第3話:シアワセノカタチ

 2nd TRACK

 最近になって気づいたことがある。

「ただいま。瞳ねえさんっ」
 学校から帰り、ウェイターの制服に着替えて控え室に入ると、たまたま瞳がいた。
 挨拶を交わすと瞳はにっこりと微笑んでくれた。
「おかえり、真義くん。そんな急がなくてもよかったのに」
「急いでいるつもりはないんですけど」
「息が荒いわよ……海洋高みたいに時間厳守というわけじゃないんだから、少しぐらいはゆっくりしていてもよかったのに」
「瞳ねえさんや蒼衣さんみたいな綺麗な人達と一緒に働けると思うと急ぎますよ」
 一瞬、瞳が生暖かい眼差しを浮かべたので真義は失敗したと冷や汗を流した。
 しかし、すぐに元の暖かい笑顔に戻ったので真義はほっとする。
「真義くんったら、身内にまでお世辞を使う必要なんてないのよ」
「いやあ、お世辞じゃないですよ。お世辞じゃ」
「お世辞でもそういってくれているのは嬉しいけど」
 真義としてはお世辞ではなく、実際に瞳は綺麗だったりするのだけれどこうなってしまっては堂々巡りである。真義は苦笑しかけたが途中でこわばった。
 瞳が息が触れ合うほどの距離にまで接近していた。
「でも、紳士たるもの身だしなみはきちんとしなくちゃだめですよ」
 異様に肩に力を入れる真義を見て、瞳は悪戯っぽい笑みを浮かべると白魚のような指先を真義の襟元に伸ばした。
 中途半端に立っていた襟を直し、曲がっていたネクタイをまっすぐにした。
「これでよし」
「あ、ありがとうございます」
「……もうっ。そんなに緊張することなんてないのに」
「オレもそう思うんですけどね」
 けれど、瞳の一連の行動によって心拍数がかなり上がっていた。
 いちおう二人との取り決めで真義と瞳は義姉弟の契りを結んだ関係にはなってはいるものの、いきなり兄弟になれといわれてもうまくわけがなく、未だにぎこちなさがあった。
「でも、緊張しますよ」
「どうして?」
「瞳さんに襟を直してほしいという奴っていくらでもいますから」
 学内には陸ファンクラブや樹ファンクラブがあるように、瞳ファンクラブもあり、瞳ファンクラブの連中が今の光景を見ていたらと思うと卒倒するであろうし真義に殺意を抱くであろう。
 瞳はため息をついた。
「うれしいんだけど……本当の私を知ってもついてきてくれるのかな?」
「多分、それでもついてくる野郎というのはいっぱいいると思いますよ。どんな姿でも瞳さんは可愛いですから」
「バカっ……」
 どんな姿というのが本来のスキンヘッドの状態であることはいうまでもなく、瞳は恥ずかしそうに真義の頭を叩いた。
「もうっ、真義くんったら」
「恥ずかしがる瞳さんも最高ですよ。とっても可愛いじゃないですか」
 客観的な観点から見てもこの時の瞳はキレイではなく可愛いだった。
「大人をからかってはいけません」
 もう一発叩いたが満更でもなさそうだった。
「でも、浮気はしちゃだめよ」
「そ、そんな。浮気なんてしてないっすよ」
 いきなりの展開についていけない真義に瞳は指摘した。
「だって、さっきからそこで瑠柁ちゃんが真義くんのことを見つめているから」
「へっ?」
 青天の霹靂とはまさにこのことだった。
 気がつくと瑠柁が無駄吠えばかりするワンコのような形相で真義を睨みつけていた。
「おにいちゃん」
「い、いつ来たんだ」
 無防備なところにいきなり殺気を叩きつけられて真義は顔面が真っ白になる。
「いつ来たなにもずーっといたんだけど」
「…………」
 最初はいなかったような気がするのだけれど、とにかく瑠柁が来ていたことに気づかなかった。
「おにいちゃんのバカッッ」
 瑠柁は真義の右足のスネに蹴りを入れるとそのまま立ち去っていった。
「真義くん!?」
 あとに残されたのは蹴りを食らい、床で悶絶する真義とそれを心配する瞳だった。
「……すっごくいってぇ……ひょっとしていっちゃってるかも」
 手加減やギャグが一切入っていない瑠柁の蹴りだから、その痛みと衝撃は半端なものではなかった。

 このように、瑠柁はねねだけではなく瞳にもやきもちを焼くようになっていた。
 気づいているんだろうか……瞳に気があることに
 そう思った直後、真義は失笑の発作に襲われる。
 ……どう考えてもごまかしきれるとは思わなかった。

「だいじょうぶです。……少ししたら立てると思います」
 幸いなことに折れてはいないようだったが痛みがじんじんに響いて立つことができなかった。
 そんな真義を心配しそうに見ていて状態が悪ければ病院に運んでいきそうな瞳だったがやがていらだち混じりのため息をついた。
「もうっ……瑠柁ちゃんったら」
「瑠柁のこと。怒らないでください」
 胸が痛かった。
「……オレが悪いんですから」
「真義くん」
 思いつめたような真義を目の当たりにして瞳は何も言えなかった。
 少し、迷って微笑むと真義の頭を撫でた。


