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2007.06.14
[ひとりごと]

ガネーシャと淀屋橋ゴッホ

チベット&ヤク
YODOYABASI Gogh(2002 12月)
レイヴ・カルチャーの服やグッズの店にあったサイケデリック感覚いっぱいのボール。淀屋橋ゴッホの描いたヒマラヤの絵の世界と同じ溢れるようなエネルギ ーの増殖を感じる。
  年に一、二度、会う人がいる。もう7〜8年になる。わたしよりも年上で、仮にAさんとする。
  Aさんは、食品や健康に関係した大きな企業の管理職をしている。はじめの頃は、医薬品の話題から話しがはじまったのだが、歴史小説、生物学、動物学、日本の会社組織、東南アジアの田舎を見て回ったときの話し……などいつも話題がつきない。
  Aさんはいつも紺の背広にネクタイをきっちりしめていた。そして、どっしりとした黒い書類カバン。普段、会社にいるときのAさんは、たぶん、ここでお喋りしているのとは、まるで違う人のはずだ。
 
  何かの出来事や思いつきの話題を語るときの視点が、互いに共通していて、うん、なるほど、そうそう、とほとんど同意見。世間では、自分のような価値観やものの見方をする人間は少数だと思っているので、こんなふうに見事に意気投合するのは珍しい。互いに人間の素地が似ているのかもしれない。
  Aさんはわたしに合わせているのではないし、わたしもAさんに合わしているのではないのだけど、意見が一致する。その度に溜飲が下がるというか、野球やサッカーで応援しているチームが勝ったときや、ちょっとした抽選に当たったときみたいな爽快感を味わう。Aさんも同じような感じだったのではないか。
 
  最近、久しぶりにAさんと会った。今回は最後にお会いしてから1年半ぐらい間があった。
  お香の話しをしているうちに分かったのだが、Aさんは香りを色で感じることができるらしい。
  「ラベンダーの香りは、まさに紫色をしてますね」とAさん。嗅覚を視覚的に感じるということは共感覚ではないか。共感覚とは、一つの刺激によって、それに対応する感覚(例えば聴覚)とそれ以外の他種の感覚(例えば視覚)とが同時に生ずる現象のこと。具体的には、ある音を聴いて、それが一定の色に見えたりすることだ。これを超能力という言い方をする人もいるかもしれない。
  共感覚は、人間が遙か昔、失ってしまった感覚ではないかと思う。わたしは、呪術は古代の人々の間では日常的な思考だったと考えていて、それを古代的思考と言っているが、共感覚は古代的感覚だったのではないかと考えている。
  こんな資質は家系に伝わるのか、Aさんの娘さんは雨の降る前に、それを予知できるという。空気に雨の匂いがしてきて、これから降ってくるのが分かるそうだ。「宏観異常現象(こうかんいじょうげんしょう)」、なんだか難しい言葉だけども地震の前兆らしき天変地異の変化をそう呼ぶらしい。そのひとつに、大地震の前に泥の匂いがしたという例があったりする。Aさんの娘さんのような能力は地震予知にも有効だろうか。
  ハリウッド映画に出てくる超能力者のように派手ではないが、日常の中でこんな「超能力」を当たり前に使っている人はけっこういるのかもしれない。
 
  わたしは、子供のころ、なぜかアワビの貝殻のビカビカした真珠色に惹かれた。いつまでも眺めていて飽きなかった。と、そんな話しをしていたら、「そういえば昔は、近所の家で、よくアワビの貝殻を吊していました」とAさん。こんな説明をしてくれた。
  「どこだったか、そう、鶏を飼っている家があって、鶏小屋の入口に吊してた。
  イタチは鶏の血を吸うので、イタチを避けるためにアワビの貝殻を吊してた。あれがあるとイタチは近づけないらしい。犬やキツネ、タヌキの場合は、鶏を襲っても自分が食べる鶏だけを殺すのだけど、イタチはなぜか小屋の鶏を全部殺す習性があるので嫌がれていた。」
  イタチは光るものを嫌うという俗信があったので、イタチ除けとして各地にアワビの貝殻を吊す風習があった。
  この日もいつものように雑談は、あっちこっちに話題が移っていったが、どうもその底流に魔を除けるノウハウというか、そんなことを話していた。妙なもので、Aさんが話してくれたのは、鶏小屋に吊されていた貝殻、エスニック料理店の置物、ヒマラヤとヤクの絵といったことで、魔除けなどという言葉は一度も出なかったけど、心の内ではっきりと自覚化されない潜在性の世界で、それらは魔に対する強力なバリアーとして働いていたように感じた。
 
