ALTERED DIMENSIN
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2006.11.17
[ひとりごと]

平貝とテレンス・マッケナの言葉

1.貝殻の虹色

 近くの鮮魚店に平貝(たいらぎ、たいらがい)が並んでいた。黒っぽい色をした平べったい二枚貝。かなり大きい。長さを計ってみたら30センチ近くある。その日の晩、刺身にした。
平貝の虹色
  はじめ貝を開けるのに苦労する。貝柱が2カ所あって、そこに包丁を入れるのだが、ちょうつがいの部分がくっついていて開かない。やっとこじ開け、貝柱を切ると貝殻の内側が目にふれた。それがなんともきれいだった。
  黒緑に煙った半透明の表面に群青色、青、緑、グリーン、黄色、紫と虹のような色が光を反射して淡く輝いている。そのまわりは黒真珠のような光沢がある。しばらく手を休めて見とれてしまった。
  なぜかこういう光沢に惹かれる。少し大げさかもしれないが、どこかこの世的ではない感覚がある。
 
2.不思議で美しいもの

  ここでテレンス・マッケナのインタビュー記事を引用したい。マッケナは、1970年代にマジックマッシュルームの栽培マニュアルを出版し、サイケデリック植物のフィールドワークを基に何冊かの本を書いている。
  「ネオ・サイケデリック・グル」とか「ポスト・モダン・シャーマン」「マッシュルーム・グル」などいろんな呼ばれ方をしていたが、マッケナを一言でいうとしたらキノコやDMTの世界の思想家だったと思っている。SF的な口調でありながらも、キリスト教の復活思想に近い考えの持ち主だった。
  マッケナは2001年に亡くなって、いまは名前もあまり聞かれなくなった。生前、カウンターカルチャーの文脈で流行の先端をいく人物であったが、本当の評価をするとしたら20世紀末の神秘主義の思想家というのが最も相応しいのではないか。
  記事は「S.U.N」という瞑想家のA先生が発行していた小冊子に掲載されたものだ。A先生はサイケデリックの世界にも深く、わたしの知る限り瞑想の世界とサイケデリックスの両方を自分の言葉で語れる日本で唯一の人だった。そのA先生は自伝で自らを神秘家と語っていた。少しだけつけ足すと、わたしの中では、A先生は神秘家という面よりも、人柄の良い優しい方だったということの方がずっと大きかった。このインタビューは約10年ほど前のもので、A先生も2003年に亡くなられている。
 
  「──マケナさんは、なぜそのように幻覚植物を使った精神の探求を熱心に続けておられるのですか。
  マケナ 人は、なぜそれをするのか? その答えは、私の場合、不思議で美しいものに対して好奇心を持っているからです。子供の頃には、好奇心の対象は、うちの近くの砂漠でみつけた恐竜の骨の化石、ふくろう……メタリックな虹色に光るふくろうや蝶、いろんな本、それに赤く輝く幻のような火星でした。
  それが美しく神秘的だから、私はひかれるのです。そしてたぶん、これだけで充分な理由になると思いますが、他にも何か理由があるとするなら、「禁じられているものである」というのがそれにあたるでしょう。そこには、セックスに対する関心と似通ったものがあると私は思います。ただしセックスに対する関心が生物学的な衝動に導かれたものであることを除けば、どちらも美しく、神秘的で、比類なきものです。ちょっと安易な例かもしれませんが、どちらもこの世界の最も興味深い部分である、と私は思っています。
  そう思いませんか? このおかしなもの、蝶でもなく、イルカでもなく、また音や絵画でもなく、この、植物から創りだされたものは、異なる次元へと開かれた扉であるように感じられます。」(「S.U.N」第10号、1997年5月)
 
3.サイケデリック体験の光

  マッケナの言っていることはよく分かる。「幻覚植物を使った精神の探求」とは、サイケデリック体験のことを指しているが、それに惹かれる理由は「不思議で美しいものに対して好奇心を持っているからです」と語っている。この一節を読んだとき、自分と同じように感じていた人が他にもいることを知りすごくうれしかった。
  子供の頃、何故かキラキラ輝く虹色もの、透明なものに惹かれ集めていた。なぜか分からなかったが、光をプリズムで分光した色感や貝殻の真珠層の色感に魅せられていた。それは自然界のものでなくてはならなかった。シールや雑誌といった印刷物や看板、雑貨、飾り物にそんな色彩はよくあるが人間が作ったものは不思議さというか、奇遇さがないように思え魅力を感じなかった。色合いは同じでも、もっと綺麗であっても人工のものは味気なかった。
  貝や蝶、鉱物のように自然のものであることになんともいえない神秘性を感じていたのだと思う。それは自分にとっては神秘体験だった。都会にいたので、自然といってもそんなに珍しいものは知らなかった。街の熱帯魚屋さんや古道具屋さんをそんな目で見まわしたりしていた。
  神社の楠にいたタマムシ、トコブシやサザエの貝殻、堤防で釣り上げたベラ、空き地の斜面に這い回っていたトカゲのメタリックな光沢、水槽の熱帯魚、骨董品の店に飾られていた孔雀の羽……こんな類を目にすると、暫くは我を忘れて眺めていた。
 