   ▽▽▽


 日曜日の朝、真義は外から高らかに響き渡るエキゾーストによって目を覚ました。
 スウェットからジーンズに着替えると外に出た。
 天候は晴れ。
 朝日の柔らかい光がさんさんと地上に降り注いでいた、空は何処までも蒼く透き通っていてもしも翼があるのなら世界の果てまで飛んでいきたくなるような天気だった。
 しかし、天に登っていくのはエキゾーストと排気ガスだった。
 駐車場にはトラックとサイドカーが止まっていて、WW2の戦車を思わせるような無骨なデザインのサイドカーを蒼衣とプポーネが楽しそうにいぢくっていた。
 蒼衣が真義の接近に気づくなり、ぶんぶんと手を振る。
「おっはー。真ちゃん」
「おっす。シンギ」
「そのサイドカーどうしたんだよ」
「プポーネから手に入れたんだ。ウラルのサイドカー、かっこいいだろ?」
 蒼衣は完全に好きな玩具を与えられた子供になっていた。
「かっこいい……というかミリタリーだよね」
 迷彩色に塗られた車体といい、サイドカーの上部についているスペアタイアや傍についているタンクのような部品がマッチョさを際立たせている。
「そこがいいんじゃないかよ」
 決してスマートではないけれど、普段は眠っていた兵器オタ心をくすぐるデザインをしているのも事実であり、わざわざ不機嫌にさせることもないので真義はうなずくとプポーネに話しかけた。
「どっから仕入れてきたんだよ。このバイク」
「それは企業秘密っていう奴だな」
「どういう企業秘密だよ」
 聞かないほうが幸せということもあるのだろう。きっと。
「ていうか、また無免許で乗ってるだろう」
 サイドカーを運んできたとおぼしきトラックを見て真義は呆れたが、プポーネも呆れた。
「朝っから小言かよ。つまんーね奴。まるで委員長みたいだぜ」
「てめぇみたいなヤクザでも心配してやってんだよ。一応」
「ふん。ロマニスタを舐めるな」
「だからといってステアー撃ちまくるのはやめろ」
「ほんとキミらって仲良しだねっ」
「どこか」「誰がっっ!!」
 ……ハモってしまっているのだから否定にも説得力がない。
「ちっ。ラツィアーレなんざあっちにいけ」
「頼まれなくてもあっちに行ってやるよ」
「そういうわけだから、今日は休むでよろしく。瞳ねえにはちゃんと言ってあるから」
「了解」
「それと飯の出前も」
「あいよ」
 真義は蒼衣のリクエストに生返事で答えると母屋の方に去ろうとしたが、その背中に向かってプポーネが話しかけた。
「ねねや瑠柁とうまくいけてるか?」
「全然」
 真義はリストラされた労働者のように肩をすくめた。
「なら、こいつを持ってけ」
 プポーネが何かを放り投げてきたので、真義は反転しながらキャッチした。
 それはビデオテープだった。
「こいつが何の役に立つっていうんだよ」
「それは見てからのお楽しみだぜ」
 くししっと怪しく笑うプポーネに不信は抱きつつも、かといって突っ返すわけにもいかなくて真義はそのビデオテープをもったまま歩き出した。

「おはよ。真義くん」
 母屋に入ると瞳と出くわした。パジャマというラフなスタイルであったが、大きく膨らんでいるその胸に真義はドキマギした。
「おはようございます。瞳ねえさん」
「ちょうどよかった。真義くんにお願いがあるの」
「わかりました」
「……何も聞かずに安請け合いすると後悔するわよ」
 真義が即答としたことに瞳は苦言を呈した。
「だって、その顔で頼まれたら絶対に断れないじゃないですか」
 年上の超美人なお姉さんに優しく微笑みながら頼まれたら、どんな頼みでも断れないだろう。
「そんなんじゃ後で後悔するわよ」
 もっともだったんたけれど瞳は心配のため息をついた。
「いや、瞳ねえさんだったら後悔しないっす」
「……もう、そんなに持ち上げても何もでないわよ」
 困りながらも瞳はとっても嬉しそうだった。