ガネーシャのお告げ
  Aさんが家族でエスニック料理の店に食事に出かけたときのこと。確か中国人か東南アジアの人がやっている店だったとかで、店の入口に大きなゾウの置物があったのがなんとなく気になったという。
  Aさんは、こんな大きなゾウさんでと両手を広げて示してくれた。置かれていたのはガネーシャ像だった。体は太鼓腹の人間、顔は鼻の長いゾウというかなり変わった姿をしている。腹にはコブラを巻きつけ、片手を上向きに手の平を見せているのは何ものも恐れないという印(しるし)だそうで、また別の手で砂糖菓子の容器を持っていたりする。
  ガネーシャはインドのヒンドゥー教の神さま。破壊と創造の神、シバの息子だが、父親と違って陽気でコミカルな姿をしている一方、父親譲りの強力なパワーを持ち、広く庶民の人気を集めている。富と繁栄、商売繁盛も引き受けてくれてるので、お店の飾りではなく、お店を守っていたというわけだ。
  ガネーシャは仏教に取り入れられて、歓喜天という名前になって日本にも伝わっている。歓喜天を祀っている寺として、浅草の待乳山聖天(まっちやませいてん)や関西では生駒の聖天さまが有名である。
  それから暫くして、ある晩、Aさんの夢の中にそのガネーシャが現れた。自分を店から持って帰れと告げた。早々、Aさんが店を訪れると、たまたま数日後に閉店するので、店内にあった全てのものを売りに出していた。そして値段交渉の末、なんとかガネーシャを手に入れた。
  そのガネーシャはいま自宅の居間に座っている。娘さんが、ガネーシャに水やお菓子を供えているという。しっかり家族の一員になっているような話しだった。
 
  ガネーシャが夢に現れた話しを聞いて、江戸時代の稲荷信仰のエピソードに似ているのが興味深い。それは、神さまが、夢に現れて人に何か行動を命じるところだ。「火事 喧嘩 伊勢屋 稲荷に 犬の糞」は江戸に多いものを並べた川柳だが、それぐらいお稲荷さんはたくさんある。でも、どうしてそんなにたくさん建てられたのか? はじめは屋敷神として家に祀られていた稲荷神が、家の主に自分をたくさんの人間に拝ませるようにせよとお告げを下し、それで稲荷神社が市中に建てられていったのだ。
  浅草と千住の間にある玉姫神社の敷地内にある口入れ稲荷もはじめは、江戸時代、吉原で口入れ業(職業斡旋業)をしていた家の庭に祀られていた屋敷神が、主の夢に現れ、もっとたくさんの人に拝まれるようにせよと告げたので口入れ稲荷が建てられたといった由来がある。
 
