『RENK』第11号(1996.11.30)所収
北朝鮮の民主化・全政治囚の解放を目指し、岡本武・福留貴美子一家の救出を!
「よど号」グループ=北朝鮮当局は「真相究明」の声に応えよ!!
菊池久彦 (RENK事務局)
1970年3月、日航機「よど号」をハイジャックして北朝鮮に渡った旧赤軍派、いわゆる“「よど号」グループ”は、これまで、そして今も、北朝鮮当局による特別待遇と引きかえに、金日成=金正日の独裁体制を讃美し、恐るべき民衆抑圧の実態を隠蔽する役割を果たしている。
しかし、その中にあって一人、“権力の走狗(そうく)”たることを拒みつづける人間がいる。岡本武である。彼は1980年代のはじめ、朝鮮労働党の強制する「革命」路線に異議をとなえ、グループ内部の結束を乱したことをもって、他の「よど号」メンバーから隔離された。北朝鮮では、通常ならこれだけでも「万死に値する」行いである。だが、岡本はなおも屈せず、当局の監視の目を逃れ、家族を伴って漁船を奪い、“地上の楽園”からの脱出を試みたのだ。
今にしては、この果敢な行動が成功していればと思わざるを得ないが、無念にも果たせず、結果、当局の手に捕らわれ、一家もろとも政治囚として収容所へ送られたとされる。
私たちRENKは本誌前号で「緊急アピール」を行い、岡本一家が強いられているだろう厳しい現況に対して、注目と救援を呼びかけた。その甲斐あってか、今日までにいくつかの新たな事実が判明し、それらは新聞・雑誌などでとり上げられ、多くの人々の知るところとなっている。
■新たな事実■
8月7日付け『朝日新聞』社会面に、次のような衝撃的な見出しが踊った。
「『よど号』事件/岡本容疑者、妻は日本人/高知出身で20年前失踪」。
その後、同紙の調べで、「妻」とされる女性は福留貴美子(ふくどめきみこ)さんであると判明するが、この時点ではまだ特定されていない。
ところで、この報道が「衝撃的」だというのは二つの意味からである。一つは、もちろん岡本の結婚の事実が公に確認されたことだ。そしてもう一つは、これは非常に重要なことだが、結婚の相手が日本人女性であるということだ。
岡本は少なくとも1983年以降、マスコミ関係はおろか訪朝した支援者たちの前にさえ姿を見せていないという。とうぜんにも関係者の間では、このことが少なからず話題にのぼり、「よど号」メンバーに問い合わせる者もあった。「岡本は朝鮮の女性と幸せに暮らしているので心配ない」。「よど号」メンバーそう答えてきた。
実際、1980年代後半には、岡本から実家宛に手紙が届いている。手紙には自筆で、「金順姫(キム・スニ)という朝鮮人女性と結婚し、彼女の連れ子と一緒に暮らしている。自分も帰化して朝鮮に骨を埋めるつもりだ」と書かれていた。
こうして、岡本本人は姿を現さないにもかかわらず、彼の動静に関する話題は“杞憂(きゆう)”とされ、また、「よど号」グループの活動方針であった「人道帰国」運動から岡本一家を除外することについても、「朝鮮永住を希望している」との理由をもって、合理化が謀られてきたわけである。
しかし言うまでもなく、件(くだん)の新聞報道によって、こうした“大義名分”は全面的な論駁(ろんばく)にさらされるにいたった。
岡本とその他のメンバーとの間に活動方針をめぐる対立が生じ、グループリーダーの田宮高麿(昨年11月死亡)は生前、「岡本は連絡の取れない場所にいる」と語っていたこと。岡本が実在する日本人女性と結婚し、彼女との間に二人の子どもがいること。その女性は1976年7月以降、日本から行方不明となり、翌年、家族のもとに「東欧のある都市」の消印のついた手紙を送ったのを最後に、音信不通となっていたこと。こうした事実が明らかにされたのである。
後に見るように、「よど号」グループはこれらの事実を基本的には否定していない。ではなぜ彼らはウソを押し通し、偽りの“大義名分”を重ねてきたのだろうか。
■唐突な「死亡」説■
