7月12日(月)
 私と同行している真島氏は大のワイン好きである。パリの北東部にある小さな街ランスにあるシャンパン工場を見学したいということで、今日はちょっとパリから遠出をすることになった。
 まずはバスでパリの北東部にある東駅へ向かう。東駅は遠くベルギーやドイツまでつながっている国際路線のターミナル駅である。東駅には列車の発車時刻の30分以上前に到着したのだが、切符の買い方が分からない。自動券売機もあるのだが、フランス語で表示されるのでさっぱりだ。ユニオンジャックのアイコンを押すと英語表示になるのだが、何画面かに進んだところで堂々巡りになってしまう。そういえば、隣の券売機で切符を買おうとしていたドイツ人とおぼしき人も、どうやら結局買えなかった様子だ。じつは、地下鉄の自動券売機なんかもそうらしいが、フランスのそれはあまりに操作が煩雑で、現地のフランス人すら使いこなせず、みんな窓口に行ってしまうとか。そんな誰も使わないような高価な装置を設置して何の意味があるんだろうか、それとも単にフランス人がデジタル音痴なのだろうか?
 などと言いながらも、結局我々も窓口に。すると日本でいうところの「みどりの窓口」に行けという。そこでは日本の銀行のようにスタンプされた番号札をもって呼ばれるまで待つわけだが、現在手続き中の番号は20人以上前だ。しかし、呑気なお国柄なのか、一人の手続きに3〜4分はかかっている。とても発車時刻までに20人も裁けそうもない。業を煮やした真島氏が駅員に尋ねると、列車の中で買ってくれという。フランスの国鉄の駅には改札がない。したがって、だれもがホームに自由に出入りできる。なんだか、運良く車掌に会わなければ無賃乗車もできそうだ。しかし、ランスまでは急行で1時間30分の距離。パリを発ってしばらくすると早速「乗車券を拝見します(と言ったかどうかは知らないが)」がやってきた。
 鉄道沿線には野草の花が延々と咲き連なっている。そういう沿線の風景は、野草好きの私にとって初めての土地に来たときのたまらない魅力の一つだ。高温多湿の日本では、くたびれているのか夏の平地の植物の花はぐんと少なくなり、この時期に野草の花を楽しもうとすると標高の高い高原に行くしかないのだが、こちらの夏はカラッとしていて、まさに高原に来ているような雰囲気だ。フランスの春は遅いといわれるが、やっと訪れた気候のいい季節に、花々も今を盛りにと謳歌しているようにみえる。
 ランスには昼過ぎに到着。フランスにはノートルダム寺院と名の付く大聖堂がパリのシテ島以外にも各地に点在する。ここランスにもそれがあり、駅からそこをつなぐ目抜き通りには観光客目当てのレストランや土産物店が軒を連ねている。その中のひとつに入り昼食を済ませ、まずは今世紀初頭にパリに来てパリに骨を埋めた日本人画家、藤田嗣治の建造したフジタ礼拝堂を訪れる。礼拝堂はちょっとした芝生で囲まれているのだが、そこには日本ではお目にかかれない野草がたくさん花を咲かせている。もともと宗教というものにほとんど関心を示さない私にとって、礼拝堂もそこに書かれているフレスコ画もステンドグラスも正直言って興味はない。じつは、私にとって今回のパリ行の最大の楽しみは、凱旋門を観ることでもレストランで美食を味わうことでもなく、見知らぬ土地に咲く野草に会うことだった。海外の野草でも、ヒマラヤの秘境に咲く美しい花などは雑誌や写真集などで紹介される機会も多いのだが、パリという都会に咲くごく普通の雑草が、遥か極東の地日本にまで紹介されることはほとんどない。そういう意味では、舗道の石畳の間から生えている雑草さえも、私にとっては心ときめく出会いなのだ。礼拝堂に入ろうともせず、子供のように嬉々として野草の写真を撮りまくっている私を見て、「じゃあ、4時にランスの駅で待ち合わせようね」と真島氏が切り出す。私がシャンパン工場にも興味を示さないだろうと察しての先制だった。
 一通りの写真を撮り終えた後、せっかくだから礼拝堂の中を覗いてみることにした。入口に置いてある日本語のパンフレットを一読してみた。が、やはり私にとってはあまり興味をそそられるものではなく、一通り堂内を見回った後早々に引き上げてしまった。