淀屋橋ゴッホさんの赤
  この日、Aさんはお土産を持ってきてくれた。平べったい段ボール箱に何か入っている。かなり重そうだ。遠くから持ってくるのは大変だったはずで、なんだか申し訳ない気持ちになった。
  箱を開けると、大きな派手な色彩の絵が目に飛び込んできた。角の生えた赤い動物がこっちを見ていて、背景に険しい山々が連なっている。絵はちゃぶ台の表面に描かれていた。厚さ1センチ以上の合板を金属で枠組みしている。重いわけだ。
  裏には「2002 12月 チベット&ヤク YODOYABASI Gogh」とピンクのマジックのサインがあった。四隅には、ちゃぶ台の足を引き抜いた跡のネジ穴がついている。
  Aさんから度々、聞いていた淀屋橋ゴッホという人の絵だ。ゴッホというのは、有名な印象派のゴッホにちなんでつけた名前で、生まれは奄美大島の人で、名字にあたる淀屋橋は、大阪市役所や日本銀行のある大阪のど真ん中、御堂筋にかかっている淀屋橋に由来している。淀屋橋は公園やビルの建っている中之島の一角にあるが、そこでホームレスをしている。
  なんでも近くの大新聞のビルから双眼鏡でゴッホさんを見ているファンの記者の人がいるそうで、ゴッホさんの生活が厳しくなると、すぐに察知して支援にかけつけるとか。なんだかおかしな話しだ。
  キャンバス代わりになる板を拾ってきて、そこに絵を描き、道ばたに並べて売っている。淀屋橋界隈では伝説的人物のようで、新聞でも紹介されている。ゴッホさんは、25歳から30歳まで記憶喪失になっていて、その間に、船に密航してインドに着き、チベットにいたという。
  ゴッホさんの絵は、チベットの山とヤクを描いたものが多い。
  
  Aさんは、路上で絵を売っていたゴッホさんと、なんとなく話しをするようになり、折に触れて絵を買うようになった。そのうち淀屋橋ゴッホの絵の収集家になっていた。家にはゴッホさんの絵が所々に飾られているという。
  ゴッホさんの絵はヒマラヤを描いたものが多い。持ってきていただいた絵もそのひとつ。ヒマラヤのまわりに真っ赤な妖気というか、オーラようなものが立ち上って、山肌は全面にわたり赤い斑点が脈打っている。真っ赤なケシの花が咲き乱れているようにも見える。
  たくさんの赤い斑点は、赤血球なのか、生命力の増殖を象徴しているかのようだ。ヤクと思われる動物は全身真っ赤、長くカーブし尖った角と目は悪魔を彷彿とさせる。そして口から赤い舌がたれている。 
  壁に立てかけて見ていると、鮮烈な赤のエネルギーが充満していて、外に湧きだしてくるような絵だ。
  赤(朱)は血の色、いのちの色だ。太陽、火山、火。リンゴや柿、イチゴ、トマトと熟した果実の色。危険を知らせる赤い旗や赤信号。共通しているいるのはいのちの力、強さ、活力を高揚させる色だ。
  神社の鳥居が赤く塗られ、祝いの席には紅白の垂れ幕、そして赤飯や鯛や紅白の餅がふるまわれるのは魔除けの意味がある。さらに神社の巫女の装束、沖縄の魔除けシーサー(獅子)は赤い舌を出しているし、だるまさん、赤褌(あかふんどし)、お地蔵様の涎かけと赤色は魔除けになっている。バリの宗教で大きな存在である魔女ランダは赤い舌を出していて、魔除けのお守りにもなっている。
  そういえば、あかんべは、相手を拒否したり侮蔑するしぐさだけども、瞼の裏の赤いところを出して相手に見せる。ざっとあげた例以外もたくさんあるはずだ。どれも魔に勝つため赤の力を身につけるというもので、それは呪術、あるいは古代的思考だ。
  Aさんは、そんなことは意識していなかったかもしれないが、淀屋橋ゴッホさんの絵はAさんの家の魔除け、護符の役目を果たしていたのではないか。
 
サイキック・バリアー
  「魔」はもともとは梵字のMara(外道、悪鬼)を中国で音訳した語の略だそうで、はじめはインドで生まれたようだ。古代の中国や日本には、魔は存在していなかった。
  漢字の解釈では「鬼」ともされている。鬼といっても日本の桃太郎や節分の鬼のイメージとは違って、中国では死霊のことをいう。人のたましいを魂魄というが、その片方、魂である。また、鬼神という言葉があるが、人鬼(幽霊・死霊=アストラル体)に対して自然神は神というように鬼と神は区別されている。
  仏教では、仏道や善行の妨害をなす不思議で、恐ろしいものされている。どうも魔は人間の想念を住処にしているようである。そんな視点からすると、人間世界で起きるトラブル、ケンカ、交通事故、犯罪、不祥事には魔が関わっている。仏教では、「苦」は生苦、老苦、病苦、死苦の四苦のように避けられないのに対し、魔は避ける、除けることが可能だと見なされている。
  魔の正体を突き詰めていくと、ヴェーダ数学や唯識思想のように思考を延々と構築していく、そんなインド文明の精神性を感じる。中国や日本とは異なった精神性風土から生まれたように思える。
  古代の中国や日本には魔が存在していなかったと述べた。最近の話しだが、1990年代にアメリカの大手製薬会社が開発したプロザックという抗うつ薬が登場してから、日本でもうつという心の病が社会的に認知されるとともにうつの患者さんが急増していった。先に「魔」とか「うつ」という概念が現れて、その後、それに合わせた現象が起きてくるのではないか。
 
