ALTERED DIMENSIN
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2004.12.01
[ひとりごと]

日本的霊性──集団的神懸かり

  「日本が諸外国にくらべて非常に素晴らしいというのは、神秘主義の面でね、集団神秘体験とでもいいますか、これは日本だけなんですね。 
  たとえば雄略天皇が大和の葛城山へ行列を組んで行った時、一言主神の間に集団ウケヒといったものが発生しているんです。あれなんか、たいしたもんです。この集団的神懸り発動というのは、シャーマニズム研究で有名なエリアーデにもないんです。ということは、日本はすごいんです。八紘一宇なんてスローガン掲げますとね、向こうさんは相手してくれなかったが、国内的には一応集団的に結束させられました。単細胞の私などは真っ先に……。」(金井南竜『神々の黙示録』)
 
  集団的神懸かりというのは、わたしの理解では憑依型シャーマニズムといわれるものの祖型、古代的意識というふうに言えると思っている。人間にカミがツクのが神懸かり。ウエヒとは神道の文脈で語られる用語で「受霊」、霊(祖先霊の進化したものであるカミ)を受けること。確かに普通、カミがつくシャーマンは個人だから集団的神懸りをとりあげた金井の指摘はユニークな視点だと思う。
  日本のカミの特性は、大野晋によれば1.唯一の存在ではなく、多数存在した(古事記の中には300以上の神がいるという)。2.具体的な姿・形を持たなかった。3.漂動・彷徨し、時に来臨し、人間や樹木・岩・枝などに一時的にツクことがある、ということらしい。 
  先ほどの古代的意識とは、集団的(原始共同体)意識の中に個人の意識が溶解している状態というように考えている。個人の意識、いわゆる自我がはっきりとしていない、現代のわれわれからすれば、薄ぼんやりしている状態というふうになる。日本の歴史では、だいたい縄文時代の人々の意識に該当するのではないかと思う。
  弥生時代になると卑弥呼のようなシャーマンが登場するが、それは集団と個人の意識の分離(個人の側からすれば、自我が自立化しだした)を背景にして、集団的意識(カミの意思)を伝達する役割を担う存在が求められからだといわれている。
  弥生の前、縄文時代の人間の意識は、集団的神懸かりが常態化していたのではないかと思う。人智学のシュタイナーの言い方で「アトランティス後期」というのが大体、その頃に該当しているのではないだろうか。シュタイナーによれば、その時代の人間の持っていた「記憶」は、現代のわれわれのように心の想起によるものとは異なり、繰り返しのリズムと結びついていたという。人間の歴史では、文字以前の口承文化がそういった性格を帯びている。最も基本的なリズムは、呼吸や鼓動、睡眠と覚醒といった肉体(生命体)の反復運動から生まれたと考えられるから、シュタイナーの用語を用いればエーテル体の影響を受けた記憶のあり方ということになる。エーテル体という言葉は、「気」という概念と重なっており、わたしはアジア太平洋圏の精神文化の最も基層にあるものではないかと考えているが、この話しは横道に逸れるので、これぐらいにしておく。
  シュタイナーの翻訳者、高橋厳は「(「アトランティス後期」の古代人は)特定の言語やリズムに結びついて記憶が働くので、その記憶は、非個性的、集合的な性格を持たざるをえません。ですから古代人が自分を確認する時は、周囲の誰かとは異なる個としての自分を意識しないで、特定の共同体の一員としての自分だけを意識したのです」と述べている。この言葉はよく的をついている。縄文時代の平均的な集落は30〜50人ぐらいではないかと見なされているようだから、当時の人間の自己意識は、30〜50人の集団的意識でもあったということになる。
  このような古代意識が20世紀の帝国主義の時代に日本を席巻したということは、どうかしているというか、確かに「すごい」ことではある。当然ながら、かつて古代に生きていた人々の意識がそのまま再現されたのではなく、20世紀の物質的環境の中で現代人の意識と折衷した形で現れているのだが。

