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2005.07.16
[ひとりごと]

「大麻的」ということ──大麻の変性意識(15)

逆説的で奇抜な発想
いまから4年前、大麻の変性意識(5) 「天命を知る」でYさんという人のことを書いた。大麻がどうして悪いものなのか裁判官に問いただす目的でタイから大麻を持ってきて成田空港で逮捕された人だ。
Yさんがインドで大麻と出会ってからヒマラヤの村に行き着いたときの心境を綴ったノートを目にしで「人が生まれ変わって最初に目覚めた朝のような清々しさがある。孔子が論語で「五十にして天命を知る」(為政第二)と語ったのと同じ域に達したことが窺われる。」と書いた。Yさんはそういう境地にいたと今も思っている。

しかし裁判では全く相手にされなかった。法律に基づいて裁かれる場に立たされた被告人が、自分は法律を超越した存在であることを宣言する、そんな法廷だった。Yさんについた国選弁護士はしょうがないから被告につきあってやっているという態度がミエミエだった。元々、そういう計画なら予め弁護士は私選にして、その人選を考えておかなければ法廷で自分の思うような発言の機会は得られないのだが、そういうことはまるで考えになかった。
供述調書は見ていないが、法廷でのやりとりでは、カバンに入っていた大麻を税関職員に発見されたということになっているようだった。それでは、よくある大麻を持ち込もうとして摘発された事件と同じではないか。
カバンを開けると、一番上に大麻が置かれていたという。確か千葉拘置所の接見室でYさんから聞いたときは、持ち込んだ大麻を自分から見せたと言っていたのだが、通関手続きの直前になって何かのとまどいが生まれたのか、そのまま通関してしまおうという運試しに方針転換して失敗したのか、あるいは取り調べ官から隠していた大麻を発見されたというふうに筋書きを変えられて調書を取られてしまったのかよく分からない。
自分から大麻を差し出したというのでは自首したことになり罪が軽くなるので、隠していたのを摘発されたというふうな筋の調書にされたのかもしれない。Yさん相手ならそういう筋書きに沿った供述を引き出すのは、赤子の手をねじるくらい簡単だったと思う。
最終公判は、人騒がせな変な人だったということで終わってしまった。
Yさんはこんなふうに考えていたと思う。……自分はインドで大麻によって精神的な気づきを得た。自分は以前、大麻取締法違反で逮捕され有罪(執行猶予)になったが、そのときの裁判ではなぜ大麻が悪いものなのか納得できなかった。なぜ法律で大麻が取り締まられているかというと、「悪いもの」だからだ。しかし自分は大麻が悪いものだとは思えない。それならば今度は裁判官になぜ大麻が悪いものか問いたださねばならない。それが自分の使命である。
Yさんは自分なりに一生懸命考えたのだと思うが、法律や社会のことは関心がなかった上に、最初からそういうことは眼中になく、あまり調べていないので、裁判では通用しない我流の論理だった。
Yさんは大麻が取り締まられているのは「悪いもの」とみなされているからだと言っていたが、法律の世界では「有害」とみなされているから取り締まられている(最高裁の判例など)。悪いものというと善悪の問題だが、大麻の規制は有害性の有無という科学的・客観的な問題だ。
大麻好きの中には、ハイになって自己省察を進めているうちに人間の道徳や倫理、宗教といった問題に没入していく人がいるが、Yさんもそういうタイプだった。それはその人が自分の心に正直になっているということで、否定的なことではないと思う。もうずいぶん前になるが、「大麻は正直草だ、大麻を吸うと、自分に嘘がつけなくなるんだ」とあらゆる場所で公言していた人がいたが、確かにそんなふうに言えなくもない。
しかし、そういった考察には、その人の生まれ育ちの境遇やトラウマ、コンプレックスが深く影響しているのだが(過剰に反発したり、共感したりすることで、結果的にバランスを崩すように作用すること)、それにはなかなか気づけない。まあ、自分も同じようなもので、そういうことをさも分かっているように語るのは気が引ける。
もし、Yさんがヒマラヤの山裾で、ひとり自分だけの論理を夢想している分には、誰も何も言わない。そうやってサドゥーみたいに生きていく方がYさんには似合っていたのではないか。考えてみれば、いまの世の中は人間社会の知識や科学や法律が高度化・複雑化していて、専門家でしか理解できないことがたくさんある。そんな頭の能力の競い合い、阿修羅のような土俵にわざわざ乗らなくても、自分らしい生き方で満ち足りていけたはずなのにと思う。
人が肉体を持って生きている限り、どんな人でも、それが「天命を知る」人でも、心の中に小さな澱(よどみ)が生じるのではないか。なぜなら澱は、最終的には生理的な活動に由来しているので、生命活動が続く限りなくなりはしないから。普通、澱は自然な流れによって代謝されるのだが、何かバランスを崩すと大きくなっていくこともある。
Yさんの中で、自分が裁判官、その背後にある司法、そして国を相手に、問いただす。自分ならそれができる。自分は、特別な人間だ。自分は、そういった世俗的な人間たちや、そういう人間たちが作っている仕組みを超えている……といった自覚が芽生えた。
いや、実際はそれよりも前に、自分から逮捕されるという常識外れの行為をすることでマスコミや世間がびっくりして大きな話題になるだろうというアイデアの方が先にあったのかもしれない。こういう逆説的で奇抜な発想は、大麻的といえなくもない。たぶん、そうだったのではないかと思う。
ふと湧いたアイデアに取り憑かれてしまった。そのアイデアを実行に移すために自分を押してくれる、奮い立たせてくれる何かが必要だった。自分は、特別な人間であるという心の支えが必要だったのではないか。 

