尾瀬探勝記

 尾瀬には過去2回訪れたことがあるのだが、いずれも会社勤めの友人と共だったので、土日の1泊2日の慌ただしい紀行となった。1回目は鳩待峠から入って竜宮で折り返しという、初心者お定まりのコース。2回目はやはり鳩待峠から入り、山の鼻で1泊の尾瀬ヶ原一周コースだった。尾瀬の魅力は尾瀬ヶ原だけにとどまらない。いつかゆっくり滞在して、周辺も含めてじっくり歩いてみたいと思っていた。

 今回の大きな目的のひとつに、貴重な高山植物の宝庫である至仏山登山があった。至仏山のお花畑を堪能するには7月がベストだ。だが土日の尾瀬は混む。さらに7月も下旬になると子供達が夏休みに入るので、平日も混み出す。人が列をなして歩くあの狭い木道に三脚を立てて構えることは不可能だ。花の写真が目当てなら、やはり人通りの少ない日を選びたい。諸状況に鑑みて、選択肢は7月の第2週目の平日しかなかった。まだ梅雨は明けておらず、雨に振られる可能性も大だったが、これはひとつのかけである。


7月7日(火) 上野→沼田→戸倉→鳩待峠(泊)

 9時過ぎに上野発の特急水上に乗る。かつては新特急谷川と呼ばれていた電車だ。谷川という名称は上越新幹線に取られてしまったゆえの改名である。
 電車も都心を離れるにしたがい、車窓からは田園風景が眺められるようになってくる。それにつれて、沿線に咲いているいろいろな草花も当然目に入ってくる。その中には、以前から撮りたいと思っていた花も……せっかくの被写体が無情にも目の前を次々に通り過ぎてゆく。「電車止めてくれー!!」という心境だが、所詮かなわぬことである。写真家なら誰しもこういう経験があるだろうが、こういう状態を写真家の生殺し状態という。

 沼田で電車を降り、今度は戸倉行きのバスに乗る。そのバスの車窓からも被写体は目の前を次々と通り過ぎてゆき、生殺し状態はなおも続く……。
 バスは1時間半ほどで戸倉に着く。ここからはマイクロバスに乗り換えて、尾瀬の入り口である鳩待峠まで登ってゆく。かの尾瀬を偲ぶ歌「夏の思い出」が発表された終戦直後は、まだ鳩待峠までの車道はなく、ここから何時間も歩いて峠を越さなければならなかった。まさに「遥かな尾瀬」だったのだが、交通手段の発達は尾瀬をずいぶん近くしてしまったものだ。
 午後3時、尾瀬への第一歩、鳩待峠に降り立った。平日なのでそれほどの人ではなかったが、それでも休憩所のベンチには思い思いの格好でくつろぐ人々の姿があった。鳩待峠に建つ山小屋は鳩待山荘ただ一軒であるが、ここに宿を取る人のほとんどは、明朝に至仏山に登山する人である。いわば至仏山登山のベースキャンプである。今日はここでゆっくりと休み、あとは明日からの本格的な尾瀬紀行に胸を膨らますばかりである。


7月8日(水) 鳩待峠→至仏山山頂→山の鼻→竜宮→下田代十字路(泊)

 この時期は朝の4時を過ぎるとすでに薄明るくなっている。小屋の前の駐車場には車のエンジン音が響き、人のざわめきが聞こえ始める。7時前、至仏山目指して小屋を後にした。最初のうちは樹林の中を進むが、途中小さな湿原をいくつか横切るうちに右手下方に尾瀬ヶ原が見えてくる。森林限界を超えると蛇紋岩のごろごろした尾根伝いの道に変わる。すると、沿道にはチングルマやハクサンイチゲといった高山植物が出迎えてくれるようになる。
 そんな中に、マット状にあちこちに咲き誇るホソバツメクサのコロニーがあった。3人組のオッサンがそれぞれに三脚を構えて写真に撮ろうとしていたが、尾根を吹き抜ける風で小さなその花はなかなか止まらない。そのうち一人が我慢できなくなって、風を避けるために自分のリュックを衝立にし始めた。そのリュックの下にもホソバツメクサのコロニーが。被写体さえ無事なら他のものはどうなってもよいのか! こいつら本当の花好きじゃないな。結局それでも風を遮ることはできず、3人組はとうとうあきらめて立ち去っていった。彼らが去るのを待っていた私がカメラを構えると、なんと風はピタリと止まってしまった。日頃の行いが良いからだろうか(ウソつけ!!)。