だが、事態はこれにとどまらなかった。『朝日』の報道から三日後の8月10日、『中日新聞』は共同通信の配信で、目を疑うばかりの記事を掲載する。見出しはこうだ。
「『よど号』岡本武容疑者と妻/8年前に死亡?/北朝鮮で作業事故」。
情報の出所は「よど号」グループそのものであり、そこから日本の関係者に伝えられらしい。同記事によれば、岡本・福留夫妻は1988年ごろ、娘二人を田宮に預けて作業場に出かけたが、「作業中に何らかの事故が発生して死亡」。現地には夫妻の墓もあるとのことだ。
いかにも“とってつけた”ような印象は否めない。1988年ごろといえば、今から約8年前である。何の背後関係もない単なる「事故死」なら、突発的であるが故の事後処理に手間どったとしても「8年」は長すぎる。しかもその間、日本国内の支援者の誰一人としてこの事件を知らなかったばかりか、噂にすらなっていなかった。「よど号」メンバーの内、これまで二名が死亡しているが、この二名については臨終の後、即座に関係者に連絡が入り、死亡の事実も公表されている。決して何年も秘匿(ひとく)されることはなかった。
このように、「死亡」説は一見して不合理であり、何らかの作為が存在する可能性は極めて強い。ただし、これについては後に当の「よど号」グルーから正式な声明が出ていることもあり、それと併せて再び検討することにしたい。
ともかく、ここで注目すべきは、これまで定説とされ、「よど号」グループも否定していなかった岡本の「帰化」説が、今回「よど号」グループ自身によって否定され、福留貴美子さんおよび岡本と彼女の子供の存在が追認されたことである。
*朝日新聞(96.8.7)―省略
*中日新聞(96.8.10)―省略
■「よど号」支援者の対応■
8月9日の報道から二週間近く経った8月22日、福留貴美子さんの実家を一人の男が訪ねている。男の名は塩見孝也。元赤軍派議長であり、このところ「よど号」グループの日本におけるスポークスマンとしての役割を担っている。
塩見の目的は、平壌にいる「よど号」グループから託された一通の手紙を、貴美子さんの母親・N子さんに届けることだった。
「不幸な知らせを伝えるのはつらいので、思いあぐねて遅くなりました。申し訳ない」。
こう前置きしながら、塩見はその手紙をN子さんに差し出した。
手紙には、岡本・福留夫妻が「事故」で「死亡」していたこと、二人の「遺骨」を引きとりに訪朝してほしいことなどが書かれていたという。また、その際塩見はN子さんに、「田宮と岡本との間に意見の違いがあったようだ」などと伝えてもいる。
それから二日後の8月24日、今度は別の男が東京都内で、非公開の記者会見を行っている。柴田泰弘である。彼は、当時最年少のメンバーとして「よど号」グループに加わり、北朝鮮へ渡った。ところがその後、秘密裏に日本へ帰還していたことが発覚し(1988年)、逮捕、服役を終え、現在は大阪で暮らしている。柴田もまた、「よど号」グループのスポークスマン、しかも「確信犯」である。
さて、関係者によれば、柴田は記者会見のなかで、岡本・福留夫妻の件に関し、おおよそ次のように述べたとのことだ。
「ハイジャックの後2〜3年ごろから、岡本と他のメンバーとの間で路線対立が生じた。『一人で勉強したい』との岡本の要望を受けて、労働党の担当部局が岡本を何度か別の場所に移した。しかし、なおも岡本と他のメンバーとの対立が解消されず、むしろ激化したので、田宮が労働党に相談。それ以降、岡本の消息は分からなくなった。『まずいことになった』と思ったが、どうしようもなかった。他のメンバーと対立していた時期、岡本は北朝鮮への帰化を申請したが、労働党に拒否されている」。
「これまでも、岡本・福留夫妻が1988年に事故死したことを公表しようとしたが、機会を逸してしまった。残された二人の子供には、両親が死亡したことは伝えていない。福留さんが北朝鮮へ来て、岡本と結婚した経緯については、今は言えない」。
