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2002.07.02
[ひとりごと]

「畑 山里共土用に入りて麻刈」の図



 大麻刈り入れの様子。江戸時代の加賀(石川県)の農村風景(『農業図絵』1717年より)。絵に記されている原文は「畑 山里共土用に入りて麻刈」とある。
 絵の中央で鎌を腰に差し、向かいあって、キセルで煙草を吸っている二人は、一仕事終えての休息のようだが、笠をかぶった左に人物は、ざると担い棒を脇に置いているところから、麻刈り作業をしていたとは思えない。すぐ横が道なので、通りがかりに知り合いと思われる右の白い服の男と出合い、寄り道して一服ということになってしまったのではないか。
 ところで、白い服の男の顔を拡大して見ると、ラーフィング・ハイのように愉快に笑っているのが気になる。実は大麻を吸っていたのではと想像を逞しくしてみるのも楽しい。この絵は実際の農作業をスケッチしたものだが、顔を綻ばせている白い服の男は、まさか300年近くも経った未来に、自分の笑い顔が世界中につながっている鏡台(PCのディスプレイ)のようなものに映って見られることになるとは思ってもいなかったはずだ。

大麻の変性意識(11)

大麻と情緒力

 「論理的思考が万全でないのは、この世の中に論理的に正しいことがごろごろあるからである。例えば少年非行について、「厳しく体罰を加えるべき」も「体罰は絶対にいけない」も「ケースバイケース体罰を加える」も、みな論理が通っている。ユダヤ人虐殺のナチスにも、ベトナムをじゅうたん爆撃したアメリカにも、アフガニスタン侵攻のソ連にも論理はある。問題は、いくらもある正しい論理の中から、どの論理を選ぶかである。通常、この選択は情緒によってなされる。ここで論理を選ぶ、ということをもう少し詳しく考えてみよう。
 選択を繰り返し用いた結果、AからZに到達したとしよう。Zは結論である。図示すると、A→B→C→……→Zとなる。矢印が論理であるが、出発点のAは論理的帰結でないから仮説である。この出発点の仮説を選ぶのが情緒なのである。
 この情緒は、その人のそれまでの人生と深い関わりを持つ。どんな家庭に育ったか、どんな先生や友だちを持ったか、どんな読書をしてきたか、どんな愛を経験したか、どんな挫折を味わったか、どんな別れに出会ったか……等、ありとあらゆる体験がこの情緒を形成している。情緒の充分に発達していない人は、正しい出発点を選べないことになる。このような人が、たまたま頭が良く論理に強いと、実に危険である。出発点が誤っている場合、途中の論理が正しければ正しいほど、結論のZは必然的に誤ったものとなるからである。ここに論理だけに頼ることの危険と、情緒の重要性がある。」(藤原正彦『数学者の休息時間』)
 
 この文章は日米の教育を論理的思考(「正当な推論を行うこと」といった意味)という視点から比較した短いエッセイの一節だ。そこでアメリカの優位性を認めながらも、なぜ論理的思考の出来る人々からなる社会が荒廃するのかを著者なりに解明している。そのキーになっているのが情緒であるという。著者である数学者の藤原正彦は、同書に収められている別のエッセイでも、コンピュータの判断と人間の判断を比較しながらやはり論理的思考を行う出発点には情緒が不可欠であると指摘している。また情報化社会といわれて久しいが、最も大切なことは情報を集める能力ではなく、たくさんの情報から本質を選択する能力だともいう。それは論理的思考によって得られるものではなく情緒の働きによる。
 この場合の論理的思考とは、人間が日常生活を生きる上で用いられる論理のことであり、囲碁や将棋、数学といった分野よりは、経済学や社会学、法律、建築、工学といった主に人間の社会や文化に関わる領域を想定している。数学の論理と、世の中で用いられる論理の違いについて、著者は、大まかに言って前者は論理に鎖が長いこと、そして前提条件が単純化されているが、後者はそれになじまない。なぜなら世の中の論理は、前提条件がきわめて複雑で、人それぞれの価値観によっても前提条件が異なり、その違いも数値化できない。
 情緒といわれても、下町情緒とか、あるいは情緒不安定といった言葉が連想されるぐらいで、一般的には論理とは水と油のように思われていて、唐突な印象があるかもしれない。広辞林によれば情緒とは「(1)ある事を思うにつれて生ずるさまざまな感情。思い」とある。著者は、情緒という言葉を教育の視点から「情緒力」と表現している。
 著者によれば、情緒の中でも、特に「他人の不幸に対する敏感さ」と「「なつかしさ」のふたつが(論理的思考の前提として)重要だという。このあたりの説明については、また引用になるが、直接、著者の言葉を紹介しておこう。
 
