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2001.01.17
[ひとりごと]

大麻の変性意識について(4)

ガンジャ(マリファナ)を吸うサドーゥ
インドの街角で売っていた絵だけど、な んだか妙な明るさがインド的なのかもしれない。
ラーマクリシュナとマリファナ

 ラーマクリシュナは1836年にインドの西ベンガルで生まれた近代ヒンズー教の聖者として知られる。
 西欧文化とは関係のない伝統的ヒンズー社会の精神的土壌から生まれたラーマクリシュナは、正式な学問は受けなかったが、精神性・宗教性の高さに於いて群を抜いた存在として高く評されている。彼は、日常的にサマーディ(凡我一如の意識状態)に入っていたこと、全ての人に自らの言葉でその教えを語ったこと、そしてあらゆる宗教を神の顕現として認めたことなどを通して後世に大きな影響を与えた。
 ラーマクリシュナの晩年の5年間の会話や講話をまとめた『ラーマクリシュナの福音』という邦訳1000ページを越える言行録がある。その本を読むとラーマクリシュナは、度々、たとえ話しの中で大麻(マリファナ)にふれているのが目につく。現代の「常識」からすれば、宗教者がマリファナを肯定しているというだけでいかがわしい話に違いないという先入観を持たれるかもしれない。しかし、聖者は天真爛漫に、茶目っ気たっぷりに楽しげにマリファナを語っている。
 講話の中では、大麻について語るとき、その文脈に幾つかのパターンがある。ここではそれを4つに分類して紹介してみたい。ここでとりあげた文章が、『ラーマクリシュナの福音』の中で大麻について言及している部分のほぼ全てであり、大麻について肯定的な部分だけを意図的に抜き出したわけではありません。

1. 信仰者同士の親しみを大麻愛好者になぞった比喩
 (1-1)「お前の姿を見ただけで私はうれしくなるのだよ。大麻吸いはもう一人の大麻吸いに会うとたいそう喜ぶものだ。しばしば、彼らはうれしさのあまり抱き合う」(82ページ)
 (1-2)「大麻吸いはもう一人の大麻吸いに会うとたいそう喜ぶものです。互いに抱き合いさえもする。だが、別種の人びとの姿を見ると隠れます」(480ページ)
 (1-3)「ほかの大麻吸いにあうと大いに浮かれるのは、大麻吸いの特徴だ。彼はアミル(回教徒の王様)には話しかけることはしないのだが、やくざな大麻吸いに会うとだきつく(みな笑う)」(532ページ)
 ◎(1-1)はヒンズー教の例祭に出かけた際、信心の篤い弟子の一人と対面したときの言葉。(1-2)と(1-3)はラーマクリシュナの元を訪れた親しい修行者が去るときの別れの挨拶の一節。

2. 在家の信者とサドーゥ(出家の修行者)との交わりを大麻愛好者同士になぞった比喩
 (2-1)「ある人びとは、大麻を吸うためにたびたび修行者たちのところに行く。大勢の僧たちが大麻を吸うだろう。このような在家の人たちは彼らのそばにいてそれの準備をし、おさがりを相伴するのだ」(95ページ)
 (2-2)「在家の人はたとえどのような職業についていても、ときどき、サードゥたちといっしょに暮らすことが必要だ。人はもし神を愛していれば、おのずから彼らとの交わりを求めるようになるものだ。大麻吸いを例にとろう。大麻吸いは大麻吸いと仲間になりたがる。吸わない人を見ると、伏し目になって行ってしまうか、それでなければ片隅に身を隠してしまう。ところがもし大麻の常用者にあえば、彼の喜びはたとえようがない。二人はたぶん抱き合うだろう(みな笑う)」(961ページ)
 ◎(2-1)は在家の信者に対して語った言葉。(2-2)は、ラーマクリシュナを治療していた医師との会話で、仕事を持った人間の人生の務めについて語った言葉。特別な深い絆を持った関係として両者(在家の信者とサドーゥ及び大麻吸い同士)をとらえていたことが窺える。

3. 大麻の意識と霊意識が似ているという比喩
 (3-1)「私は二枚の絵がほしいのだ。火のついた丸太の前に座っているヨギの絵と、もう一つはヨギが大麻を吸うと炭火がパッと燃え上がる絵だ。そのような絵は私の霊意識を呼びさます。ちょうど造りものの果実がほんものを思い出させるように」(380ページ)
 ◎(3-1)は自室で大勢の信者を前にして、カルカッタで開かれた展覧会や博物館の話題を話した後、心を神に集中することについて話しはじめたときの言葉。「造りものの果実」という表現からは、霊性を疑似体験させてくれるものという肯定的な評価が窺える。

