ALTERED DIMENSIN
トピックス
麻生 結のひとりごと
変性意識
植物の文化
おすすめアイテム
ショップ
ナチュラル・インセンス
2001.12.27
[ひとりごと]

ケタミンの世界(2)

純粋に精神だけの存在 

 ケタミン体験中、ピーク時は精神だけの存在になっている。肉体感覚のない純粋の精神を自覚する(それは超精神とでもいえばいいのだろうか)。うまく言葉で言い表せない世界になってしまうが、古今東西、そのような意識状態のリアリティを表したと思われる言葉がないわけではない。例えば神、プルシャ、真如、法身、涅槃、空、アートマン、一者……等々、月並みと言ったら不適切かもしれないが、宗教的な文脈ではよく目にする言葉だ。しかし、それらの言葉を事典に書かれているような知識・情報として理解するだけでは、決定的な核心部が抜け落ちている。問題は、それが何かを自覚するところにある。
 ピークから少し戻った辺りで、どこか分からない宇宙空間にいるのに気づいた。そこは小さな星々が360度の視界に瞬き、穏やかで、静寂、満たされた世界で、意識の生まれ故郷に戻ってきたような懐かしさがある。ピーク時も少し戻った辺りも、ともに映像的世界として認識され、感覚や想念、思考・記憶はほとんど生じていない。
 実感として、ケタミンと5MEO−DMT(つけ加えればサルビノリンも含めて)により体験する意識の世界は近い。それは精神状態や心理状態ではなく、意識状態として見極められる。セット・セッティングという肉体や心理状態により体験内容が変わる大麻やキノコと違い、基本的にいつ、どこで体験しても両者は似た意識体験をもたらす(そんな訳で、ここでケタミンの意識体験について語っていることは5MEO−DMTについても当てはまると言ってもいいだろう)。
 意識は、想念や思考や感情・感覚といった心で起きていることの自覚とは異なる。よく微細な意識という表現がチベット密教で用いられるが、それは人間は通常、意識を単独で自覚することはなく、常に濁流のように生じている心の作用と混じりあっているため意識自体に気づくことが難しいということを意味している。表現しずらいところだが、あえて具体的にいうと雰囲気・気配、覚醒の度合い、時空認識、自己意識の観察、リアリティの変容等の総体として自覚される。あるいは、(自己矛盾した言い方だが)数字や記号、概念を用いない抽象化という比喩を用いればいいのだろうか。それは空中楼閣の設計図をあれこれ検討しているような、あるいは存在しながら注意を向けた刹那に霧散してしまう何かの正体を探ろうとするようなもので、リアリティとのつながりを失うと単なる思弁の作り事になってしまう。
 ケタミンと5MEO−DMTという化学構造の全く違う二つの物質を摂取して、似た意識状態になるということは、結局のところ全体としての意識の世界はひとつであることを示しているのではないかと思える。
 同じ意識状態になるということは、全体としての意識の世界の中で同じ部位に焦点が当たっている状態のように考えられる。部位とはいっても意識は物質的な構造体ではないから客観的対象にはなりえない。人間にとってどんな意識も常に自己意識としてしか自覚できない。焦点の当たる位置が変化することが、自己にとっては、意識の階層的な変化として自覚されるのではないだろうか。
 人間は通常、焦点の当たっている一部分のみを自覚(意識)している。それを別の言い方で表現すると、どの意識レベルで実在を認識しているかということになる。

