雲取山登山記

 雲取山は東京都の最西端に位置し、山梨県と埼玉県との県境に接している。標高は2017.7mで東京都では一番高い山である。一度は登ってみたいと思っていた山である。

 8月16日(土)朝、東京は薄曇り。しかし、西に向かっていくほど雲は厚くなる。青梅駅のあたりではついに霧雨になってしまった。奥多摩駅に着いたときには、雨も上がって再び薄曇り。奥多摩駅12時10分発、丹波(たば)行きのバスに乗る。このバスは1日に3便しかなく(夏期は臨時にもう1便出る)、この便を逃すと3時台までない。奥多摩駅は東京からの雲取山登山の玄関口であるのに、なぜこんなにバスの便が少ないかという理由は後でわかる。土曜日ということもあってか、ほとんどが大きなリュックを背負った登山者だ。少ない便に集中してしまうため、バスはたちまち窮屈になってしまう。というわけで、乗客を分散させるため臨時のバスを出すことになった。やるな、西東京バス。ネムノキの花があちこちに咲いている奥多摩湖北岸を走ること小1時間、東京都と山梨県の県境を越えて、バスは山梨県の丹波山村に入る。奥多摩からの雲取山への登山口は、主に鴨沢から入るルートと、御祭(おまつり)から入るルートがあるが、鴨沢の停留所で降りる人はなく、さらに奥の御祭で全員が下車した。午後ちょうど1時である。

 雲取山に登るには、よほど地元に住んでいない限り、日帰りは無理である。どこかの山小屋に1泊することになるわけだが、御祭からこの時間に登山する人にとっては、途中の三条ノ湯で一泊という選択しか残っていない。その日のうちに雲取山山頂に着きたければ、奥多摩駅を朝早い便で出ておく必要があるわけだ。もちろん3時の便では、山小屋にたどり着く前に日没を迎えてしまう。

 三条ノ湯までは、まず沢沿いの長い8kmの林道を約3時間ひたすら歩く。車も通れる道なので、道幅は広く傾斜も緩い。登山ガイドブックにはただ単調で退屈な道と書かれているが、沿道にはタマアジサイをはじめ、いろいろな花が出迎えてくれるので、花好きにとっては十分楽しめる道である。空は相変わらずの曇りだが、ひんやりとした空気は、暑さに弱い私にとってはとても心地よい。バスから降りて、登山者の先頭を歩いていた私だが、花々の写真を撮っているうちに次々と他の登山者達に追い越され、ついには私の前を歩く人の姿は誰一人見えなくなってしまった。標高800mのあたりから雲がかかってきて、100m先はもう見えない。長い林道の終点からはいよいよ山道に入る。山道はいったん沢を横切るのだが、沢のほとりにはツリフネソウなどが咲き乱れていて、ついついそこに長居をしてしまう。30分くらい沢沿いに登ると、キャンプのテントが見えてきた。沢の上を見上げると、そこは今日の宿泊地、三条ノ湯の山小屋だ。

 三条ノ湯とはいっても、温泉が出ているわけではなく、山から湧き出てくる鉱泉を沸かしたいわゆる「沸かし湯」である。その昔、鹿が傷ついた体をこの水で癒していたという。なにはともあれ、山小屋で湯に浸かれるなんてことは、これまでの登山での汗と疲れを一気に流すことができて、何ともありがたいものだ。
 夕食は午後6時。この小屋の定員は80名ということだが、食堂には40名ぐらいいただろうか。天井から釣り下げられたランプがいかにも山小屋らしさを演出している。電気は水力による自家発電だという。山小屋にしてはなかなか豪華な食事だった。お釜で炊いたご飯は、お焦げの香ばしさと相まっていっそう食欲を掻き立てる。
 消灯は午後9時。食事を済ませてからはしばらくは登山ガイドを読み返したり、明日の登山ルートを地図で再確認して時間をつぶしていたが、そのうち特に何もすることもなくなり、あとは翌朝6時の朝食までの長い間、ただひたすら寝るだけである。

 翌朝、5時頃目が覚める。6時の朝食を待たずに出発する人もいて、外がにぎやかになってきた。外に出てみると、相変わらず厚い雲がかかっている。朝食の際、小屋の主人の「今日の雲取山の山頂は、雲がかかって眺望は望めません」の言葉に一同嘆息をもらす。だからといって、ここで引き返すわけには行かない。午前7時、山頂目指して三条ノ湯を後にした。

