『RENK』第8号(1995.10.31)所収
「真の人権」を擁護するのは誰か
――『労働新聞』論説を批判する
菊池久彦 (RENK事務局)
■はじめに■
去る7月9日、大阪での講演のなかで、北朝鮮で強制収容所に収容された経験をもち、のちに韓国に亡命した「生き証人」、安赫(アン・ヒョク)さんは次のように述べた。
「北朝鮮では『人権』という言葉を知らなかった。南に来て、韓国の人たちが『人権、人権』と言うので、どんな『券』なのかと思った」。
北朝鮮における人権抑圧状況は、この一言に余すところなく表現されている。言葉すら知らされていないなかで、その中身が保障されているはずはなかろう。
もちろん北朝鮮当局は、「人民の基本的な権利と自由は、完全に守られている」、「政治犯、強制収容所などは存在しない」と強弁してはばからない。しかし、北朝鮮社会が朝鮮労働党−金父子独裁体制による、想像を絶する抑圧の下にあること。今となっては、朝鮮総連とそのとりまき以外、このことを疑う者はいない。現在、日本では帰国者の遺家族たちが、勇気を持って真実を口にしはじめ、アムネスティ・インターナショナルを中心に、世界的にも北朝鮮政府を追及する声が上がっている。
■『労働新聞』論説の意味■
こうしたさなかの今年6月24日、朝鮮労働党機関紙『労働新聞』に「真の人権を擁護して」と題する論説が発表された(※)。スン・ジェスン、ロ・ヨンの連名による個人署名文章だが、北朝鮮政府の公式見解と見てよいだろう。
論説は「人権問題を正しく解決しよう」、「帝国主義者たちの『人権擁護』策動を打ち砕こう」、「われわれ式社会主義を守ろう」という見出しの、三章構成である。一読してみて、アキれる他ない内容である。だが今回は、従来とは少々論調が違う。もちろん、人権抑圧の事実をハッキリと認めてはいないが、これまでのように、頭から「わが国に『人権問題』は存在しない」と言ってはいない。
論説はつまるところ、「西洋式の人権」と「北朝鮮式の人権」は内容が異なり、後者のほうが「正しい」、したがって、「誤った」前者を基準にして、北朝鮮当局を非難するのは「不当だ」、と主張している。しかし、逆に言えばこれは、北朝鮮の人権状況が国際的な人権概念から逸脱している、と自ら述べるのに等しい。いわば「開き直り」である。
冒頭に書いたように、亡命者・帰国者遺家族の証言や人権団体などの追及によって、北朝鮮における人権抑圧状況は、もはや隠し通すことが困難な状態にある。そこで、北朝鮮当局は追及・非難をかわすため、手前勝手な「人権」概念をねつ造し、「開き直り」に及んだのである。人は正当な反論ができないとき、えてして「開き直り」に走る。その意味で、今回の論説は北朝鮮当局の危機意識を示しているのだろう。
だが「開き直り」である限り、その論理はすぐにほころびもする。以下、論説の内容を少々詳しく見ることによって、北朝鮮式「人権」概念を検討してみたい。
※ 本文章では、RENKによる日本語訳(抜粋)を使用した。他には、『朝鮮時報』('95・7・24〜8・10)、『現代コリア』('95・8/9月号)に、日本語全訳が掲載されている。
■「人権は国権」か?■
はじめに置かれた、「人権問題を正しく解決しよう」という章では、北朝鮮当局の考える「人権」概念が示されている。まず、冷戦後の世界政治においては人権問題が重要な課題となっており、それに乗じて「帝国主義者たち」が「西洋流の人権基準」を持ち回り、他国への干渉を強めている、との情勢認識をふまえ、次のような基本命題が述べられる。
「自主的で創造的に生き、発展しようとすることは、社会的な人間の神聖な権利である。自主性を生命とする社会的な存在としての生存と権利、これが人権である。」
どうもよく分からないが、「自主的」という言葉がミソのようだ。ともかく続けよう。