 至仏山山頂はとにかく岩だらけである。すでに20人ばかりの登山者が、それぞれ岩の平らな部分を見つけて陣取っている。私は遠く上越国境が見渡せる西向きの岩陰で休むことにした。
 さて、ひと休みした後は、尾瀬ヶ原の最西端、山の鼻までの直滑降である。じつは、このルートはハイカーによって登山道が踏み荒らされ、植生保全のためしばらく閉鎖されていた。こういう岩だらけの山は、ハイカーそれぞれが自分の歩きやすいコース取りをするので、どうしてもルートに幅が出てしまう。また、辺りには高山植物が咲き乱れているので、それを見ようとついついコースを外れ、登山道はさらに広く踏み固められてしまうのである。大雪山や白馬岳など高山植物の多い山ではどこも似たような状況だという。97年、岩陵の上にも木道が敷設され、その周りにはロープが渡され、かくして再び登山道は開通した。
 そのまだ新しい登山道を下ってゆくわけだが、沿道ではタカネシオガマ、イブキジャコウソウをはじめ、次から次へと花々が迎えてくれる。まさに花のプロムナードだ。この花はもう撮ったからいいや、と思っていても、さらに良い状態の被写体に出会うと、どうしてもカメラを構えずにはいられない。そんなことをしていたのでどんどん時間は経ってしまった(写真はタカネシオガマとホソバツメクサ)
 至仏山から山の鼻までの所要時間は、下りの場合約2時間と書かれている。しかし、このルートを下りに使うべきではないと書いてあるガイドブックもある。至仏山一帯の蛇紋岩は滑りやすく、しかもルート上の岩は登山者の足跡によってさらに磨きがかかっている。途中には鎖場も3ヶ所ある。三脚を担いでいる私の場合は、特に慎重に歩かなければならない。目標の山の鼻に点在する山小屋は、山頂からずっと眼下に見えているのだが、歩けども歩けどもちっとも近くならない。下り始めて2時間近くになろうとしていたとき、「ここが中間点です」という標識が目に入った。げげーっ、まだ半分しか下ってないの!? 頂上付近で大道草を喰っていたせいもあるのだが、これにはさすがに焦ってしまった。しばらくすると樹林帯に入っていくのだが、今度は目標としていた山小屋が見えなくなってしまい、焦りはさらに募る。小1時間も下った頃、やっと山の鼻の人のざわめきが聞こえ始めたときには、膝はガクガク、足は棒状態になっていた。立山や穂高などを歩き慣れている人から見れば、この程度の山は赤子の手をひねるようなものだろうが、日頃の運動不足がたたった結果でこれは仕方ない。

 山の鼻の休憩所で食事。食券を買おうと並んでいると、目の前に缶ビールが……。尾瀬でビール!? なんだか尾瀬も安っぽくなったような気もするが、やはり目の前の誘惑にはかなわない。350mlの缶ビールの中身は数秒で私の胃袋の中に吸い込まれていった。プハーッ。
 さて、あとは本日の宿に向かって尾瀬ヶ原のメインストリートをまっすぐ進むだけである。至仏山の花の賑わいに比べて、原の方は思ったより花が少ない。まあ、もしここでも百花絢爛の状態だったら、日暮れまでに小屋につけない状態だったかも知れない。幸か不幸か、結果的に至仏山での大幅な時間のロスを挽回することになった。3時半頃、今日の宿泊地、下田代十字路にある尾瀬小屋に到着した(写真は下田代十字路の山小屋群)

 尾瀬の山小屋の消灯は9時である。本来、山小屋というものは相部屋が常識で、登山の疲れで消灯を待たずに寝入ってしまう人や、明日の早朝の出発のために早めに床につく人もいる。ところが、尾瀬の山小屋は大小さまざまの部屋が用意され、よほど混雑してなければ、家族やグループ単位で部屋を借り切ることも可能である。それをいいことに、近くの部屋から消灯近くになっても大学生らしいグループが酒を飲んで騒いでいるのが聞こえる。そしてそのグループは消灯を過ぎてもなお騒いでいる。「おまえら、山を何だと思っている! おまえらのような奴らに山小屋に泊まる資格はねぇ。荷物まとめて今すぐとっとと下山しな!!」かつての雲取山荘の小屋番、鎌仙人(知る人ぞ知る)ならきっとこう一喝しただろう。確かに尾瀬の山小屋は土産物売場あり、自動販売機ありの旅館気分で泊まれる。しかし、これがかえってレジャー感覚で入山してしまう者を増やしているのも事実である。困ったものだ。


