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2001.09.03
[ひとりごと]

大麻の変性意識(8)

 今回も『自己探求の心理学』という本を俎上に載せて話を進めていくが、関心は自己意識の起源という問題に移っていく。大麻による変性意識体験を振り返りながら、想念・思考といった心の働きから「自分」という原初の自覚、自己意識が成立していく経緯を推測していきたい。

「無我」と「人類我」

 著者は「あとがき」で、この本でとりあげている「人類我」体験より、ある人にとっては、主客未分の、自然との合一体験、宇宙的融合体験、無我(著者が語っている「無我」は、わたしの文脈では「無心」に相当するようだ。どうも用語の意味が使う人により違っているのは困ることだが)の体験などの方が近づきやすいことも確かだと述べている。
 どちらが近づきやすいかという比較をしているが、そもそも「人類我」と「主客未分の、自然との合一体験、宇宙的融合体験、無我」は異なった意識レベルの状態ではないだろうか。
 著者は「人類我」について、「人類共同存在」、「集合自己」という言い方もしているが、ユングの集合無意識に近いものとされている。ケン・ウィルバーの説いている意識の階層論に当てはめると実存(ケンタウロス)のレベルからトランスパーソナルのレベルまでの広い帯域を包括しているように読める。
 人類我という言葉は、ある意味で新鮮に感じられる。というのは、無我は自己意識の拡大・深化といういわば空間化(分離した自我-身体という意識から心身一如、さらに心身を超えた意識へ広がっていくという推移)された一種の座標軸上に位置しているのに対し、人類我は通常の自己意識(自我のレベル)の世界に留まりながら、それを時間化して拡大(過去の前世から人類の集合無意識へ広がっていくという推移)した座標軸上に位置しているからだ。
 わたしにとっての無我は、サイケデリックス体験の中で得てきたものだった。それは自己の直接体験であり、そのとき自覚として得た意識状態を、後に幾つかの文献を調べその記述と照らし合わせることでそれが無我だと解釈してきた。
 「この体験は意識の一形態にほかならないのであって、探求の対象を具体的に示すようなことはしない。むしろ意識を持つこと、それを体験の本質そのものたらしめようとするのである」 この一節は「神秘主義」という言葉の定義を巡って書かれた文章の引用だが、わたしにとってのサイケデリックス体験の定義としてぴったりくる(アンリ・セルーヤ『神秘主義』)。そのときの意識には、予め何らかの名前がついているわけではなく、ただ体験として、状態として自覚されるだけだ。
 どんな人間でも本人が自覚できる意識は、当然ながら自己意識だけであり、大麻やサイケデリックス体験は、自己意識の自覚としてあるわけで、先ほどの文脈に沿っていえば、わたしは常に自己意識の拡大・深化という空間化された座標軸を想定し、その時々の体験を理解してきた。こういった経緯からすると、人類我という自覚は、それが言葉だけの知識ではなく直接体験としてあるとき、これまでの変性意識体験とは別の仕方で整理しなければならない課題のように思える。
 とは言っても実は人類我の直接体験とは、換言すれば歴史や文学といった人文系統の文化を学ぶ者なら誰でもが懐いたことのあるはずの感動や感慨のことであり、変性意識体験ではなく日常意識の世界で起きていることだ。多くの歴史小説や大河ロマンなどは、読み方を変えれば人類我の織りなす綾をテーマにしているわけで、敢えてわたしが何か語るようなことはないのかもしれない。

