キャラクタープレイとゲーム

はじめに

TRPGにおいてキャラクタープレイ(キャラクターの人格、思考とそれに基づく行動をロールプレイすること)とルールをきちんと運用することはどうも相性の悪いことだと考えられてるみたいだ。一般的な考え方かどうかは別に統計を取ったわけでもないので分からないがよく耳にする・・・、もとい、よく目にする。特に、ルールがタイトなシステムとは相性が悪いと言われているような気がする。まぁ、これは本当に気がするだけかもしれない。

で、まぁ、常々思うわけだが、これって本当にそうなのか?

結論から先に言うと俺はあんまりそうは思わない。

ということで、少し考察してみる。

キャラクタープレイって?

まず、キャラクタープレイってのはなにものか、ということをはっきりさせておく必要がある。これにはいろいろな使い方があってウェブの世界でもかなり混乱している用語だと思う。もともとは演劇用語か何かのようだけどもこれも良く知らない。

ということで、この文章での定義は「プレイヤーがキャラクターの会話の内容や行動を宣言する際に実際にキャラクターがしゃべっているかのような演技によって行うプレイスタイル」としておく。そして、ここで重要な点はどの程度か、ということを問題にしないところだ。

TRPGの処理と表現

さて、こんどはTRPGにおける行動の処理系を整理してみる。

基本的にTRPGでは行動の処理は次のような手順で解決される。

行動の宣言 → 難易度の決定 → 判定 → 結果の要求 → 結果の決定

当たり前だが上記の処理系には表現のレベルは含まれていない。

これに対して、キャラクタープレイというか表現のレベルを書き加えると次のようになる。

キャラクターの表現 → 行動の宣言 → 難易度の決定 → 判定 → 結果の要求 → 結果の決定 → 結果の表現

最もタイトに処理した場合の経路を書くとこうなる。

では、処理順を明確化したところでそれぞれがどのような意味を持つのかを分けて考えてみる。

表にすると次のようになる。

レイヤ やること 管理者
表現レイヤ キャラクターの表現
結果の表現
プレイヤー
マスター
宣言レイヤ 行動の宣言
結果の効果を決定
プレイヤー
マスター
処理レイヤ 難易度の決定
結果の決定
ルール
プレイヤー
マスター
判定 ルール

まず、この表の意味を説明しよう。

レイヤ

やっていることがどれだけ処理よりか、表現よりかをしめす。

上に行くほど表現より、下に行くほど処理よりになる。

基本的に下に行くほどその処理を省くことはできなくなる。

やること

実際のセッションなどでやることをそれぞれのレイヤに割り当てたもの。

管理者

実際にその処理をだれが行うかを示す。

ルールというのは実際にはルールが行うことはできないが処理がルール的に規定されていて誰が行っても同じことになる、という意味。

また、それぞれのレイヤの意味は次の通りである。

表現レイヤ

キャラクターの行動やせりふ、などを表現する層。例えば、「村を襲ったゴブリンを見つけた○○は前後の見境無く、叫びながら突っ込む」とか。

マスターの場合は行動の結果の情景描写などもこのレイヤに含まれる。

ゲーム的にはこのレイヤは存在しなくても良い。別に、キャラクターや情景など描写しなくてもキャラクターにできることと目的がはっきりしていれば行動はいくらでも行えるからだ。

宣言レイヤ

キャラクターが具体的に何をしたいのか、するのかを明確に周囲(特にマスター)に伝える段階。例えば、「装備しているロングソードを使って《片手用直剣》技能でゴブリンを攻撃する」というようなもの。

マスターの場合は行動結果の正確な表現、例えば「ゴブリンに攻撃されて10点のダメージ」などをふくむ。

処理レイヤ

キャラクターの宣言の内容をルールと照らし合わせて実際に処理する段階。一般的には目標値や修正値を決定してダイスを振り、成功、失敗、クリティカル、ファンブル、etcというような結果を出すという段階をさす。

ゲーム的に見ても宣言レイヤは基本的にはほとんどの場合に必要になる。これは、TRPGというゲームの特徴としてゲーム自体はプレイヤー(およびキャラクター)に対して常に固定したすぐに解決すべき目的と手段を提供しないからだ。このレイヤはゲームとして必ず必要となる。これがないと結果を出せない。

このレイヤの構成から分かることは下にあるレイヤほどできることが単純でインプットもアウトプットもデジタルになる。これは言いかえると解釈の余地が少なく(もしくは無く)、誰にでも同じように理解できるということだろう。つまり、セッションの参加者のあいだでキャラクターの行動の処理、処理結果に関する理解を統一するためには(TRPGのゲームとしての部分を扱うためには)より下層のレイヤほど重要な意味を持つといえる。より上層のレイヤになるほどゲーム的な重要性は薄れる。