「今回記者会見をしたのは、岡本一家の件についてあらぬ噂が出回り、怪しげな団体が動き回っているので、誤解を受けないようにと考えたためである」。
ちなみに、柴田の言う「怪しげな団体」とは、どうやらわがRENKのことであるようだ。彼に警戒してもらえるとは、われわれも「動き回」った甲斐があるというものだが、それはどうでもよい。
■深まる疑問■
ここで注意すべきは、塩見にしても柴田にしても、岡本・福留夫妻が「事故死」したとされる1988年にはいずれも日本にいたということである。とすれば、彼らは北朝鮮での「出来事」を自ら確認したわけではない。とうぜん、彼らの発言は「よど号」グループの見解に拘束されざるを得ない。
もっとも、柴田の場合、彼は日本に帰るまではグループと行動を共にしていたわけだから、その時期の岡本・福留夫妻の動静を知ってはいるだろう。少なくとも福留さんが北朝鮮に来るにいたった経緯は承知しているはずである。彼の発言にはそうしたある種の“含み”が感じられる。また、塩見の場合、グループと直に接したのはここ数年のことである。したがって、岡本の境遇や福留さんの存在について、詳しい事実経過を知らされていなかったようだ。「思いあぐねて遅くなった」という塩見の発言には、唐突な「出来事」に対する戸惑いを見ることもできよう。
それにしても、不可解さはぬぐえない。柴田にとって、岡本はいわば生死を共にした同志だ。塩見にしてもそうだろう。そのような親密な関係にあった者が、きわめて曖昧(あいまい)な形で「事故死」したとされ、しかも長い間そのことを知らされてこなかったのだ。なぜやすやすと「事実」として受け入れてしまうのだろうか。
彼らの発言に共通しているのは、岡本と他のメンバーとの間に何らかの対立があり、そのことによって岡本は政治的には傍流に位置していたということである。北朝鮮では、とりわけ政治的な問題に関して“意見の違い”は絶対に許されない。だから、グループ主流=朝鮮労働党とは異なる意見をもった岡本が、そしてその家族がどのような扱いを受けるかは言わずもがなである。柴田にしても塩見にしても、こうした“北朝鮮流”のやり方を知るが故に「事故死」の報を不問に付し、「事実」として受け入れることで岡本・福留夫妻にまつわる疑問を解消し、自らの信じる「よど号」グループと北朝鮮の政治体制を守ろうとしているのだろう。
■「事実を明かにしてほしい!」■
9月下旬とはいえ雲ひとつない南国土佐の陽射しのなかを、私は福留貴美子さんの実家へと向かった。実家では、貴美子さんの母親・N子さんが待っておられる。
正直、今回の訪問は辛かった。N子さんにしてみれば、20年前に行方不明になった娘が北朝鮮という想像だにしなかった場所におり、あろうことか「よど号」グループの一人と結婚までしていたというのである。これまで、高知の山村で農業を営みながら実直に暮らしてきたN子さんにとっては、まさに“晴天の霹靂(へきれき)”である。しかも、ようやく娘の所在が確認されたと思うま間なく、その三日後、「実は8年前に死亡していた」との悲報が届けられたのだ。
その後も、マスコミ関係者が訪れたり、警察が話を聴きに来たり、塩見が北朝鮮からの手紙を渡しに来たり……。事態を把握するだけでもシンドい話である。
そう考えると気が重くなる。だが、引き返すことはできない。RENKはこれまで、北朝鮮の民主化にかかわる重要な問題として、北朝鮮へ帰国した元在日朝鮮人やその家族、および北朝鮮の工作員によって拉致されたとされる日本人について、北朝鮮当局に安否確認を求め、日本への即時里帰りを要求するキャンペーンを行ってきた。岡本武の件についても、この一環として言及してきたのである。そうした経緯から言っても、福留貴美子さんの問題は座視できない。限られた情報ではあれ、すべて提供し、頼りないとはいえ、いくらかでも力になれるのなら……。こう考え、今日に至った。