「もとより人権問題は、各国の自主権に属する問題である。あらゆる国と民族は、自らの運命を自らの手で開拓し得る、神聖な民族自決権を持っている。人権問題も決して例外ではない。」
「人権とは国権であり、国権とは自主権である。自主権を失った人民はどのような人権についても語ることができない。」
どうやら、人権は国家によって制約され、その根拠には民族自決権がある、と言いたいようだ。「自主的」「自主権」の中身はこれだろう。「民族国家」を神聖視する、北朝鮮の公式イデオロギーである。だが、どこかおかしい。
例を挙げよう。「日本国憲法」には「基本的人権」についての項目(第11条)があり、これだけを見ると、国家の法律が人権を制約しているように思える。しかし、実は逆である。憲法前文にあるように、憲法は「人類普遍の原理」に基づいて制定されている。これは、なにも日本に限ったことではない。各国の憲法も同様の主旨だろう。その意味では、国権といえども世界全体の水準と無関係ではあり得ない。
ここで言う「人類普遍の原理」とは、「主権在民」のことだ。制度の面から「法治主義」「民主主義」と言ってもよいし、内容の面から「人権尊重」と言ってもよい。この原理に基づいて、「民」は政治権力に対して、人権の充実を求めたり、憲法改正をはじめ、国家体制の改編を行うことができる。あるいはまた、国境に捕らわれず、世界各国の「民」との間に連帯・友好関係を築くこともできる。つまり、理念から言えば、人権が国家を制約する、と考える方が正しいのである。
仮に、論説の論理が正しいとしても、すぐに多くの疑問が生じるはずだ。複数の異なる民族によって形成された国家はどうなるのか。あるいは、国家を形成していない民族、国家の形成を選択しない民族はどうなるのか。そこに人権はないのか……。また、この論理で行けば、ある国の人権状況に苦言を呈することは内政干渉であり、それ自体が人権侵害となってしまう。しかしそうなると、ミャンマーのアウンサン・スー・チーさんを助けることはできないし、世界各地で生じる人権侵害に目をつむることになる。何よりも、北朝鮮当局が韓国の人権抑圧(「国家保安法」など)を批判すること自体、許されないことになってしまう。明らかな矛盾ではないか。
■「仁徳政治」のカラクリ■
人権は国家によって制約される、と考えるかぎり、「法治主義」「民主主義」もまた実現されるはずがない。論説はこの点について、次のように言う。
「この世で、最も高い水準で人権を保障してくれる政治は、仁徳政治である。仁徳政治は、愛によって人民の幸福を開花させ、信頼の力で人民大衆を固く団結させ、真実の生を享受させる、先進的で人民的な政治である。」
儒教思想に詳しいわけではないが、一般に「仁徳政治」といえば、徳の高い、つまり思慮深く高潔な人格の人間が、「民」を統治するということだろう。だから、そもそも「民主主義」は問題にならないわけだ。
論説によれば、従来の「社会主義」諸国が人権抑圧を招いたのは、「仁徳政治」が実現されなかったからだそうだ。他方、北朝鮮ではこうらしい。
「人間の権利と尊厳が最大限に尊重される、仁徳政治のもとでは、どれほどわずかな人権侵害現象もあり得ない。」
ここまで言われると、開いた口がふさがらない。誤解を恐れずに言えば、「仁徳政治」が本当に実現され、人々がそれに満足していれば、文句を言う筋合いはない。だが、金父子体制の所業をどのように言いくるめれば、「仁徳政治」と言えるのだろうか。「徳の高い」人間が統治するはずの社会で、なぜ罪もない人々が強制収容所に入れられ、「獣のような生活」を送らねばならないのか。
論説の論理はこうである。
「人民大衆に真の人権を保障しようとするなら、それを侵害する反動的で反革命的な要素を徹底的に除去しなくてはならない。反動分子どもに制裁を加えるのは、人権の敵による策動から人権を守るための、正々堂々とした主権の行使である。」
