パーティーを捨てよう!

この記事はかなり古い(1998年かその頃)に書いたもので現在の考えと異なる部分があります。特に「TRPGはシナリオをクリアすることが目的ではない」という部分は完全に異なります。

追記

はじめに

何か過激な題が付いているが内容は題と少し違ってTRPGのプレイスタイルについて最近考えていることを書こうと思っている。

重要な用語

第一世代のRPG 一般的に世界設定などはなくゲームを運用するルールで成り立つ。プレイスタイルもよりゲーム的であり、その目的はモンスターを倒すことと宝探しであることが多い。代表的な例はD&D、T&Tなど。
第二世代のRPG より世界観を重視するようになった時代のRPG。システムも世界観に沿って作られる部分が多く、世界設定が非常に多い場合が多々ある。プレイスタイルとしてはキャラクターはその世界の住人としての立場が明確であり、その世界の中でどうするかということが求められる。代表的な例はルーンクエストに代表されるベーシックロールシステムのゲームなど。
第三世代のRPG キャラクターに焦点を当てるようになった世代のRPG。システムとしてはキャラクターの位置づけを明確にし、他のPC、NPCとの関係を重視するようになっている。また、ロールプレイを支援(強制)するようなルールが組まれていることが多い。代表的な例は天羅万象、深淵など。

ルールとキャラクター表現

最近(といっても結構前だが)、いわゆる第三世代のRPGといわれるカテゴリーのルールがいくつか発売された。その中でも大作(?)なのは天羅と深淵だろう。これらのルールはキャラクターを演出することに重点を置いている。特に、天羅に至ってはシステム側からかなり強力にそれを強制してさえいる。これらのルールやVampire:the masquearadeと言ったルールでは今までのルールにはない特徴があると思う。それは、特にルールには明記されていなかったと思うがキャラクター(プレイヤー)側からのシナリオの展開の提示である(とおもう)。

こういった第三世代のシステムは、今までのシステムでは、マスターの考えてきたシナリオがプレイヤーの関心をうまく引くことができ、プレイヤーがそのシナリオにのって自分で考えて行動したとき、つまり、非常にうまくいったセッションでなくてはできなかったことをルール側から何とかしていつもそういうセッションにしようとしているといえる。

キャラクター表現とシナリオ展開

まず、一般的に言ってキャラクター側からシナリオの展開の提示ができたというのはどういうときだろうか?

私の経験から言って、キャラクターが動くことによってシナリオが発展するときと言うのは、複数のキャラクターが自分の意見を主張し、行動したときである。個々のキャラクターがキャラクターの意志で自由に動いたときと言ってもよい。そして、その意見、行動がキャラクターの設定に沿ったものであり、発展的なものであったときに優れたものとなる。

しかし、いくつか注意すべき点がある。

ひとつは、キャラクターの意見、行動が設定に従い、かつ発展的なものであるという点。これはかなり重要だ。自分のキャラクターの設定を守るだけになってしまってはいけない。キャラクターの設定にそうだけなら結構誰にでもできるし、難しくはない。しかし、設定に縛られすぎて、その設定が全てになったキャラクターは普通に動けないばかりか、他のキャラクターに迷惑をかける。

例えば、Aというプレイヤーのキャラクターはある種族を憎んでいるという設定だったとしよう。そして、Bというプレイヤーのキャラクターがその種族だったとする。そして、AはBのキャラクターに対して剣を抜くと言う行動をとったとする。(まぁ、このくらいは問題ではない。)そこで、Cというプレイヤーのキャラクターがそれを見かねてAとBのキャラクターを仲裁しようとした場合、Aのキャラクターは個々で一応止まる必要がある。もちろん態度としてはBのキャラクターは気に入らないとしてだが。これがAのキャラクターが止まらずにBを切ってしまった場合おそらくシナリオは崩壊すると思う。それも、この例のシチュエーションでは序盤、それもキャラクターを引き合わせるための導入の部分であるからかなり悲惨だ。

