ALTERED DIMENSIN
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2000.12.07
[ひとりごと]

「マトリックス」と唯識
   ――5MEO−DMTの世界(1)

 3年半ほど前、わたしは5MEO−DMT体験のレポートを書いた(「オルタード・ディメンション」4号参照)。今でも大筋では同じように考えているが、映画や小説で描かれた異世界を爼上に載せて別な角度から再考してみたい(最初に、私は心〔条件反射が複雑化したもの〕と意識を分けて考えていること。また大胆な言い方だとは思うが、意識はこの世に属していないこと、生前も死後も継続していると仮定している)。

 1999年に公開された映画「マトリックス」は、現代に生きている(はずの)主人公ネオが、本当は2199年頃のコンピュータに人類が支配された地球でマトリックスという仮想現実にいることに気づくことからストリーが展開していく。現実(2199年の世界)では、人類は羊水のような液体漬けになって栽培されている。自分の人生の記憶も、友人も仕事も見慣れた風景も、つまり現実全てがコンピュータのコントロールした電気信号によって脳が夢見ている世界(マトリックス)だということを知り驚愕したネオは仲間とともにコンピュータとの戦いに起ち上がる。
 マトリックスは、未来の世界を舞台にしたSFだが、その構想は中国の古典「荘子」に出てくる胡蝶の夢の話に似ている。そういえば、キノコ体験中、自分の生きている現実がまるで夢の中の出来事のように思えたという友人がいたことも思い出す。
 これらは日常的現実と夢のどちらが真実か見極めがつかない、リアリティが相対化した世界だといえるだろう。オカルティズムの文脈ではアストラル世界の意識ということになる。
 マトリックスの世界を更に突き詰めているのが4世紀のインドで成立した唯識だ。唯識とは、この世には、本当は主体(自我)も客体(外的対象)も存在せず、ただ意識だけが存在しているということを論証した教典だ。ここで唯識の代表的なテキスト「唯識三十論」のエッセンスを紹介しておこう。
 「自我を措定するという誤り(煩脳障)を除き、次に認識対象の存在を措定するという誤り(所知障)を除くことが本論の目的である。自我も認識対象も、両方とも仮設されたものである。その仮設の根拠として、以下に述べるような、意識の世界の内部での諸関係や変化(転変)が存在する。
 ……意識の源泉である無意識(アラヤ識)の中に、あるものを仮設する潜在力が蓄えられ、ある時、それらは仮設された認識対象として意識の中に顕現する。その顕現したものに対して言語名称が割り当てられた結果、それは個体の外側に客観的に存在し、不変の本質を持ったものであるかのように固定化して捉えられ、執着されるに至るのである。
 従って、自我も認識対象も存在しないのであるが、それらが存在するかのように仮設している主体(あるいは仮設ということの行われる場)としての「意識」というものは、存在すると考えなければならない」(谷真一郎という人の訳文です)
 自我と認識対象、つまり物質は仮りに設けられたもので本当は存在しないのだが、意識は存在するということは、換言すれば自我(心)と物質からなるこの世(宇宙)に意識は属していないということに他ならない。とは言っても、このような結論は思弁に基づくものであって科学的根拠も実証性もないではないかという批判があるかもしれない。
 この世には属さない世界のことを語ろうとするのだから最初から科学的な証明は不可能なのだが、ある種の理解は成立するのではないかと思う。わたしは、その理解をサイケデリックスにより変容した認識により得ることができると考えている。それを別の言い方でいえば、ラーマクリシュナがヨーガに4つの道があると語っているうちのひとつギャーナ・ヨーガになるのではないかとも思う。
 5MEO−DMTは直接的体験として意識(この場合、普遍・遍在意識とでも呼ぶべきだろうが)だけが存在している世界に人を運ぶ。それは言葉ではとても表現できない「見る」と「在る」がひとつの世界、あえて形容すると果てのない、具象物のないパルスの海面のような世界だった。
 ラーマクリシュナは度々、無分別三昧(nirvikalpa-samadhi)という意識状態に入っていたといわれるが、その記述は5MEO−DMT体験そのものだ。「あれ」(5MEO−DMTの世界)は言葉では表現できないから、ラーマクリシュナがいろいろな比喩は語りながらも、無分別三昧の世界自体については、ほとんど語っていないのもよく分かる。

[ひとりごと]