7月17日(土)
 今日はいよいよパリ滞在最後の日である。飛行機は深夜に飛び立つので、それまで丸一日時間がある。アパートの近くのブラッセリーにて朝食を一緒に済ませると、真島氏は今日もどこかお目当てがあるらしく、そのままどこかに出かけていった。
 午前中はエッフェル塔に向かう通りで開かれている朝市を冷やかしたりして時間を潰し、近くの食料品店で適当に見繕ったもので昼食を作り、午後は11日に訪ねたパリの南のはずれにあるヴァンヴまで、モンパルナス駅から南に延びる線路沿いに歩いてみた。お目当ては線路沿いに咲く野草なのだが、まあ、そのあたりの成果は「パリの野草コーナー」ででも紹介することとしよう。

 というわけで、今日はパリの街角風景について触れてみようと思う。

パリの交通事情
 パリ市を例えていうと、大きさはほぼ山手線くらい。中央にセーヌ川が流れ、ノートルダム寺院のあるシテ島を中心に渦巻き状に20の区が取り巻いている。鉄道は山手線に例えれば、上野や池袋、新宿のように郊外や国外へ延びている6つのターミナル駅があるだけで、市内はメトロと呼ばれる13本の地下鉄が網の目のように走っている(RERという郊外まで延びる地下鉄もある)。また、地上には200以上のバス路線がまさに縦横無尽といった具合に走っている。地下鉄の料金は市内均一で8フラン(約160円)だが、10枚一組のチケットを買うと55フランでかなりのお得になる。このチケットはバスとも共通券になっている(右)
 地下鉄の乗り方を紹介しよう。入り口には日本と同じような自動改札機がある。チケットの取り出し口の前方に回転するバーと扉が付いていて、チケットが正しいとバーが回転しが開くようになっている。ただし、チケットを取りあげてもたもたしているとバーがロックされてしまうことがある(一度引っかかってしまった)。日本と違うところは、出口には改札がないことだ。つまり、入ってしまえばチケットはもう必要ないのだ。事実、駅の通路やプラットフォームにはあちこちにチケットが捨てられている。ところが、まれに車内監察があるそうで、その際にチケットを持っていないと数倍の罰金を取られるらしい。しかし、私も滞在中には10回以上地下鉄に乗ったが、監察には一度も出くわさなかった。罰金のことは百も承知のはずのパリ市民でさえポイポイ捨てているわけだから、監察を受けるということは脱税がバレてしまうくらい不遇なことなのだろう。
 パリの地下鉄の車両のドアは、ごく一部の最新式車両を除いてすべて手動で開閉することになっている。取っ手部分の押しボタンを押すか、古い車両の場合は取っ手部分に付いているノブを上側に回しておかなければドアは開いてくれない。これは車両の内側も外側も同じだ。したがって、これを知らないでただドアの前に突っ立っていると、乗りそびれるか降りそびれるハメになる。
 車内のドアの上には、日本の地下鉄と同様にその線の路線図が貼ってある。しかし、日本の場合は必ず進行方向と同じ向きに路線が書かれている……すなわち、ドアの右側用と左側用にそれぞれ向きの異なった路線図が貼ってあるのに対して、パリの地下鉄(鉄道などもそうだが)の場合はどちらにも同じ路線図が貼ってあるのだ。つまり、どちらかの路線図は進行方向と逆向きに書かれていることになる。これには最初戸惑った。ほんとうにこっちの電車でよかったのだろうか? 次に到着した駅名と路線図とを照らし合わせて、やっと胸をなで下ろす。
 ニューヨークの地下鉄の車両の落書きは有名だが、ここパリの地下鉄もニューヨークほどではないにしろ、車両の内外いたるところに書かれている。不思議なのは、駅と駅と間の壁にも延々と書き連ねてあることだ。車両が走っている昼間に書けるはずもないので、終電が走り終えた深夜に懐中電灯で照らしながら書いているとしか考えられない。まったくご苦労なことで頭が下がる。どういう連中がどういう内容を書いているのかは知る由もないが、まさか「黒薔薇巴里支部三代目参上!!」などと書かれていたり……するわけないか。

