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2002.09.24
[ひとりごと]

大麻の変性意識(13)――酒の格言と大麻

サブ・カルチャーと大麻

 日本では縄文時代の遺跡から大麻の繊維を編んだ糸片が見つかっているが、わたしの知る限りでは大麻を吸う、摂取する伝統はなかったようだ。現在、日本にはアンダーグラウンドで十万〜数十万人規模(推定)の大麻愛好者が存在しているのではないかと思う。なかには20〜30年にわたり大麻を吸い続けている人もいる。
 しかし彼らの間で、大麻との無理のないつきあい方・ルール・作法・指針のようなものは未だ確立できていないように思える。その理由を考えてみると、なにより法的規制下にあるため適切な情報がユーザー間に伝わらないということがあげられるだろう。
 もともと大麻摂取の伝統がなかった国だから現物(大麻)が目の前に現れたとき、具体的な摂取法の類ならすぐに分かっても、生活の中でどうつきあっていくのかは、これからの課題なのだろう。
 大麻との無理のないつきあい方とは、言葉を換えれば、普通の社会生活をしている人間(自我中心の世界で生を過ごしているということ)が変性意識体験とどう折り合いをつけていくかということになる。日本のように普通に働くには儒教的な硬直した社会規範に従順であることが求められ、その上、仕事や私生活に介入する情報管理体制が浸透している、人間の個性や多様性を押し潰すような社会で生活しながら、変性意識体験と日常を調和させていくことは至難の技ともいえる。
 日本に大麻を摂取する文化が最初に入ってきたのは1960年代後半のカウンター・カルチャー、ヒッピーの世代だろう。ヒッピーの場合、大麻摂取のスタイルは主にインドのサドゥーから影響を受けている。その後、80年代にレゲエとともにラスタのライフスタイルとして大麻を受けとめた世代もいる。それらは共にサブカルチャー(下位文化)であって、普通の市民生活からドロップアウトした少数派の内に外来の大麻文化はとどまっていた。
 例えば「部族」というヒッピー集団で大麻を初体験して以来、かれこれ30年以上、大麻を愛好してきたある人物に、長い目で見た大麻のつきあい方といったことを尋ねてみたことがある。しかし、はっきりした答えは返ってこなかった。その人は老年に至るまで普通に仕事をして暮らすという生活をしてこなかったからそんなことはあまり問題にならなかったのかもしれない。その人は人生そのものが大麻的で、いま問題にしているようなこととは縁がなかったわけだ。
 片やレゲエの影響を受けて、容姿はドレッド・ヘアーのラスタになった人たちがいる。都会から山間地に移り住んで暮らしたりしている。やはり同じことを何人かのラスタに尋ねたことがある。彼らはそれなりに答えてくれた。納得する部分も多かったが、気になったのは、その言葉が妙に紋切り型だということだ。それは本家ジャマイカのラスタマンの言葉を直訳して喋っているようにも感じられた。わたしは、自分の言葉で発せられる言葉を期待していたのでどうしても違和感が残った。
 日本で大麻と良好な関係を維持しながら普通の社会生活を送る、そういった指針のようなものはないだろうか。そんなことを考えていたら、思いついたのが酒にまつわる格言だった。

