2006.07.28 | ||
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不可視の不動明王 梅雨の日曜日深夜。地下鉄三軒茶屋駅の地上出口の階段を上っているとき、もう外が見えるぐらいのところで後ろからピリッとした気配を感じた。ん……何だろう。霊感などあまり鋭くはないけれど、大まかな気配をつかむことぐらいならできる。敵意や怨念ではないが、歓喜とか至福でもない、純粋な力のようなもの。そういえばサイケデリックスや大麻の効果がなくなった後、半日か数日間、気配を感じる認識力が高まっているように感じる。多分、人の認識を調整するバルブ(弁)が日常意識のときよりは開いているからだろう。それはサイケデリックスの効果で想念が奔流のようにほとばしり出るのとは異なる。 生きた目をしてる不動明王
これか!……見上げるとネオンと強烈な照明が目に飛び込んきてまぶしい。光の洪水のなか、中空に浮かんでいる黒々とした塊。石に彫られた剣の輪郭がくっきりとしている。剣を持っているのは右手。左手には縄のようなものを持っている。不動明王だ。黒い石に彫られている。 実は、この場所はとんでもないところだ。三軒茶屋という街は、大きな道路が二股に分かれる分岐点を中心にしている。その分岐点にある狭い歩道の一角。頭上には首都高が走っている、それも上下2段の架橋。街は大きな道路で三つに分割されているため、この分岐点は一日中、たくさんの人が行き交いあらゆる方向からの喧噪が絶えない。 不動明王は四角い石柱の上に乗っていた。「大山道」と彫られた石柱は200年ほど前に立てられたという。不動明王は石柱の上にコンクリートで固定されている。背伸びして観察すると素朴な丸顔をしている。額にしわ。この石像を彫った人にとって見慣れた村人の顔が混じっているのだろうか。不動明王の姿は、元々は南インドに住んでいた先住民ドラビダ人の奴隷がモデルだという説もあるそうだ。ドラビタ人の言葉、タミル語と日本語は近い関係にあるというのも遠くでつながっているのだろうか。 カッと見開いた憤怒の目には精気が溢れている。石で形作られた小さな目を凝視すると生きている! 生理的に生きているというのではない。遙か昔、込められた、彫られた魂が現在も生きている。 それにしてもこれはどういうことだ。この一角は誰も落ち着けないような騒然とした空間だ。そんなところで今も生きているとは。 ところどころ苔むした不動明王は凛としている。周りの喧噪からは超然とした存在だ。周囲の環境とは完全に隔絶したものがそこに単独で存在している。 見えない存在 この不動明王は普通、歩いている人の視線の上方にあるので見過ごしている人も多いのではないか。置かれている向きといい、ある意味で死角になっている。忙しく歩いている人には目に入らないだろうし、こんな場所で上を向いて歩いている人は少ないはずだ。人に話しても、あそこにそんなものあったっけと印象に残っていない様子。最も目立つ場所にありながら人の目に見えない存在であるとは妙なものだ。 すでに信仰の対象としてこの不動明王を見る人はいない。史跡としてそこにあるのだが、その存在に気づいない人も多い。地下鉄の入口の方向を正面にして据えられているので、結果的に人の流れには背を向ける形になり、目にした人も後面で丸い石にしか見えない。正面の地下鉄の入口の柱はちょうど不動明王を隠すような位置にある。 不動明王の真横に建っているビルからは、夜、青白い光のクセノン・ランプが3つ真下に向けて当てられている。このビルは以前、銀行だったが、いまは24時間営業のカラオケ屋に変った。不動明王は通常、火炎光背といって背に炎が燃え立った姿をしている。石を彫った炎は石像をくるむようなせり出した形状になっているため、真上から当てられた光によって影ができ、不動明王の顔は闇に閉ざされたように見える。 先ほど、光の洪水のなか、中空に浮かんでいる黒々とした塊と書いたが、それはクセノン・ランプの強烈な光が生みだした視覚効果だった。よく闇に隠れるというが、光に隠れるもあった。光が当たることで逆に見えなくなる、ちょっとした発見だった。 いろんな偶然が、この不動明王を見えなくしている。おそらく、日本中、至るところで同じようなことが起きているのではないか。 大山詣では里山トレッキング 石の道標の隣には由来を説明した区のプレートが立っている。1749年に最初に道標が設置され1812年再建とあるので、200年近く前のものだ。不動菩薩については何もふれられていない。少し歴史を調べてみた。 江戸時代、関東一円の農民や町人の間で大山への参詣が盛んだった。大山は神奈川県の丹沢山塊に位置する標高1252メートルの山。東京から見ると西方にあるなだらかな三角形の山で、他の山々と離れているので誰でも見分けがつく。大山は古くから修験道の霊山であった。 江戸時代の中頃(宝暦1751〜1764)になると、講(神仏を参詣するための同行者の組織)を組んで3〜4日の行程で参詣する大山詣でが盛んになった。当然ながら徒歩の旅。その道が大山街道である。 もともとは三軒茶屋から今の世田谷通りを行く道(旧道)だったが、後に近道(現在の国道246号)が作られた。三軒茶屋の地名は大山詣でに行く途中、休憩した三軒の茶屋があったことに由来している。 江戸庶民の一般的なモデルコースは、まず両国橋で水垢離(身を清めるための水浴び)をした後、江戸城赤坂門を起点に青山、渋谷、三軒茶屋、溝の口、長津田、厚木、伊勢原を通って大山まで途中1泊し、早朝より大山に登り降りてきた。 大山街道は東海道の裏道、田舎道で今風にいうと里山トレッキング、例えば江戸時代末期の大山街道の渋谷あたりを描いた絵を見ると一本道(大山街道)の周りは田畑のどかな光景だった。所々、道の分岐点や眺めのいい場所に茶屋があるのはネパール・トレッキングのバッティ(茶屋)みたいな感じだろうか。 往路は大山街道だが、帰りは表街道の東海道で、途中、江ノ島や箱根や鎌倉をコースに入れた物見遊山の旅になったようだ。落語の「大山詣で」は、江ノ島で精進落しのどんちゃん騒の話だ。江戸の町から大山まで徒歩で行き帰りだけなら2泊3日で戻ってこれる。遊興でプラス1泊し、3泊4日という計算になるのだが。
大山街道沿いには、道案内の道標が所々に置かれていて、三軒茶屋の道標もそのひとつだ。 |