7月13日(火)
 真島氏はお目当ての場所でもあるのか、今日も自由行動ということに。
 まずは、あの「オペラ座の怪人」でも有名なオペラ座界隈を訪ねてみることにした。パリ市は現在、2000年に向けて市内の主要建築物の大規模な修復工事を行っているらしく、ここオペラ座の建物もその対象になっていて、正面は足場で覆われていて見る影もない。オペラ座からルーブル美術館にかけての一帯は日本人経営の店も多い地域だ。三越があったので入ってみたが、置いてあるのはブランドもののバックや洋服ばかりで、私には興味のないものばかりだったので早々に店を出る。その隣に立ち食いソバ屋の看板が。日本食の食材もあるというのでちょっと入ってみると、入り口近くの棚にはウーロン茶やカップラーメン、おにぎりやパック寿司などが置いてある。奥の立ち食いソバのカウンターを覗いてみると、やはり客は日本人ばかり。こってりしたフランス料理に食傷気味の日本人たちが、ついつい望郷の念に駆られて入ってしまうのだろうか。セーヌ川方向にぶらぶら歩いてみると、ラーメン屋に焼き鳥屋、寿司屋などもある。
 そうこうしているうちにお昼も回ってしまった。どこか適当なレストランはないかと探していると、その名もズバリ「ラーメン屋」という看板が目に入る。入り口に「冷し中華あります」と日本語で書かれているのにつられてついつい入ってしまった。店に入るやいなや「いらっしゃいませ〜」の声、一見大衆食堂風の作りで客もほとんどが日本人だ。メニューも日本語で短冊に書かれたものが壁に貼られている。一瞬ここはどこなんだという錯覚と同時にえも言えぬ安堵感が漂う。入口正面のカウンターにおばさんが座っていてそこで食券を買うのだが、財布からフラン硬貨を出したときに「ああここはフランスなんだ」と我に返る。店には外国人の姿……もっとも、ここでは我々こそ外国人なのだが……も数人見えたが、食券をあらかじめ買ってテーブルで待つというシステムには外国人は戸惑うだろうなぁ。
 カウンターテーブルで囲まれた厨房の中では中国人とフランス人らしきコックが料理を作っているが、日本で修行でもしていたのだろうか、「オ茶オカワリデスカ〜?」などとどちらも流暢な日本語で応対している。私の斜め前に現地の夫婦らしき人がカツ丼を頼んでいたので興味津々で動作を観察してみる。女性の方は日本食に慣れているのか、箸を器用に使って食べていたが、男性の方は箸が使えないらしく、カツ丼をスプーンで食べている。小皿のたくあんには一度鼻を近づけては見たものの、匂いがいやだったのか手も付けない。そしてやはりお国の違いは味噌汁の飲み方だった。こちらでは基本的に食器を持ち上げて口に付けるという習慣はない。前菜のスープをラーメンの汁をすするように飲んだら顰蹙ものだ。はたしてその男性は律儀にスプーンで味噌汁をすくい、一口ずつ口に含んで流し込んでいた。まあ、ここはフランス、そんな食べ方にいちいちめくじらを立てるのは野暮というものだ。ここはひとつ暖かく見守ってやろう(偉そうだなぁ)
 さて、注文した冷し中華だったが、ダシも麺も載っている具も日本で食べるものと何の変哲もないものだった。そういえば、近くに有名な寿司屋があったが、そこで出される寿司は日本のものとまったく同じネタなのだろうか?