 「情緒という言葉は、意味が広くやや漠然としている。喜怒哀楽などの一時的情緒だけでなく、友情、勇気、愛国心、正義感など、さらにはより高次なものまで含んでいる。私は多種多様な情緒の中から、とりわけ重要なものとして二つを取り出してみたい。
 一つは、「他人の不幸に対する敏感さ」である。これは生得的な情緒ではない。小学一年生の子供でも、自分の母親が死んだときには涙を流す。しかしそれが友だちの母親であった場合は涙を流すことはまずない。六年生になれば涙を流すこともあるだろう。すなわちこの情緒は、後天的に、教育などを通じて獲得されるものである。
 もう一つは「なつかしさ」である。これは一般に考えられているよりかなり高度な情緒である。十歳の子供はなつかしさとは何かよく理解できない。それは、その子がなつかしむべき過去を持たないからではない。なつかしむ情緒が育っていないからである。なつかしさの対象は自らの生きてきた過去だけに止まらない。父母の青春時代をなつかしむ、祖父母の青春時代をなつかしむ、明治をなつかしむ、江戸時代をなつかしむ、万葉の人々をなつかしむ……と、いくらでも広がり深まる情緒である。十歳児にこの情緒を期待するのは到底無理だが、二十歳でも、三十歳でも、いあ五十歳になってもこれのはなはだ希薄な人々がいる。それだけこの情緒が高度なものだとも言えよう。」
 
 実は、はじめてこの一節を目にしたとき、この「他人の不幸に対する敏感さ」と「なつかしさ」とは、まさに大麻体験で多くの人が自覚するものだという自分の見聞が結びつき、新鮮で爽やかな、ちょっとした発見をした気持ちになった。
 大麻の体験の中で、普段、気がつかなかったまわりの人(親、子、連れ合い、友人、同僚など)の気持ち、内心を深く理解することができたと話す人は多い。その場では何とも思わなかった相手の何気ない仕草や、忘れていたちょっとした表情の一齣が、大麻をしているとき脳裏に甦り、ああ、そういうことだったのかと改めて気づかされることがある(「気づく」というよりは、「気づかされる」という方が相応しい)。
 大体、そういう気づきは、自分が相手の気持ちを傷つけていた、理解していなかったということを自覚させられるといったケースが多いようで、自らの行いを反省させられることになる(こういうパターンを「反省モード」と言ったりする)。その度に、自分のワガママや傲慢さが胸に突き刺さるように迫ってくる。そういうことを何度も繰り返していけば、「内観」と同じような効果が生まれる。大麻をある程度、長期にわたり経験したことのある人間に悪い人はいないというのは、こういう心の作用から起きてくる。
 もうひとつの、なつかしさも大麻体験の中で、感じる情感、情緒だ。例えば、こういった話を聞くことはそれほど珍しくもない。人通りがほとんどなくなった深夜、自分が生まれ育った地元の、幼い頃の記憶がなんとなく残っているような場所を訪れてみる。街並みや風景が変わっていても、土地の起伏や、古い家、看板、ちょっとした木々が残っていれば、そこから辿るように昔の記憶がある種の情感とともに甦ってくるはずだ。闇の中に今は存在しない昔の建物や、人の姿を想起することができるはずだ。それはなんとも言えないなつかしさを伴っている。
 あるいは余興のつもりで、大麻体験中に明治・大正時代のモノクロの風景写真など眺めていると、あるいは「江戸名所図会」や「絵本江戸土産」などの復刻版、錦絵や浮世絵、古地図なんかを見ていても、まるで引き込まれるように過去に時代に想念がタイムスリップしていく。一種の現実感というのが相応しいのだろうか、自分がその時代に生きているかのように、ありありと情景に没入していく。
 これらふたつの情緒は、普通の日常意識では大麻体験と同じようなレベルで再現するのは難しいのではないかと思う。日常意識下でそれをしようとしても、単に記憶を辿るだけだったり、思考を働かせて一生懸命考えるだけで、死角のように気づけない心の領域はそのままだし、永く忘れていたなつかしい情感、情緒は封印されたままだ。いくら頭で考えても、思考の堂々巡りで、その枠を抜け出せない。
 先ほどの文脈で語ると、大麻には情緒力を飛躍的に向上させる力が宿っている。そのことは、こういった情報や知識を何も持たない人が、例えば最初は好奇心で、遊びで大麻を経験したとしても、それをネガティブでないセットとセッティングの基で(実は、法的な規制がある社会ではそういう条件が整わないところがネックなのだが)繰り返していけば自然といわゆる情緒力が身に付くという実例を数多く見ているだけにかなりの確信を持って言えることだ。
 以前、「大麻の変性意識(7)」で「知覚の構えの「図ー地」反転」とイメージ喚起力の話を書いたが、それは「他人の不幸に対する敏感さ」と「なつかしさ」という情緒を伸ばす原動力になっている。というのは、藤原がこのふたつを喜怒哀楽よりも高度な情緒だと見なしているその違いは「知覚の構えの「図ー地」反転」にあるからだ。自分が直接、感じる情緒が喜怒哀楽なのに対して、「他人の不幸に対する敏感さ」、あるいは「なつかしさ」は自分の視点を「他人」に置き換える、あるいは自分の視点を「過去の自分」「過去の他人」に置き換える想像力(イメージ喚起力)が要求されるからだ。そこに於いて、大麻は大きな力を秘めている。今はまだ社会的なレッテル、偏見が強くとても、大麻のこういう効果を正当に評価できないだろう。しかし、それは事実なのだから、未来のいつの日か必ず見直される時代がくるに違いない。
 それにしてもこの国で「乱用薬物」として取り締まられ、手にすること自体犯罪になってしまう植物、大麻に、人間の論理の前提を正す、バランスを調整するといった情緒力を向上させる力が秘められているというのは、なんという倒錯だろうか。

[ひとりごと]