酒の格言

 酒は昔から日本人が馴染み親しんできた酩酊剤だ。酒は飲み方により、大麻よりも心身に大きなリスクのあるドラッグだが、何百年にもわたる試行錯誤を経て、一応、社会生活と折り合いのつく嗜み方が確立されたことになっている(日本には200万人以上のアルコール依存症者がいるといわれ、酒が社会生活と折り合いのつくドラッグだとは言い切れないのだが)。昼間から酒を飲むのは不謹慎なことだと見なされるのは、そういったルールに基づいている。
 格言は長い年月を経て通用する生き方の智恵だから、そこで語られる酒にまつわる言葉には真実が含まれているだろう。もしそうならば、酒の格言を大麻に置き換えても、何かしら有益な智恵が得られるのではないかと思った。
 酒の格言を調べてみるとかなりの数になる。『故事俗信ことわざ大事典』(小学館)を数えてみると85項目もあった。目を通していくと内容は幾つかのパターンに分けられるが、酒に溺れないようにといったものが多い。実は、丁寧に格言を見ていくと内容は結局、単純なことばかりで期待していたほどの深みはなかった。正直言ってちょっとがっかりしたが、謙虚にそれを受けとめると、人間というものは当たり前のこと、当然のことをも見失うことがあるという戒めなのかもしれない。
 酒と大麻は精神的効果も生理作用も異なっている。例えば、酒は忘れさせてくれるのに対し、大麻は気づかせてくれるドラッグだという比較を耳にする。また「酒は百薬の長」であり「酒は百毒の長」でもあるというぐらい二面性の違いが大きいが、大麻にはそこまでの極端さはない。といったところで、ここでは大まかにいって酩酊・陶酔をもたらすドラッグという共通点に着目していく。
 沖縄では地元の仲間同士の酒宴で、泡盛の盃を回し飲みする風習が残っているという。ポリネシアの酩酊飲料、カバも同じように盃をみんなで回すのが伝統的な飲み方だという。地域的な共同性が健在な社会では、酒やカバなど酩酊性ドラッグの昔からの使用法が伝承されているのだ。それは最古の姿としては、地域的な共同性を基盤とした集団的なトランス、神事に由来しているはずだ。
 先ほどヒッピー、ラスタとふたつの外来の大麻文化が日本にサブカルチャーとして伝わっているという話しをしたが、ともに大麻を回す(例えば輪になって座っている仲間の中で、右から左へとジョイントやパイプを回して喫煙していく)スタイルが定着している。それは人から人へ伝えられ、おそらくヒッピーやラスタのことを何も知らない新世代の間でも大麻摂取のスタイルだけは、自然なしきたりとして伝わっている。
 大麻に関して、酩酊性ドラッグの古い形の摂取法が、この数十年間に社会の表層には現れないまま静かに定着していったという現象はとても興味深いことだ。
 ところで日本の伝統文化のひとつである落語には酒にまつわる小話がある。その中には酒を大麻に置き換えても話が通るものがある。例えば「花見酒」「のめる」「そこつ長屋」なんかは大麻のノリだと思う。
 格言をあげていくと「酒なくて何の己が桜かな」(酒がなければ花見をしていてもいっこうに面白くない)。空気・水・食物とは違い酒はなくても死にはしないが、素面では宴(パーティ)も盛り上がらない。柳家小さんの落語に「長屋の花見」があるのでテープで聞いてみた。貧乏長屋の面々が上野に花見に行くのだが、酒の替わりに番茶を持っていく。白けながらも酔ったふりを演じる滑稽さが笑いを誘う。
 人を楽しくする嗜好品を道徳や戒律、あるいは法律で禁じたりしたら、それはなんとも味気ないことだ。つまらないし、堅苦しく、人情味がない。この格言は酒を大麻に置き換えてみてもぴったりする。他にも「酒の中に真あり」(酔えば普段は隠していた、抑えていた本音の心があらわれる。腹を割って話をしたいときには欠かせない)とか「酒は詩を釣る色を釣る」(酒は詩作を活発にし、また好色さを誘い出すものである)など大麻の格言といっても通用するものがある。