 瞳の部屋は、品のある調度品でまとめられていてきちんと整頓されていた。それは20前半のバリバリの若手OLの部屋というものを具現化したようなものであり、何処となく大人の香りが漂っているように感じられた。
「なに、そう珍しく見てるのよ」
 部屋に入ってから落ち着かない真義に向かって瞳は話し掛けた。
「……いや、ここが瞳さんの部屋なんだって」
「そんなに感動することじゃないでしょ」
「でも、ねーちゃんの部屋とは思いっきり違いますし」
 瞳は苦笑した。
「理亜さんは私よりも年上なはずなんですけどね」
「少女趣味全開だもんなあ」
「でも、理亜さんよりも年上に見られるのは……」
 なんともいえない空気が漂いだして、お互いに視線のやり場に困った。
「話ってなんですか?」
 固まった空気を打破するために真義は本題に戻ることにした。
 頼みといっても真義はそんなに期待はしていなかった。
 部屋に入っていきなり服を抜き出してエッチしてくださいというのはスパムメールの世界でしかありえないネタである。
 ラブラブな関係にまで行っていないことは分かっていた。
 瞳は膝まで覆うほどに伸びた豊かな髪を手が優雅に払うと、真義に背を向けてベットに腰掛けた。
「真義くんに髪、編んでほしいの」
 エッチなことではなかったけど、ある意味ではそれに近くて心臓が激しく鼓動した。
「……オレでいいんですか?」
「可愛い弟が出来たんだから、コキ使うのが当たり前じゃない」
「可愛いって……」
 陸や蒼衣がよくやるように偽悪めいた口ぶりでいうと真義は苦笑した。可愛いというのは男にとっては褒め言葉ではないんだけれど、瞳に言われているのだからそう悪い気はしない。
「でも、なんでオレなんですか?」
 ねねは瞳の部屋で一緒に寝ているのだけど、そのねねは席を外している。
「だから言ったでしょ。せっかくできた弟なんだから、コキ使わなくちゃ。真義くんが嫌だったらいいけど」
「そんなことないっすよ。そんなこと」
 誰もが憧れる瞳の、その髪に触れることはおろか編むことができるというのである。
 彼女の髪を触ってみたい、編んでみたいという野郎が真義の知る限りでは数十人もいるのだからその機会を見す見す逃せば彼らに恨まれることだろう。
 もっとも、これが常態化すれば飽きるのかも知れないが。
「ありがと、真義くん。手間かけさせちゃって」
「別にいいっすよ。貸しイチですから」
「うん。期待しちゃってもいいよ」
 頼むから晴れやかな笑みをしないでくれ。
 ……襲いたくなるから。
 瞳の笑顔に内面で眠っていた狼の部分が息子と一緒にぬくっと起き上がるのを感じながら、なんとかして衝動を押し殺すとテーブルの上に置いてあったブラシを手に取って、瞳の髪をすくい取ると毛先から梳き始めた。
 髪を梳る時のポイントは丁寧に、焦られないこと。
 具体的なことをいえば根元から毛先まで一気にやるのではなく、毛先から櫛が通るところまで梳って、その範囲を拡大していくこと、引っ張るのではなく壊れ易いガラス細工を扱うような丁寧さと細心さでやることだろう。
 乱れていた瞳の髪が真義の手にかかることによってまっすぐになり、宝石でのように煌きだす。
「思った通りね」
「何がですか?」
「真義くんならとってもキレイにやってくれると思っていたの」
「そ、そんな。そうですか?」
 瞳の賛辞に真義は照れた。
「いや、自分ではまだまだだと思うんですが」
「真義くんの仕事ってとっても丁寧なんだもの。ありがとね、真義くん」
「礼を言われることじゃないっすよ。なんでですか」
「弟にとっても大事にされているだと思うとお姉さん、とっても幸せになれちゃうから」
 その一言に真義の顔はかーっと熱くなった。
「瞳さん。お世辞言うのはやめてくださいよ」
「いつも、お世辞言われてるからその仕返し」
 悪戯っぽく笑っていても品があった。
「そんな。お世辞じゃないっすよ、ほんとの事ですから」
「こんなに大事に髪を梳いてもらっている瑠柁ちゃんってとっても幸せ者ね」
 真義が髪を梳くのに手馴れているのは、瑠柁の髪を梳き続けることによって経験値を積み重ねたからである。
「……ええ、まあ」
 その瑠柁との間がしっくりいっていないことに真義の表情は一瞬、曇る。
 しかし、瞳に情けない姿を見られることの方が辛くて動揺をなんとかして沈めると話を切り替えた。
「そういえばふと思ったんですが」
「どうしたの?」
「瞳さんの髪はカツラなんだから、髪型が違う複数のカツラを用意してTPOに合わせて切り替えれば楽々なんじゃないですか?」
 真義の梳いているこの髪は天然のものではなく、あくまでも合繊繊維で作られたものである。そのため、スタイリングがしやすい。
「そうよね。そうすれば楽よね」
 真義の提案に瞳は乗ってみるそぶりは見せたけれど、少ししてから作り物の髪を労われるように撫でた。
「確かにこの髪は地毛ではないけれど、私にとっては地毛だと思っているの。女の子にとって髪がないというのはとっても悲しいことなの」
 古来から「髪は女の命」と言われるように、女性を女性であることを証明するものだった。
 昔は髪の長さとキレイさだけで美人とまで言われるように女性の美を構成する上で欠かせないパーツであり、時が過ぎ女性が社会進出していくにつれて髪をばっさりと切り、時には自ら坊主頭にする女性も現れたがこの世の中に短髪萌えがいるように長髪萌えもいるのだから、女性の美を語る上で髪というファクターがなくなることはないだろう。それは「女性は髪が長くあるべし」という価値観が生き続けていくことを意味していた。日本や西欧といった社会では女性の髪が長いという価値観が千年以上の長きにわたって続いており多少の揺らぎがあったとしても変わらないのである。
 髪を失った女性は女性ではない。だから、尼僧は髪を剃る。
 好き好んで坊主になりにいく女性だって額の真ん中から食い込んでいくバリカンの感触に泪するのだ。まして、瞳の場合はキレイな長い髪がチャームポイントだった美少女が白血病にかかって化学療法の副作用によって抜け落ちてしまい、その後の頭部への放射能治療によって二度と髪の生えない身体になってしまったようなものである。髪への思い入れと悲しみは常人の比ではない。
「……ごめん」
 真義は何も考えずに言ってしまったことを後悔する。
「私のこそごめんなさい。真義くんを責めるつもりでいったわけじゃないんだから。それにね、スキンヘッドの私を可愛いって言ってくれて本当にうれしかったんだ」
 鏡越しに映る年上の女性の可愛い笑顔に真義は呆然となる。
「そ、そうなんですか」
「私は、あの姿の私が好きになれなかったの。でも、真義くんにステキだって言われて少しは好きになれたんだ」
 ……そこまで言われると照れて目のやり場に困ってしまう。
 困惑している真義を見て、瞳は楽しそうにしているのだけれど真義には気にしている余裕なんてなかった。
「ほんと、困ったねーさんだよな」
 照れ隠しに真義は握った絹のような肌触りの髪をぐいぐいと引っ張ったけれど、その程度で髪が頭から抜けることはなかった。
 ただ、気になることはあった。
「瞳さんって、サイボーグになる前は何処まで伸ばしていたんですか?」
「それ以前の記憶はないからわからないの。言ったでしょ、実はトラッカーのおじさんだったのかも知れないって」
「……じゃあ、髪を足首ぐらいまで伸ばしていた美少女だということにしておきます」
 その時、思い浮かんだのは瑠柁の姿だった。
 薄茶色のウェーブのかかった髪をベールのように伸ばしている。
「真義くん?」
 真義の心境の変化を感じ取ったのが、瞳の表情が心配なものへと変わる。
「昔を思い出していたんですよ」
 真義の目前には瞳の後頭部がある。
 頭の天辺にあるつむじと、そこから全身を包み込むように広がるダークブラウンの髪、73に分けた髪とその分け目は自然なものとしか思えないぐらいにリアルだった。
 髪というものに想い入れを持ちながら二度と髪の生えない人もいるのなら、生えてくる髪に憎しみを持った少女がいた。

