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2005.02.17
[ひとりごと]

聖なる愚者

モースルの特異な人物

  イラクで生まれたクルド人の友人Aさんからこんな話しを聞いた。Aさんは、以前、イラク第三の都市、モースルに住んでいた。モースルはイラク北部、クルド人もたくさん住んでいる。この話しは、2000年頃に見聞したことだという。
  Aさんが雑談の中でふと、モースルで奇妙な人を見たことがあるというエピソードを話してくれた。その人物はアラブ人で、年の頃は50代。いつも同じ通りにいたという。何が変かというと服は一切着ていない。靴下も下着も着ていない。靴も履いていない。丸裸だったというのだ。体は、痩せていて強靱な感じの人だったという。
  イラクの社会の中で裸を晒すというは、イスラム教の戒律にとって大変なタブーであり、嫌悪されることだ。そんなおかしな人がいれば、子供たちから腐ったトマトや石を投げられるのが当たり前だった。だから最初、その人物を見たときは、常識ではありえないことでとても驚いた。その通りの近くに住んでいた妹に聞いたところ、その人物は特別な人だと見なされていることを知った。
  その人物は、セイエッドと呼ばれるモハメッドの子孫だと辺りでは崇められていた。いろんな人がその人物に食事を持ってくる。それもレストランからカバブやドルマ(肉のミンチ料理)、ライスやフルーツを買ってきて彼のところに持っていくのだという。ときには、服を着せてあげる人もいるが、すぐに引き裂いて、裸に戻ってしまう。裸であることが見慣れているため、誰も不審に思うことなく、すぐ隣で奥さんたちが井戸端会議をしている。
  そして、辺りの人々の間では、何か悩み事や問題があると彼に祈ってもらうのだという。その祈りはイスラムの様式とは違う独自のものだったらしい。お金は決して取らなかった。
  いろんな人が彼と話しているのを見かけたが、あるとき通りに座って軍の高官と何か話しているもを目にしたのは強く印象に残ったという。
  Aさんの叔父さんは、冬の寒い雨の日、車で通りかかったら、その人が雨にうたれながらも、裸の体から湯気が立っていて、寒そうには見えない。まわりに野良犬が何頭か、あたかも周りを守っているかのようにいた。それは驚きの光景だったとAさんに話してくれたという(アラブ圏では犬は不浄な動物と見なされていて、子供たちは野良犬を見ると当然のように石をぶつける)。
  Aさんの話しは、当時、この人物について興味を持っていたわではなかったので、これぐらいだった。
 

聖なる愚者

  9世紀末から10世紀初頭にかけてコンスタンチノープル(イスタンブール)にアンドリューというキリスト教の聖人がいたという。その人物は、外を真っ裸で歩き回り、野良犬といっしょに寝るといった愚行を重ねたことで、人々からは崇敬されることになった(『癒しとしての笑い』ピーターL.バーガー)。このエピソードは、先ほどモースルにいたという変な、何とも評しがたい人物とうり二つだ。
  同書によればユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、あるいはアフリカ、南北アメリカの土着的な宗教、このように地域を列挙していくとほとんど世界中といってもいいぐらいどこにも宗教的な特権を持ち、かつ道化でもあるような人間が存在していたという。道化は愚かしい姿で、馬鹿馬鹿しさで人を笑わせる。
  普通の常識からすれば、常軌を逸しているので、狂気とも見えるのだが、その狂気が周りの人々からは神聖さのしるしと見なされたという。
  そういう人のことを「聖なる愚者」と呼ぶそうだ。聖なる愚者には、共通するパターンがあって、普通の人から見ると、とっぴでバカバカしい行いをしていること、その社会の中で例外的な非日常的な存在であること、タブーを侵していたりグロテスクさもあるといった特徴を備えている。
  聖なる愚者は、一見すると町の厄介者で、無一文の放浪者、女性の浴場に乱入したり断食日にこれ見よがしに食事をしたりと秩序に反した行動を繰り返す全くのダメ人間といったところだ。こうした愚行を極めることで、逆に人々から崇敬された。世俗の権威や名誉、権力とは対極の最底辺にいながら、それらを超越した聖性を帯びている存在であった。
  聖なる愚者が、裸の姿であったという話しはひとつの類型になっている。また定まった家や居場所を持たない遊行、放浪を常としていたことも共通しているようだ。
  そして、ここが重要なポイントだと思うが、多くの場合、そういう人たちは、まっとうな教育を受けていないけれども、すばらしい知恵を持っていたという。なかには奇跡を起こす力(いわば超能力)を示す人もいた。当然ながら奇行、愚行だけでは、ただの奇人、愚人で終わってしまう。
 
  五木寛之の『戒厳令の夜』という小説がある。そこに水沼隠志という聖なる愚者の系譜に連なる人物が登場した。政界に隠然たる影響力を持つ右翼の長老が、長年密かに崇敬している「外道先生」(人を超えた人、「狂人」)というのが、その人物で、明治から昭和にかけて日本各地を辻説法の行脚をしていたということになっている。戸籍のないサンカや極道、犯罪者、遊行の芸人、脱走者といった非・国民の中で学び、研究した学者のような人物でもあったという設定だった。そういう人物が1970年代の九州、福岡筑後平野の水辺に囲まれた小島に隠れ住んでいて……エンターテイメントの小説なので、というより、どうも五木寛之は昔から格好をつけすぎる性があるなーと思う。
  話しが横道に入ってしまった。水沼隠志という人物は、実在したのか、モデルになった人がいたのかは知らない。小説そのままではないにしろ、似たような人がいたのかもしれない。
  もし、それが本物だとしたら時代劇の水戸黄門のような、一見、ただの庶民、しかし本当は天下の副将軍といった、身も蓋もなく言ってしまえば人一倍、権力や権威を笠に着たような姿ではなかったはずだ(そういえば、1960年代、柳家金五郎が黄門様を演じていた東宝の映画で、助さんか角さんが、旅籠でシビレタケを食べてしまって、変になっちゃうシーンがあった。たわいない話しだけど)。五木の小説では、それが反体制の黒幕といった雰囲気で描かれ、やはり権力や権威の持つ呪縛から抜け出せていない。
  本当の本物だとしたら案外、平凡な市井の人だったかもしれない。あるいは、日本的な桎梏の中では、ホームレスになるしかなくどこかの公園に住んでいたとか、精神病院に紛れ込んだとか、そんな形で、人知れず人生を全うしたのかもしれない。
  外見上、その人が特異な姿をしている場合は、目に見えるのだからある意味、分かりやすい。しかし人の心、魂魄、意識といったものは直接的には見えない。人間は、自分の意識レベルからしか世界が見えないから、仮にそれを超えた意識の人に遭遇してもそれをそういう存在として捉えることはできないのではないかと思う。目の前に、自分の意識レベルを超えた人間がいてもそれが分からないという限界がある。その人にとっては、理解できない存在ということになってしまう。
  それは人間を超えた進化を遂げた宇宙的知性と遭遇したときに似ているのではないかと思う。こちら(人間)と共通する部分、感覚や感情や知性といった面は、こちらも向こう(宇宙的知性)も分かり合っている。だからこちらの考えていることは向こうにも分かる。しかし、こちらを超えた能力・世界が向こうにはあって、それは、こちらには想像外の世界としかいえない。  
  はじめの話しに戻ってくるが、聖なる愚者の姿や振る舞いが普通人の常識からは理解しがたいというのは、結局のところ彼らの心・魂魄・意識が普通人には理解できないということを示しているように思える。