やがて80歳になるというN子さんは、しかし、気丈な方だった。私の拙い話にも、最後までお付きあいしていただいた。
「……できることなら、事実をはっきりさせたいです。なんで北朝鮮へ行ったのか、全く分かりません。いろいろ話を聞きましたけど、納得がいかんです。それに、『死んだ』と言うんなら、せめて、いつ、どこで、どんなふうにそうなったのか、きちんと説明してもらわんことには、納得できんです。なにか証拠というか、そのときに着ていた服の切れはしでもあれば、まだあきらめもつきますけど……」。
私は、貴美子さんが「死んだ」という確証は全くないこと、また、北朝鮮には騙されて連れていかれた可能性が極めて高いこと、実際にそうしたケースがいくつもあり、そのなかには、平壌から日本に親元に手紙が届いて初めて、事態が判明した例もあることなどを説明した。
「向こうの人らからの手紙(塩見が持参した、「よど号」グループからの手紙)も見ました。けど、突然『事故死した』とだけ言われても、信じられんです。『8年前に〜』と言うのなら、なんで今まで黙っとったんですか。納得できんです……」。
おっしゃる通りである。「よど号」グループの手紙は全く説得力がない。母親の目をごまかすことはできないのだ。何よりも、真相究明こそが必要なのである。
*福留喜美子さん『SAPIO』(96.10.23)―省略
■「事故死」説の背後にあるもの■
北朝鮮当局はこれまでにも、日本に遺された家族などから帰国者の安否を追及する声が上がるたびに、さんざんじらしたあげく、突然「実は×年前に死亡していた」などと言い出すことがあった。その際、いちおう“理由”らしきものがついてくるが、それはどう考えても荒唐無稽(こうとうむけい)なシロモノである。
「鉱山で作業中に落盤にあった」、「船を奪って逃亡したので、止むなく銃撃した」、「スパイ容疑で処刑した」……。
要するに“常套(じょうとう)手段”なのである。しかも、こうした対応がなされるのは、「死んだ」とされる当人が、何らかの政治的背景によって不幸な境遇にあると推察された場合が多い。
ここで言う「不幸な境遇」とは、例えば人里離れた山奥の荒れ地や鉱山などに隔離されたり、政治的なタブーに触れて強制収容所に囚われたりすることである。後者の場合、社会的には「政治的生命」を失ったことを意味するが、肉体的には即座に危害を加えられるわけではない。
ただし、北朝鮮の「唯一思想体系」とされる「主体思想(チュチェササン)」によれば、「肉体的生命」よりも「政治的生命」の方が重いとされる。したがって、ここに囚われた人々は「肉体的生命」を維持してはいても、北朝鮮流に言えば、「社会的な生存を否定された」という意味で「死んだ」も同然となるのである。また、強制収容所のなかでも、とくに「完全統制化区域」と呼ばれるところに送られた場合、初めから「釈放」は想定されていない。いわば“自給自足の終身刑”であり、こうなると「再生も復活もあり得ない」という意味で、まさに「死んだ」ことになってしまう。
冒頭に触れたように、岡本・福留夫妻は、「よど号」グループ主流つまり朝鮮労働党の方針に従わないことをもって「罪」とされた。しかし、「事故死」はもとより「粛清」された可能性は少ない。おそらくは、上に述べたような形で強制収容所に幽閉されているのだろう。何といっても二人は日本人、また岡本はある意味で“有名人”である。いかに北朝鮮当局とはいえ、そう簡単に死に至らしめることはできない。外交的にもマイナスである。しかも、岡本はかつて金日成から「革命家、金の卵」と評価された者たちの一人であり、そうなれば福留さんは「革命家の家族」である。いわば、二重に“ブレーキ”が働くと見なければならない。