7月9日(木) 下田代十字路→富士見峠→アヤメ平→鳩待峠→山の鼻→ヨッピ橋→下田代十字路(泊)

 今日のコースは、混雑時でもあまり人通りのないコースだ。特に下田代十字路から富士見峠に向かう矢木沢道は、かつては麓の戸倉から下田代に物資を運ぶ重要なルートだったらしいが、現在はその役目も失い、ただの静かな山道になってしまった。実際、ルート上ではとうとう誰一人出会うことはなかった。沿道には断続的にハナニガナが咲いているのだが、7時前に出発したときにはつぼんでいたものが、時間が経つにつれて徐々に開いてゆくのがわかる。どちらかというと夜型人間の私には、早朝の山歩きはどうも調子が出ないのだが、ハナニガナの開花につれて私の足どりも軽くなっていくのが感じられた。
 富士見峠に立っている富士見小屋の前で休憩。近くに水場があるので、水筒を満タンしていよいよアヤメ平に向かって出発。
 アヤメ平は、まだ尾瀬ヶ原に木道が敷設されてなかった頃には、尾瀬探勝のメインルートだったという。しかし、ご多分に漏れず、かつてこのルートもハイカーによって踏み固められて、広範囲に裸地化してしまった。その後、自然保護団体などの努力によって湿原の復旧が続けられ、現在に至っている。
 ところで、アヤメ平というからにはアヤメが咲き誇っているものだと思っていたのだが、富士見小屋の前にある案内板によると、キンコウカの細長い葉をアヤメの葉と間違えたことからつけられた名称なのだという。結構ずさんな地名である。
 尾根に広がる高層湿原を吹き抜ける風はすがすがしい。と思っていると前方がにわかに騒がしくなった。どうも林間学校かなんかで来ている中学生の大集団がこちらに向かっているのだ。誰が始めたのか知らないが、山ではすれ違う人ごとに「こんにちは!」と声をかける習慣がある。彼らもそれを始めた。時たますれ違う人と挨拶を交わすのはいいが、こう五月雨式に挨拶をされてはこちらもいい加減うんざりしてしまう。おまえらは一回声をかければ済むだろうが、全員に応答しなければならないこちらの身になってみろい! 山での挨拶も考えものである。

 尾根伝いにしばらく下ると鳩待峠に出る。ここで昼食を摂り、今度は山の鼻へ直行する。なぜかこちらには目立った花もなく、結局一度もシャッターを切ることもなく、40分強で山の鼻へ到着してしまった。
 ここから原の途中の三叉までは昨日のルートと重なるので、とりあえずさっさと通り過ぎようとしたが、なんとまたあの集団がこちらに向かってくるではないか。どうも富士見峠から竜宮に下ってきたらしい。そして再び挨拶の嵐が始まる。おまえらさっき出会っただろーが。いい加減にせーよ。向こうはこっちの顔なんか覚えてはいない。
 ヨッピ橋を渡りヨシッポリ田代にさしかかった頃から雨が降りだしてきた。とりあえず東電小屋に急ぎ、そこでしばらく雨宿り。その後、日が差したりパラついたりの中を宿へと急ぐ。部屋に荷物を置いて一息入れた頃から本降りになってきた。談話室にあるBSテレビで放送されている天気予報によると、梅雨前線が南下しているという。明日の日中の降水確率予報は80%と聞いて一同溜息。
 雨は夜通し降り続き、屋根を叩く雨の音と明日の行程の心配でなかなか寝付けない。このまま雨が降り続けば、尾瀬沼行きは断念して道の整備された鳩待峠へ向かうべきか。この夜、尾瀬ヶ原が水没して孤立無援になってしまった夢を見た。


7月10日(金) 下田代十字路→沼尻→大江湿原→三平峠→大清水

 朝5時頃目が覚めると、いつの間にか雨は止んでいた。6時の朝食を済ませ、外に出て空を仰いでみると、雲の切れ目から青空も覗いている。これなら大丈夫、迷わず尾瀬沼行きを決定した。やはり日頃の行いが良いからだろうか(ウソつけ!!)。