 真義はその少女のことを思い浮かべていた。

「いやなのっっ!!」
 真義が躊躇するとその子は目にいっぱいの泪を浮かべながら叫んでいた。
「これがあるのがゆるせないのっっ」
 ほんの数ミリ、頭にあるかないかわからないぐらいにしか伸びていていないのに、その子はそれがあることを認められなかった。
 「剃って剃って」とお願いしながら泣きじゃくる女の子を前にして、真義はただ呆然と立ち尽くすことができなかった。

 その女の子を守ることができなかったことが悔しかった。

 真義は苦笑する。
 なんのことはない。
 瑠柁が周りを見ず、空気を読まずに真義にひたすらアタックし続けるのは真義がそう仕向けたからだ。自業自得である。
 
「おにいちゃん」
 ある時は笑顔で
「おにいちゃんっ!!」
 ある時は怒って
「おにいちゃん……」
 ある時は泣きべそをかきながら
 万華鏡のようにころころと変えてくる表情の一つ一つが眩しくて抱きしめたいぐらいにいとおしくて、そして悲しかった。
「真義くん……」
 真義の顔が今にも泣きそうなぐらいにゆがんでいた。
「瑠柁はこんなオレを大好きだと言ってくれてる。でも、オレは瑠柁にぜんぜん報いてあげられない」
 色々と問題はあるけれど、瑠柁はとっても可愛い女の子であり、全身全霊を込めて愛していてくれているのはとっても嬉しかった。けれど、そんな瑠柁の望みを叶えてあげることができないのが悲しくて悔しかった。
 真義に想いをかけているのは瑠柁だけではないからだ。
 瑠柁に愛を注げば、その影で自分に想い寄せてくれた女の子を泣かせる羽目になる。その子のことを捨てることもできなかったから結局のところは瑠柁も嫌いなのか好きなのかわからない、答えも出てない中ぶらりんの状態にしておくしかなかった。
 答えが出せない、はっきりと決断できない自分がとっても呪わしかった。
 けれど、不意に思考が中断される。
 瞳が突然、真義のことを抱きしめてきてからだ。
 髪から漂うシャンプーの甘い香りと柔らかくて大きい胸の感触に真義は我を失った。
「ひ、、ひとみさん!?」
「いいんですよ」
 機械だとはいえ、ミロのビーナスのようにキレイな手で撫でられてると真義の心臓は激しく鼓動している。なのに体が思うように動いてくれないわけなのだけど、幼稚園児の頃に戻って保母さんに抱かれているようなそんなレモンスカッシュのようなドキドキと安らぎを感じていた。
「こんなに素敵なお兄ちゃんを持てて瑠柁ちゃんはとっても幸せね」
「そ、そうですか?」
 こんな浮気者の兄を持ってて幸せになんて思えない。
 けれど、瞳の見解は違っているようだった。
「真義くんは瑠柁ちゃんのことを真剣に考えているんだもの。それはとっても素晴らしくてありがたいことなのよ」
 廻り全てが敵より、一人でも味方がいいほうに決まっている。
 打算からではなく、心から想ってくれる人間なんていうのは滅多にいない。
「真義くんは瑠柁ちゃんとねねちゃんとどちらが好き?」
 ここで答えられるようだったら苦労はしない。
 真義が黙っていると瞳は続けた。
「それじゃ、瑠柁ちゃんにもねねちゃんにもチャンスがあるということ?」
「……ええ」
 暴れ馬のような心臓をどうにかして沈めると曖昧に答えた。
 瑠柁ともねねとも選べないし、かといって意中の相手がいるわけでもない。
 正確にいうのなら意中の相手はいなくもないのだけれど、ハードルが極めて高いように見えて足踏みをしているのが現状だった。
 アタックしようにも足が進まなくて、足が止まっていることに本気に愛する気があるのかと疑っているところだった。本気で欲しいのならガムシャラに突っ込んでいくはずだから。
「だったら、急いで決めることはないじゃない」
「……そうですね」
 二人の将来に関わってくるのだから急いで決めることはなく、むしろ目先にまどわされず大局的な観点から決めるべきだった。
 見るだけで胸が熱くなる段階で決めても遅くない。
 真義は息をついた。
 周りから決めろと決めろとプレッシャーをかけられていたようだったけれど、決めることができない自分を肯定されてようやく光明が見出せたような気がした。
 優柔不断を慎重と言い換えればこっちのものだ。
「瞳さん。ありがとうございます」
「困った弟を助けるのは当然のことです」
 その割にはとっても嬉しそうだった。
 なにはともあれ、瞳に抱かれる展開になって真義は心臓をドギマギさせつつも嬉しかった。
 顔に押し当たる大きな膨らみの柔らかい感触もさることながら、母親に抱かれているような安らぎを覚えていた。
 溢れんばかりの優しさに今までの苦悩やストレスが解けていく。
 真義はこのまま時がすぎていったらいいなと思った。
 無論、瞳は仕事だからいつまでもこうしているわけにはいかないのだけれど、それでもこの幸せな時間が続くことを祈った。
 けれど、その幸せは無残な形で破られる。
「瞳おねーちゃーん。おはっ……」
 止める間もなく瑠柁が部屋の中に入ってきては凍りついた。
「おにーちゃん……」
 部屋の温度が一気に絶対零度まで下がった。
 瑠柁は驚きのあまりに目を開いたままで固まっていたが、それは真義や瞳も同様だった。
 むしろ、不意を突かれた側に入る二人のほうが衝撃が大きい。
 言いたくても言葉が浮かばない
 浮かんだとしても出せない冷たくてコンクリートのように硬い空気が流れ、それでも時計の針は刻一刻と無駄に刻んでいく。
 部屋の空気が一気に熱くなった。
「ちょっと……離れなさいよ……」
 真義と瞳が抱き合っていたという現実をようやく認識すると瑠柁は修羅と化した。部屋の空気が一瞬にして燃え上がり、髪をほんの僅か逆立てながら鬼の形相を浮かべて近づく様には真義はおろか、瞳でさえも言葉がでない。
「お・にぃ・ちゃ〜ん……」
 どうやったら出せるのが不思議な声に真義はなすすべなく胸倉を掴まれると、そのまま片手一本で持ち上げられる。
「なんで、瞳さんといちゃついてるの……」
「いちゃついてなん……」
 冷蔵庫が圧し掛かってくるような力がかかって真義は悶絶してしまう。
「いちゃついてたじゃないっっっ!!」
 真義の骨からメキメキと不気味な音が立つが、それが瑠柁の怒りを止めることはなかった。むしろ、フェルテシモを奏でるごとに怒りの炎が留まることを知らず何処まで燃え広がっていくように見えた。
「おにいちゃんの、おにいちゃんのぉぉぉっ」
 血管が浮き上がるほどに瑠柁の手に力が入る。
「浮気者ぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっ!!」
 
