7月16日(金)
 序文でも書いたとおり、今回のフランスへの渡航の本来の目的は、パリで行われる私の作曲した吹奏楽曲のレコーディングに立ち会うためだった。ここで、なぜレコーディングがパリ滞在の最後の方になってしまったのかということについて説明しておこう。
 このレコーディングはあるビデオ全集のために16日から20日にかけて行われる大規模なもので、もともと我々のレコーディングはその最終日に予定されていた。ところが、私も真島氏も月の後半に仕事を抱えていて日本にいなければならないということで、無理を言って初日に調整してもらったのだ。パリを十分楽しむには、レコーディングをパリ滞在の最後に持ってくるスケジュールを組むしかなかったという訳である。

 朝、真島氏とともにアパートを出る。場所は昨日一度行ったところだから迷うことはない。レコーディングが行われる教会は、ソルボンヌ大学などもあるパリの文京区とも呼ばれるカルチェ・ラタンの一角にあった。ギリシャ神殿を思わせるパンテオンの建物(→)から南にまっすぐ延びるウルム通り沿いの教会に入ると、すでに他の曲のレコーディングが始まっている。礼拝室の前のロビーには調整卓とモニターが置かれ、ディレクターや日本人スタッフが陣取っている(←)。会場を映し出しているモニターを覗くと、正装したパリ・ギャルド吹奏楽団が整然と座って演奏している。教会の礼拝堂は残響が強力で、礼拝室の外で聴いているとリリースタイム5秒くらいのエコーがかかっているように聴こえる。録音環境としては必ずしも最適ではない教会でのレコーディングには別の意味があった。それは、今回のレコーディングがCDのためのものではなく、ビデオ収録のためのものだからである。ステンドグラスを背景に整然と配置した正装した護衛兵(ギャルド=ガード=護衛)の姿は絵になる。ビデオ作品であるからCDのような音質のクォリティは求められない。それよりも、絵の方を優先したというわけである。
 休憩になって指揮者のセバスチャン・ビヤールがロビーに颯爽と現れた。通訳の人を交えて、紹介の挨拶を交わす。「アンシャンテ(初めまして)、ジュマペル、タカシホシデ(星出尚志です)……」通訳の人がいるのだから無理してフランス語を喋る必要はないのだが、せめて簡単な挨拶くらいはと、ゆうべ一生懸命仏会話集を読んで憶えた言葉だった。しかし、やはり付け焼き刃のフランス語は堂に入らない。

 他の曲のレコーディングをしているうちにお昼になったので、指揮者のセバスチャンと通訳の人も連れだって近くのレストランで昼食をお供することになった。その通訳だが、なぜか二人いるのだ。なぜ二人も要るのかと訊ねてみると、一人はいわゆる一般的な会話の通訳で、日本人スタッフのツアーコンダクター的な役割、もう一人はパリ・コンセルヴァトワール(パリ音楽院)の現役の留学生という若い女性で、音楽の専門的な表現を正確に伝える役割と分担をしているのだそうだ。
 食事も進み、セバスチャンから「普段はどんな曲を書いているのですか?」と訊かれたので、「ミュージカルなども書いています」と言うと、怪訝な顔をされた。こちらフランスでは作曲家がミュージカルを書くことは奇異なことなのだろうか? しかし、怪訝な顔をされた理由はすぐに判明した。通訳の人がそのまま“Musical”と訳してしまったのだ。そう、“Musical”は「音楽」そのものを表す形容詞だから、「どんな曲を書いていますか?」の問いに対して、「はい、音楽を書いています。」というとんちんかんな返答では怪訝な顔をされるのも無理はない。我々が普通「ミュージカル」と呼んでいるものは、正確には“Musical Comedy”と訳さなければならなかったのだ。彼女もそれに気づいてあわててそれを伝えると、今度は納得した様子だ。指揮者の岩城宏之氏が自身のエッセイの中で、アメリカのオーケストラを前にパート譜のことを“Part”と言ったら違う意味にとられてしまったエピソードを書いているが、いやはや外国語は難しい。

