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2001.02.24
[ひとりごと]

「梵我一如」体験(下)
  ――5MEO−DMTの世界(5)

5MEO−DMTの体験とは?

 5MEO−DMT体験を表現するのはとても難しいが、あえて幾つか特徴を並べてみる。(1)それ(5MEO−DMTの開示する世界)は人間が認識する精神のひとつの状態であるが、感覚・感情・心理や概念、論理、知識などのような通常の心の世界で成立するものではない。それは喜びも恐怖もない冷静な状態で、思考や記憶や想念は起きない。それは努力や忍耐、工夫、心構え、決心などによって達せられる状態ではなく、そのとき起きていることをありのままに認識するだけのことである。それは意識の混濁や妄想的な思考など微塵もない覚醒した、特異な自覚である。「いっさいの感覚対象――形、味、匂、触覚、および音――を放棄したときに、彼の心が完全にはたらきを止めたときに、はじめて人は意識の奥底で、直接、ブラッマンをさとることができる」(2)それは全的な、圧倒的な、絶対的な、驚異的な、超越的な、深淵な体験である。直観的にこれ以上はあり得ない、これが全てだという完璧な確信が生じた。それは死の向こう側だという直観的な確信が生じた。それは至高の、神聖な何か。なんと言っていいか言葉にならない体験だった。
 初めて体験していることなのに、そもそも「これが全て」にしろ「死の向こう側」にしろ知りようがないことなのに、なぜそのとき完璧な確信を得たのか、こちら側(日常意識の世界)から説明するのは難しい。こちら側からは説明がつかない。それはこちら側が終わった地点(死)の彼方、宇宙のブラックホールの向こう側だ。
 その後、体験を素直に受けとめれば、畏敬の念、謙虚さ、慈悲の心、宗教性が生まれてくるはずだ。「絶対者の境地に至ることを、ブラッマンの知識と言うのだ」という言葉は誇張ではない。(3)それは言葉で表現できない。
 これまで生きてきた中でそれに近いような体験は皆無だった。果てしがない世界。単一で、変化がなく、普遍的で、距離も上下も時間もない世界。それにはどんな単語もあてはまらない、表現しょうのない体験だった。ラーマクリシュナが常々「ブラッマンはどんなものかということを説明することはできない。それを知っている人でさえ、それについて語ることはできない」「言葉と思考を超えたもの」「比較を絶したもの」「それについては人は沈黙する。誰が無限者を説明することなどできよう」と語っているのがよく分かる。
 強いて具体的な描写をすると、それは闇でも無でもない、白銀のような果てしない海面、あるいは湖面のような世界でパルスのような波動、振動がどこまでも続いていた。ラーマクリシュナが数少ないブラフマンの描写として、何度となく「それは右も左も上も下も、いたるところ水である無限の大海のようなものだ」と語っているのとぴったり符合している。わたしにとっては、この一致を「発見」したことは大きかった。
 また比喩として、ラーマクリシュナは度々、塩で出来た人形が海の深さを測ろうとしたが、海に入るやいなや溶けてしまったという話をしている。これはアートマンとブラフマンは同化しているということである。
 5MEO−DMT体験は自分がその世界をビジョンとして見ていると同時に、自分自身がその世界だった――つまり果てしのない湖面、海面を斜め中空から目撃していながら、目撃している自己がその海だった。言葉で表現するとこのようになるが、実に奇妙なというか、この世の実感としては想像できないものだ。これはアートマンとブラフマンの同化を直接体験したものだと解釈している。
 大麻や瞑想をしていて、見ている対象に意識が集中し、一体化してしまうことがある(ストーンの意識レベル)が、これとは全く異なっている。例えば、意識の集中が極まり、自分が石になったとしても、その石は在る。自分が木になったとしても、その木は在る。また背景の庭や壁や空は視野に入っている。ところが梵我一如に当てはめると、石も木も庭、壁、空もなにも具体物は存在しない。それは意識は鮮明に覚醒しながら、全主体と全客観が一体化した世界だ。(4)それは「起こる」ことである。
 それは心でコントロールできない体験である。意思でコントロールできない5MEO−DMTの強烈な力にただ身を任すしかない。サイケデリックス探求者のターナーがDMT(またはケタミン)においては、LSDトリップをガイドするようにマインドや思考を駆使してトリップを導くことはできないと語っているのは当たっている。大麻がプロペラ機、キノコやLSDがジェット機とするなら5MEO−DMTは衛星打ち上げロケットだ。飛行機のパイロットのように自由意思で操縦することはできない。乗員は発射されたら一気に連れていかれるだけだ。
 その数分前まで、何を考え、悩んでいようと、5MEO−DMTを吸引すると一切は消えてしまい、突然、それが起きる。信じられないぐらいの決定的な断絶がある。
 ラジニーシは前述の本の中で、(古典のヴェーダを敷衍して)人間の身体意識を7つに分けている。自己意識とは換言すれば身体意識のことであるから、自己は意識レベルに対応した身体を持つわけである。簡単にあげていくと、第1身体は普通の意味で体と言っている肉体(日常意識)。それからエーテル体(無意識)、アストラル体(集号的無意識)、メンタル体、スピリチュアル体という第5身体まで意識の深まりにより身体意識は変化していく。
 「弟7身体は究極だ。もはや因果の世界さえも超えてしまったからだ。あなたは始源の源へと、創造の前にも存在し消滅の後にも存在するものへと至った。だから弟6から弟7へは無方法さえない。役に立つものはなにもない。あらゆるものが障害になりうる。宇宙から無への移行には、原因のない、準備されることのない、求められることのない起こることしかない」(前掲署、以下同)。この一節は前回に引用したラーマクリシュナの最初の梵我一如体験と同じことを、あるいは5MEO−DMT体験と同じことを別の視点から(瞑想修行者の指針になる視点から)語っていることが分かる。
 ラジニーシによれば第5身体まではヨガなどの方法により達することができる。「弟5身体までは方法を使うことができる。だがそれ以降はどんな方法も役に立たない。方法を使うものが消え去るべきだからだ」
 そして第6身体コズミック(無我)から第7身体ニルヴァーナ(梵我一如)への移行は「起こることだ」という。
 どのようにして起こるかという「原因はなく、知られざることだ。原因のないときにだけ、それは以前のものと不連続になる」「実在から非在への移行には、どんな連続性もありえない。それは原因のないただの跳躍だ」「なにかがただ終わり、なにかがただ始まる。そのあいだに関係は存在しない」。こういった文章は5MEO−DMT体験のことを語っているのではないかと錯覚してしまう。(5)そのとき身体感覚がなくなり、体は全く動かなくなる。
 5MEO−DMTを吸引するやいなや卒倒する。そのとき立っていられないので横になっているが、手足の感覚はなくなり動かせなくなる。辛さや不快感はないが、触覚や温もりもない。呼吸をしていたかも覚えていない。外見的には失神しているように見えるはずだ。しかし内的には失神のように気を失っているのではなく、意識は鮮明に覚醒している。ラーマクリシュナが肉体的意識を破壊することなしには梵我一如の意識になれないと何度も語っているのはこのことだと思った。
 ラーマクリシュナはサマーディに入ったとき体は動かなくなった。その一分前まで信者とともに笑興じていても、サマーディに入ると目は半ば閉じられ、体は不動状態になり、呼吸はほとんど認められぬほどかすかになった。そしてサマーディを終えると徐々に外界を意識する状態に戻ってきたという。こういった身体症状も両者(5MEO−DMT体験とラーマクリシュナのサマーディ)は共通している。