大麻のストーンとサマーディ・三昧

 前回、大麻体験の説明で「ふと思い浮かべた想念・過去の一場面の情景・空想した架空のストーリーなどへの集中感・没入感が普段ではありえないぐらい強くなった」(大麻の変性意識(7))と書いたが、もし集中力がさらに強まるとどうなるだろうか。何かある対象物(例えば自分が見ている庭の石とか、机に置いたリンゴとか)に意識が張り付き没入し、自分がその対象物になっている(一体化している)という自覚(石になっている、リンゴになっている)が極まったらどうなるだろうか。 
 それが極点に至ると想念が止まる、思考が止まる、心が止まる――それを瞑想の言葉で言うとサマーディ(その音訳語が三昧)になる。瞑想の文脈では集中力は、雑念を鎮める禅定力というとらえ方をしている。いろいろな瞑想の技法があるが、例えば TM(超越瞑想)で行われているようなマントラを用いるもの、シュリ・チンモイの教えるバクティ・ヨガのように神人合一の意識状態にある時に撮られたグルの写真をひたすら見つめるものなども意識の集中を要にしている。大雑把な言い方になるが中国天台宗の「止観」もチベット密教の「生起次第」も基本的には共通した意識の操作を行っている。
 このあたりの意識レベルについて瞑想者の立場から書かれている文献を引き合いにだして考えてみよう。 瞑想で意識の集中が安定し揺るぎないものになってくると「瞑想者とその対象が一つに融けあい合一したかのように主体と客体が未分化の状態になってしまう瞬間が訪れる。観想し瞑想している自分の意識が突然、脱落し、瞑想対象だけが意識野に独存し照り映えているかのように……。これがサマーディや三昧といわれる禅定の意識状態である」(地橋秀雄というヴィパッサナー瞑想の修行者の書いたエッセイから)。
 「瞑想対象だけが……独存し照り映えている」という表現になんともいえない懐かしさを感じる。こういう表現の一節をきっかけにして、つかみどころのない意識状態を思い出すことがある。そういえば大麻でハイになっているとき呼吸を忘れてしまっているようなことがあったことも思い出した。日常意識のリアリティから大麻の変性意識を語るときには、その多くが抜け落ちているのではないかと焦ることがある。語っていることより、語れてないことの方が多いのではないか。
 大麻でハイになっているとき言い忘れていたあのときの情景、例えばリンゴを見て――それはスーパーの店頭、部屋のテーブルの篭の中、野外の木陰に置かれて目にする凡百なリンゴではなく、西日に照らされた巨大なリンゴだ。それは、これまで一度もなかった角度から光りが当てられた存在。はじめて目にした物のように新鮮で、艶やかな存在。そのリンゴだけが在るというとき、存在感が異様に大きなリンゴ。それはまさに「独存し照り映えている」という表現がぴったりだ。
 意識が現在に集中し、それが極まった刹那、今の中、というか今の瞬間には自己は消えている。それは意識が今に集中しているため、思考や観念作用が止まるからだ。自己は感覚や感情、思考や、想念、記憶想起を組み合わせて形成されているから、それらが止まれば自己が消えるというのは納得のいくことだ。