 午後はいよいよ我々の曲の番だ。まずは真島氏の曲からレコーディング。氏らしいジャズイディオムがふんだんに盛り込まれた曲である。そんなことより、ハープを演奏している女性がこれまた美人で、しかも正装している姿がオスカルよろしくメチャクチャ凛々しい。視線はおのずとそちらに向きっぱなし(コラコラ^^)。その姿をフィルムに収めようともくろんだが、フラッシュが焚けず、現像結果は露出不足で大失敗。ここでお見せできないのが残念だ。
 そしていよいよ私の曲の番。まず部分的なリハーサルをしてから全体を通す。パリ・ギャルド吹奏楽団といえば、かつてその独自の洗練したサウンドが一世を風靡し、日本にも絶大なファンが多いバンドである。最近指揮者が交代して、かつての精彩は無くなったという噂もあったが、実際に目の前でその演奏を聴いてみると遜色は全く感じられない。そして、よく練り込まれた仕上がりになっていたので感激。
 楽譜というものは、ひとたび作曲家の手を放れると、演奏家の解釈によっていろいろな表現をされるものである。ときには、作曲者の意図しない解釈をされてしまうこともあるわけだが、それが初演として記録されると、その解釈が固定化されてしまうという、作曲者にとってはまことに不本意な結果になることもある。今回のレコーディングでは、我々の他にももう二人の作曲家の書き下ろし作品があるのだが、その二人はレコーディングには立ち会えず、そのうちの1曲は難解な曲で、指揮者もどう解釈していいのか分からない部分があると嘆いていた。こうして作曲者不在で行われるレコーディングがどんな結果になるかは私の知ったこっちゃない。あとで録音を聴いて「こんなはずじゃなかった」と後悔しても遅い。我々がわざわざパリまで来たのはそれなりの理由があるのだ。
 私は、自分の曲に対する多少の解釈の幅を、「へえ、こういう解釈もあるか」とむしろ楽しむタイプではあるのだが、それでもあまりにも自分の意図とかけ離れているときには、演奏者に注文を付けることになる。リハーサルを終えて、指揮者にテンポ感と部分的な奏法のニュアンスについて指示をする。その指示を演奏者に伝えてからもう一度全体を通してみる。それを隣で聴いていた通訳の彼女が、「あまり伝わっていないんじゃないですか?」と私に耳打ちした。しかし、私は「いや、これでいいんだよ」と答える。これは私のレコーディング経験からなのだが、作曲者の注文が100%演奏に反映されるということはまずないといっていい。なぜなら演奏者は演奏者なりの解釈をある程度作り上げているので、それを急に変えろといっても無理だからである。彼らにもプロとしてのプライドがある。作曲者の要求は反映しつつ、しかしどこかに自分の解釈を貫き通しているのだ。こういう場合、こちらの注文の50%でも反映してくれれば御の字なのである。100%に近づけたいなら、150%くらいの注文を付けておくのがベテランの匙加減というものだ。通訳の彼女は、作曲家の指示を受ければ演奏は劇的に変わるものだと思っていたらしい。いや、私も駆け出しの頃はそう思っていた。まあ、現場を多く経験したものにしか、この微妙な駆け引きは分からないかも知れないけれど。
 おかげさまで、私のレコーディングは非常に満足のいくものに仕上がった。ディレクターからOKのサインが出ると、私はバンドに駆け寄り、「トレビアン!! メルシー・ボー・クー(素晴らしい!! ありがとうございました)」と言うと、バンドのメンバーから拍手が起こった。なんとも作曲家冥利に尽きる瞬間である。というか、そのときは何とかフランス語が通じたという安堵感の方が大きかったのかも知れないが……。