この世はマーヤか?

 もし死後に何らかの意識が残っているとしたら、あの世に行った人間が何故、現世にコンタクトしてこないのかという問いがあるかもしれない。梵我一如に於いては、ひとりひとりの個的な自我は消滅(「私」という意識は消滅)しているが意識は継続している。自己意識は、個人の自我ではなくく意識=存在・宇宙〉になっている。
 ラーマクリシュナが「この世は幻影だ。ブラフマンだけが実在なのだ」と語ったとき、ある青年が、この世が幻影、つまり魔法という性質のものであるなら、人はなぜそこから逃げないのかと質問したことがあった。
 「それはサムスカーラ、すなわち生得の傾向のせいだ。マーヤーの世界にくり返し生まれているうちに、マーヤーが実在だと信じてしまったのだ」と答えている。
 この意識に至ることは日常意識の世界では無理ではないだろうか。ラーマクリシュナは「人は、この世への執着を完全にすてない限り、ブラッマンの知識を得ることはできない」と語っている。
 5MEO−DMTは無我やアラヤ識の領域を一気に超え、死後の意識(=凡我一如の世界)に行ってしまう。現世で執着している全てのこと、あるいは心配事、不安など一切が、数十秒後には、ほとんど記憶にも残らない程度の夢幻のように消滅する。
 例えてい0えば、子供の頃のボール遊びを思い出す。5時の鐘が鳴り、家路に着くとき、それまで夢中になっていたピッチャーやバッターの役を跡形もなく忘れてしまうみたいなものだ。死後の意識からは、生前の一切が児戯のように取るに足りないこと、いや夢幻のようなもので現世にコンタクトするなんて意味がない。ラーマクリシュナが「この世は神のお遊び(リーラ)だ」が言っているのは実感として分かることだ。
 補足すると、この世がマーヤーだというのは、梵我一如の意識レベルに対応したリアリティであり、日常意識のリアリティではないことに留意しておきたい。マーヤーならこの世に善悪がないとか、何をしてもいいというのは大間違いだ。意識レベルに対応したリアリティがあるのだ(少し横道に逸れるが、唯識をどう理解するかという問題では、ほとんど全ての宗教者、学者はこの対応関係という構造に気づいていないようだ)。
 梵我一如の意識は一元のリアリティであり、完璧な全てだ。それは日常意識の世界からすれば「幻覚」かもしれない。しかし、それはいつ、どこでも起き得る、個別性を超えて起き得る普遍的で圧倒的なリアリティのある「幻覚」である。
 5MEO−DMT体験から分かることだが、死後の世界というのは、死んでから初めてはじまるのではなく、生きているときにも(自覚が難しいだけで)存在している意識が継続しているということである。
 最後に、今回の話にはある種の戸惑いがつきまとう。わたしはそれを肯定的にも否定的にも語れない。こんな話をしたところで誰にも伝わらないだろうし、そもそもこのような形で公開する必要もないことだと思っている(変な話しだが、連載で書いているうちに昔の体験を整理したいと思い、こういう流れになってしまった)。
 梵我一如より、意識レベルとしては上昇するが、キノコやLSDが導いてくれるアストラル世界の方が遥かに多様で、変化のある、面白い世界だと思う。そして表層の日常的意識の世界、それはどんな人生でも、それなりに喜怒哀楽に一喜一憂し、人と交わり、希望を持ったり諦めたりしながら生きていく。この日常的意識のリアリティは、考えてみれば最もスリリングな世界だと思う。

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