メキシコのオアハカの市場で
売っていたブリキの飾り
  子供の頃、タマムシや貝殻に見とれた心とサイケデリック体験の核心部にある何かとは相通じているのではないか。いつ頃からかこんな確信を持つようになっていた。マッケナのインタビュー記事は、同じことを言っていて、なんだか同志と出会ったような気持ちになった。
  この確信は直観だった。子供の時の出来事と大人になってからの全然、別の体験。その間に何十年か開きがある。でも両者の間に、時間の隔たりはない。大人になってきて分かることとか、知ることではなく、最初から分かっていて、何も変わらないことだった。
  この場合、サイケデリックの種類はあまり関係ない。LSD、2CB、2CT-7、2CE、シロシビン、DMT、ケタミン……に共通しているリアリティのことをいっている。それは、人間の心の奥底にある普遍的なもので、サイケデリック体験中、それに接していると自覚したことが度々、あった。多分、そんな自覚を持ったのは自分だけでなく他の人たちの中にもいると思う。
  そんなとき思考や心理は止まり、唯一、不思議で美しい何か、驚異の感覚があった。それを比喩的に表現すると、タマムシの光沢であったり、トコブシの虹色を見ているときと似た感覚だったことに後年気づいた。ふたつの全然別の体験がよく似た感覚をもたらすということに気づいた。
  いわゆる幻覚、幻視やビジョンのことではない。目を瞑るといろいろな模様や図形が「見える」ということではない。うまく表現できないが、限りなく美しく不思議さと驚異が渾然とした心理状態のこと。そこに於いては、心の状態と自己意識と光が同一の世界としてある。
  その直観は圧倒的で、自分の生のすべてを通して100%の真実性に満ちている。この世で手に入れられる富や成功、権力、名誉、地位はそれに比べると儚く価値のないものに見えてしまう。見劣りする。これは胸に深く刻み込まれて今に至るも揺るがない。
  本当にあるのは言葉でもビジョンでもないもっとそれ以前の、姿も形もない何かで、それを似せて具象化したものがタマムシの光沢だったのではないか。それにしても昆虫や貝にさりげなくその徴(しるし)があるというのは妙なものだ。古来、人間が金やダイヤモンドを価値あるものと見なしてきた根源にはそんな心があったのではないかと思えてくる。
  「それが美しく神秘的だから、私はひかれるのです。そしてたぶん、これだけで充分な理由になる」とマッケナは語っているが、その「美しく神秘的」なのは何か、自分なりの解釈をしてみたい。
 
4.グノーシス、親鸞と光の世界 

  グノーシスといわれる古代の宗教思想が執拗に語っている至高の光。あるいは、親鸞の述べている妨げるもののない無限の光に満ち満ちた世界、「真仏土浄土」。宇宙創成以前の光だけの世界、人間の死後の浄土、宗教思想により位置づけは異なっているが、この世を超越した世界を光になぞらえている。グノーシスや親鸞の語っている光は、教義上の概念や比喩ではなくて、直接体験として人間が自覚した世界だったのではないかと思っている。サイケデリック体験はそれを実感させてくれた。
  この世に真仏土浄土の光が漏れてきているのではないか。それを感知する人もいるはずだ。さらに自分たちが気づいていないだけで、その光は想像もできない形で発現しているのかもしれない。それは出来事としてかもしれないし、人の心として現れているのかもしれない。その中で、自分が感知できたのはサイケデリック体験の光としてだったのではないか。あの意識がこの世に属しているとはどうしても思えない。しかし、このあたりはとても難しい。われわれは、サイケデリック体験をしていても、その僅かの部分しか捉えられないでいる。
  浄土という言葉を使っているが、正直言って輪廻転生についてはよく分からない。輪廻転生を語ることには自信ないが、死後の意識は光そのものと感じられるはずだと思っている。不思議さと美しさの渾然とした世界。苦痛や恐怖はない。
  いま振り返ると、自分にとってサイケデリック体験は死の向こうにある世界をかいま見せてくれた。肉体的が朽ちていくのは悲しい、この世を愛おしむ気持ちは、万人の想いでありながらも、死の意識が光だということは大きな救いになった。
  最近、サイケデリック体験について、やっと自分の意見を述べられるようになった。ずいぶん時間がかかっている。臆病だったし、この問題に対してはいいかげんなことはいえないという自戒があった。自分がノロノロしているうちにサイケデリックスをやるだけやって、すでにあの世に行ってしまった人たちもいた。
  自分はサイケデリックスに出会えて本当によかったと思っているが、万人向きのものではないのかもしれない。人間の中に慈悲の力が高まってないとサイケデリックスは扱いきれない。大乗仏教の慈悲、キリスト教の博愛、墨子の兼愛は、今から2000年前の前後300年ぐらいの幅で世界各地に現れた思想だが、それは同じ意識が人間の中に発現しはじめた証に見える。とはいえ、未だその力は人類の中では葛藤しているように思える。
  空海は、自らの密教は万人に開かれた教えではないといっている。その教えを受けることができるのは、空海によれば、その教えを本当に、真剣に求めている人で、かつその教えを受けるのにふさわしいぐらいに成熟している人に限られるという。大意としてそんなことを述べている。密教をサイケデリック体験と言い換えても、そのまま通用するように思える。
  人間は、前世の光の記憶はほとんどなくなっているのだが、タマムシの輝きに触発されて何かを感じる。あの色感に生まれる前にいた世界をおぼろげに感じ、それを懐かしんでいるのではないか。
  サイケデリック体験が「美しく神秘的」なのは、かって自らがいた世界、あるいは自らのいのちの尽きた後の世界を彷彿とさせるからではないか。
 
 
※付記
瞑想家A先生のサイケデリックスに関する発言は
『オルタード・ディメンション誌<7/8合併号>』に掲載されています。いま改めて読んでみると、とても実践的な知恵でもあって、A先生は、意識の世界の探求者として日本では希有な存在でした。