だが、二人が北朝鮮の政治的タブーを侵してしまったことも事実だ。だから社会的には「抹殺」されざるを得ない。北朝鮮当局にとっては非常に矛盾するところである。しかも、事態を放置すれば、いずれ岡本の境遇、さらに福留さんの存在までもが明らかになり、「真相究明」の声があがらないとも限らない(事実、そうなってしまったのだが)。
そこで持ち出されたのが、例の“常套手段”だ。
たしかに「よど号」グループの言う「事故死」説は漠然としており全く信用できない。が、それ以前に、上に述べたような理由から、そもそも「死亡」説自体に重大な疑問があることも忘れてはならない。岡本・福留夫妻の「死亡」が既成事実となり、問題そのものが風化してしまうこと。これを一番望んでいるのが、「よど号」グループと北朝鮮当局なのだから。
■子供たちを里帰りさせよ■
「……貴美子が本当に『死んだ』と言うんなら、せめて子供たちだけでも引きとって育てたいと思うちょります」。
しばらくの沈黙の後、N子さんはそう言われた。その言葉を受け、私は一枚の新聞記事を差し出した。その記事、8月28日付け『読売新聞』夕刊にはこうある。
「赤軍の子供に出生証明発行/近く北朝鮮政府」。
同記事によれば、北朝鮮政府は近く「よど号」グループの子供たちの日本帰国に必要な出生証明書を発行する意向であり、多ければ16人の子供に発行される見通しだという。そのこと自体に何ら問題はない。その後が問題だ。
同記事にあるように、「よど号」メンバーの子供は総勢20人である。そして、既に出生証明の発行された小西の子供二人を除けば、残りは18人になるはずだ。16人では二人足りないのである。言うまでもなく、この二人の子供こそ岡本・福留夫妻の子供である。
子供たちが「帰りたくない」と言うのなら、無理はない。しかし、「よど号」グループは以前から「日本人は祖国へ帰るべき」と“望郷の念”を表明し、それにもとづいて「人道帰国」運動を行ってきた。この論理から言えば、もちろん岡本・福留夫妻の子供たちも帰国対象に含まれるはずだ。グループ自身が福留さんの存在を認めた今、なんら躊躇(ちゅうちょ)する必要はない。まして、グループは夫妻の「事故死」を公言している。これまでさんざん宣伝してきた、「家族愛」「人道」という文句からすれば、両親を失った子供こそ真っ先に帰国させ、夫妻の実家に援助を求めるべきではないのか。
これは手続上の単なるミスとは思えない。もちろん、政治囚とみなされた者の子供だから、その他の子供と同じようには扱わない、という推測も成り立つ。そうかもしれない。よく知られるように、北朝鮮では政治囚に対しては「家族連座制」が適用される。となると、北朝鮮の流儀から見て、子供の別扱いは“筋が通っている”と言えそうである。
しかし、そうだろうか。仮に「連座制」ならば、子供たちも夫妻と同じく「罪」に問われ、両親と同じく収容所は送り免れないはずだ。だが、現実に夫妻の子供はそうなってはいない。他方、「連座制」から逃れるには離婚という手段がある。この場合、一方の親と子供は助かるのだが、岡本・福留夫妻の場合はこの例にも当てはまらない。何とも不可解だ。
ここで一つ思い当たることがある。「よど号」グループがさしあたりN子さんに要請しているのは、「遺骨をとりに訪朝すること」である。先に触れたように、「遺骨」を受け取ることによって親族に「死亡」説を認めさせ、問題そのものを無化するためである。だが、いくら何でも「事故死」説は説得力がない。N子さんが訪朝を拒否し、真相究明を求める可能性も大きい。これは「よど号」グループにとっては困ったことだ。だとすれば、そうならないためにも、親族を訪朝させるに足る、有力な材料が必要となる。
そう、夫妻の二人の子供以上に有力な“材料”はないだろう。考えてみれば、肉親の情を利用した“人質ビジネス”は北朝鮮当局の得意技でもある。
いずれにせよ、N子さんにとって「むごい話」であることは間違いない。
ただ、これはマイナスばかりでもなさそうだ。もしもこの推測の通り、「人道」のかけらもない手段を使ってまで夫妻の「死亡」を認めさせる必要があるとすれば、それは、同時に「死亡」説がいかに無根拠であるかを証明してもいるからだ。