効き(変性意識)と日本人の精神性

 「酒には猛き鬼神もとらくる習い」(酒にはどんなにしっかりした者でも、心がゆるんで失敗してしまうのが世の習いである)「酒は気違い水」(酒を飲むと正気を失う)「酒人を飲む」「酒に飲まれる」といった格言は変性意識(非日常)と普段の日常意識の差異をこちら側(日常意識のリアリティ)から警告したものだ。大げさな表現なのは、普段の日常意識のもとで考えている以上に違いが大きいことを肝に銘じるためだろう。
 ところで酒の格言を通し読みしていくと、「気違い水」という極端な言い回しが示しているように、どうも強い酔いを嫌悪する格言が多いのに気づく。「酒はほろ酔い」という格言のように浅い酔い程度が勧められる。そこには、酒にまつわる暴力沙汰や失策、介護のやっかいさなどを避ける意図だけでなく、変性意識を忌避しようとする心性のようなものを感じ取るのは穿ちすぎだろうか。その心性を遡ると、自我のコントロールを超えた意識の世界に対する拒否感。そこで出会う、分からないもの、理解できないもの、違うものに対する恐怖心に由来しているように思える。これは、かって鎖国を260年間も続けた歴史を持つ日本の精神性の負の面かもしれない。
 先ほど、酒はプラス・マイナスの二面性の違いが大きいが、大麻にはそこまでの極端さはないと書いた。酒が場合によってはシリアスな事件を起こさせるのに比べ、大麻の「酔い」は他愛ない滑稽なエピソードを巻き起こすぐらいで大事にはならない。強いてあげれば、効いているとき意識が瞬間瞬間に集中するため、少し前の物事をど忘れしてしまい、忘れ物をしてしまうとか。効いている最中、突然、尋ねてきた人に顔を合わせたり、かかってきた電話に返答するようなとき、自分の意識状態が相手に変だと受け取られるのではないかと過剰に心配して戸惑うことがあるぐらいだろうか。
 妹の結婚式の席で式辞を忘れてきてしまい大笑いされた「男はつらいよ」の寅さんではないが、どちらにしても人を懲役刑にするほどの罪ではないと思う。
 大麻は酒よりも著しく、純粋に変性意識だけが体験の大部分を占める。大麻を初めて体験した人たちの中には、効果が自覚できないという人がいる。それは全く新しい変性意識状態に気づけないからだ。初めてヒマラヤを訪れたトレッカーで、現地のポーターに指さされた場所にあるはずの山がどうしても見えなかったが、暫く経ってから突然、目の前に大きな山が聳えているのに気づきびっくりしたという体験をした人がいる。それに似ていて、大麻は身体感覚はそれほど劇的には変わらないので意識自体の変容に気づかない場合がある。それでも、だいたいは何度目かの体験時に、唐突に「あれっ?」とか、「ハッ」と気づき驚き、感動する。
 「酒は人を酔わしめず人自らを酔う」「酒の酔い本性違わず」(酔っぱらいは酒に酔って何もかもわからなくなったようでいながら、本来の性質は失わない)などは、酒飲みの人間観察を通して生まれた格言だ。酒によって別の人格が作られるのではなく、酒によってもともとの人柄が露呈するという見方は大麻にも当てはまる。「酒は本心を現わす」になると、酒以上に大麻がぴったりくる(というのはひいき目だろうか)。
 一方、世間つき合いの中では本音を口にしてはまずい場合もある。近所つき合いでも職場でも本音を言わない方がむしろ普通だろう。だから「酒が沈むと言葉が浮かぶ」(酔いが深まると、胸に秘めていたことが、つい口をついて出てしまう)と戒めている。
 「人を知るは酒が近道」という格言もよく出来ている。「大麻は本心を現わす」とか「人を知るは大麻が近道」と置き換えてみるとなかなかきまっている(と思う)。
 大麻の効きをわたしなりに大胆に要約すると、危なく(危険性、有害性、攻撃性)はないが、日常意識の世界からすれば変(へんてこりん、奇妙、おかしい)なもの。楽しくなるもの、ということになる。もし人が心を開くことができれば「分からないもの、理解できないもの、違うもの」は、変ではあっても怖いものではなくなる。楽しいものになるかもしれないのだ。人が変性意識をもたらすもの(大麻)を受け入れるには、なにより心が開いていないとうまくいかない。
 決して危なくはないが、変なもの。それがなくても日常生活に差し障りはないが、あれば一時、人を楽しくさせるもの。日本の社会がこういうもの(道楽)を受け入れられればずいぶん楽になると思うのだが。
 おそらく、現在、流布されているような大麻を「麻薬」「乱用薬物」と見なす偏見は、今後、正されることになるだろう。その後、大麻の是非は、茶髪やピアス、タトゥーなどを大人社会が受け入れられるか昨今議論されているのと同じような問題になっていくのではないかと思われる。