唐突ながら天狗について少しふれる。天狗で思い浮かぶイメージは、深山に棲む赤い顔をして鼻が高く羽がある怪物といったところだけど、昔からその神通力と高慢さから常人には手に負えない存在ということになっている。天狗道というのは魔性の世界だというし、天狗話は自慢話のことで、こういう怪物はなんとも困ったものである。
日本の新宗教の世界では、人間の心の世界のなかに仙界、天狗界という領域があるとされている。神仙ヨガ界といったりもする。トランスパーソナル心理学のケン・ウィルバーの説く意識の基本的構造でいうとだいたい心霊的な領域に該当している。
仙界や天狗界がどういうリアリティかというと「仙界、天狗界に通じている人々は、自己本位である。人里離れた山中での肉体行の中から自分自身の孤独な悟りを開くが、これには慈悲も愛もない」(『心の発見』高橋信次)といったもの。この場合の肉体行というのは断食や滝行などのことだが、文化的な文脈を取っ払うと、大麻やサイケデリックス体験は、新しいタイプの肉体行になりうる。とはいえ、それらは万人に開かれた顕教ではなくエソティックなものだから人に勧めるようなものでもない。
憑き物の民間伝承では、狐、たぬき、蛇、犬といった動物のほか、天狗も人に憑くという。憑かれた人は人間以上の能力を得て、何らかの利益を得たりすることもある一方、疫病に罹ったり奇行を演じたりの厄災に陥ることが多いという。天狗に憑かれた人は、人並み以上の力を持つが、まわりの人たちとぶつかってばかりで物事がうまくはいかない。
天狗界や天狗憑きは、人間社会の通常からすれば、マイナーでマニアックな世界だ。箸にも棒にもかからない。普通は、どう転んでもこういうところには行き着かない。しかし大麻で精神的な探求をしてきた人たちの中には、ここが開かれてしまう人がいる。 

