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2001.01.21
[ひとりごと]

死後の世界――5MEO−DMTの世界(3)

ボス「天上界への上昇」(16世紀初頭。天使に導かれた魂はトンネルを抜けて天 国に向かう。この絵は臨死体験をテーマにした本の挿画などによく使われている)

 1997年、ヘール・ポップ彗星が地球に近づいたとき、ヘブンズ・ゲートというアメリカの宗教グループの39人が集団自殺したという事件があった。当時、ニューズ・ウィーク(日本版)の特集を読んで、あれは彼らにとっては、報じられているような「自殺」ではなく一種のポワ(意識の移転)だったという印象を持ったことを覚えている。その意味では国家や社会との対立を先鋭化させていった末、自滅していった宗教グループとは異なっていた。
 黙示録的終末論やニューエージトの教義に思想、SFなどが混合したヘブンズ・ゲーついてあれこれ語ることがテーマではないので詳しくはふれないが、人間の肉体は魂を閉じ込めておく「容器」(牢獄)だとみなしていた彼らは、ヘール・ポップ彗星とともに宇宙人がUFOで迎えにきたと信じ、肉体を地上に置いて整然と旅立って行ったのだという。目的地の「天上の国」は冥王星の極地にあり、選ばれた彼ら(の魂)は冥王星の住人とともに人類をより高次の存在へと導くプロジェクトに従事するのだという。
 彼らの教義を陳腐な妄想として片づけるのは簡単だ。しかし100%の完全な確信として、肉体的な死を超えて意識の継続性を信じる信仰がどのようにして成立したのだろうか。
 教祖「ド」(アップルホワイト)は残したビデオテープの中で「私たちについてくることはできる……だがこの世にとどまっている限り、ついてはこられない」と独特の抑制のない口調で語っていた。
 5MEO−DMTの世界を一言でいえば死の向こう側、死後の世界である。そのことは、以前、「チベット死者の書」のバルドゥと関係づけて述べた(『オルタード・ディメンション』4号)。
 最初に少し、死後の世界の手前、つまり生から死の移行期についてふれておきたい。一時的に死、あるいは死に近い状態になりながら生還してきた人たちが語る臨死体験の領域である。何年か前、臨死体験をテーマにした本がたくさん出版されブームになったことがあった。それらの体験談を読んでいると、意識レベルとしては基本的にはアストラル世界の体験だということが分かる。

臨死体験のトンネルと5MEO−DMTのラッシュ
 先ほどのAD誌では、5MEO−DMTを気化吸引(広義の喫煙)したときの突然の急激な変化(ラッシュ)は身ひとつで飛行機から空中に放り出されたみたいなものだと書いた。ずいぶん昔になるがスカイダイビングをしていたことがあり、飛行機から飛び降りた直後の体験に似ていると思った。
 わたしたちは、生まれてからずっと重力の下、常に大地や床に身体の一部を接している。飛行機や船に乗っているときも身体が座席やベッドに接しているということでは、身体感覚は地上にいるときとそれほど違わない。ところが機体から空中に飛び出すと身体の支えが全くなくなるとともに、静止状態から自由落下していく感覚に驚くことになる。そのとき生まれて初めて立つことも掴むこともできない身体感覚というものを知った。5MEO−DMTで体験するラッシュ感覚はそれと共通するものがある。
 いろいろなサイケデリックスの中でも最も強力な5MEO−DMTは、気化した状態で吸引すると、肺から血液によって脳に達し、効果を自覚するのに10秒もかからない。そして1〜数分以内にピークに達する。
 5MEO−DMTのように最短の時間で最強の効果が現れることは、普通の人間にとっては許容範囲を超えている。まさに驚愕すべき体験になる。これに匹敵する体験は死ぐらいではないかと思う。
 臨死体験者の話を読んでいると、暗いトンネルに自分が入ったみたいだったという体験を語る人がいる。 それは次のように解釈できるだろう。肉体的な死は、感覚器官(生理現象)の働きを終了させるということだ。身体感覚がなくなっていくといってもいいだろう(これは5MEO−DMT体験にもあてはまる)。
 外界の感覚が途絶えるということは、(日常世界では、五感のうち最も大きな位置を占めているのは視覚だから)自分の周りの世界が暗闇に入るという自覚として現れるはずだ。ちょうど列車や車が走行中にトンネルに入ると、視界の全方位の光景(色・形)がそれまでと一変するのと似ている。
 交通機関に乗っているときには、予めトンネルに入ることを知っているか、あるいは直ぐにトンネルだと気づきそれほど戸惑うことはないだろう。しかし、全く突然、日常世界からトンネルに入り込んだと同じ状況に移行した場面を想像してみれば納得がいくはずだ。
 つけ加えると死により身体感覚がなくなっていくということは、機体の外に飛び出したときの「立つことも掴むこともできない身体感覚」と共通するところがある。それはこの地上で生きる限り、生涯その影響下にある重力感覚である。人間は生を受けた最初から所与のものとして重力を受け入れているので最後の瞬間(=死)までそれに気づかない。
 このように見てくると、5MEO−DMTのラッシュは、機体から飛び出した瞬間、あるいは臨死体験のトンネルと共通することが分かる。そして急激にピークに達する5MEO−DMTのラッシュは、臨死体験の意識領域を一気に突き抜けて、更に深部へと降下していく。