「社会主義社会では、反革命分子どもは、いわば徹底的に人民の利益に背く反逆者・売国奴であり、人権を踏みにじった人間のクズどもである。こんな者どもに、人権という言葉は相当しない。」
何ともすさまじい言葉である。なるほど、人間を「人間」と「人間のクズ」つまり「人間以外」に分けてしまえば、後者に「人権」を保障する必要はない。
周知のように、北朝鮮社会には「成分(ソンブン)」という身分制がある。それを援用して言えば、真に「人間」とみなされるのは「核心階層」であり、この部分は、物質的にも制度的にも「人権」の恩恵を受ける。「動揺階層」はそれより低いランクの「人権」を、場合によって受ける。「反動階層」は「人間」とはみなされず、「人権」とは無縁である。
このように、「北朝鮮式人権」概念は、そもそもの根本が間違っている。人間を「人間」と「人間以外」に分け、それに応じて人権を「分配」する思想によっては、「真の人権を擁護する」ことなどできようはずもない。
■「西洋式人権」の批判!?■
続く「帝国主義者たちの『人権擁護』策動を打ち砕こう」の章では、北朝鮮当局から見た「西洋式人権」概念が批判される。
「帝国主義者たちこそ、人権の悪辣な蹂躙者である。」
「帝国主義者たちが騒ぐ『人権擁護』の戯れ歌は、資本主義社会を美化粉飾する道具である。」
「帝国主義者たち」は、自国での人権抑圧や侵略者としての本性を隠すために、「人権擁護」の看板を持ち回っている、と言うわけだ。例として挙げられるのが、米国と韓国である。
それによると、まず米国では「多くの悪法」と「強大な暴圧機構」によって、「言論・出版や集会・デモに対する弾圧」が行われていると共に、多くの失業者が放置されている、と言う。
「……米国の億万長者がモロッコの避暑地に行き、誕生日の祝宴で数百万ドルを使ったとき、一日一食も満足に食べられず、最も貧しい生活の者は四千万人を数えた。」
かくして、こうした国に人権を語る資格はない、と断定される。
次に韓国については、「国家保安法」をタテに「人民の政治的自由と権利を、徹底的に蹂躙して」おり、北朝鮮にシンパシーを抱く者は弾圧され、政治囚は長期にわたって迫害されていると言う。
「人間がいても人権がない南朝鮮は、文字どおり一つの巨大な監獄になっている。」
さらに、「20世紀の文明時代」にこうした地域が存在するのは、「人類への冒涜(ぼうとく)」とまで言うのである。
■批判の刃■
論説の筆者には、たぐいまれなパロディの才能があるようだ。文中の米国と韓国の文言を北朝鮮と入れ換えても、そのまま通用してしまう。
一握りの権力者が独占する「法」と、至る所で民衆を監視し、弾圧する「暴圧機構」によって、官製の集会やデモ以外許されないのは、どこの国か。民衆が一日一食も食べられない中、権力者のために、無意味な建造物や銅像を造り、お祭り騒ぎを繰り広げるのは、どこの国か。国外の情報に触れる者や権力者の批判を口にする者は、有無を言わさず「山(収容所)送り」にされ、全土が文字どおり収容所半島と化しているのは、どこの国か。言わずもがなだろう。
誤解のないように言えば、米国や韓国の人権状況に大きな問題があるのは確かだ。米国が対外的に「人権」を言うとき、それは人道上の配慮よりも、国益に基づく外交政策の一環であることは、よく知られている。その意味で、米国の言う「人権」は「二重基準(ダブル・スタンダード)」だ、という論説の指摘は誤りではない。また、韓国における「国家保安法」は、やはり悪法である。この法律によって、多くの民主的人士が辛酸をなめてきたのだから。日本の人権状況についても同様であり、誤りはいくらでもある。
しかし、言うまでもないが、米国や韓国の誤りを指摘したからといって、ただちに北朝鮮の正しさが証明されるわけではない。肝心なのは、人権を擁護する政策が実際に行われているかどうかである。この点、既に述べたように、「北朝鮮式人権」は「西洋式人権」の水準さえクリアーできていない。