で、この例は何かというと行動が発展的であるかどうかと言うことである。つまり、最初のAが一応Bのキャラクターを切ることをやめたのはこの先どうするかということを考えた行動であり、他のキャラクターとの人間関係、自分のキャラクターの意識的な成長を含めて発展的であるといえる。また、このAのキャラクターの行動によってB、Cの立場も明確になるし、行動の方向付けも楽になったはずである。

しかし、後者の斬りかかった例では確かにAは設定には従ったがそれだけであり、それによってセッションを崩壊させている。これはとてもじゃないが発展的であるとは言い難い。言い換えると考えの足らない幼稚なプレイである。

次に注意するべきなのは複数のキャラクターが意見を主張し、行動することである。先の例ではA、Cがそれにあたる(おそらくBもAの行動にリアクションして何かしているはずだから本当は3人だろうが)。もし、これがAだけの行動であったならBとの戦闘になってやはりシナリオが崩壊するだろう。従って、Cの行動が重要だったと考えられるわけである。そして、この例ではそれぞれが自分を主張して行動したことによってセッションが構築されている。つまり、一人が動くだけではシナリオは展開しないともいえる。

実際にうまく行くのか

しかし、上に書いたことは簡単そうだが実際やってみるとうまくいかなかったりすることが多い。まず、プレイしている全員に共通の認識が上記のようなプレイをするというものではないからである。しかし、今までの経験、情報からTRPGをやるうえでほぼ全員が共通で持っていると思える認識がある。そして、それらがキャラクターとして自由に行動することを妨げているように思える。それは次のようなものだと考えているのだが。

一つ目はシナリオで提示されたミッションをクリアしなくてはならないということ。もう一つが、パーティーを組むという常識である。この二つに関しては今までのRPGの呪縛のようなものである。

まず、ミッションを達成することに関してはミッションを達成できないと報酬(特に、経験値)が手に入らないことが多いからである。いわゆる、キャラクター達が失敗したシナリオでは経験値が半分とかいうやつである。このおかげで、ずいぶんと動きづらくなる。ミッションを達成するためにはキャラクターがシナリオの目的を無視して(無視しなくても脇道にそれて)動き始めるとまずいからである。しかし、RPGで重要なのはミッションを達成したかどうかよりもそのセッションがおもしろかったかどうかの方が重要なのだからプレイヤー(特にキャラクターの持ち主でない)がキャラクターの行動を押さえるのは少々まずいのである。目的のために最適な手段だけを講じるようになると単なる作戦ゲームになってしまいあまりおもしろくないから。これに関しては、システム側でロールプレイによって確実に経験値が得られるなどをサポートしていない限りプレイヤーはもちろん、マスター側も考え方を変えてキャラクターをうまく演出したプレイヤーに経験値を与えるようにする必要があると思う。

次に、パーティーという考え方である。ふつう、RPGではキャラクターがそれぞれ知り合うところから始まる(いきなり知り合ってる場合もあるが)。そしてその目的はパーティーを組むことがほとんどだ。では何故、パーティーを組むのだろうか?

第一世代のRPGでは理由は簡単である。一人では生き残れないからだ。そして、シナリオの目的は大概がダンジョン歩き(もしくはそれに類似するもの)と宝探しとモンスター退治である。戦闘は当然絡むし、敵は強い。仕方がないといえば仕方がない。この世代のRPGはどちらかというとゲーム的な要素の方が強いからロールプレイのために好き勝手やれと言うのは結構無茶な話だ。

第二世代のRPGでは世界設定はしっかりしたし、キャラクターもモンスターに比べて相対的に強くなった。キャラクターの能力的な成長がそれほど重要な要素でないゲームも結構ある。第三世代のRPGに至ってはキャラクターは強い。そして、モンスターなどは重要でないし、キャラクターの成長、宝探しともに重要ではない。さらに、ミッションの達成ではなくロールプレイによってのみ経験値を得られるルールすらある。いってみれば、自由に行動するための保証は与えられている。これらのゲームでパーティーを組むのはすでに慣例にすぎないだろう。でなければ、他人に頼らなくてはまともにプレイできないプレイヤーが多いのか、キャラクターが危険にさらされる可能性をともかく下げたいだけの保身に走りまくったプレイヤーかのどちらかではないだろうか。