逆に、レイヤは下に行くほど抽象性を増す。言いかえると、何のためのに何をしているのかという情報が薄れる。例えば、一番下の判定では操作だけがあって何のために何をしているのかという目的などは持たない。要するに2D6+5 > 12で成功では操作と結果(成功、失敗)しかわからない。これが宣言になると何を目的としてどのような手段で何をするのかということが分かるし、表現になるとどう考えて、どう言う背景で、etcといった非常に多くの情報を持つようになる。

また、表現のレベルに0か1かといった明確性を常に持ちこむと表現は自由を失ってしまうし、逆に成功か失敗かという単純な判断を必要とするところにあまりに多くの、そして不定な要素を持ち込むと判断が困難になる。つまり、この二つの要素はそれぞれ相反する関係にあると考えて問題無いだろう。

しかし、上記の構造をたてに見て行くと行動の意味、背景、といった情報の多様さとゲーム的(処理的)な重要性というものは反比例の関係にある。つまり、それぞれはレベルをかえるにしたがってうまく住み分けている。だから、構造的には互いに邪魔し会うことは無く、逆に足りないものを補完し合う関係にあるといって良い。

これを図に加えると次のようになる。

レイヤ やること 管理者 □情報量
■ゲーム的重要性
表現レイヤ キャラクターの表現
結果の表現
プレイヤー
マスター
■□□□
宣言レイヤ 行動の宣言
結果の効果を決定
プレイヤー
マスター
■■□□
処理レイヤ 難易度の決定
結果の決定
ルール
プレイヤー
マスター
■■■□
判定 ルール ■■■■

次に、各レイヤ間の関係を説明する。

まず、何か判定を行おうとした場合、処理は矢印にしたがって一つずつ進む。「キャラクターの表現」から「難易度の決定」のように途中の処理を飛ばして先に進むことはないが、いきなり「行動の宣言」からはじめるように開始地点を下のレイヤにずらすことはある。

途中のレイヤで行われることがその前のレイヤで既に明らかだったり、静的に決まっている場合は途中のレイヤを飛ばしたように見える場合がある。例えば扉が一つしかない部屋で「目の前の薄汚い扉を針金を使って開ける」と表現した場合、「扉を開ける」という宣言は無くても表現から十分抽出できる。また、戦闘時の攻撃の判定などでは特殊なオプションを用いない限り多くの場合とくに目標値の決定などは行わないがこれは常にデフォルト値で行うためワザワザ明示的に宣言しないだけである。

途中から始まったとしても右側のカラムにあるものから始まることは無い。必ず左側のカラムから行われる。これは当然でそうしなければ判定が行えないからだ。

そして、下向きの矢印にしたがって一段階進むにしたがって提示された情報のなかから処理に必要な要素が抽出される。逆に上向きの矢印にしたがって一段階進むにしたがってルールから抽出された結果の要素に情報が付加されて行く。

各レイヤではルール部分に依存する要素は共有しなければならない。これは、「やること」の同じレイヤであれば左右のカラムをまたいで共有する。つまり、行動の宣言と結果の効果を決定ではルールレベルでは同じ要素を共有しなければならない。

最後に、左右のカラムで同じレイヤにあれば結果を表現するために右側のカラムから左側のカラムにある描写を参照することができる。逆に左側のカラムから右側のカラムを参照することはできない。これは時間的な関係上、左側のカラムから右側のカラムへの移動しか起こらないからである。

(注)要素と描写の違い

要素とは判定を行って結果を求めるために絶対必要なもののことである。

描写とは要素以外の付加的なものである。

例えば、部屋に一つしかない扉にかかっている鍵を開け様とする場合に、プレイヤーは次のように表現した。

「目の前の薄汚い扉を、手持ちの針金を使って開けるよ」

そして、このシステムではシーブズツールを持っていないと鍵開けなどは一切行えないことになっている(このキャラクターは当然持っている)。

これを要素と描写に切り分けると次のようになる。

扉を開ける、は要素。

薄汚い、手持ちの針金を使って、は描写。

なぜなら、一つしかない扉を開けるのにどの扉かの指定は必要無いし、シーブズツールが無ければ開けられない、つまりシーブズツールがあれば道具の種類は問題無いので針金かどうかも判定結果には影響しないからである。

さて、長々と説明をしてきたがやっと処理系がキャラクターの表現から判定、マスター(もしくはほかのプレイヤー)がそれに対して返す結果までのモデル化が終わった。上記のモデルで説明は済んでいるが簡単にまとめると次のようなことをいっている。