 指先を動かせば真義の首が折れるどころか本当にもげていたからも知れない。
 それを止めたのは、突然鳴り響いた銃声だった。
「いい加減にしてください」
 ステアーを片手に現れたのはねねだった。いつもは温厚なねねであるが、真義の惨状を見かねて激怒していた。
 その足元には薬莢が転がっており、空になったマガジンを抜いて代わりのマガジンを差し込んだ。
「次から撃ちます」
 さっきのは空砲だったから実害がなかったわけではあるが、次からは本気で発砲するのだろう。
 周りの迷惑なんて顧みず。
「……ねね」
 瑠柁は興味がなくなった縫いぐるみのように真義を放すとねねと向き合った。
「あんた。何様のつもり?」
 やくざでも小便漏らすほどの悪魔の形相になっている瑠柁であるが、ねねは一歩も引かなかった。
「あんた、ロボットなんでしょ。ロボット三原則ぐらい守れないの」
 瑠柁も一応は知っていたらしい。内容までは理解していないだろうが。
「ご主人様を害そうとして相手に守る法則なんてありません」
「はん……瑠柁がお兄ちゃんを……」
 我に帰ったのか真顔になっては俯く瑠柁だったが、すぐに狂気に戻り怒りの炎が吹き上げる。
「あんたらが悪いんでしょ。あんたらがお兄ちゃんを取ろうとするんだから」
「ねねちゃん……」
 瑠柁に圧倒されて、二人のやりとりを聞きながら真義の介抱を続けている瞳の顔がそっと曇った。
「お兄ちゃんは瑠柁のものなんだよ。それなのに、なんであんたらおにいちゃんを誘うの? 誘惑するの? 瑠柁はね、おにいちゃんとずっと一緒なはずなんだよ。あたしからお兄ちゃんを奪うなっっっ。だから、許せない……ゆるせっ」
 
 頬を張る音が空間に響き
 場は静かになった。

「いいかげんにしなさい」
 瑠柁の頬を張った瞳は怒っていた。
「……お、ねえちゃん」
 瞳を敵に回すような発言をしたのに、瑠柁は信じられないといった表情で固まっていた。
「その真義くんに危害を加えてどうするんですか。ごらんなさい」
「……おにいちゃん?」
 瞳の膝の上でぐったりしている真義を見て、瑠柁の顔色が変わる。
 さっきまでの鬼は消え、そこにいるのは兄を気遣う一人の女の子だった。
 思わず、真義の元に駆け寄ろうとしたがねねによって進路をさえぎられた。
「どうして!?」
「瑠柁さんを近づけさせるわけにはいきません」
「なんで!? 瑠柁はおにいちゃんの妹なんだよっっ」
「瑠柁さんは正確には真義さんの従妹のはずですが」
「うるさい」
 怒りに任せてねねをぶん殴ろうとしたが、ねねは瑠柁の鉄拳を冷静に避けた。
「乱暴な人に真義さんを任せられるわけがありません」
「なにっっっ」
 その場、その場の感情に任せて行動する瑠柁とは対照的にるるは冷静だ。
「そもそも貴方が真義さんを傷つけたのではありませんか。私の予測だと瑠柁さんがこれからも真義さんを傷つける可能性は100%です。私はご主人様を守る者として貴方を排除します」
「ふざけんなっっ!!」
 その予測を裏付けるかのように瑠柁は火病、もとい噴火した。
「おまえが悪いのに。おまえがいるからお兄ちゃんを傷つける羽目になっちゃったんじゃない。このロボットのぶんざ……」
「いい加減にしなさい」
 熱くなったり冷たくなったりと気温の変化が著しい部屋の空気がまた絶対零度の領域にまで冷却される。
 怒っていた。
 あの瞳が本気で怒っていて、瑠柁は幼い子供のように怯えだす。
「お、ねぇ……」
「私は自分の責任を他人に押し付けるそんな卑怯者を妹にした覚えはありません」
 きっぱり言い切った。
 そして、
「お兄ちゃんを大切できないような人は妹とは呼べません!!」
 これが止めになった。
 