 その後、ノートルダム寺院の横を通り、ランスの町中を横切り、再び先ほどの大通りに出た。フランスの夏は快適だと言ったが、これも地球温暖化現象のせいなのか、ここ数年は気温が30度近くに上がることもあるらしく、いくら湿度がないとはいえ、ぎらぎらと照りつける日差しはやはり暑い。何か冷たいものが欲しいと思っていたところ、ファーストフードのハンバーガーショップを見つけた。今度は失敗しないぞ。メニューを見ると「Sprite」の文字が見える。これはあの清涼飲料水のスプライトのことだろう、間違ってもホットは出てこないだろう、と確信を持って「スプライト、シル・ヴ・プレ(スプライトください)」と注文。次に大中小のどれかと尋ねてくるのは分かっていたが、1リットルの大ジョッキで来られても困るので「Medium(なぜかこれは英語)」とすかさず答えた。さすがに今回は期待したものがちゃんと出てきて一安心。
 駅はすぐ近くに見えていたが、待ち合わせの刻限にはあと40分ばかりある。どうやって時間を潰すか。そうだ、駅の機関区は貨物の出入りなどで植物の種子の流入も多く、雑草の天下だ。きっとランス駅の機関区もそうに違いない。そう思い立って駅の反対側に足を伸ばしてみると、私の勘は的中。その機関区は長い間使われてないらしく、レールも錆びつき、人影もなくフェンスもない。したがって雑草は刈られることもなく伸び放題。レールとレールの間にいろいろな花が咲いている。日本では見られない種類の美しい花もあって私は夢中になってカメラのシャッターを押す。そうこうしているうちに刻限の5分前になってしまった。後ろ髪を引かれる思いで駅に向かう。これらの写真は近いうちに「野草の部屋」の番外編「フランスの野草」としてアップしようと思う。
 バリに付いたのは午後7時過ぎ。もちろんまだ日は高く昇っている。東駅前始発のバスに乗って帰路に付く。バスに乗ってみると、ガールフレンドなのか運転手とおしゃべりをしている女性がいる。その女性はバスが始動してもなおも喋り続けている。タクシーならいざ知らず、日本では運転中のバスの運転手に話しかけることなど御法度だ。しかし、ここはおおらかな国フランスのこと、その女性は我々が下車するまでの40余分、ずっとくっちゃべったままだった。デートならもっと他にふさわしい場所があるだろうに。
 アパートにてシャワーを浴びて一息入れて、モンパルナス駅近くの通りで適当なレストランを物色しているうちに、ムール貝が小さなバケツいっぱいに入っている看板を見つけた。じつはこの料理、これまでもパリの街角で何度も見つけて気になっていた料理だ。しかし、真島氏はかつてこの料理を食べたところまずかったという経験があるらしく、入るのを躊躇している。いぶかしがる氏を強引に誘いテーブルに着いた。南フランスのプロヴァンス地方の料理だろうか、基本的にはムール貝のワイン蒸しといったところだが、ガーリック風味、トマト風味、香草風味などの何種類かのバリエーションがある。真島氏と異なるバリエーションを注文し、お互い食べ比べてみた。一見粗野な感じのする料理だが、食べてみると結構洗練されていてなかなか美味。台湾料理のシジミの酒蒸しにも通ずる味だ。真島氏もこれなら大丈夫とご満悦。小さなバケツいっぱいといっても、貝殻がかさばっているので見た目ほど中身はない(とはいえ女性にはちょっと多いかも)。ここのメニューはムール貝の形をしていてなかなかお洒落だ。もらったチラシもムール貝の形。折り畳んだ貝を開いてみると、内側にはチェーン店の住所と電話番号がぎっしりかかれている。なるほど、パリの街角のあちこちで見かけたのは皆ここのチェーンだったようだ。デザートを食べ終えて店の外に出てみると、すでに夜のとばりがパリの街を包み込んでいた。

夏の平地の植物の花はぐんと少なくなり
 くたびれているように見えるのは人間から見た姿であって、植物にとって花を付ける時期の選択は、すなわち花粉を運んでくれる虫がいる時期ということになる。夏の平地ではハチやアブの活動が停滞するので、多くの植物がこの時期に花を咲かせることを避けているのだ。風任せで花粉を飛ばすイネ科などの植物は、真夏でも多くの花を咲かせているのだが、単に目立たないだけなのである。
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