*読売新聞(夕、96.8.22)―省略
■「よど号」グループの「弁明」■
N子さんを訪ねてから一ヶ月あまり経って、ついに「よど号」グループから、岡本・福留夫妻の件に関するコメントが出された。グループの機関紙『お元気ですか』第82号(11月1日付け)に書かれたこのコメントは、文章表現に多少違いがあるものの、雑誌『創』12月号に掲載された赤木志郎の署名による文章と、ほぼ同じである。
さて、コメントの内容はといえば、基本的に、岡本・福留夫妻の問題に関して「よど号」グループに投げかけられている、疑問や批判に対する反論である。とくに新しい論点はないようだが、初めて公表された直接の反論という重要性に鑑(かんが)み、逐語的に再批判を行いたい。
<1>
コメントはまず、高沢氏による「よど号」グループへの批判に対して、「自分の都合のいいように田宮同志を利用しながら、その死についてまで、『知りすぎた男の死』と疑惑をかきたてています」とし、「それは岡本夫妻の死に対しても同じで、“反共和国闘士”李某と共にあれこれ騒いでいますが、残された家族のことを本当に思っているなら、こうはできないでしょう」と述べている。
ここで、「残された家族」が誰を指しているのか気にかかる。考えられるのは、日本に住む親族、北朝鮮にいる子供たち、このどちらかである。そしてどちらにしても、コメントの言う批判は的外れである。
すでに述べたように、福留さんの母・N子さんは、貴美子さんがなぜ北朝鮮にいたのか、本当に事故死したのか、なぜ8年も黙ったままにしておいたのか、すべてに「納得がいかない」のである。「よど号」グループからの手紙を見ても「信じられない」のである。疑問を疑問として提示し、真相究明を求めたところで何らおかしくはないし、迷惑をかけることにもならない。それは岡本の親族にとっても同じだろう。
北朝鮮にいる子供たちにとっても、両親が知らないうちに「死んだ」とされ、しかも余計なお世話で何年も後に知らされ、どうして素直に受け取れるだろうか。まして、他の子供たちは日本へ帰国する準備が整いつつあるのに、自分たちだけが“蚊帳の外”に置かれているのである。どう考えても変ではないか。それについて説明を求めることの、何がいけないのか。
あるいは、この問題を追及することによって北朝鮮当局の逆鱗(げきりん)に触れ、子供たちの安全が脅かされる、とでも言うのだろうか。これなら理解できないでもないが、心配は無用である。これだけ衆人環視にさらされてしまえば、北朝鮮当局も手出しはできない。
ともかく、「残された家族」の気持ちを長い間踏みにじってきたのは、むしろ「よど号」グループ自身であることは明らかである。
<2>
次にコメントは、岡本・福留夫妻について、二人が「1980年代の初め」に「工場か農場で働きたいと朝鮮側に提起しました」と記している。これに対しその他のメンバーは、「私たちは初志を貫き共に闘っていこうと彼らと何度も話し合い、彼らが別な場所で生活するようになった後にも、話し合いを続けました」とのことだ。だが結局、「しかし、彼らの気持ちは変わらず、ついに1986年の末に地方に行くようになりました」。
不思議な文章である。「初志を貫き共に闘う」ことと「工場か農場で働く」ことはどう違うのか。離れて暮らしていても「共に闘うこと」は可能ではないのか。この場合、そうではなかったということだ。「何度も話し合い」を続けなければならないのは、岡本・福留夫妻の考えと他のメンバーの考えとが異なり、それが容易に修復し難かったことを示している。
また「気持ちは変わらず」とか「ついに」という言葉のニュアンスは、明らかに否定的なものである。それもそのはず、北朝鮮では、権力による強制なしに、住居や配給が保障された「革命首都」の平壌を離れ、わざわざ好き好んで「地方」へ行くことを望む人間はいないからである。