 どんな拳より、どんな銃弾よりも深く瑠柁に突き刺ささる。
 よろけるように一歩下がって、泣き出すとそのまま脱兎のごとく走り去っていった。


 危機は脱したとはいえ最悪だった。
 瞳にしても瑠柁のことを本気で嫌っているわけではない。
 ただ、自分のやったことを他人のせいにしようとする性根が瞳には許せなかった。
 瞳はため息をついた。
 瑠柁の嫉妬心がどんどんエスカレートしている。
 今日はこの程度で済んだけれど、これから先はどうなるか分からない。
 そして、このようなことになってしまった原因が自分にもあることを知って瞳の気はひたすらに重たくなった。
 確かにさっきのは暴走しすぎたような気がする。
「……ううっ」
 そんなとき、真義が軽いうめき声を上げて目を覚ます。
「し、真義くん。だいじょうぶ!?」
「……だいじょうぶです。はい」
 顔色こそ蒼く、息も弱弱しかったがそれでも真義は大丈夫なようだった。
 よかったとホッとするけれど、この惨状をもたらしたのが瑠柁という事実に苦笑の発作と頭痛が一変に起こって瞳はこらえるのに苦労した。
「瑠柁は?」
「私が叱ったから……」
 落ち込んだような瞳の様子に真義は状況を把握すると即座に立ち上がろうとした。
 けれど、立ち上がれたのはいいものの、足がもつれて転んでしまう。
「ご主人様っ!!」
「だめじゃない……真義くん」
 ねねと瞳が不安そうに真義を介抱するが、真義はそれでも立ち上がろうとするのだけど、足に力が入らなくてへたりこんでしまう。
「あいつ、追わないと……」
 体が言うことを聞いてくれなくて、真義はとっても悔しそうだった。
 そんな真義の前にねねが立ちふさがる。
「どうして、あの人を追おうとするんですか? あの人が何をしたのか真義さんも分かっているでしょうに」
 危害を加えた相手のことを気遣うことが信じられなくて戸惑うねね。
 真義は驚いた後、優しい笑みを浮かべて答えたのだった。
「それでも瑠柁はオレの妹だから」
「……」
 その答えにねねは何か言いたげではあったが、何も言えなかった。


 気がつくと浜辺にいた。
 砂利だけの浜辺に北国の冷たい水が満ちては返す。
 掌を差し入れて見ると差すように冷たくて、その冷たさに瑠柁は数分前のことを思い出しては暗い気持ちに捕らわれた。
 どうして、あんなことになったのだろう。
 真義と瞳が抱き合っている瞬間、頭に血が上って気がついたら片手で真義を締め上げていた。
 真義が悪いのだ、と瑠柁は言い聞かせるがその声は途中で消えていく。
 理由はどうあれ、瑠柁は暴走してそのたびに真義を傷つけていた。
 そのつど、真義は何事もなかったかのようなそぶりで許してくれたけれど今回も許してくれるかどうか自信がない。
 いや、周りの人間が許してくれるのだろうか?
 最後の瞳の怒りっぷりを思い出しただけで恐怖が蘇る。
 真義はともかく、瞳たちは許してくれそうにない。
 ねねが、ねねが悪いんだから
 ひたすらにねねに責任転嫁を試みるがうまくはいかない。
 当然だ。本当は瑠柁だって悪いと思っているのだから。

 足音がして、瑠柁は期待に胸をときめかせながら振り向いた。
 それはすぐに落胆へと変わる。
 現れたのは蒼衣だったからだ。
「真義じゃなくて悪かったな」
 瑠柁は驚いていいのか怒っていいのか分からなくて戸惑っているようだった。
 何をしにきたのだろう?
 怖かった。
 蒼衣も瞳みたいに怒ってくるんじゃないかと思うと怖かった。
 そして、蒼衣の意図が読めず、起こすであろうアクションにどう反応していいのか分からなくて、まだ何も知らない幼子のように途方にくれていた。
 帰りたくなかった。
 真義や瞳、その他の人々と顔を合わせたくない。
 彼女らが帰ってきた瑠柁にどんな反応を示すのか怖かったから。
 でも、たった一人では生きていけないこともわかっていて、どちらにも振れることができない中ぶらんの状態のまま、心は彷徨っていた。
 そんな瑠柁を面白そうに見ていた蒼衣であったが、不意に瑠柁の両肩を叩いた。
 瑠柁は驚き、次に不審と戸惑いが混ざった眼差しで蒼衣を見上げる。
 蒼衣はにこっと笑って言った。
「よし。今日はあたしに付き合え」
「……付き合え?」
 ようやくそこで声が出た。
 いつも瑠柁とは違う、力強さを喪失した声。
「駐車場、見てなかったのか?」
 瑠柁はぎこちなく、かすかに首を横に振ると蒼衣は「なんだ」という顔をした。
「今日は頼んでいたウラルが来るから休みなんだ。瑠柁も一緒に乗らないか? 落ち込んでいるときはかっ飛ばせばすかっとするぜ」
 瑠柁は答えず、ただ表情で”怒らない”のと不安そうに尋ねる。
 瑠柁が声に出さなかったのと同じように蒼衣は口に出しては答えず、そのまま浜辺から歩き出す。
 少ししてから、瑠柁はよろけているような足取りで蒼衣を追い出した。
 ひとりぼっちで置き去りにされるほうが怖かったから。

 ツーリングを始めて数時間、二人を乗せたウラルがたどり着いた場所は人気のない静かな湖畔だった。
 森の中にある、湖というには狭すぎて、沼というには広すぎるそんな辺鄙な場所で止めると、蒼衣はウラルから降りては満足そうに腕を伸ばした。
「やっぱ、バイクって最高。すかっとすんなー」
 それから後ろに乗っている瑠柁を見た。
「そうだろう? 瑠柁……って、おーい。瑠柁、死ぬなー」
 ぐったりとしている瑠柁を見て、蒼衣は呆れる。
「……きっついよぉ〜 もぉ〜」
「あれしきのスピードでダウンなんて瑠柁も甘いな」
「ふにゅ〜」
 態度と疲労具合で「もう死ぬかと思った」と語っていた。
「時間もそんなにないんだから、とっとと始めようぜ」
 蒼衣は側車の部分に入れているコンビニ袋を持ち上げると、それに合わせて瑠柁もよろよろと立ち上がった。

「かんぱーい」
 ビニールシートを敷いて、その上に蒼衣は座るとコンビニで買いだめしてきたビールを開けて掲げた……が、瑠柁は同調せず缶ビールを宝物のように抱え込みながら固まっていた。
「乗り悪いなあ、瑠柁」
 いつもの元気が霧散しているのは、蒼衣の過酷な運転でグロッキーになっていたからではないだろう。
 今の瑠柁は人に怯える野良の子猫に見える。
 話しかけているにも関わらず反応がないことに蒼衣は呆れたがにんまりと怪しい笑みを浮かべると瑠柁を押さえつけた。
「はわわわ、な、なにする……」
「オレ様の酒が飲めないっていうのかーーーーっっ!! ならば飲ませてやるーーーーっっ!!」
「わわわわわ、やめて……」