ちよっと横道……人間界と意識界の空間的スケール

 実在の認識という話になるとやはり量子論について少しふれておきたい(この分野については全くの素人です)。量子論を確立したボーアは、量子サイズの世界では、素粒子という対象を観察する行為が、対象の実在性に介入してしまうことを明らかにした。実在を作っている根源的な実体は、あるもの(波)であると同時に別のもの(粒子)であり、この実在は正確には決定できない(これが量子論の骨子になっている考え方で相補性という)。
 波でもあり粒子でもある実体(素粒子)が、観察されたとき波動関数(相補性を数式として記述するため、その解がその状態を指し、かつその解が状態間の遷移の確率を算出することができる数学的処理)が崩壊し、無数の粒子の1個が物質化するとともに平行的な粒子の全てが消滅するという。
 人間の認識(意識)により相補性の量子状態がいわば化石化したものが実在である――この事実は、究極的には物質的認識には限界があること、観察者(意識)と観察される対象(素粒子)は同一の系を作っていることを示している。すべての観察は、究極的には観察者(人間)の知覚にまで還元される。そして知覚とは意識の世界の一部である。
 人間の日常世界(人間界)で出合う物質の性質は、例えば米粒でもテーブルでも船でも究極的には量子的な相補性に依存しているが、相補性が検出されるのは量子サイズの世界だ。ボーアは、われわれの通常の合理的思考を支えている「古典物理学の諸理論というものは、現象の分析のすべての段階に関与する作用量が要素的量子とくらべて十分に大きい極限において漸近的に有効となる、理想化をあらわしているにすぎない」(「因果性と相補性の観念について」)と述べている。人類が積み重ねてきた経験に基づく思考は、有効ではあるが、真ではないと言うのだ。
 「現象と観測手段を厳密に分離できないということにもとづく私たちの〔時間・空間的な〕直観の形式の欠陥と、主観と客観の区別にその根をもつ人間の概念形成能力の一般的限界のあいだに密接な関連があるのではないか」(「作用量子と自然の記述」)というボーアの指摘は20世紀の最も革命的な思想ではないだろうか。現在では、量子論は定説として一般入門書もたくさん出版されているが、ボーアが直接書いている文章には、整理された知識や情報には含まれない、一人称の精神がそれまでの人類の思考形式のオメガポイントを見てしまった震撼が読みとれる。
 空間的なスケールとして細胞から人体、クジラ、高層ビル、都市、山河、大陸に至るまで生活経験の営まれている場を人間界とすると、意識界は極限的に微細な領域にある。
 宇宙の極小単位にあたるクオークやレプトンといった基本粒子の大きさ(10-18メートル)と極大単位である宇宙の半径(1026メートル)のだいたい中間ぐらいの大きさに人間界がある(1メートルを中心にして、107メートルが日本とヨーロッパの距離、10-6メートルが細胞というぐらいの幅だろうか)。この極小と極大の世界は、内部空間的にはとんでもなく空疎であるとともに、同じ重力の支配する共通した世界である。一方、中間に位置する人間界は地球の表面を舞台に生命や人工物が多様に存在するとともに、原子や化学反応を司る電磁力が支配している世界だ。
 人間界の基本単位にあたる個人=意識は自己意識の外部(他者)から観察できないが、宇宙も当然ながら宇宙の外部から観察できない。われわれは宇宙を観察するとき、常に自分の位置が宇宙の内部中心として自覚される。宇宙を観察する主体(意識)の位置について極大スケールで考えると、ビッグバン宇宙論では空間自体が膨張していると考えられているため仮に地球から宇宙の半径に匹敵する約150億光年離れた(われわれからすれば宇宙の縁にあたる距離になる)惑星上で、宇宙を観察していても、やはりそこが宇宙の内部中心として自覚される。
 意識との相互作用により粒子の潜在的可能性が実在に至るという量子論の考え方と、宇宙論の中でもユニークさで際だっている「人間原理」を結びつけたある物理学者(オイゲン・ウィグナーという人)は、観察者である意識が存在しているときにのみ宇宙は存在するという大胆な主張をしている。わたしは専門家ではないので、その説の妥当性については判断できない。しかし、それはほとんど唯識の説く世界とうりふたつだ。
 以前、唯識のエッセンスとして次のように書いた。「自我と認識対象、つまり物質は仮設されたもので本当は存在しないのだが、意識は存在するということは、換言すれば自我(心)と物質からなるこの世(宇宙)に意識は属していないということに他ならない。とは言っても、このような結論は思弁に基づくものであって科学的根拠も実証性もないではないかという批判があるかもしれない」(「マトリックス」と唯識――5MEO−DMTの世界(1))
 量子論は、意識が宇宙(150億年前に始まった時空と物質が織りなす物語り)を超越的に貫く唯一の実在(リアリティ)だという唯識の考え方を科学的に裏付けることになるのではないかと期待する。

