ALTERED DIMENSIN
トピックス
麻生 結のひとりごと
変性意識
植物の文化
おすすめアイテム
ショップ
ナチュラル・インセンス
2004.04.20
[ひとりごと]
世田谷の住宅街を歩いているとき見えた火球。2004年4月9日、21時5分すぎ、大きさや形、色、変化の様子を心象イメージとして描いたもの。先端のオレンジ色の円の中に真っ赤な目のような核が見えた。童話の世界のような色彩、特に外周を包んでいる紫色はこの世的ではない清らかな美しさがあった。
火球とパントマイム

 4月9日(金曜日)の夜、9時5〜10分の間、東京の住宅街を歩いていたとき、突然、前方(西の方向)で夜空から何か光るものが降ってくる、というか落ちてくるのが見えた。人家やビルが建ち並んでいる場所だし、誰も夜空を見上げている人などいないので、自分しか見ていない。ちょうど西の方向に歩いていたので、視界の正面に飛び込んできたが、もし方向がずれていたら気づかなかったはずだ。それは何の前触れもなく、唐突に現出し、瞬間的に消えてしまった。レザー光線やサーチライトよりもっと物質的な何かで、かといって飛行機やヘリコプターのように飛行しているというよりは激しく燃焼しながら猛スピードで墜落していく何か。後で調べてみたら火球だったようだ。ネットでは、東京、神奈川をはじめ富山県から宮城県にかけて全国で21件ほどの目撃例が報告されていた。
  火球に正確な定義はないそうだが、普通、マイナス4等程度より明るい流星のことをそう呼ぶらしい。流星は、宇宙空間の塵(流星物質)が地球の大気圏内に突入する際に、その運動エネルギーにより、大気や流星物質の原子がプラズマ(原子核と電子がばらばらの状態)になるのだが、プラズマ状態は不安定なため、安定した原子の状態に戻るその際に光を放出する現象なのだという。日本全国でいえば、平均すると1ヶ月に数個程度の頻度で火球は目撃されているらしい。
  火球は、そのサイケデリックス的な美しさが忘れられない。流星のような線状というよりも幅があり、細い帯のようなものが夜空に瞬間的に現出したという印象だった。
  頭部の中心核が淡いピンク、それを蛍光色の黄色が包んでいた。その核からエメラルド・グリーンの帯のような幅のある尾が伸びているように見え、外縁部は鮮やかな光沢のある紫色(スミレ色)のベルトに包まれていた。そして全体が白銀色の眩(まばゆ)い光に覆われている。ほんの瞬間に現れ、消えていったので、そこまで見極めるのは一般的には難しいかもしれないが、確かに心象に焼き付いている。珊瑚礁の海の色(エメラルド・グリーン)とムラサキアゲハの羽のような隣光(紫色)の組み合わされた色感は耽美的だ。
  火球を見て、UFOとか人魂とか言う人がいてもおかしくはない。変性意識状態になったとか大袈裟に言うのは誇張になるが、せいぜいぽつん、ぽつんと明るい星が見えるぐらいの淀んだ都会の夜空でも、宇宙的なサイケデリックス的現象と出会えるのには救われる。星空の一角に遊園地があったり、オモチャ箱をひっくり返した世界が転がっているなんて楽しいではないか。それにしても、あの色感は何か心象の底部にまで深く達しているように思えてならない。

 4月のある日曜日の夜、友人たちと渋谷の公園通りにあるカフェに寄った。店内にはスターウォーズのミニチュアが並んでいて、カウンターには等身大のカウボーイ姿のマネキン人形が座っている。この店はハリウッド映画の世界をコンセプトにしているようだ。店内のスクリーンにはバック・ツー・ザ・フューチャーが放映されている。店内は明るく空いていた。
  店の一角の席に着いてオーダーをすませ、雑談しているとき、ふと視界の端に後ろの席に座っているカップルの姿が目に入った。……何か、おかしい。男の方はイスに深く腰掛けたまま、天井から吊り下げられたスクリーンを見ている。女性は、テーブルに乗っているカクテルを見ている。別に何もおかしくはないごく普通の光景だ。……やはりおかしい。さっきから固着したまま全く動かない。二人とも顔の向きや表情、手足の姿勢、位置など固まっている。男はさっきと同じ表情で、口を半開きにしながら上目でスクリーンをに見入っている。ありえない光景というのだろうか、服装や顔つきは全くごく普通でも、動かないといのは一種異様な光景だ。
  ほんの刹那、心の中でその異様さが、ハメられたという思いに結びつこうとする潜在性へ孵化しようとしたが、すぐにパフォーマンスだなという好奇心に変転した。先ほど火球を瞬間的な世界で認知した話しを書いたが、それとこのほんの刹那、正真正銘の異様さを感じた味わいは似ているように思えた。次の瞬間には、パフォーマンスだなとそれなりに理解してしまったので異様さはほとんど消滅してしまった。
  パントマイムのテクニックのひとつに「ロボット」(あるいは「人形ぶり」、「マネキン」など)と呼ばれるものがあるという。あるポーズのままいつまでも静止していたりするもので、筋肉の弛緩や姿勢、呼吸、視線、瞬きなどトレーニングしなければとてもできない。それを演じているようだった。
  街頭で行われたパフォーマンスで、この手の「ロボット」を見たことがあったが、何分かすると見物人がまわりを囲み、なんとも不思議な空間が生まれたのを憶えている。これはその場のリアリティを変えてしまう技とも言えるのではないだろうか。エッシャーの絵が3次元空間ではありえない高次元の空間世界を描いているのに比し、パントマイムの「ロボット」は時間が止まった、ありえない世界を現出させている。
  昔、野外パーティで、初めてキノコ体験をした若い友人のエピソードを想い出す。彼は、結構、多めの量のキノコを食べていた。キノコの効果に戸惑った彼は「○○さん、早く現実に戻してください」と真顔で訴えていた。彼はそのパーティ会場にいた数十人全ての人が、自分(彼)を騙してハメために仕組んでいると思いこんでいた。いわゆる現実とは、他者と共有されたリアリティのことだから、その一角に綻びが生じると、それまで確固としていた現実があやふやなものになってしまう。
  彼の場合は、キノコの変性意識のリアリティを、それをそのまま受け入れるのではなく、現実の枠組みの中に留めよう(再統合しよう)と必死に(自我が)悪戦苦闘した解釈がハメられたという自覚として現れたのではないかと思う。
  映画や演劇を観ることは、日常的なリアリティ(現実)を一時的に解除する(解放する)ことを娯楽としたものだと思う。先ほどの「ロボット」のようなパントマイムのパフォーマンスは、それにまわりの人たちを引き込む技量が伴っているならば、唐突に、日常空間の中でそれが起きる分、ありえなさの振幅というか不思議感覚は映画や演劇よりもずっと大きい。