異様な光景
それから、これはどうしてもふれておかなければいうことがある。Yさんの行動のきっかけになったのは、過去に大麻取締法で逮捕され裁判を受けているということだ。わたしは過去に大麻で逮捕されたことがある人を何十人か知っているが、ほぼ100%の人が、大麻が有害な薬物だとは思っていない。誰も大麻のことを悪く言わない。
大麻で逮捕されたことにより、連れ合いや親、家族に迷惑をかけたことや会社を辞めさせられたことを悔やんでいる人は多い。拘置所に数週間から数ヶ月、入れられ、前近代的な、あまりの待遇の酷さにショックを受ける。
日本には刑罰として、死刑と懲役や禁固などの自由刑(自由を剥奪する刑罰)、罰金や科料のような経済刑の三つがある。大麻取締法は、刑罰として懲役刑しかないことが問題になっているが、それとは別に、被告の身になってみると、中世ヨーロッパにあった拷問の一種の「晒し刑」を科せられたようなものだ。大麻事件の裁判では、被告は、法廷の奥から一見警官みたいな制服を着た二人の衛視に前後挟まれ、腰に縄を巻かれた上、手錠をはめられた大袈裟な姿で連行されてくる。映画のシーンならテロリストや銀行強盗といったところ。いや、腰に巻かれた縄を衛視が手にしているのは、時代劇の捕り物を実地に見ているような異様な光景だ。
現在の世界で、イスラム教徒と西欧の間に「憎悪の循環」が起きかねないと危惧したこんな記事が新聞に載っていた。
「パレスチナの検問所で異様な光景を見たことがある、若いイスラエル兵士が、20人ほどのパレスチナ通行人に銃を向け、1列に立たせる。「シャツを上げろ」と兵士が叫ぶ。爆弾を巻いていないか調べるためだ。全員がシャツのすそをめくり、腹を出す。
イスラエル側にすれば、テロを防ぐにはこうするしかないのだろう。しかし子供の前でシャツをたくし上げる父親の姿は屈辱的だった。あれでユダヤ人に憎しみを抱かない者はいません、とパレスチナの知人はいった。」(朝日新聞2005年7月14日「ワールド・くりっく」)
このパレスチナ人たちが感じた想いと、大麻事件の被告たちが感じる想いは共通していると思う。裁判では、大麻取締法は憲法第31条に罪刑均衡(刑罰は罪の重さにつりあいがとれていなければならない)に反しているから憲法違反であるという被告弁護側に対して、裁判所は大麻の所持は5年以下の懲役、栽培は7年以下の懲役だが、刑の下限は1ヶ月なので、それを選択肢に含めれば刑が重すぎるというとはいえないという判例を出している。しかし、異様な光景については、そこで被告たちが感じているであろう想いは分からないのだろうか。
そして裁判では、大麻は有害な「麻薬」と見なされて裁かれる。大麻について法廷で自分のホンネを言えなかったことに後々まで、わだかまりを持ち続ける人もいる。法律に違反したことは認めても、法律の方がおかしいのではないか、何故、大麻を取り締まるのか、納得がいかない。逮捕され手錠をはめられ「犯人」扱いされるなんてことは、普通の市民生活を送ってきた者にとっては人生最悪の忌まわしい経験だ。こんなことが国によって行われているのは理不尽だ……こういった想いはもっともだと思う。
多くの人たちは、大麻で逮捕されたことを悪夢として忘れようとする。自分ひとりの力では何も変わらないという諦めや、これ以上、周りの人に迷惑をかけたくないという思いとか、自分に何か落ち度があったから逮捕されたのだと納得することで区切りをつけようとするとか、人それぞれだ。しかし中には理不尽さに闘いを挑む人たちもいる。それはリベンジであり、私闘(私怨によってたたかうこと)かもしれない。Yさんもそういうひとりだったと思う。
とはいえ理不尽さに対する異議申し立てと、「逆説的で奇抜な発想」が結びつくと妙ちきりんな、変なことになる。こういうところがいかにも「大麻的」なのかもしれない。

「存在のレベル」と「知識のレベル」
大麻好きの中には、一対一で話していると、言葉の端々から普通の人とは違った深い洞察性を感じる人がいる。オリジナルな意見、誰かが言っていたこと、書いていたことではなく、この人がはじめて口にする意見、そういう話しを聞くのは後々まで印象に残る。この人は、話していることを本当に知っているんだなという実感が伴っている。
大麻の変性意識状態で内観法のようなことしている人もいた。内観法というのは自分の心の内側を観察していく心理療法のことで、自分が子供の頃からの記憶を振り返り、母親や身近な人に「していただいたこと、して返したこと、迷惑をかけたこと」の3点に絞って具体的にどんなことがあったのか想起していく。
「大麻の変性意識(11)大麻と情緒力」で書いたが大麻は情緒力を高める。「折りにふれて起こるさまざまな感情。情思。また、そのような感情を誘い起こす気分・雰囲気」(広辞苑)といったことを情緒と呼んでいるが、それがこの上なく高まった状態で内観をすれば心境の深まりは著しいものがある。