  魔を相手にするとき、最も手堅いというか、基本的な方法は、魔よりも強いサイキックパワーを味方につけることだ。そのサイキックパワーとして、中国や日本ではエーテル体の力、つまり生命エネルギーの力を用いた。赤の色が魔除けなのは、そんな背景があったはずだ。
  と、書いていて、こういう話しは、何かどこかの本に書いてあるわけではない。わたしの無知で、もしかしたらすでにどこかで書かれているかもしれないが、そういった資料を基に書いているのではない。わたしはそういう方法ではない形で、人間の意識の世界を探りたいと思ってきたのだから。
  ここで書いていることは、ベースになる知識をいろいろな本から学び、それを瞑想というか、ぴったりする言葉が見つからないが、サイケデリックス体験をはじめとした変性意識体験の中で観察し、再解釈したことである。
  魔は想念界を住処にしているので、人間程度の思考や意思、念ではかなわない。ということで、いつの時代からか魔より強いサイキックパワーの援軍を求めるようになる。このあたり、自分の国だけでは国が守れないとき、味方してくれる他の国と安全保障条約を結んで、敵に備えるのと同じだ。
  でもこの方法は、結局のところ行き着く先は、力対力の闘いになるので、一歩間違えると、つまり惑わされると自分自身が魔的な存在になりかねない。そのあたり、同じように魔を相手にするにしても、別の方法、すぐに思いつくのは笑うこと、ラーフィング・ハイがあるし、あるいは魔から自分の姿を消す、魔には見えなくなるといった手もある。これらは平和的な方法で、余裕がある人には、こちらの方を勧めたい。
  ガネーシャと淀屋橋ゴッホさんの絵は、どこか陽気さと愛嬌があって、パワー一辺倒でないところがいい。
 
  なにはともあれAさんは、無事に魔を退散させたようだ。普段のAさんについては、ほとんど何も知らないが、魔と対峙するような人生の局面があったのかもしれない。
  それにしても、Aさんは心眼というのだろうか、そんな勘の鋭い人だ。ガネーシャと淀屋橋ゴッホの絵は、呪術的に最強の組み合わせではないか。普通の目から見るとガネーシャは装飾の置物といったところだろうか、絵は観賞するために飾られる。しかし、呪術的な目、それは古代的思考なのだが、そういう資質を強く持った人には、別の意味を持っていたはずだ。それを当人が自覚しているかどうかは分からない。そこまで意識化して考えてないかもしれない。当人には、なんとなくとか、夢の中のメッセージといった形で示されている。
  ガネーシャにしろ淀屋橋ゴッホにしろ、Aさんからすれば、最初からそれを探し求めていたのではなく、偶然、向こうから現れたという形で出会っている。普段の日常生活では見落としてしまうようなもの、店の片隅にあった焼き物の像とか、街角でホームレスのおじさんが売っていた絵とか、Aさんは、他の目的のためその場所に行った、あるいは通りかかったのだが、そこで呪物を見つけた。それは現代の人間には、潜在性のレベルに沈潜している古代人的な思考の目だ。それをサイキック・バリアーとして配置したのだから大したものである。
 
(参考)
淀屋橋ゴッホさんについては、以下のHPで紹介されています。
http://www009.upp.so-net.ne.jp/suesan/