ALTERED DIMENSIN
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2005.01.22
[ひとりごと]

異文化の目・耳を感じる体験

  日常生活というのは、結局、繰り返しのことだと思う。一見すると、毎日がスリリングな、変化のある非日常的な生活をしているように見える人でも、例えば、プロスポーツ選手、ミュージシャン、文筆家、相場師、テキ屋、ギャンブラー、泥棒と広い意味で自由業のような、あるいは先祖の遺産で食っている人や生活保護で食っている人、自給自足の山暮らしをしている人でも、食べること寝ることの生理的サイクルの繰り返しだけは、抜け出せない。何が言いたいかというと、繰り返しということが、意識に与える惰性、それが拘束力に転化するというところが曲者なのではないかということ。
  だいたいの普通人は、そこまで非日常を貫いて生きるのも難しい。そういえば、教育というのは、その社会に適応する人間を育てること、換言すると日常生活という繰り返しに慣れることを学ぶことでもあるんだなと思う。それはそれで現実を生きていくうえでは不可欠のことだから、否定できない。とはいえ、繰り返しに適応することで、自分の生きている現実、物事を新鮮に見ることができなくなっているということは知っておきたい。
  日常の「現実」は繰り返し見ている当たり前の世界。通勤電車の駅の改札口から見える階段であったり、コンビニのレジの前に並んだ前の客が手にしている携帯であったり、車で毎日通る国道のガソリンスタンドの手前の信号の横断歩道をわたるお年寄りであったりと、当たり前に見慣れた光景。
 
  ところで、日本を初めて訪れた外国の人には、われわれが当たり前に受けとめている物事が全く新鮮なもののように見えるという話しを聞くことがある。異文化の目には、われわれにとっては当たり前の日常も新鮮で、物珍しく感じられるというのは、当然のことかもしれない。具体的に、どんなふうに見えるのか、どんなふうに聞こえるのか、そのリアリティを自分も感じてみたいと思う。
  最近、新聞記事で知って足を運んだある写真展と、妙に印象に残っている雑誌コラムのふたつを紹介する。それぞれ視覚と聴覚に絞って日本の街を観察しているのは興味深い。五感のうち、このふたつが外的世界を認識する主要な感覚器官であるが、それぞれに特化している分、より世界が鮮明に捉えられるのではないかと思う。
  写真やコラムを見てもらえば一目瞭然、文字から意味が消えた世界がどう見えるか、形状と色が組み合わされた模様としてどんな心象をもたらすか。あるいは、われわれが日常の中で、無意識のうちに取捨選択している音の世界が、どんなふうに聞こえるのか。小さい音だから、あるいは可聴領域の音ではないから聞こえないというのではなく、自らが暗黙のうちに、自動的に排除しているから気づかない音があることを知らされる。
  これは感覚の世界のことだから、写真を見て、コラムを読んで何を感じるかがポイントだと思う。それを分析したり、解釈したりするのは興ざめだ。異文化の目や耳とわれわれとの比較や優劣といった考えもお門違いだと思う。われわれが自分たちとは文化的に縁遠いような国にいけば、われわれが異文化の人間として、そこで生まれ育った人間には見えない、聞こえないものが感じられるはずだ。
 
  とはいえ、どうしても言いたいことがひとつだけ。ここで引用したような異文化の目や耳の感覚は、われわれでも大麻やキノコ(サイケデリックス)を体験するとき、あたかも「知覚の扉」が開かれたように、同様の感覚を体験することがある。
  もしそういう体験をしたことがある人なら、ここで引用する写真や文章から何かとても親しいリアリティを自分の内に発見できるのではないだろうか。わたしが、ここで何を言いたいかというと、それを想起し、反芻し、よりはっきりさせること。それは清明心とも呼ぶべき世界、自分の内の意識の鉱脈を掘りあてるにも等しいのではないかと思う。
  同じように見えたかとか、聞こえたかということにあまりこだわる必要はない。問題は、両方(サイケデリックス体験-異文化の目や耳の体験)のエッセンスの中に、淡くおぼろげながらも共通するリアリティを掴めるかどうかにかかっている。
 
混沌とした光景

  最初は、東京の人間や街を撮った写真。この写真展は新宿の地下街のショーウインドーで行われた。通行人が行き交う場所というのが、とても似合っていた。写真の解説文は次のように記されていた。
 
  「日本語の読めない旅人が初めて東京を見る時、どういう印象が残るのだろう?
  東京に18年間暮らすフランス人ジャーナリスト兼カメラマン、HNは来日当初の東京の思い出を映像に表現することに挑戦してみた。
  日本語がわかる人は東京で道に迷うことはない。カラオケ、レストラン、パチンコやゲームセンターなどには店の名前がわかるようにキラキラのネオンサインがついているからだ。でもカタカナが読めないとすれば、印象に残るものは何だろう?ネオンは単なるクニャクニャした、訳の分からない強烈な色の並びにすぎない。
  意味を持つ記号としての東洋文字を捨て、形、色、組み合わせだけを無数に増加させることによって、東京で感じられる混沌状態が表現できた。
  意味を意図的になくした時に、旅人の潜在意識として残るのは色彩豊かな形が織り交ぜられた非現実的な風景、時には怖い、時にはポエティックなイメージだけ。」
 
夏の音

  もうひとつは、日本の、正しくはこちらも東京の、夏の音に関するコラム。ニューズ・ウィーク(2004年7月21日号)に掲載されていた。