上手なつき合い方

 酒の格言の中には、セッティング(まわりの環境)を整えることの大切さを教えたものもある。これもまた大麻に当てはめられる。
 「酒は肴、肴は気取り」(酒がおいしく飲めるかどうかは肴によるが、その肴の良し悪しはその趣向・気分の取り持ちによって決まる)「気取り」とは雰囲気のことだろう。いいトリップをするには、くつろげるスペースで、快適に過ごせるような環境を整えることだ。それはなにも贅沢な品々(照明とか音響設備とか)を揃えることではなく、気持ちが和むような雰囲気が醸し出せるかにかかっている。この面では「風流」を極めようとした数多くの先人がいる日本の伝統から学ぶべきことは多いのではないか。
 「酒は知己に遇うて飲むべし」(酒を真に味わうには、心のかよっている親しい友人と出会って飲むのがいい)これもセッティングの必須条件であり、気心の知れた仲間で一緒にするとき楽しみは倍加する。ラーフィング・ハイが起きるのも、友だち同士の会話からが多い。
 ところがよく分からない初対面の人だったり、普段から好ましく思っていない人、あるいは親しくてもそのとき体調が悪いとか、心配事を抱えていたりすると、当の本人はもとより同席者の間で不安感や戸惑いが拡大し、バッド・トリップに陥ってしまうことがある。ホスト役ならそういった人選のことも予め考えておくのが格言から学ぶ智恵だろう。こういったセッティングの気配り、配慮が自然にできるようになれば、大麻とのつき合いも初心者から「中級」になったといえるだろう。
 酒には飲み過ぎを戒める格言が多いが、大麻の場合は、吸いすぎたら寝てしまうぐらいでその手の注意はあまり必要ないかもしれない。それでも大麻と末永くよい関係を保っていくのに参考になる格言が幾つかある。
 「酒と朝寝坊は貧乏の近道」(酒に溺れて仕事もせずに朝遅くまで寝ていると金がなくなり貧窮する)当たり前と言えば、当たり前。朝寝坊するほど、つまり一晩中、飲むような生活パターンに陥らないようにしろという格言は、やはり大麻にも当てはまる。
 一方で、「朝酒は門田を売っても飲め」(朝酒は家の前にある一番よい田を売っても飲む価値がある)という正反対の格言もある。酒は歯止めがきかなくなると、蕩尽するドラッグ、それぐらい破滅的なほど魅力的というのは、結局のところ依存性のリアリティではないかと思う。
 大麻に関しては、「門田を売っても」は当てはまらない。大麻にはそこまでの極端さ、険しさはない。大麻ではそこまでして求めるようなことは起き得ない。それに、もともと大麻はどこにでもある草であるし、サドゥー(インドの修行僧)やスーフィー(イスラム教の修行僧)、ラスタに象徴されるような無欲で、貧しい者たちの嗜みだった。
 見境なくのめり込み、身を滅しかねない道楽をとして「酒と女と博打は男の三道楽」があげられるのに対し、大麻の方は「最悪」でも浮き世離れした極楽とんぼ、隠遁者、あるいは荘子の「無用の用」を地でいくライフスタイルに回心するぐらいだ。自然の成り行きまかせで作為(努力)しない人間を荘子は「聖人」「真人」としたが、それは大麻吸いの極まった一面ともいえるだろう。
 朝寝、朝酒、朝湯が大好きで身上を潰した小原庄助さんなんかは大麻的人物の考えられる限り「最悪」のパターンかもしれない。だから大麻は100%いいことづくめだと言い切ってしまうことはできないかもしれない。しかし、それぐらいで「最悪」だというのは、ずいぶん平和的で、滑稽で、ある意味で幸福な話しではないだろうか。
 近世以降、日本の社会は儒教的な道徳観、素面の意識に人間を閉じこめてきたが、大麻はその正反対の方向、老荘、道家的な道に通じている。21世紀初頭、政治・経済・社会どの領域でも疲弊し、閉塞している日本だが、もし道家的な道楽(大麻)を受け入れる許容さを示すことができれば、国民はずいぶん楽に、楽しくなるのではないか。癒されるのではないか。元気が出てくるのではないかと思う。
 最後に、「酒は少しく飲めば益多く、多く飲めば損多し」これは『養生訓』からの一節。中庸を尊び、何事も程々にという考え方は、あまりに常識化していて、一見、何も語っていないようにも思える。酒が良い悪いの評定は、白か黒では決められずバランス感覚の問題なのだということになる。だから良いともいえるし、悪いともいえる(「酒は飲むべし飲むべからず」「酒よく事を成し、酒よく事を敗る」などはその典型)。
 大麻とのつき合いも同じだと思う。どのようなバランスかといえば、この場合、端的に言って仕事に差し障りがあるか、どうかで見極めるのが妥当だろう。結局、大麻との無理のないつきあい方とは、平凡なようだが、ほどほどにバランスをとっていくことではないだろうか。また大麻はそういうつき合いができるドラッグである。  

 

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