 あるパリの有名な三ツ星レストランのシェフが、そこでの修行を終えて日本で店を開いているシェフの料理を食べてみて、それが自分のレストランとまったく同じ内容だったのでがっかりしたという話がある。そのシェフ曰く、「どうしてはるばる日本まで来てフランスでも食べられる料理を味わなければならないんだ」と。つまり、日本で店を開くのなら、日本でしか手に入らない食材を活かしたフランス料理を創出せよ、というのだ。私もこのシェフの言うことには賛同できる。同じように、フランスで漁れる魚介類は当然日本のものとは違うだろう。もちろん寿司との相性というものもあるだろうが、フランスの寿司職人ならやはり当地ならではの寿司を創出して欲しいものだ。私なら、その新しい味との出会いを楽しみにするなぁ。しかし、そう考えるのは少数派かも知れない。フランス料理に飽きたパリの日本人は郷里の味をそこに求め、寿司というものを初めて食べるパリっ子たちは、やはり伝統的な日本の寿司を食べてみたいと思うだろうから、結局のところ、両者の需要は何の変哲もない日本の寿司を食いたいということで合致するんだろうなぁ。ここの冷し中華は美味しかったが、そういう意味で私に感動を与えてくれるものではなかった。とはいっても、冷し中華をフランス風にしろといってもねぇ……フォアグラを載せてみるとか……庶民の食い物ではなくなってしまうな(^^;)。
 このラーメン屋はさほど大きな店ではなかったが、店内の壁には日本の著名人の色紙でぎっしりと埋まっていた。武田鉄也や森光子、小澤征爾の色紙も。つい最近では小室哲哉の色紙もあった。わりと有名な店らしい。というか、やはりパリを訪れた日本人の足はどうしてもこういう店に向いてしまうんだろうなぁ。さすがに店内のどこを探してもイブ・モンタンの色紙は見つからなかった。

 さて、食後の腹ごなしにとカルーゼルの凱旋門のあるカルーゼル庭園とチュイルリー公園を散策した後、セーヌ川を渡って本日の目的の一つであるオルセー美術館に到着。印象派の作品を中心に展示してある美術館だが、要所要所に日本語の解説パネルも用意してあるのが嬉しい。ここでスーラやゴッホなどの作品の微妙な筆のタッチを直にじっくり見ることができたのは収穫だった。とくに印象的だったのは、タイトルと作者は忘れてしまったが、畑を鋤いている牛が躍動的に描かれている作品。鋤かれて倒されてしまった雑草のアザミの冠毛の描写などが実にリアルだ……とどうしても興味は雑草に帰着してしまう(^^)
 夕刻までにはまだ時間があったので、パリの北西部の郊外にある新都心デファンスまで足を延ばしてみることにした。こちらは最近開発された地区だけあって、モダンな建造物ばかりが目立ち、パリ中心部の石造りの町並みといった面影はまったくない。ここの最も目立つ建物といえばやはり、フランス革命200周年を記念して1989年に造られた「新凱旋門」と呼ばれるグランダルシュ(「巨大な門」の意)だろう。じつは凱旋門のあるシャンゼリゼ大通りとこの新凱旋門は一直線に結ばれていて、この新凱旋門から凱旋門を正面に望むことができる。ところで、この新凱旋門、通りにまっすぐ面さず、やや斜に構えて立っている。正面から見たときに奥行き感を出すためだろうか? そういえばルーブル美術館の前に立っているカルーゼルの凱旋門もやや斜に構えて立っている。この3つの凱旋門の距離と大きさの相関関係なんかとも関係があるのかも知れない。

 日本は世界的にも物価が高い国といわれるが、ここパリも決して安いとはいえない。我々が気軽に入れるような普通のレストランで一品料理を注文しても大体50〜60フラン(約1000〜1200円)になる。たいてい飲み物も一緒に注文するから、一回レストランに入ると2000円近くの飲食をしてしまうことになる。これを毎日三度繰り返していたのでは貧乏作曲家の身としてはたまったものではない。せっかくアパートには台所も調理器具も完備されているので、もともと料理が得意な私は今後なるべく自炊で済ませることにした(真島氏は相変わらず外食にふけっている)