黒船=シャーマン

  昭和史をライフワークにしているノンフィクション作家の保坂正康によれば、昭和8年から日本は熱狂的な「文化大革命」が起きたという。昭和8年(1933年)に何が起きたかというと、ひとつには、その年の7月から9月に行われた5.15事件の裁判で、被告に対する同情と減刑嘆願が国民の草の根の支持を得るという状況があった。もうひとつは、3月、満州事変をめぐり国際社会から孤立した日本は国際連盟を脱退するという出来事があった。当時の報道や国民はそれを讃えたという。
  昭和8年から国民世論は急激に変わっていったようだ。国民レベルで攘夷(外夷をうちはらうこと。外夷というのは外国人をいやしめていう語)という熱狂的な感情に覆われてしまい、日本は政治的に舵取り不能になりアメリカとの戦争に雪崩れ込んでいき、最後は1945年8月の敗戦に行き着く。
  もともと攘夷という感情は、黒船来航により生じた反作用であったと思う。異邦からやって来た近代に対する土着=前近代の拒絶感ということになるだろう。自己の内で醸成された思想ではなく、反作用として起きた感情なのではないかと思う。そういえば、「攘夷」という言葉を繰り返し使っていながら、自分の内でその実感がつかめないのが何とも妙に感じる。意味や知識としてはとしては理解できても、その感情がこれまでの人生で起きたことがあるかというと、ほとんど記憶にない。自分にその実感がたぐりよせられないのと同じように、もう日本人にはなくなった感情なのかもしれない。
  明治の開国以降、その忘れていた攘夷という感情、眠っていた心情が5・15事件の被告への国民的な同情の高まり、国際連盟脱退などの出来事と重なりいきなり噴出した。それはファナティックな病理だったと保坂は評している。保坂は歴史家の目で、そのように誤った道へ引きずり込んでいった張本人も指摘している。その張本人が誰かについては、保坂の本に書かれている(保坂正康『昭和史七つの謎』講談社文庫38ページ)。それはよく納得できることだが、ここでは、少し異なった視点から、「攘夷」をスムーズに受け入れる国民の資質、「攘夷」に憑かれてしまう人々の意識の方に目を向けてみる。
  そんなことを考えていると、江戸末期にやってきた黒船はシャーマン的役割を果たしたと語っていた吉福伸逸の対談を想い出した。シャーマニズムを意識変容のテクノロジーとしてとらえたうえで、シャーマンの修業の最後のイニシエーションは肉体的・精神的極限状態に直面することだと述べていた。このあたりの話しはよく耳にするが、「ああいったシャーマン(黒船というシンボルのこと)と、それまで日本にあったシャーマンとでは、外に立ったシャーマン(黒船)のほうが、あまりにも固定した世界観を揺るがすには有効性が高い」、そして「極限的パニック」というものが意識変容の究極のテクノロジーを生むのだから、「極限的パニック」なくしては、その状況にもっとも見合った意識変容は生まれてこないといった指摘などは、この人ならでは枠にとらわれなさや逆説を取り込む冴えを感じた。
  浦賀に4隻の黒船が現れてから約150年経ったいまでも「黒船ショック」という言葉が使われるということは、民族の記憶によほど深く刻み込まれた体験だったのだろうと思う。黒船は、当時、最大級の和船だった千石船の約16倍の大きさになり、伊豆大島が動き出したような巨大な船と言われたとか。NHKのドラマでは、将軍慶喜が黒船を実見してきた家来にその大きさを尋ねるのだが、かつて見たこともないものの大きさを説明するのに戸惑うシーンがあった。桁違いの大きさで、蒸気船という異様な姿をしている船をはじめて目にした人々の驚きは、大変なものだったと思う。それは、自分たちを上回る力(性能)を持ち、しかも敵対的な存在らしいというのだから、まさに極限的パニックだったはずだ。浦賀沖に4隻の黒船が停泊した夜、海岸のかがり火が一面に燃えていたというが、暗い闇の中で様子をうかがっていた人々の心理が想像できる。
  ところで、吉福は黒船を引き合いに出して「極限的パニック」がその状況にもっとも見合った意識変容を生み出すと語っているが、攘夷という集団神懸かりをそのように評してよいのだろうか。起承転結の結をきれいにまとめすぎて現実と乖離してしまったように思えるのだが、ここでの話しとだんだんずれてくるのでやめる。
  このような神懸かりを20世紀の世の中で突き詰めた結末は、金井が大らかに語っているのとはずいぶん異なっていたのではないかと思う。神懸かりは、人にもののけが乗り移ること、憑き物の一種でもあるから、落ちたりもする。考えてみれば、昭和8年には国民を巻き込む熱狂を呼びながら、同20年にはひとりの突飛な個人だけが感応した。