言い換えればこうだ。“二人は「1980年代の初め」、他のメンバーの考え、つまり朝鮮労働党の方針に同調できなくなった。他のメンバーは「何度も話し合い」、二人が「別な場所」、おそらくは招待所に隔離されてからも説得を続けたが、結局、北朝鮮当局の手先にならないという「気持ちは変わらず」、「ついに1986年の末に地方」つまり強制収容所に囚われることになった”。
隠し通したつもりのその隙間から、事実はいくらでもこぼれ落ちてくる。
<3>
コメントは続く。「私たちがこれまで、この事(岡本・福留夫妻の件・引用者)を明らかにしてこなかったのは、子供が余りに小さく、またそうでなくとも心に傷を受けていた子供たちをこれ以上悲しませることができなかったからです。また、当時、結婚の事実について公表していなかったため、その時点で発表できなかったという事情もありました」。あるいは、こうも言っている。「岡本夫妻の死亡に関する問題は、元来、遺族と私ち(ママ・引用者)との問題ですから、これまで私たちは大きくなった子供たちと遺族の方にお伝えしただけで、公表は控えてきました」。
たしかに、幼い子供に両親の「死亡」を告げるの辛い。いくつになったら伝えるべきか、悩むところだろう。だが、岡本・福留夫妻の子供は現在、姉が19歳で妹が15歳といわれる。「8年」ものあいだ隠し続けることはあるまい。それに、「そうでなくとも心に傷を受けていた」とはどういうことか。考えられるのは、両親と離ればなれになっていたということだろう。だが、「単身赴任」でもあるまいに、働くために「地方」へ行っただけならば、子供たちを連れていくのが自然だし、もしよんどころない事情で連れていけなかったとしても、年に何回かは子供たちに会うために帰ってこれるはずである。そうであれば「心に傷を受け」たりはしない。つまり、全く離ればなれで暮らしていた、というよりも、そのように強制されていたということだ。
後者の文章もおかしい。リーダーの田宮が死亡した際、「よど号」グループはいち早く事実経過を公表し、日本の支援者たちにも連絡を入れている。また、追悼声明では田宮の生前の活動を讃えている。
これと比較すれば、岡本・福留夫妻への対応は対照的だ。岡本が最後まで“同志”だったというなら、彼が何を考え、何をなさんとしていたのか、きちんとまとめ、人々に伝えるべきではないのか。当時は事情があったにせよ、今日に至るまで、いくらでも機会があったはずだ。
福留さんについてもそうだ。彼女が他の“「よど号」グループの妻たち”と同じく、自ら望んで、あるいは少なくとも共感をもって北朝鮮にやってきたのなら、その想いのいくばくかでも明らかにすることが、せめてものはなむけであるはずだ。「不慮の事故」で「死亡」したというならなおさらである。なぜ、存在自体を隠し続けねばならなかったのか。政治的な配慮以外にあり得ないではないか。
そもそも、「岡本夫妻の死亡に関する問題は、元来、遺族と私(た)ちとの問題です」というのなら、田宮の死も同じだ。グループのなかで扱いが違うのは、どういうわけか。
<4>
福留貴美子さんの存在をめぐる疑問に関して、コメントでは「明確な事実関係の歪曲」として、二点ほど触れられている。
「その一つは、福留さんの存在を伝えた新聞記事(朝日8月7日付)が私たちを慌てさせ、二人の事故死の発表につながったかのように書いていることです。(中略・引用者)しかし、事実はまったく異なっています」。
コメントの言う事実は、こうである。
「よど号」グループは岡本・福留夫妻の「事故死」を親族に知らせるため、今年7月末に塩見に訪朝を要請し、その際「8月1日付」の親族宛書簡を託した。塩見は8月4日に帰国し、しばらくしてからN子さんを訪ね、書簡を手渡した。つまり、新聞報道の前に書簡は書かれているのだから、「新聞報道に慌てた」というのは「全くのデタラメ」だ、というわけだ。