 キャラクターの表現をして判定を行うためには明示的、暗示的に関わらずプレイヤー(マスター)がしゃべった内容から判定に必要な要素を取り出してデジタルに結果を出す。結果が出たら今度はそのデジタルな結果に対していろいろな描写を追加してアナログな表現として返す。

別になにも難しいことはいっていない。普段、当たり前のように行っているであろう作業をわざわざ図式化しただけである。たとえば、プレイヤーがマスターの出したNPCを脅すときに次のようなやりとりをするのを図式化しただけだ。

プレイヤー:「あぁん。なんだテメェは。文句でもあんのか?」

マスター :「えーっと、それはNPCを脅してるの」

プレイヤー:「うん。そう」

マスター :「じゃあ、《威嚇》で判定して」

プレイヤー:「成功」

マスター :「じゃあ、NPCはビビって『すっ、すいません』といって逃げ出すよ」

べつになんてことはない。

なぜおかしくなるのか?

でも、これだけじゃルールをきちっとゲーム的に適用することとキャラクタープレイが相反しないという説明にはなっていない。だって、実際キャラクタープレイが度を超すとおかしなことになるし、ルールをきちんと扱ってばかりいたらキャラクタープレイができなくなるじゃない? といわれてしまう。そして、上記の説明だけではこれらを説明していない。だからこれらについて今から説明する。というより、この説明をするためにわざわざ図式化したのだ。

まず、キャラクタープレイによってゲーム的処理を無視しているとかいわれるのは上記の手順をとばしてしまうからだ。一番多いのはキャラクタープレイだけで結果を出し続けるというやつだろう。

先の、NPCを脅すという例でいくと・・・、

プレイヤー:「あぁん。なんだテメェは。文句でもあんのか?」

マスター :「NPCはビビって『すっ、すいません』といって逃げ出すよ」

となる。あまり、例がよくないから問題に見えないかもしれないが先ほどの例と同じルールだとするとこれには《威嚇》という技能があるわけだ。でも、その適用を無視しているからこのプレイヤーのキャラクターは《威嚇》を持っていなくても脅しが通用してしまう。そうするとわざわざ《威嚇》をとったキャラクターのプレイヤーからは文句が出る羽目になってしまう。

でも、これは最初の例でやってるようにマスターが確認したり、プレイヤーが「という風に脅して《威嚇》で判定するよ」といえばそのような問題は起きなくなる。

さらに手順を無視して「結果の表現」が先、それに対して「キャラクターの表現」があってそれ以外は無視ということになるとひどいことになる。上記の表に当てはめると「キャラクターの表現」が参照できないはずの「結果の表現」を参照し、途中のレイヤをすべて無視しているということだ。

これをやった結果は、マスターであれば一人でしゃべって一人で方をつけている、ってことになるし、これが延々と続くといわゆる吟遊詩人マスターになる。プレイヤーであれば勝手にNPCやほかのPCの行動を強制する無茶苦茶な奴、というレッテルを貼られることになる。

仲間内なんかで暗黙の合意があると「お約束」ということになるけどあくまでよく知った仲間間の暗黙の合意だからコンベンションなんかでこれを押し通すと「お約束ばっかでどうしようもないシナリオを扱うマスターとその取り巻きのプレイヤー」ということになってしまう。

こういうのはほかにもたくさんあるだろうけど、ふつうにやったらどういう風な手順を踏むべきでそのどの部分を無視しているのかということを考えれば必ず説明が付くと思う。そして、ゲーム的に重要だといってきた下の方のレイヤがなぜ重要かもはっきりする。

つまり、なにをどういう風にするのかを明確化して結果をデジタルに出すことによって参加している全員にわかりやすい、納得できるようにするために重要なわけだ。そして、同時に判定前の発言からは判定に向かって描写がそぎ落とされ、逆に返ってくる結果には描写が付属しないということは次のようなことがいえる。

結論

結局、キャラクタープレイがゲームと相性が悪いと思われるのはゲームとしての処理を無視しようとするからであって、ゲームとしての処理を行うこと、その結果を守ることを前提とするなら何の問題もない、ということ。まぁ、この辺はTRPGで昔からあった「ルールよりもプレイヤーの発言やキャラクターらしさを尊重してください」とかいう言葉の足りない説明にも原因があるとは思うけどね。

これを正確に言い直すと「ルールの適用による処理が明らかに不適切である場合や、ルールの適用を簡略化する方が進行上適切な場合は参加者の合意の上で局所的にその合意を優先することが認められます」というところかな?

『The Lunatic』