 数分後

「きゃっははははははっっっ もうやってられるっかっつーのっっ!!」
 そこにいたのは人に怯える子猫ではなく、ただの酔っ払いだった。
「あおーい。もう一杯」
「はいはい」
 蒼衣はやれやれと言った顔で要求されるままに、ビールの缶を渡すと瑠柁はリングプルを引き抜いて、ごくごくとまるでコーラのように一気に飲んだ。
「もういっぱいっ」
 ほんの数秒で飲み干すと瑠柁は爽やかな笑顔でアルコールを要求する。自分が飲む間もない瑠柁の飲みっぷりに蒼衣はさっきとは違う意味で呆れながらも今度はビールの瓶を投げてみた。
「菩薩掌やってみそー」
「いっちばーん、るだ。ぼさつしょういってみまーす」
 瑠柁は空中を飛んでいるビール瓶を僅かなスペースで挟み込むように両手を置くと、右手の掌ではたいては左手の掌ではたき返して、右手に飛ばしては繰り返すという、掌間でのビール瓶のキャッチボールを続けた。物凄い高速で
 蒼衣は思わず目を見開いた。
「冗談で言ったのに本当にやっちゃうとは」
 一瞬で割れたビール瓶を見て蒼衣は愕然とする。一方、瑠柁はビール塗れになっているにも関わらず無邪気にわらっていた。
「えへへ。すごいでしょ、すごいでしょ」
「ああ、すごいなすごいな」
 パワーのみならず漫画の必殺技を簡単にこなしてしまうテクニック、いやその天然ぶりには素直に脱帽するしかない。
「ほしいほしい〜」
「はいはい」
 蒼衣が無造作に放り投げた缶ビールを受け取ると瑠柁は不意につまらなそうな顔をする。
「ビールばかりじゃつまらないー」
「贅沢言うなっていうの」
 それでも瑠柁はビールを煽りだした。
 ほとんど一気で飲み干すとぷはーっとオヤジ臭く息を吐く。
「ほんと、おにいちゃんったらどうしようもないんだからっ!! るだがいながらあっちにふらふらこっちにふらふら。うわきするんじゃないっつーのっっ!!」
「はいはい」
 瑠柁が空になった空き缶をコップのように差し出してきたので、蒼衣は側車に積んであった日本酒を開けると空き缶に注いだ。
「高いんだから、あんまりもったいない飲み方すんじゃねーぞ」
「はーい」
 何も考えていないような笑顔で、蒼衣としても瑠柁が守るとは思えなかったのだが、瑠柁はある程度まで飲むとぶつぶつと愚痴を開いた。
「瞳おねちゃーんも、樹も……ねねもお兄ちゃんに色目つかうなっつーの。おにいちゃんはるだのおにーいちゃんなんだから」
「いいじゃないか。奪いたくなるぐらいにしんちゃんがかっこいいっていうことなんだから」
 ようやく落ち着いて飲めるとホッとした蒼衣であったが、瑠柁は酔った目で睨みつける。
「ぜんぜんよくないっ」
「そか」
「そうなの。おにいちゃんも瑠柁がいるのにぜんぜん忘れてるんだからぁっ おにいちゃんのばかあほたんさいぼううわきものこんちきしょうへんたいすけべごーかんまー」
「……何もしんちゃんだって瑠柁のことを忘れているとは思えないんだけどな」
「忘れてるよ。絶対っっ!!」
 酔っ払いには何を言っても通用しない。
 しかし、蒼衣は苦笑しつつも続けた。
 わざわざツーリングに誘って、未成年にも関わらず酒を飲ませたのはいくら瑠柁であっても表に出せない
ストレスを発散させるためと本音を聞くため、そして言いたいことがあったからだ。
「何が不安なんだ?」
 蒼衣の問いに瑠柁は躊躇いを見せたが答えた。
「ぜんぶ不安だよ〜」
「ぜんぶ? 瑠柁ほとかーいー奴なんていないのにな」
 世の中には瑠柁の鬼のような力で絞め殺されたいという願う奇特な奴だっているのだから瑠柁に魅力がないわけではない。むしろ、瑠柁よりも不美人な連中がいっぱいいるのだから、そんな奴らからすれば謙虚どころか許しがたい増長だろう。
 にも関わらず瑠柁の表情は暗い。
「気分でも悪くなってきたのか?」
 酒を飲む手が止まったのを見て、蒼衣がそれとなく察すると瑠柁はうなずいた。
「……ちょっと、頭が痛い」
 周りを見渡すと空き缶が掃射した後の薬莢のように散らばっていた。
 あれだけ飲んだのだから二日酔いになっても不思議はない。明らかに瑠柁は酔いが冷めた後の地獄に突入していた。
「ほれほれ。横になれ」
 蒼衣が膝を貸すと瑠柁はぺたんと倒れた。
「ありがと……」
「礼を言われることもでもさ。それよりもとっとと話せ。いつまでも胸の中に溜め込んだって辛いことだろ」
 顔をしかめたのは二日酔いの苦痛なのか、それとも別な要因でなのかは分からない。
 ただ、しばらくすると瑠柁は訥々と語りだした。