4. 求道者に修行の必要性を説明するときの比喩
 (4-1)「大麻をたべる人は酔って幸福を感じる。だがそれをたべもせずに何もしないで、ただどこかにすわって、『大麻、大麻』とつぶやいても、それで酔い、幸せになれるかね」(339ページ)
 (4-2)「人は霊性の修行を実践しないかぎり、聖典の意味を理解することはできないのだ。口先で『大麻』と言ったとて何になろう。……大麻を肌にこすりつけても酔いはしない。それを飲まなければだめなのだ」(524ページ)
 (4-3)「ただ『シッディ(大麻)』とくり返しているだけで何が得られるか。シッディの溶液でうがいをしたところで、酔いはしないだろう。それがお前の胃袋に入らなければ駄目だ。そうでなければ、酔うことはできまい」(912ページ)
 ◎(4-1)は在家の信者に霊性の修行の必要性を説明したときの言葉。(4-2)はある修行者が聖典の記述を引き合いに出し反論したのに対し諭した言葉。(4-3)は議論をしている信者に対して、書物の引用や聖典の詩句の朗読だけでなく、渇仰の心で神に祈ることの大切さを諭した言葉。
 
 以上の引用から窺えることは、ラーマクリシュナがマリファナをポジティブに、霊性を高めるものとしてとらえていたことだ。霊性を理屈ではなく実感としてつかむのに大麻が有効だと考えていた。また霊性といってもラーマクリシュナにとっても究極のリアリティ(つまりサマーディ)とは、一応、区別して語られていることも留意しておきたい。
 最近、旅行者でインドを旅し、各地のヒンズー教の寺院でサドゥーとガンジャ(大麻=マリファナ)を吸っていたという話をしてくれた友人がいた。彼の体験談を聞いているとマリファナは、サドゥーにとって特別な修行や秘儀として存在しているのではなく、聖なるものとしての敬意を払われた嗜好品として扱われていたという。サドゥーの仲間どうしでチャイ(ミルクティー)を飲みながらお喋りをするのと同じように、チラム(大麻の喫煙具)を回していたという。
 親しくなったサドゥーの師匠(グルジ)に「なぜ大麻を吸うのか?」と尋ねたところ「大麻には人間を神の存在を感じやすいところまで連れていく力がある」という答えが返ってきたという。このグルジの答えは実に的確だと思った。話は飛ぶが、ブラジルのある宗教団体で飲まれるサイケデリックス性の飲料は、神そのものとして位置づけられている。その飲み物自体が神なのだ。DMTとMAO阻害剤を一緒にしたその飲み物を服用したとき、リアリティは神域に達することもある。マジック・マッシュルームやLSDも同レベルだ。
 しかしマリファナは「神の存在を感じやすいところ」、つまり神域の手前の意識レベルだとグルジは語っている。ラーマクリシュナがマリファナの霊性とサマーディと区別して語っているのも同じことを意味しているはずだ。
 そのことを別の視点から見ると、「大麻の変性意識について(3)」でふれたようにキノコ(マジック・マッシュルーム)などはマリファナと違い自己コントロールができなくなることもある。「キノコに秘められた強い力には、軽々しくは扱えないという怖ささえ感じる」のだが、マリファナは表裏なく楽しめるものだ。おそらく1000年を超えるマリファナ使用の歴史を通し、ヒンズー教文化の中でマリファナは肯定的なものだという評価が定まってきたのだろう。
 友人の見聞は90年代後半のことだったが、1世紀少し前のラーマクリシュナの姿を彷彿とさせる。ヒンズー教文化に生きるサドゥーにとってマリファナは「麻薬」や「乱用薬物」とは全く無関係な存在だ。同じ植物(大麻)が、地球上のある場所(アメリカや日本)では有害な存在だと見なされ、別な場所(インド)では聖なる存在だと見なされているのは180度違う、全く奇妙なことだと思う。
 結局、それが有害な存在なのか、聖なる存在なのかは植物(大麻)自体の物質的な性質(THCをはじめとする有効成分の生理的活性)によって決まるというよりは、それを受容する社会の性質(法律や国民性、文化)によって決められているということが見えてくるのではないだろうか。

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