塩見が持参した書簡の日付が「8月1日」だというのは、その通りだ。したがって、まちがいは訂正すべきだろう。だが、問題はそんなところにあるのではない。
何度も言うように、高沢氏が、また李英和や私が、そして何よりもN子さんが問題にしているのは、貴美子さんがなぜ北朝鮮にいるのか、「事故死」したという証拠は何なのか、なぜ「8年」も黙ったままにしておいたのか……、といった根本的な経緯の説明である。「よど号」グループはこの点について、今回のコメントでもはぐらかし続けている。「全くのデタラメ」などと、鬼の首でもとったように言う前に、これらの一つでもまともに答えるべきなのだ。
そもそも、なぜ今年になって初めて、しかもこの7月から8月にかけて、福留さんの存在と夫妻の「事故死」を公表したのか。まさに、今年の春から夏にかけて、岡本武の境遇がにわかにクローズアップされてきたからに決まっているではないか。8年ものあいだ隠し続けてきた岡本の境遇が暴露されはじめたからには、いずれは福留さんの存在も隠し通せるはずはない。そう踏んだからこそ、「慌てて」書簡を作成したのではないのか。
<5>
「明確な事実関係の歪曲」の第二点としてとりあげられているのが、岡本「帰化」説の元になった、例の手紙についてである。
「また、彼らは岡本氏から88年以降に日本に手紙(朝鮮の女性と幸せに暮らしているという内容)が届いているとも言っています。私たちも当時、その手紙については朝日新聞を見て知ったのですが、それは86年、あるいはそれ以前です」。だから、「88年以降も岡本夫妻が生存していたかのように書き立て」るのも、「全くのデタラメ」と言いたいようだ。
「よど号」グループが「朝日新聞を見て知った」という「手紙」の内容は、実際の岡本の境遇とは全く異なったものだった。それを承知の上で、なぜ訂正もせずに済ませていたのか。「86年、あるいはそれ以前」といえば、ほぼ10年以上前のことである。今までにいくらでも訂正の機会はあったはずだ。
もちろん、「よど号」グループが「手紙」の内容を否定するどころか、逆にそれにのっかる形で、支援者にまでウソの説明を振りまいてきたのには、それ相応の理由がある。つまり、「手紙」の内容を否定しなかったのは、それが岡本の境遇と福留さんの存在を隠し続ける上で、グループにとって都合の良いものだったからだ。実際、それは今年にはいるまで、グループのもくろみ通りの効果を発揮した。
だが、すでにその効果は失われたのである。「88年以降」か「86年、あるいはそれ以前」か、そんなことは主要な問題ではない。グループ自身も明確に確認していないわけだし、どのみち調べればすぐにわかることだ。
なぜ岡本がウソの「手紙」を書かねばならなかったのか、岡本はそれを自由意志で、つまり強制なしに書いたのか。また、「よど号」グループは「手紙」の内容がウソと知りつつ、なぜ今まで黙っていたのか。これらこそが真に問題なのだ。
事実が明らかになった今、小賢(こざか)しい論理のスリカエをするひまがあったら、正直に疑問に答えるべきだ。そして、岡本・福留夫妻の救出に尽力し、二人の子供を真っ先に「人道帰国」させるべきだ。これらは、「よど号」グループが自らの所業に対して、現時点で果たし得る最低限の責任である。
■最後に■
私がお宅を辞する際、N子さんはご高齢にもかかわらず、門のところまで見送りに来られた。そして、「お身体に気をつけて」とのあいさつに、「ええ、がんばりますき」と答えられた。その声が、今も耳に残っている。
N子さんのこの言葉は、単に彼女一人のものではない。それは同時に、岡本・福留夫妻の言葉であり、北朝鮮の圧制の下に置かれた、すべての人々の言葉なのだ。
何よりも真相究明を! 岡本・福留夫妻の一刻も早い救出を! 二人の子供の肉親のもとへの帰還を!
われわれRENKは、「北朝鮮の民主化・全政治囚の解放」とともに、今後ともこの問題を訴え続けて行くつもりである。