 もうひとつ別の例をあげてみよう。大麻でハイになっているとき、直前の記憶が消えることがあることはよく知られている。何人かで話している途中、それまで自分で話していた話題の流れを度忘れしてしまい「あれっ、なんだったっけ」と戸惑うなんてことがある。今、言おうとしていたことを突然、忘れてしまうなんてことは素面のときは経験したこともないのでビックリする。
 比喩的に「瞬間以外健忘症」とも、あるいはキツネにつままれた、タヌキに化かされたみたいだと言ったらいいのか、なんだか訳が分からなくなって不可解な気持ちになる。しかし、こう書いてもそれは別に危険な精神状態なわけではない。余暇の時間を過ごす楽しみの一齣としてなら、具体的には何の支障も不安もないし、むしろその不可解さがおかしくて笑いを誘う。なにしろキツネやタヌキのお伽話と同レベルの他愛ないエピソードなのだから。
 普通に話しているときの会話は、数秒前からせいぜい数十秒ぐらいの直近の過去を引き継いでいる喋っている。どんな言葉でも、他者への伝達の機能を持つためには、自分の心の中で首尾一貫してものを考えるという方向づけがなされている。その方向づけと同一の自己意識の継続時間は同じ働きのことである。自己意識の継続時間がそれほど長くない(ウペンスキーは2分間に満たないという)ということと、日常会話のひとつの文節の長さは対応しているのではないかと思う。
 大麻体験で直線の記憶が消えるというケースは、意識が現在に集中しているので直前の過去もない(思い出すという働きが止まる)状態のことである。それは先ほどから述べてきた文脈で言うと、自己意識が抜け落ちる、消えているということだ。
 サマーディは、(瞑想でも、あるいは大麻体験でも)意識が現在に集中した果てであり、「今」しかない世界にいることである。それは達成するというような何かいまとは違う状態に至る、行くことではなく、元々いまがそうであるだけなのだが。
 クリシュナムルティは「思考は、記憶、経験、知識、すなわち過去のものの反応です」と語っているが、それは意識は本源的に、常に今(現在)しかないのに、心が過去を作り出しているという先ほどからの考察を裏付ける言葉だ。
 本当は意識には「今」しかない。この瞬間の今も、来年の、再来年の同月同日同時刻の今も、あるいはいつか死ぬ日の今も、またく同一の今なのに、人間はそれらを今でない何時かという未来に先送りしている。人間は心(記憶と想像力)が常に働いているため過去と未来に挟まれて今がある(生きている)ように「錯覚」している。
 結局、このことは、意識と心(いわゆる「自己意識」、自我などをまとめて)が全く別の次元の存在であることに気づく最初の第一歩になる。
 わたしが大麻体験の実感として語れるのは、ここまでぐらいだ。ヴィパッサナー瞑想の文脈では、意識の集中を行うタイプの瞑想は、サマタ瞑想と言ってサマーディに至れるが、そこは未だ一瞬にして思考がまとめあげた概念世界の内にあるという。大麻体験の中で起きることのあるサマーディはこのあたりの世界だ。
 ヴィパッサナー瞑想では、意識が集中した状態下で、サティ(気づき)の楔を打つことで思考を通さずに直接知覚するあるがままの事象(ダンマ)に至るという。わたしの文脈ではこれは無我に相当する。このことは以前、「マリファナのストーンは大体、無心から無我の手前あたりに相当する意識レベルだということになるだろう」(大麻の変性意識(2))と述べてきた通りだ。