 尾瀬沼は尾瀬ヶ原よりも200m標高が高いところにある。山道は燧ヶ岳の山腹の樹林帯を沼尻川に沿ってなだらかに上ってゆく。いくつかの大小の沢を横切るうちに、山道は傾斜を増し、足下は石だらけの歩きにくい道に変わってゆく。そして白砂峠を越えるとすぐ、今度は大きな石のごろごろした急降下に出くわす。尾瀬沼方面から上ってくる人たちもゼイゼイと息を吐いていて、さすがにここではすれ違いざまの「こんにちは」の余裕などない。だがこの急降下もすぐに終わり、ひょっこり白砂湿原に出て一安心。いままで樹林に遮られて分からなかったのだが、いつのまにか空には青空が広がっていた。さらに樹林帯を横切ると、光を反射してキラキラと輝く尾瀬沼の湖面が見えてくる。ほどなく沼の最西端の沼尻に到着した。
 沼尻休憩所に立ち寄りハーゲンダッツのアイスクリームを食べる。尾瀬まで来てハーゲンダッツ!? なんて野暮なことはもう言うまい。湖面を渡る風の涼しさも手伝って、ドイツ生まれのアイスクリームはここへ来て至福のアイスクリームと変わった。

 さて、道は沼の北岸の樹林帯と小湿原を幾度となく通り越し、尾瀬沼最大の湿原、大江湿原に出る。ここは例年ならこの時期、ニッコウキスゲの花で黄色一色に塗り替えられるということなのだが、今年は花の間からの緑が目立つ。確かに同じ場所から見たパンフレットなどの写真と比べても、花の密度は低い。毎年尾瀬を訪れている人なのだろう、「今年の花付きは悪い。いつもならひとつの茎に6〜8個の蕾が付くのに、今年は多くて4つだ」とぼやいている人がいた。
 大江湿原の一角には、この尾瀬の自然を守り続けてきた平野一族の墓がある。メインストリートを外れたササの生い茂る小高い丘に、尾瀬沼を見守るように立てられている墓地には、湿原の賑わいをよそに訪れる人もほとんどない。しかし、今のこの尾瀬の自然が守られてきた背景には、彼らと幾度となく襲う尾瀬の開発の波との壮絶な闘いがあったことを忘れるわけにはいかない。私が今この地にいるのも、もしかしたらこの人達の導きかも知れない。そう思うと、墓前に手を合わさずにはいられなくなった。
 この丘は、秋の気配が訪れるとヤナギランの花に包まれるという。そのヤナギランはまだ蕾だったが、墓の横にはテガタチドリが可憐な花を咲かせていた。

 大江湿原を後にして、長蔵小屋にて少し早い昼食を摂る。そして、沼の東岸を通って三平下へと向かう。湖面越しに燧ヶ岳を望む絶景を右手に見ながら木道を歩いていると、「夏の思い出」を口ずさみながら歩いている婦人がいる。思えば、尾瀬をここまで有名にしたのも、この歌のおかげかも知れない。ただ、この歌には腑に落ちない部分がある。「夏が来れば思い出す」といっているからには、この詩の作者が尾瀬を訪れたのは夏であることに間違いはない。なのに「水芭蕉の花が咲いている」はおかしいではないか。ミズバショウは雪解けの頃の花である。まあ、この歌のおかげで、ミズバショウのシーズンの尾瀬は、信じられないほどの人で賑わうこととなってしまったのだけれども。もしこれが、「モウセンゴケの花が咲いている」だったら……これほどまで尾瀬は有名になっていなかったかも知れない。

 三平下の休憩所で小休止。そしていよいよ尾瀬ともお別れの時がやってきた。三平峠まではちょっとの登りだが、後ろを振り返るたびに尾瀬沼の湖面は樹木に遮られてその面積を狭めてゆく。名残惜しいが仕方がない。またそのうち、別のシーズンにゆっくりと訪れてみることにしよう。

 この後、大清水までの長い下りの道中記もあるのだが、ここは尾瀬の余韻を濁さないためにも、あえてここで筆を置くことにする。
 ここまで付き合ってくださった方、本当にありがとうございました。