シュタイナーの語る「死後の意識」とサイケデリック体験
 臨死体験の意識領域から更に深部へと降下していくということは、死後の意識ということに他ならない。死後の意識については、古今東西の宗教家やオカルティストがいろいろな見解を述べているが、ひとつの素材としてシュタイナーの説をとり上げ考えてみる。とは言ってもシュタイナーの人智学は、広大な世界として展開されているので、ここではごく一部(死の入口あたりの意識に該当する部分)を抜き出して語るだけではあるが。
 「死後の自我は……死の瞬間から誕生の瞬間へと、普通とは逆の順序で地上の生活をもう一度体験し始める。逆の順序で体験するといっても、個々の行為が「逆の順序で」体験されるのではなく、出来事の順番が逆になるのである。このことの重要性は、出来事は、時間順に生ずる物質的な原因と結果という形で再体験されるのではなく、それが生じたことの道徳的意味合いと必然性が分かるように再体験されるというものである。再体験された行為や言葉や関係の道徳的意義は、その直前に結果――地上ではあとに生じている出来事――を体験しているので、高められるのである。それは道徳的結果のパターンの解明であって、単なる出来事の再体験ではない」(『シュタイナーの思想と生涯』A.P.シェパード)
 この一節を目にしたとき、まさにサイケデリック体験のことを語っているではないかとビックリした。それはキノコやLSDをある程度、体験したことのある人ならリアルな実感として分かるだろう。「普通とは逆の順序で地上の生活をもう一度体験し始める」ということは、なにも一日一日の、時間ごとの日記を逆に読むわけではない。その人の人生で意味のあった出来事(「結果」)を、その出来事を生み出すに至る過程の面(「原因」)から再体験(=再解釈)するということである。それは普段、日常社会で考えられているような政治や経済の変動、社会的な影響力といった視点から展開される原因や結果ではなく、「道徳的意味合い」という視点から展開される。
 キノコ体験中に、親、兄弟、家族、友人、知人、同僚、見知らぬ人などこの世の他者に対する自分の諸々の行いを直視させられ、ああ人を傷つけてしまったと「自己反省モード」に入ったという話をよく耳にすることがある。結構、胸が痛む精神的には苦しい体験だったりする。もちろん苦しいことばかりではなく人により感謝したり、慈しみに満ちた体験がたくさんあるという場合もある(それは、その人の過去の行いによる)。
 シュタイナーの説く「道徳的結果のパターンの解明」というのはそういったことを指している。全く関係がなかったと思っていた複数の出来事が見えない糸でつながっていたことを発見するなんてこともある。わたしも体験するし、同じような体験をしたという人の話はよく聞く。
 これらは基本的にアストラル世界の意識レベルで起きている(先ほど「道徳的意味合い」という言葉が出てきたが、「道徳」も「意味」もこの先の凡我一如の世界では存在しないことを指摘しておきたい)。ここはまた唯識の説くアラヤ識(カルマに関わる意識の世界)とも重なっている。キノコやLSDの体験者で、前世体験をしたという話はそれほど珍しいことではないが、それはアラヤ識に接したということである。
 さて、今回は死の少し手前(臨死体験)から死の入口あたりの意識について語ってきた。この意識レベルはアストラル世界でもあるが、ここに該当するのはサイケデリックスの中でもキノコやLSDの体験である。サイケデリックス探求者ターナーの評価では、キノコやLSDは10段階評価の強度レベルで4〜7に該当している。そしてDMTの評価は9〜10であるが、それは、いよいよ死の向こう側、死後の世界に至るということである。

サイの角のようにただ一人歩め

 京都のSさん、感想を寄せてくれてありがとうございます。このコーナについて「おもしろいですね。世間的にはどうかわからないですけど、個人的にはかなりドンピシャです」というコメントをいただいたことはなにより嬉しく思います。そうそう、もう一人、元オウム信者のOさんから、いろいろな教典の記述を変性意識の体験から解釈する内容に納得できることが多く、いつもこのコーナーに注目しているという感想をいただきました。
 人間の意識について、複数の人間が共通の構造を了解しようとしているのは、すごいことだと思います。なぜなら全ての人間の意識は常に自己意識として自覚されるにもかかわらず、そこに他者との共通の世界を見出すことができるということは、個的自我を超えた意識の普遍性が存在しているということを示唆しているからです。
 世間的には、このコーナーで書いているようなことが理解されるのはすごく難しいであろうことはよく分かっています。この世でせいぜい10人ぐらいの人に共感してもらえれば本望だというのが正直な気持ちです。(1月20日)

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