 さて、ここからは沢沿いの道から尾根道への一気の登り坂である。いくつも現れる小尾根を曲がり越した思うと、さらにまたその先に登りが続いている。ガイドブックによれば、途中の三条ダルミまで2時間20分と書かれている。この時間ひたすら登り続けるのかと思うと、気が滅入ってくる。それでなくとも、私の場合は常に重い3脚を片手に担いでいるので、両手が空いている普通の人より慎重な歩行を余儀なくされるのだ。
 植物の写真を撮る人は、アシスタントを伴っている場合でなければ、たいてい単独行動である。なぜなら、お気に入りの被写体が見つかれば、その場に10分でも20分でも留まっていることも多く、団体行動をとれば他の人に迷惑をかけてしまうからだ。初めての山に登るときはいつも思うのだが、いくらガイドブックや地図で入念に下調べをしているとはいえ、あとどのくらい登りが続くのかという見通しがつかないのは何とも心許ない。こういうときにガイドがいてくれて、「あと10分で○○だよ」とか、「あとまだ1時間はかかるよ」などと教えてくれれば、それなりに心の準備もできようものだが、こればかりはどうしようもない。
 それでも救われるのは、ときどき迎えてくれる沿道の花たちである。いい被写体が見つかれば、カメラを構え、じっくりと写す。そういう小休止によって呼吸を整え、更なる前進のための英気を養うのだ。
 そうこうしているうちに、いつの間にか雲は薄くなり、ときどきその間から陽が射し込むようになってきた。標高1700mを越えたとき、すっぽりと雲から抜け、木々の間から雲取山の山頂が見え隠れしてきた。なんと快晴である。眺望のよい三条ダルミで、美味しい空気を堪能しながら小休止。途中でしっかり道草を喰っていたので、すでに10時近くになっていた。さて、ここから山頂までは一気の登りである。尾根づたいのきつい登りにいい加減うんざりした頃、突然木々が開けたかと思うと、そこはあっけなく山頂だった。10時30分のことである。山頂にはすでに数人の人が休んでいる。犬も1匹登っている。犬はいいよなあ、足が4本もある上に、リュックも担がずに済むんだから。

 山頂は抜けるような青空、通り抜けるそよ風も清々しい。振り返ってみれば眼下にはどこまでも続く雲海。その中から大菩薩陵の峰々、さらに遠くには富士山が突き出している。何とも壮大な景色である。しばらくこのパノラマを堪能して、山頂付近の花の写真を一通り撮ったら、今度は下山だ。登ってきた道とほぼ直角に交わっている尾根道は草地が広がっていて、とても見晴らしがよい。尾根の西斜面はマルバダケブキの群落が山肌を黄色に染め上げている。しかし、時期がちょっと遅かったのか、楽しみにしていたヤナギランにはとうとう逢えなかった。それでも、ここでも沿道ではいろいろな花が迎えてくれる。

 小雲取山を下ったあたりから再び雲の中に突入した。雲取奥多摩小屋の近くに水場があるので、そこで水を補給。山から湧き出る水はとにかく旨い。たっぷりと喉を潤した後、この水場を当てにして、すでに空になっていた水筒を満タンにしておいた。尾根の途中の七ツ石山の巻き道を過ぎると、ひたすらぐんぐんと高度を下げてゆく。なにせまだ、あと標高差約1000mを下らなければならないのだから。途中、まだ5、6歳の幼児を連れたお母さんとすれ違う。この小さな足でこれから登るのでは、今日中に途中の雲取奥多摩小屋にたどり着くのが精一杯だろう。それにしても健気な子供だ。
 執拗な下り坂にいいかげん膝がガクガクしてきた頃、キンミズヒキやクズなどの里の植物が目に付くようになると、下り坂もずいぶん緩やかになってくる。林道を横切ると眼下に奥多摩湖が見えてくる。国道までは一息だ。鴨沢の集落を抜けてバス停に着いてみたら、予定より早く着きすぎたか、次のバスまで1時間以上ある。もう一つ下ったバス停までなら便も多いということなので、そこまで歩いてみたが、やはり同じだった。仕方ないのであきらめてしばらく待っていると、バスが登って来た。どうも休日には登山者や観光客の状況を見計らって、臨時便を出してくれるようだ。やるな、西東京バス。こうして、初の雲取山登山もつつがなく終了し、帰路の途についたのであった。