つけ加えれば、米国や韓国における人権も、多くの先駆者たちが流した血によって獲得されたもである。それを、論説のような「紋切り型」で批判するのは、人権を求めて闘った(闘っている)人々を冒涜するものだと言わざるを得ない。
他者を批判するのは自由だ。しかし同時に、その「批判の刃(やいば)」は、自らに突き付けられてもいることを忘れてはならない。
■リフレインは続く■
それでもなお、北朝鮮当局は「自己流」の「人権」概念に固執するつもりらしい。
「真の人権を擁護するための、わが人民の闘いは、党と首領の権威を擁護し、われわれ式社会主義を固守するための聖なる闘いである。」
最後の章、「われわれ式社会主義を守ろう」は、こうした、いつもながらの「決まり文句」で始まる。
私たちが最も一般的に耳にする、人権という言葉のなかみも、単に自分の人権だけを主張するものではない。人権が人類普遍の原理であるなら、自らに人権が備わっているのと同じく、平等に、他者にも人権が備わっている、ということである。つまり、人間としての、いわば「水平の関係」をあらわすものであり、決して、唯一の「偉大な首領様」に帰属するような「垂直の関係」を意味するものではない。まして、人間の手を離れてますます肥大していく、「党」なるものを擁護するためのものではない。
以上の意味での人権も、北朝鮮当局から見れば、「帝国主義者たち」の悪質な策動ということになるのだろう。
「われわれ式人権、われわれ式社会主義を擁護し、実現する道は、人間中心の哲学であるチュチェ思想を、より徹底して具現することにある。」
「われわれ式人権、われわれ式社会主義をガッチリと擁護するためには、首領・党・大衆の一心団結をより一層、打ち固めなければならない。」
「決まり文句」のリフレインが続くのみである。
■国際人権規約と北朝鮮■
さて、北朝鮮は1981年に『国際人権規約』を批准し、'83〜'84年には、「自由権規約」についてのイニシァル・レポートを、また'84年12月には「社会権規約」の第6条〜第10条に関するレポートを、さらに'86年6月には、「社会権規約」第10条〜第12条に関するレポートを、それぞれ提出している。(※)
『国際人権規約』は、上に書いた「社会権規約」と「自由権規約」、および「選択議定書」の三つによって成り立っている。『国際連合憲章』をバックボーンとし、『世界人権宣言』を具体化するものとして、1966年に国連総会の場で採択された。
『同規約』は、「人類社会の全ての構成員の固有の尊厳および平等の、かつ奪い得ない権利を認めること」が、世界平和の基礎となる、という理念を軸としている。また、「人権および自由の普遍的な尊重および遵守(じゅんしゅ)」に励むことが、批准の前提とされている。つまり、明らかに『同規約』は、「人権の普遍性」をうたった「フランス人権宣言」(1789)を受け継いでおり、その意味で「西洋式人権」の本流と言うべきものである。
とすれば、北朝鮮当局は、一方では『同規約』を批准することで、「西洋式人権」を受け入れながら、他方では「われわれ式人権」の立場から「西洋式人権」を批判するという、筋の通らぬことをしているわけだ。これはまさしく、「二重基準」ではないだろうか。ちなみに、論説では、この辺りのことは全く触れられていない。
※ 「国際人権規約と北朝鮮」については、『RENK』第3号〜第7号に連載された、同名の論文を参照されたい。
■おわりに■
以上、総花(そうばな)的ではあるが、重点を絞って、論説の検討をしてきた。
冒頭に述べたように、論説は「われわれ式人権」なるものをタテに、北朝鮮の人権抑圧状況に対して「開き直」り、あわよくば問題そのものを「無化」しようとする意図を持っていたと言える。
だが見てきたように、結果的に論説は、その意図とは逆に、人権抑圧状況を「理論的」に解説する役割を果たしてしまった。
やはり、「開き直り」はすぐに「底が割れる」と言うべきか。