ケタミンも量子論とは違う意味で超難解

 ケタミンと5MEO−DMTの共通点をあげると、なにより畏れ多く荘厳で深淵、純粋、絶対的で、超越的な自覚をもたらすこと。それは完全な無。完全な真実そのもの。「〜についての真実」とか「真実だと思う」といったものではない。真実という意味が本当に実在するというのは奇跡に遭遇したような驚異の感覚をもたらす。比較や差異といった相対の世界を絶した目の眩むリアリティ。人間の精神が創造神とコンタクトしてしまった……このように書いてもどこまで伝わるだろうかという不全感が伴う。それは精神の針が振りきれるような、人間の精神が耐えられる臨界域を超え発狂してしまうのではないかという戦慄を伴う何か。
 それはキノコ体験の帯域でもあるアストラル世界を超えてしまう。身体があるという自覚(身体感覚)はないし、また体験者の個人的な歴史(記憶=過去を素材にした物語り)や問題性(煩悩に翻弄されたり、あるいは煩悩に対する新しい解釈を得て救われたり)も基本的に消えている。
 ケタミンは極限の領域に入ってしまい自我意識の世界の言葉、理性の言葉でそれを語ることはできなくなってしまう。100回以上ケタミンを体験していたターナーにしても戻ってきてから「体験を想起することさえ困難となるのだ。帰還してからの数時間以内でも、体験の99%が私の現行意識下の精神では理解しがたい」と述べている。もっと手前のシロシビンやメスカリン、さらに遡って大麻などの領域については、スーフィーの瞑想家が詩で、ヨガのグルが講話でというような形式で伝えるのと同じようにある程度のコミュニケーションが可能だが、ケタミンは言葉にならない。海外の文献を調べてもケタミン体験自体についての記述は少ない。僅かにあっても奇想天外、奇妙キテレツでとりとめのない話の断片が紹介されているぐらいだ。誰でもやってみれば分かるはずだが、それは表現できないし、言葉にする意味、意欲自体を失ってしまう。この世の全てが茶番、自分自身がDVDのデジタル情報だと分かってしまったとしたら、何をどうするもないではないかといった比喩が当てはまるだろうか。
 「人間として機能しながらサイケデリック・スペース(全ての存在の背後に隠されたリアリティ)のすべてを理解することはまず無理である」と語っていたターナーは、ケタミン体験中の事故により浴槽で溺死している。

ケン・ウィルバーの説く意識の基本構造

 理性の言葉で、自我意識を超えた世界を語ろうとした心理学の潮流にトランスパーソナル(超個)心理学がある。トランスパーソナル心理学の代表的理論家とされているケン・ウィルバーの最近の著作、『万物の歴史』(1996)と『進化の構造』(1995)を参考にしてケタミンの意識について考えてみよう。
 ウィルバーは23歳のとき、東洋の宗教体験と西欧の心理療法で起きる多様な意識状態を自己意識の階層構造として整理した『意識のスペクトル』を著している。この本が画期的だったのは、膨大な文献を読みこなし、そこに記されている意識体験から文化や表現の違いを超えた本質的な共通点を抜き出したことにある。それは意識の地図でもある。ひとつの体系の基に、意識というある意味ではあやふやなものを整合性を持って分類した手際よさ、明晰な冴えはウィルバーの凄さだと思う。
 それから約20年経ったが、前掲書によりウィルバーは意識のスペクトル論はどのように発展してきただろうか。ウィルバーは意識の基本的構造を1.感覚物質的、2.空想的・情動的、3.表象的、4.規則/役割的心、5.形式的・反省的、6.ヴィジョン・ロジック、7.心霊的、8.微細(微妙)、9.元因、非二元に分ける。意識を捉える基本的な構図は以前と大きくは変わっていない。
 ウィルバーは、かつては自己意識の変容(内化・深化と進化)をスペクトルの階層の区分にしていたが、新たに自己意識の変容を社会的・文化的・生物的な要素の歴史的進化と対応させて体系化(4象限構造という)するようになった。この宇宙のリアリティは部分/全体であるホロンから構成されるとウィルバーは説き、意識をスペクトルからホロンの階層(入れ子構造)として捉えるようになった。
 もう一つふれておくと、意識の深化を見定めた果てがどこなのかという最終地点は基本的に変わっていないが、「トランスパーソナル心理学の領域の一つの大きな問題は、初めの頃、至高体験に焦点を当てる傾向があったことです」(『万物の歴史』)と振り返っているように、至高体験(変性意識体験のこと)だけを追い求める傾向を排し、それを人生に統合していくこと、人間としての成長という枠組みの中で捉えるようになってきたことだ。このあたりは、結局のところサイケデリック体験についても当てはまることで全く同感する。
 さて、ウィルバーの真骨頂はなんといっても「トランスパーソナル(超個)」「超意識」の領域にある。先ほど基本的な構図は変わらないと述べたが、小さな変化もある。以前は「実存」(今は「ヴィジョン・ロジック」と呼んでいる)段階を超える意識を一律にトランスパーソナルの帯域として、その最深部を「心」と呼んでいた。最近はトランスパーソナルの帯域を心霊的、微細、元因、非二元の4つに細分化している。そして新たに非二元という位置づけが提唱されている。

