ALTERED DIMENSIN
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2000.11.30
[ひとりごと]

大麻の変性意識について(2)

ストーンの意識レベル

 マリファナが強く効いている状態のことをストーンすると言ったりする。それは「石のように動けなくなることから」(『アメリカ俗語辞典』研究社)生まれた表現だという。自分が石になってしまうのだ。ある程度、マリファナを知っている人なら誰でも経験したことのある状態ではないかと思う。
 奇しくも、自分が石になるということにもうひとつの解釈もあるのではないかと思っている。
 それは、例えば庭の石をなにげなく見ていると、その見ている対象の石に意識が張り付いてしまうこと。そこに意識が集中するため、自分自身が石になってしまうことだ。部屋の中にいるのならば、花瓶や机の上のペン、ドアのノブ、窓枠の金具などなにげなく見ている対象に意識が張り付いて、没入した状態だ。そのとき、妙な表現だが、自分がペンになってしまった、あるいはノブ、金具になってしまったという体験をする。
 またマリファナをしていてそれまでなにげなく見てきた物、ただそこにあった物体が信じられないぐらいありありとした存在感で感じられたという体験もよくある。見慣れた家具が、見違えったように生き生きと見えてくるといった話しをしてくれた人がいたが、それは見ている対象に意識が張り付くという状態の前兆と言ってもいいだろう。
 これまで人間の意識を階層構造としてとらえる説がフロイトやユングからケン・ウィルバーに至るまでいろいろな論者から提起されている。とりあえずここではウィルバーの意識のスペクトル論に基づいて話をすすめる。あまり横道には逸れたくないので説明は省くが、意識(=自己意識)の深まりは、広がりと同じことでもあるのを押さえておきたい。 
 ブッダは修行中にアラーラ・カーラマという行者を訪ね「無所有処定」を学び、ウッダカ・ラーマプッタという行者からは「非想非非想処定」を学んだといわれる。ブッダはそれらの教えに満足できず、さらに修行を深め「無我」を悟りとして見出した。そういった経緯から「無所有処定」や「非想非非想処定」が「無我」に至る手前の意識レベルだということが見てとれる。
 「無所有処定」とは、なにものも所有しないということを体得する禅定、「非想非非想処定」はなにものも思い浮かべるのでもなく、なにものも思い浮かべないわけでもないという境地を体得する禅定だといわれる。これらの意識レベルは、日本の伝統文化の中で語られる無常や無心に相当することが分かる。無心というのは「心や感情を持たないこと」(『広辞林』)で、芸道や武道を極めた境地だともされてきた。
 ケン・ウィルバーの意識のスペクトル論では、そのあたりの意識を「実存のレベル」と言って、心身合一の意識としている。コリン・ウィルソンが『フランケンシュタインの城』や『右脳の冒険』といった本で理想化している意識状態も同じレベルのことだ。
 インドで生まれた仏教の無我は、日本に土着化する過程で実質的には無心に変質(意識のレベルでは後退)していったのだ。
 「日本人の現世志向的な特徴が、「無我」というような極度に形而上学的な観念を、受けつけなかった……。むしろそうした「無我」にかわって登場してきたのが、浄らかな精神状態を追求する「無心」「無私」でした。……私を「無」にするということは、私を「自然」そのものに無限に近づけるということでもあります。自然に近づいてそれと一体化したとき、私は私でなくなる。自然に近づいた私が、自我を離れた無心の自己になるのであります」(「日本人の宗教感覚」山折哲雄)。
 前回、マリファナをしているときには意識が子供の頃に戻っていると語ったSさんの話しをしたが、『広辞林』を引くと無心には「(多く、こどもにいう)無邪気。「――に遊ぶ」」という意味もあるのは面白い。
 ここまでの話を整理すると、日常意識を深めた意識レベルとして無心があり、さらにその先に無我があるのだが、マリファナのストーンは大体、無心から無我の手前あたりに相当する意識レベルだということになるだろう。

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