 今日のすべての録音が終了し、最後に指揮者のセバスチャンをはさんで真島氏と私との3人の対談の収録になった。対談といっても言葉の通じない同士、自由な会話を交わすといったものではなく、あらかじめ「こんなことを喋ってください」というシナリオに沿って、ほとんど一方的に話すだけという段取りになった。
 まずは真島氏の曲についての2人のやりとりがあって、次にセバスチャンが私の曲について話す場面になった。ご存じのとおり、フランス語には発音しない文字が多い。“H”もその中の1つ。日本語の「ハ行」の発音は無いのだ。したがって、私の名字の“HOSHIDE”はフランス人は「オシデ」と発音することになる。フランス語はちんぷんかんぷんの私だが、セバスチャンの話の中に時折聞こえる「ムッシュ オシデ」という言葉にかろうじて私のことを話しているんだなということが確認できる。我々にとって外国人の名前の発音は難しいが、彼らにとって日本人のそれはもっと奇異で難しいものなのだろう。セバスチャンの話に耳を傾けていると、私の名前がどんどん変化していくのだ。「オシデ」は発音しにくいのか、だんだん頭に“T”が付いてきて「トシデ」と聞こえる。そのうち“D”の発音もいつのまにやら“B”に変わって、しまいの頃には「トシバ」としか聞こえない。頭に「ムッシュ」を付けているからやはり私のことを言っているとしか考えられないが、一応本人を目の前にしての対談である。せめて名前くらいは正しく暗記していてもらいたいものだ。
 この対談の模様は、このレコーディングが収録されたビデオ「The Band」に収録されているのだが、後で見てみると、ビデオではかなりカットされていて「オシデ→トシバ」の変化ははっきりと分からなかった。どうせ字幕で訳が出るわけだから、本人がデタラメを言っていたとしても、それに気付く人はほとんどいないだろうし。

 レコーディングも無事終わり、日本人スタッフとともに夕食に出かけることに。スタッフ連中は教会の棟続きのホテルに逗留しているらしく、いったん各自の部屋に荷物を置きに戻っていった。そして、そのうちの何人かは、半ズボンにサンダルという、まるでこれから夏祭りの金魚すくいにでも出かけようかといったようなラフな出で立ちで現れた。う〜ん、この格好をされたのでは、少なくとも中流以上のレストランに入ることは諦めざるをえないなぁ。
 通訳の人がソルボンヌ大学の近くのレストランに案内。一応、サンダル履きにも寛容なレストランのようだった。通訳、スタッフ合わせて10数人の集団である。そんなに広いレストランでもなかったので、4人掛けのテーブルを4つも占拠すると、レストランの一角は日本人の貸し切り状態になってしまった。
 美味しい料理の舌鼓とともにワインも進む。我々のテーブルの対角に陣取った若いスタッフの連中がだんだん盛り上がり、声のボルテージもついつい上がり気味。日本の居酒屋状態になってきた。そしてその喧噪が頂点に達したとき、ついにその横のテーブルで食事をしていたフランス人男性が振り向きざまに口に手を当てて「シィーッ!!」と叱責した。食事とともに静かな語らいを楽しんでいる者にとっては、この騒々しい日本人の行状は我慢の限界を超えてしまったのだろう。
 外国人から見た日本人観光客は、いつも集団で行動する厚かましい存在のようだ。こんな品行をしていたのでは日本人が軽蔑されるのも無理はない。たまたま我々のテーブルは彼らのテーブルとは離れていたので、一応よそよそしく他人のふりを決め込んでいたが、いやはや、ともすれば我々もやりかねないことだった。くわばらくわばら。


カルチェ・ラタン
 「カルチェ・ラタン」とは「ラテン区」の意味。かつて、大学生達がこの界隈でラテン語を喋っていたというのが発祥だとか。(戻る)
パート譜のことを“Part”と言ったら違う意味にとられてしまった
 岩城氏のエッセイによると、あちらではパート譜は正確には“Music Part”と言い、通常“Music”と呼んでいるらしい。このエピソードについては、岩城宏之著:楽譜の風景(新潮文庫)を読まれたい。ちなみに、今回のレコーディングに使われた楽譜をご覧になりたい方はこちら(戻る)