 というわけで、食材の買い出しにモンパルナス駅の近くのわりと大きなスーパーに行ってみた。1階には日用雑貨売場とレジがあるだけで、地下が食料品のフロアになっている。見知らぬ土地で食材を物色するのは、それがただの冷やかしであっても、当地の文化を垣間みる楽しさがある。まず驚いた、というより「やはり」と感じたのがチーズ売場。日本のスーパーでの食肉売場ほどのスペースをさまざまなチーズが占めている。食後のデザートの選択肢の中にチーズがあるなんてことは、乳製品の文化の浅い日本人には想像もつかないことだが、この豊富な種類を眺めていると、チーズはフランス人にとって日本人にとっての味噌醤油くらいに欠かせない食品であることをいやが上にも知らされる。一方、魚介類もあるにはあるがさすがに種類は少ない
 面白かったのが棚の一角を占めていた日本食材のスペース。味噌醤油はもちろんのこと、チューブ入りの練りワサビ、海苔、そしてカップラーメンなどもあった。不思議なのはTOFUと書かれた箱。どう考えても豆腐のことだと思うが、日本では見たこともない箱だし、もちろん水気はどこにもない。高野豆腐のようなものなのだろうか? それとも水で戻すと普通の豆腐になるのだろうか? ところで、このスペースにはお茶漬け海苔やふりかけもあったのだが、肝心の米がどこを探してもない。スパゲッティにでもふりかけるのだろうか?
 今夜は鍋一杯のミネステローネでも作ろうかと思ってここまで来たのだが、困ったことになった。肉の切り身は日本のスーパーなどと同じように発泡スチロールのパックに包まれているのだが、なぜか肉類でもベーコンや生ハム、さらにジャガイモなどのような野菜は量り売りなのだ。旅行のガイドブックには「郵便局はどこですか」などの会話集は載っているが、「そこのベーコンを200グラムください」などという庶民の日常会話はどこにも書かれていない。こういうときに言葉が通じないのはやはり痛い。下手な問答をして面倒なことになってはかなわないので、結局ミネステローネはあっさりとあきらめ、カット野菜の袋詰めと煮豆の缶詰とレバーのパテといくつかの調味料を買って、田舎風サラダと勝手に称する料理を作ることにした。
 さて、買い物は日本と同じように買い物かごに入れてレジに持参するのだが、レジ台に買い物かごを置いてもレジ係の女性はいっこうに精算を始める気配が無い。それどころか、憮然とした顔をしてなにやら文句を言っているのだが、さっぱり分からない。途方に暮れていると、私の後ろ並んでいた男性が身ぶり手振りで買い物かごをレジ台の下に置いて中のものを自分で取り出してレジに置けというジェスチャーをしている。言われてみれば、たしかにレジ台の足下に買い物かごが積み重ねて置かれている。どうやらこちらでは商品は自分でかごから取り出して置かなければならないようだ。ビニールの買い物袋もレジ台の横につり下げてあって、自分でその中に入れる。日本では買い物袋に商品を詰め込むところまでをやってくれることもあるが、セルフサービスが徹底している外国人から見れば、日本のレジはサービス過剰に見えるだろうなぁ。何事も初めての手続きをするときには、そそうの無いようにあらかじめ周りの人の動作をよく観察しておくのが鉄則だが、まさかこんなところが違うとは意外だった。
 しかし、機転を利かせてジェスチャーをしてくれたチョビ髭の中年の男性(真島氏ではないよ)、私がレジを後にするとき振り返って手を挙げて会釈をすると、ニッと笑ってウィンクをしてくれた。ほんのささいなことだが、フランスに来て初めて現地の人の人情に触れた気がした。


魚介類もあるにはあるがさすがに種類は少ない
 まあ、肉食中心文化で、かつ海から遠い内陸の町パリのことだから致し方ないのだろう。同じフランスでも、地中海に面したプロヴァンス地方にはもっと豊富な魚介類があるかも知れない。日本は肉料理ではフランスの足元にも及ばないところだが、懐石をはじめとする日本料理での魚の扱い方の豊富さについては、フランスのシェフたちも脱帽するらしい。
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