『グルジェフとクリシュナムルティ』(ハリー・ベンジャミン著(注))という本がある。「エソティック心理学入門」という副題が付けられている。エソティック心理学という言葉は初めて耳にする人がほとんどではないかと思うが、だいたい奥義に達した少数に者に向けられた、秘密の、秘教の心理学といったところだろうか。
その本の一節で、著者がこんなことを言っている。自分たちがめざしているのは、いわば知恵(理解)を得たというようなタイプの人間で、そういう人間は人類の中でもまだ少数しかいない。著者のいう知恵とは、人間の「存在のレベル」と「知識のレベル」というふたつの異なった要素を足したものだという。
知識のレベルというのは、いわゆる教養、学問のこと。われわれが、普通に使っている知恵とか、理解というのは知識のレベルのことになる。
存在のレベルの方は、富や地位、教育といった人の外面的相違とは関係ない内的発展に従っているとして、次のように説明している。
「われわれは皆、いたって謙虚で、地味ですらあるのだが、けれど他の人々から直ちに区別される何かをわれわれに感じさせる、そういう人々に会うという経験をしたことがある。これらの男または女たちは、「何か違うもの」を持っており、そしてその何か違うものは、かれら自身の本来の存在から出てくる。それは、いかなる種類の外面的または外部的要因とも無関係である。そのような人々はある程度の内的発展を遂げており、そのことは、それを感知する能力を持った者がかれらに接触すると、直ちに感じられるのである。」(112頁)
どういうことを言っているのか、ある程度、歳をへてきた人ならなんとなく見当がつくのではないかと思うが、社会の表舞台ではあまり顧みられていない。ほとんど死語になっているがそれは「徳」といってもいいと思う。
もし人が高い知識のレベルにありながらも、存在のレベルが釣り合いをとれていない場合、専門家やもの知りとはいえても真に知恵を持っているとはいえない。
「その反対が、かなり高い存在のレベルを持ているが、しかしあまり高い知識レベルを持っていない人々──多くの古風な庭師のように、自然のすぐそばで暮らしており、創造の驚異と奇跡について直観的気づきを持っている単純な人々など──の場合である。これらの人々は、人がかれらに話しかけるとき容易に感じ取ることができるように、かれらの内側に非常に立派な何かを持っている。が、かれらの知識レベルは(かれら自身の仕事のそれを除けば)非常に劣り、その結果かれらの理解のレベルは、かれらの比較的高い存在のレベルおよびかれらの熟練職業についての特定の知識にもかかわらず、かなり低い。」(113頁)
著者のいう存在のレベルは自らの主観に属する経験や内的感情を素材にして、いわば手持ちの材料を用いて精進していくことで高められると思う。だから大麻やサイケデリックス体験は、存在のレベルを高めるブースターの役割をすることが可能だ。テキストはいらないし、我流でもかまわない。ひとりひとりの個性が違うのだから我流でなければ本物ではないともいえる。
一方、知識のレベルはそうはいかない。知識のレベルはすでにあるものを器用に、要領よく学んでいく、時間をかけて根気よく吸収していくこと抜きに高められない。多分、これには適性や得手不得手があるのかもしれない。自分のささやかな見聞でも天賦の才を持った人がいることを知っているので、この面では人はそれぞれ違うんだなと思う。
先ほど、大麻体験を通して何かしらの気づきを得た人がいると書いたが、そういう人たちが自分の見知っている経験世界の外のことになると、急に的外れなことを言ったりする。政治や社会の話しをしていると、陰謀史観やオカルト的な超古代史を口にしだすのには困惑することがある。存在のレベルはそれなりに高いのだけど、知識のレベルとのバランスがとれていない。これがエソティックな教えに惹かれる人たちが、往々にして陥る落とし穴なのではないかと思う
ところで、Yさんを裁いた裁判官は女性で皇太子妃の候補に上がったことのある人だったという。なぜか裁判所の誰もが、弁護士や検察官ばかりでなく書記や衛視や食堂のおばちゃんや被告たちもみんなその話を知っているらしい、傍聴に来たわたしまでも知っているというがなんだか変だなーと思ったことを憶えている。
Yさんはあまり恵まれない境遇に育ったという話しを聞いていた。Yさんは裁判官を諭してやろうというぐらいの気概を持って挑んだはずだが、おかど違いで終わってしまった。 
法廷入口に掲示されている予定表を見ると午前、午後と十分刻みで次々と裁判の予定が詰まっている。この女性裁判官はそれをひとりで担当している。殺人未遂とか強盗、傷害、覚せい剤の事件もある。これだけこなすのは大変なストレスだろうと思う。Yさんにとっては人生を賭けた一発勝負の裁判だったのだが、裁判官にとっては目白押しの審理のなかの一齣だった。

大麻で悟ったという人がときどきいる。
「真の秘教的発達において重要なのはもっぱら理解(知恵のこと)なのであり、ただ単に存在のレベルだけではだめなのである」という著者の指摘を心に留めておきたい。 



(注)ハリー・ベンジャミンという人物について『グルジェフとクリシュナムルティ』(大野純一訳、コスモス・ライブラリー発行、星雲者発売)の奥付には、次のように紹介されている。
「哲学、心理学、文学、経済学等々を学んだ後、熱心な社会主義者となり、社会改革活動に従事。が、やがて神智学に出会い、「進歩」と「改革」の限界を認識し、真の変化は自分自身の内側からのみ起こりうることに気づく。その後ニコル博士のグルジェフ・ワークに関する『心理学的注解』に出会い、秘教的な自己変容の道をたどりはじめる。主な著書:『神智学入門』『菜食主義の常識』『自然療法入門』(いずれも邦訳なし)」