1945年8月16日の神懸かり

  最近、40〜50年前の文芸春秋をまとめて読んでいたら、その中の1冊にこんな一文が目についた(「最後の対米抵抗者──厚木基地降伏反対事件首魁の手記」小園安名)。1945年8月、「日本は神国ナリ 絶対不敗ナリ」と日本の降伏を認めず戦争継続を訴えて、クーデター・東京占領を画策した海軍の軍人の手記。筆者は、厚木基地の司令官だった小園安名(大佐)という人だが、結局、この人の行動は未遂に終わったので歴史の中ではちょっとしたエピソードくらいの扱いだ。
  手記は戦局が悪化していく中で、自分の出した有効な提案が軍部内の足の引っ張り合いにあい受け入られなかったといった回顧談が中心で、読んでいると我流の思いこみが強く、かつ物怖じしない行動的な人。ユニークなアイデアを生み出すが、人との協調性をうまくもてないタイプといった人物像が描かれる。国体論に心酔していたが、もともと憑かれやすいタイプの人だったのだと思う。この話しは、60年ほど前の時代のことで、そんなに大昔しではない。この手の人は、そんなに多くはないが、今もたまにいる。
  8月11日、日本がポッダム宣言を受託するという海外の電報を知ったことから、小園は、戦争継続を決意し連日連夜不眠不休で活動するが、以前患ったマラリアが再発して、14日の午後には高熱でベッドに横にならざるをえなくなる。関東地方の陸海軍部隊に決起をうながす働きかけを行い、16日午後、クーデターに協力するという陸軍少佐と東京占領の打ち合わせをした後のこと……。
 
  「(8月)16日の晩おそく士官室で今までの情報を総合して将来の作戦計画を練っていたとき、これなら大丈夫という案が出来たと同時に両手の指先から震え出してきた。これはかねて聞いていた神懸かり状態だと直感し、そのまま打ちまかせたところ、震えはだんだん大きくなり、椅子から躍り上がりながら、天照大神を二度、天壌無窮、絶対必勝を叫んで士官室を飛び回りやがて隅のソファーに跨った。
  居合わせた軍医長と副官は驚いて従兵らとともに私を司令寝室に担ぎ込んだ。それから後は幻像を見ていた。そしてこれが天壌無窮だ、これが無だという幻像を見終わったときに我に帰った。ベッドの周りにはずらりと部下が心配そうに私を見守っていた。これはしまったと思ったが『もう何でもないからみな帰って休め』とみなを帰した。
  17日の午後から再び興奮しはじめ、狂乱状態に陥り、これは18日の朝まで続いた。これによって隊員は動揺し、立てた作戦計画は実行できなくなるということは意識しながら、自分の意志ではどうともならず、後にはただ神のまにまにという気持ちになっていた。目が覚めたときは野比海軍病院の精神病棟の監禁室に横たわっていたのであった。」
 
  両手の指先から震えが起きて、それがだんだん大きくなり、自分の意思では止められず体が動き出すこと。その自分の状態が神懸かりだという明瞭な自覚を持っていたこと。筆者(小園)の自我は、神懸かりの前兆に気づきながらも、それを抑えようとはしていない。これからクーデターを起こそうという人物が、部下の前で、そんな振る舞いを起こせば、全てが破綻するということぐらい自明でありながら、そうするしかないという人智を超えた計らいともいえる。
  その後にくる「天壌無窮」(天地とともにきわまりないこと。永遠に続くこと)という言葉は『国体の本義』の文末に「天壌無窮の皇運を扶翼し奉らねばならぬ」といった一節があるようで、続いて出てくる「無」といい、言わんとしているのは、エクスタシー状態になったということだと思われる。
  筆者の「両手の指先から震えが起きて……」というところは、円応教という大正時代に生まれた新興宗教の女性教祖が、はじめて神懸かりしたときの様子に似ている。彼女は、美しい月に向かって合掌しているうち両手が自分の意思に反して月に伸びてふるえ出し、顔つきがすっかり変わって神懸かり状態になったという。
  とはいえ筆者は、その女性教祖のようにカミの依り代になり、カミのメッセージを伝えるようになっていったわけではない。精神病棟に入院た後、10月にはすっかり普通に戻っている。筆者の神懸かり(=攘夷)も、あるいは女性教祖のカミのメッセージ、託宣も、それらシャーマニズムは文化特定的な領域で起きていることだから、そこで発せられる言葉がまるで違っていてもそれは当然だろう。
  一方、両者に共通するものを見る視点もある。それは普遍的で、自然特定的な領域であり、そういう視点からは、神懸かった軍人も女性教祖も共通する意識状態になっていたと思える。キリスト教の異言や霊動法、鎮魂帰神法、活元運動、スブドのラティハンなども大体、共通しているのではないかと思う。「日常意識から無我に至るまで、大まかに言って日常意識→無心→心身一如→集中・ストーン(三昧)→観照(無我)という過程を経る。」(大麻の変性意識(14)――大麻と観照)という区分けでは、心身一如から集中・ストーン(三昧)あたりになるのではないかと思う。