語られている)
(注)梅原猛の語る鈴木大拙