パリのトイレ事情
 パリ市街を歩いていると、歩道にぽつんと立っているガレージのような公衆トイレによく出くわす。これを利用するには、まず入り口のコイン投入口に2フランを入れなければ扉が開かない。中に入ると、そこには腰をかけるくらいの高さにミニチュアの和式便器のようなものが壁に半分埋め込まれるような形であるだけだ。最初、どう使っていいのか迷ってしまう。そして、用を足し終わった後に水を流すためのノブやスイッチらしきものもどこにもない。大の方をした後などはなんだかとても気まずい。しかしご安心あれ。そのまま何食わぬ顔をして出てしまえばいいのだ。トイレを出て扉を閉めると、扉は自動的にロックされ、中でものすごい水しぶきの音がし始める。要するに、人が出た後にトイレの内部全体が洗浄されるのである。したがって、トイレの中に忘れ物をしようものなら、悲惨な結果を覚悟しておかなければならない。また、犯罪防止のため、人が中に入っていても一定時間が経つと自動的に扉が開くらしい。あまり中でゆっくりとくつろいでいると、あられもない姿を公衆の面前にさらすハメになる。
 公園などの公共の施設にもトイレはあるのだが、たいてい入り口に通称「トイレおばさん」と呼ばれる女性が座っていて、2〜2.5フランをチップとして払わなければならない。ある日、街を歩いていて突然催してきたので、慌てて近くのホテルに駆け込んでロビーの奥のトイレを使おうと思ったら、しっかりそこにもトイレおばさんが鎮座していた。レストランなどのトイレはたいてい無料だが、それでも、入り口のドアに2フランを投入しなければ扉が開かないというレストランもあった。
 用を足すにもいちいちチップを払わなければならないというのは、日本人の感覚からすると煩わしく世知辛いような気もするが、そのかわり、日本の公衆トイレとは違って、フランスのトイレはどこも清潔ですがすがしい。そういったお金が清掃費用にきちんと回されているのだろう。さすがはお洒落の国、おフランスざんす。
 人間様のトイレは誉めるにこと足りるのだが、お犬様の場合はちょっと違うようだ。フランス人の犬好きは有名である。フランスでは、鉄道やバスはもとより、レストランでさえも犬同伴OKという寛容ぶりである。そういえば、ランスからの帰りの急行列車にも大きな犬を連れた乗客がいたが、よくしつけられているらしく、おとなしく座って一度たりとも「ワン」とも吠えない。
 最近の日本の都市部では、散歩の犬のフンの始末はかなり徹底されているようだが、ここフランスでは、犬のフンに対しても寛容である。犬を連れて歩く人の姿はあちこちで見られるから、それに比例して歩道上の落とし物もとにかく多い。「人も歩けば犬のフンに当たる」と言われるくらい、パリの街を歩く際には足下に注意しなければならない。
 そんな状況では、やがてパリの街は犬のフンで埋め尽くされてしまうのではないかと危惧されるが、心配には及ばない。じつは、パリの歩道には一定間隔に出水口が敷設されており、一定時間になるとそこから水が吹き出るようになっている。歩道の犬の落とし物は、その水によって側溝を通って下水道へと洗い流されるという仕掛けだ。この仕掛けがもともと犬のフン対策のものだったかどうかは知らないが、これに乗じて歩道にゴミをポイポイ捨てる人も多い。このあたりのマナーにおいては、あの日本でさえパリよりはまだマシといえるかも知れない。

 さて、いよいよパリともお別れの時が来た。荷物をまとめ、借りていたアパートを掃除し、賃貸料の精算もすませて一息ついたころ、再び真島氏の弟さんが車で迎えに来てくれた。我々を乗せた車はコンコルド広場を横切って北進し、市街を抜け再び先週通った高速道路を一路シャルル・ド・ゴール空港に向かって進む。空港に着いたのは9時前だったが、まだ太陽は地平線の近くにある。
 POUR NARITAと書かれた搭乗手続きの列には、多くの土産物を抱えた日本人の姿が目に付く。そこで飛び交う日本語の会話を聴くと、えもいえぬ安堵感が漂うとともに、すでに日本に帰ってきたんじゃないかという錯覚に陥る。搭乗までまだかなりの時間があるので、真島氏は空港内のバーに入る。一方、ちょっと小腹の空いていた私はその隣のバーガーショップに入ってサンドウィッチと飲み物を注文する。さすがに1週間以上もパリにいると、このくらいの注文におたおたすることはない。海外によく出かけられる方はご存じだろうが、日本に帰ったときに円に交換できるのはお札だけで、硬貨は交換の対象にならない。国内で使えない硬貨を持って帰ってもしょうがないので、小銭はフランスにいるうちに処分しておきたいところだ。かさばる財布の中を硬貨を使い切るべく支払いを済ませ、私の財布はずいぶん軽くなった。
 ここで、フランスの通貨についてちょっとお話ししておこう。ご存じの通りフランスの通貨はフランだが、ドルに対するセントのように、フランの1/100のサンチームという単位がある。お札は20、50、100、200、500フランの5種類だが、硬貨は1/2、1、2、5、10、20フランに加えて、5、10、20サンチームの計9種類もあり、最初はまずどれがどれなのかを覚えるのが一苦労だ。ところで、日本のお札の印刷技術は世界一で、その精巧さから最も偽造されにくいといわれているが、こちらフランスのお札は原色をふんだんに使っているせいもあってか、カラフルではあるが、なんだか子供銀行のお札のようで安っぽく見える。紙質もお世辞にもよいとは言えない。そんなせいか、ニセ札も日常的に市場に出回っているらしく、ニセ札を掴まされて警察に届けても、「あ、ニセ札ね。早くどこかで使ってしまいなさい。」と言われるという。なんともおおらかなお国である。


20フラン札 肖像はドビュッシー


50フラン札 50フラン以上のお札は皆このように派手な色使い
一部破損していたので円に交換してもらえなかった

 サンドウィッチを食べ終わり、店を出て隣のバーを覗くと、そのカウンターにはシャンパングラスを片手に煙草をくゆらせている真島氏の姿があった。搭乗までまだしばらくの時間があったので、私も相伴することに。私はキールロワイヤルを注文し、そのルビー色の液体越しに写る最後のフランスの夜の情景を名残惜しんだ。さて、支払いという段になって、私は自分のうかつに気づいた。すでに硬貨をほとんど使い果たしていた財布の中には、もはやお札と数サンチームの小銭しか残ってない。はたして仕方なくお札で支払いを済ませた私の財布は、お釣りの大量の硬貨で再び重くなってしまった。

 かくして、9日にわたる初のパリ滞在はエピローグを迎えることとなった。まだ眠らぬパリの町の灯を後にして、飛行機は漆黒の闇に向かって飛び立った。



 以前はこの扉はなかったらしい。自動改札機になって無人になってから、バーを走り高跳びよろしくジャンプして入場する無頼な若者が急増したため、やむを得ず取り付けられたのだそうだ。(戻る)
サンチーム
 こんな小話がある。「1フランは100サンチームなんだよ。」「えー、なんだか中途半端で面倒だね。すると2フランは206チームってこと?」 お後がよろしいようで。(戻る)