従って、第一世代のRPG以外(特に第三世代)ではパーティーを組むと言うことを考え直した方がよい。キャラクターが何かしようとしたとき足枷となることが結構でてくる。特に自分が何かしたいときに、パーティーの利益とかミッションの達成とか言われるのはつまらない。ただし、他のキャラクター達と知り合わなくてよいわけではない。知り合わないままでは、シナリオの進展も困難だし、マスターも大変だ。知り合った上で、個々のプレイヤー(キャラクター)が自分のキャラクターを中心に人間関係を考えてみるべきなのである。そのうえで、仲間として行動するのか、当面反目するのかを決定すればよい。実際は知り合うタイミングもロールプレイの一環であるから全員が一斉に知り合う必要もないし、逆に最初から知り合いでもかまわないだろう。

要するに、RPGはシナリオをクリアすることが目的ではないし、キャラクターが十分強く自由に行動できるだけのものを与えられているならばわざわざパーティーを意識する必要もないということが重要なのである。

キャラクターからシナリオ提示の利点

では、キャラクター側からのシナリオ展開の提示があってよい点は何だろうか?

まず、マスター側の負担がずいぶんと軽くなる。当たり前といえば当たり前だ。なんと言っても、マスターをやる上で一番大変なシナリオを考えてくると言う作業が軽減されるのだから。それこそ極論すればシナリオの導入だけで話が展開することも考えられる。

次に、プレイヤー側が積極的にセッションに参加する。正確にはせざるを得ないのだが。プレイヤーが積極的にセッションに参加すればそれが楽しいものになることは容易に想像できる。特に、何だあのシナリオは?とか言うことがなくなる。

そして、キャラクターを演出することに重点が置かれるため保身に走る、言動が一貫しない、マンチキンなといったプレイヤーを抑制できる。キャラクターを演出するのだからそういう行動をとりたければそういうキャラクターを作らなければならないし、普通なら、そんなキャラクターを宣言してやりたいと考える人間はいない

結局どうしたら良いのか

最終的に、どうすればキャラクター側からシナリオを展開させることができるのだろうか?

私の考えだが、プレイヤーはキャラクターというフィルターを通して好きなようやればよいのではないかと思う。そして、好きなようにやる代わりに自分の行動に責任を持てばよい。

キャラクターが自由に行動し、自分の意見を主張することによって新しい展開は生まれやすくなるし、それは、一人の人間が考えたものでないから(複数の人間の行動の結果であるから)より自然で、深みのあるものである可能性も高い。当然、キャラクターはアクティブに動くからシナリオの展開がだれると言うことも少なくなるだろう。また、マスターにとっても自分の考えてきたシナリオを語るだけではない、より刺激的なセッションであると思う。

しかし、自由にやるということは好き勝手にやると言うことではない。好き勝手ばかりでは他人に迷惑をかけるし、セッションは当然崩壊する。これは、前に述べた、キャラクターの設定に縛られすぎた場合と同じかそれ以上に悪い。まぁ、両方に共通するのは他人のことを考えないという点である。で、好き勝手ばかりやらないようにするのは何かというと行動に責任を持つと言うことである。しかし、これはむちゃくちゃをしたキャラクターに制裁を加えればいいと言うものではない。プレイヤーが自分のキャラクターの行動、発言を決定する上で他のキャラクター(PC、NPCにかかわらず)を意識しておく必要があるということである。もう少し具体的に言えば、その行動や発言によって他のキャラクターの行動や発言を引き出せるようにすべきだと言うことである。

最後に結論としてもう一度、プレイヤーがが自分のキャラクターの行動に責任を持ち、キャラクターが自由に動くようになれば、セッションはマスターがシナリオを語るだけではなく、プレイヤーも与えられたシナリオをクリアするだけではない、より活発で刺激的なものになると思う。

『The Lunatic』