自己意識の起源

 一人一人の個的自我の織りなす日常的な心の世界とは別に集合無意識(人類我)があるとしても、それらは融合して全体として心の世界を構成している。それはよく比喩として紹介されるように海面に突き出た氷山の姿を思い描き、目に見える部分(日常的な心)と海中に隠れている部分(無意識)を区分けするようなものとは違うように思える。自分の心(個的自我)と集合無意識は、いわば緑色と黄色が融合して青色があるように心の世界を作り上げている。
 集合無意識は、旧類人猿からヒトが分岐した頃、心から個的自我が立ち上げられたとき、それと対になって生まれたはずだ。以来、両者は対になって人間の心の世界を構成している。おそらく集合無意識は言葉を通して世代を越えて伝えられてきたはずだ。集合無意識は心の一部であり、それは結局のところ記憶の働きである。だから心や思考が止まった意識レベルにあるサマーディや無我の世界には集合無意識もない。
 無我のリアリティからすれば、個的自我は心の作用が作り出した一種の心理的な虚構体である。心の歴史的起源は原初的な生物の条件反射に由来し、進化と共に条件反射が複雑化したものだ。犬やネコにも心はあるが、自己意識があるのは人間(チンパンジーや鯨にもあるそうだが)だけだといわれる。
 ニコラス・ハンフリーという動物行動学者の書いた『内なる目』という本は、旧類人猿からヒトへの飛躍は、自己意識の誕生にあったと説いている。と、こう書くと当たり前のことのように思われるかもしれないが、旧類人猿(動物)と人間を分ける区分は、道具の製作とか火の使用、直立歩行、脳の発達などを目安にしてきたのが旧来の定説だったのでハンフリーの仮説は全く新しい視点として受けとめられている。
 自己意識を改めて簡単に定義すると、自分がどう感じ・思い・考えているか、自己を意識する心の働きのことである。
 ある対象(犬やネコやわたし)が自己意識を持っているのか否か外面的には分からない。しかし内面を推測すると、自己意識を持たない動物の場合は、感覚器官から得た情報を脳が自動操縦しているように行動しているはずだ。一方、自己意識を持っている人間の場合は、脳で感覚や思考過程の自覚が伴っている。
 ハンフリーは自己意識を「内なる目」と呼び、それは、生物の進化過程で人間に至って発現した新しい種類の感覚器官であり、その視野は外界ではなく脳そのものであるという。
 ハンフリーはアフリカのルワンダのマウンテンゴリラの観察から自己意識の存在に注目するようになった。どのようにして旧類人猿の心から自己意識(=個的自我)が成立したのかというと、ハンフリーは「他のあらゆる天性の能力や身体構造と同じように、意識はそれを保有する動物にある種の生物学的な利点を授けるがゆえに、この世に存在するようになったに違いない」というダーウィンの自然淘汰の考え方を適応する。
 ハンフリーの目に映ったゴリラたちは、食べて寝て遊ぶだけで、棒切れを道具にするわけでも、道を探すわけでもなく、何か実践的な利益のために知能を使っているという痕跡は見あたらなかった。科学的な目で観察を続けながら、何か見つけられるのではないかと期待するのだが、ゴリラたちは毎日、食べて寝て遊んでいる。
 行動の観察に限界を感じたハンフリーはゴリラたちの行動の中に何か見落としていることはないか、自分をゴリラの立場に置いてみた。彼ら(ゴリラ)の心に何が本当の重大事としてのしかかっているか、つまり頭をどういうことに使っているかを想像しようと試みた。
 そのとき「私は自分が同時に自分自身について考えていることに気づいた。私の本当の問題はどこにあるのだろうか?」という閃きに至った。ハンフリー自身がそこでゴリラを観察しているのは、研究、あるいは仕事という常識的な答えの奥に、さらに本音の部分で母国での人間関係の行き詰まりから逃れるためアフリカに来たことに気づいたのだ。本では僅か数行でさらりとふれているだけだが、わたしにとっては、ハンフリーのこの閃きこそ決定的な分かれ目だったように思われる。ハンフリーの本には大麻のことなど一言も出てこないが、その閃きは「大麻感覚」と呼ぶのが相応しいのではないかとも思う。
 そのときからハンフリーはゴリラたちを新しい目で見るようになった。ゴリラたちは、群れの中での役割や序列など、そのほとんどの時間を仲間との社会的な関係に頭を悩ますのに費やしているではないか。
 「内なる目」(自己意識)は、たった一つの目的(自分とよく似た他の人間の行動を読むことができるようになるという)のためだけに進化したのではないか。それは心理的な洞察、他人の立場に身を置く能力、他人の意識を推測できるようなることである。
 他の人間の行動を読むための一種の計りとして、自分の心をその物差しにしたのではないか。その物差し、つまり自分自身の内部を覗き込み、自分自身の心の働きを調べる能力、それが自己意識である。この能力(自己意識)により人間は社会的存在として言語を生みだし、文明を築き、軍事力・生産力という動物にはないタイプの力を得た。それは他の動物に対し生存競争で圧倒的優位に働いたことは現在の地球を見れば明かだ。
 ハンフリーの本ではふれられていないが、人間の自我は自己意識から成立したはずであり、そのメカニズムもだいたい想像できる。それは自己意識の継続時間がそれほど長くないので、少し複雑な思考や推測、計画などをこなすために記憶と組み合わせて働くようになったからではないか。その結果、自己意識と記憶が相互に結びつくシステムが確立し、人間の異なった境遇や経験が、継続して記憶化され、名前を持った個人が生まれ、それぞれの人生が生まれた。
 この数万年にわたり、地球上に生まれた全ての人間の人生は、このシステムの数百億パターンの発現だと見なすこともできる。それにしても他者に当てはめるためのモデルとして自らの心を働かせたことが、自己の起源だというのは奇妙なことではないか。直観的に全ての実在の根拠とされている出発点(自己)が、実は他者の実在から導きだされたモデルだというのだから。

[ひとりごと]