元因領域との比較

 ケタミンの意識体験をウィルバーの意識の基本的構造の中に探ると、それは元因領域に該当するように思える。元因領域の意識の特徴としてウィルバーがあげているのは次のような一節である。
 「微妙段階では、魂と神が合一する。元因段階では、魂と神はそのもともとのアイデンティティである高次の実在のなかへ超越していく。至高の実在とは、無形の知覚、純粋意識、あるいは純粋な「自己」としての純粋なスピリットである(アートマン=ブラフマン)。もはや神と魂の「至高の合一」ではなく、「究極のアイデンティティ」としての至高の実在である。マイスター・エクハルトは言う。「この究極において私は、神と私は一つであって同じものであることを見出す」(『進化の構造』)
 「至高の実在とは、無形の知覚、純粋意識、あるいは純粋な「自己」としての純粋なスピリット」「神と私は一つであって同じもの」といった記述はケタミン体験の核心部をとらえている。この場合、誤解はありえない。それは説明や証明、証拠などが生起する手前の根源的なそれ自身の自明性、直接的自覚から明らかになることだ(比喩としてこんな説明が妥当だろうか。人間は死ぬときに、いま死ぬのだということを自覚できるはずだ。しかし一度も死んだことのないのに、どうして死ぬのだと自覚できるのかは説明できないはずだという反問があるかもしれない。それにもかかわらず、やはり人間はそれが自覚できる)。
 といっても、上記のウィルバーの引用は意識の世界を客観的に語ろうとした文脈で語られていて、もし「純粋意識」や「至高の実在」を言葉の概念として読んでしまうとリアリティの抜け殻だけになってしまう。ウィルバーはそういった読者を想定したのだろうか、『万物の歴史』では元因の意識について、読み手の内的世界でそれが目覚めるような説明をしている。以下、ウィルバーの言葉を抜き書きしてみよう。
 「(元因の意識とは)独立した、確認可能な気づきの状態」「しばしば夢のない眠りにたとえられる元因状態、独立状態」「この純粋なる〈自己〉は純粋なる〈空〉なのです」「(その状態は)いかなる顕現もそれを含むことができないほど充溢した無量の〈存在〉に無限に浸っているものとして――体験される」「この純粋な〈主観性〉、この純粋な〈見る者〉へ戻るとき、あなたはそれを一つの対象として見ることはないでしょう――あなたはそれを対象として見ることはできない。なぜならそれは対象ではないからです」「これらすべてのものを目撃しているあなたのなかの「見る者」はそれ自身まさに広大な〈空〉であることに気づきはじめるのです」「この状態で実際に「見る」ものは限りない無」「純粋意識、純粋な気づきなのです。それはまったく無時間、無空間、無対象です」(『万物の歴史』)
 まとめると、自分は何かという問いを深めていくとき、究極的な地点(元因領域)で、主体(目撃者・「自己」)と客体(景色・外界)をともに〈見る者〉に遭遇する、それは見られることのない〈見る者〉であり、それは常在・不変の気づき、空であるという。
 『万物の歴史』で描かれている元因意識は禅的な視点から語られているからだろうか、『進化の構造』とはニュアンスが異なっているような印象を受ける。『万物の歴史』で描かれている元因意識とケタミン体験を較べると、共通するリアリティのようでありながらケタミンの世界は、より一元的で、劇的にまで濃密度、解像度が高い。ケタミンはどうも異質な意識のように思われる。ウィルバーは元因から非二元にいわば横滑りしていくが、元因の下層にもリアリティがあるのではないか。
 ここで思い浮かぶのはケタミンを念頭に置いて書いたに違いないターナーの「瞑想やヨガといった方法のみで得られた体験とサイケデリックスのそれを較べることは、蝋燭と太陽を比較するようなものである」という言葉だ。それはもっともであるとともに、怖ろしい意味も含んでいる。
 ケタミンは人が超感覚的に認識できる限界をも超えてしまっているアブノーマルな、あるいは死の向こう側のリアリティに架橋しているのではないか。元因の向こう側、それ以上先のない「壁」は時空という縁なのではないかと思えるが、そこに口の開いた裂け目があるとしたら。それは、意識の深度というリアリティではなく、あたかも時空(この世)がめくれて、ひっくり返し、裏返しになったリアリティとして連続しているとしたら。

[ひとりごと]