 蒼衣は真義を中心として巻き起こされる騒動の外にいた。
 中立を保っているわけで、だからこそ素直に言えた。

「瞳おねーちゃんや……ねねにくらべればだめだよ」
「ほう」
 蒼衣は目を見張った。
 ねねを褒めるなんて思ってもいなかっただけに意外だった。
 瑠柁は瑠柁なりに考えるところがあるのだろう。
「どういうところがだめなんだ」
「……二人とも胸が大きい」
「頼むからそれを言うな。それを言ったらあたしらはどうなるんだ」
 冗談でもなんでもなく、これは蒼衣にもぐさりと来た。
 胸のサイズでいえば瞳や理亜に負けるのはしかたがないとはいえ、ねねに負けるのは屈辱の極みだった。しかも、瑠柁は上積みが期待できるのに蒼衣は陸はこれ以上成長する見込みがないだから青春のように悲しかった。
「あの二人ったら優しいしお仕事もちゃんとできるし、頭もいいし、それにそれに……もうやだっっ」
「何が嫌なんだ」
「あの二人ともぜんぶぜんぶ瑠柁よりも上なんだもん」
 さっきまでの高揚感はなく、真義をあの二人に取られるんじゃないかという危機感と不安、そして悲しみに満ちていた。
 瑠柁にとって真義とは単に従兄と従妹という関係ではない。
 真義こそが菅野瑠柁という人間を菅野瑠柁として存続たらしめているものだった。
 真義から否定されるということは大地が壊れることにも、空が破られることにも等しくてそうなってしまったら生きていけないのに、その現実がすぐそこまで迫っていて瑠柁は震えていた。
「ばーか。瞳よりも優れているわけないだろうが」
 蒼衣は優しい表情であえて瑠柁を地獄を突き落とすようなことを言うと瑠柁の頭を優しく撫でる。
「でも、人を好きになるのに優れている優れてない、胸が大きい小さいなんて関係ないだろ。瑠柁はしんちゃんを信じられないのか?」
「…………」
 真義を信じられるのかどうか分からなくて瑠柁は答えに詰まる。
「しんちゃんは瑠柁の兄なんだろ? しんちゃんは瑠柁のいいところも悪いところを見ていてそれでも瑠柁の兄でいられるんだから大丈夫だろ? そんなことでクヨクヨすんな。なんてケツの小さい」
 人を好きになるのに理由なんていらない。
 真義と瑠柁にはちゃんと絆ができているのだから、その事が見えている蒼衣からすれば笑止だった。
 その絆は切ろうとしたって切れるものではないのだから。
「瑠柁にとってはおもいっきり重要なんだもん」
 ふてくされる瑠柁を暖かく見守っていた蒼衣であったが、不意に真顔になった。
 近くに敵兵でも見つけたように
「そんなことよりも、瑠柁には重要なことがあるだろうが」
「重要なこと? なによ、それ」
「ワガママを言わないこと」
 それが蒼衣の言いたいことでもあり、最近の瑠柁の問題点でもあった。
「ワガママを言わないこと?」
「真義を取られそうだと不安になる気持ちはわからなくもないけど、だからと言って他人の意見は聞かない、周りの空気を読もうともしない。自分のワガママを押し通して義務はさぼる、そうという奴は周りから嫌われるぞ。みんながみんな瑠柁のために生きているわけじゃないんだからな」そこで区切ってから、蒼衣は重々しく宣告した。
「このままだとお前。味方が一人もいなくなる」
「嘘っっっ!!」
 この否定は反射的なものだろう。蒼衣は静かに首を振った。
「ほんとだよ。しんちゃんからも嫌われるぞ」
「嘘だよ」
「瑠柁は真義を殺りかけていただろ。故意じゃないことはわかっているけど、そんな奴を許せると思うのか」
 その一言を最後に場は静かになった。


 ▽▽▽

 
 昼過ぎからようや体調の方は元に戻ったけれど、瞳に抱擁されたところを瑠柁に踏み込まれたショックは治らず、せっかくの休日にも関わらず真義は部屋に引きこもったままでいた。
 一日中、ベットの上で悶々としていた。
 蒼衣から定期的に連絡が入ってくるので瑠柁の行方について心配をせずには済んだけれど、その代わりにどんな顔をして会ったらいいのか迷っていた。
 愛人とエッチの最中に本妻に踏み込まれたようなものだったから、これから瑠柁とどのように接していいのか分からない。
 その都度、憤った瑠柁の顔が蘇えては真義は自己嫌悪に襲われる。
 大切にしていた相手、大事に思っていた相手を傷つけてしまったのだから悔やんでも悔やんでも悔やみきれない。
 そして、結論を先延ばしにすることはできない。
 瞳は「迷うだけ迷ったら」とはいうものの、真義としては許されないような気がした。
 だからといって瑠柁で行こうと決められないわけで、苦痛のうちに時が過ぎていった。
「……最低だ」
 腕時計の表示がAM12時近くになっていることを示していて、真義はため息をついた。
 TVのスピーカーからは小さく絞った嬌声が流れている。
 せっかくの休日のエロビデオを見ながら見ているのだから、本当に最低である。
「いいか。貴様らは俺様の奴隷なんだからな。メス豚はメス豚らしく鳴いてりゃいいんだよ」
 男優がイタリア語でセリフ棒読みし、日本語の字幕が流れるところでAVを止めると真義はまたため息をついた。
 このAVはプポーネが別れ際に「困った時には助けになる」と手渡したもので、あまりのしょうもなさに呆れたのではあるが、それでもプポーネの言葉を信じて繰り返し繰り返し見続けたのは真義が追い込まれている証左でもあった。AVのボロさを指摘できるまでに見たとしても得られるものがなかったのだけど
 結局のところ、プポーネに騙されたと思うしかなかった。
 なにがあっても時間が流れているのだから人は生きなくてはいけない。真義はTVの電源を消して寝ようとした。その矢先だった。
 ドアがノックされて、理亜が入ってきたのは。
「しんちゃん。こんばんは」
「……な、なんですか? 」
 思わず寸頓狂な声を上げてしまった。
 風呂上りなのだろうか、理亜はワイシャツ一枚という非常にラフな姿だった。
 瞳さえもしのぐ胸の大きさがよく分かる。
 止めてある胸のボタンが今にもはじけそうであり、僅かな動きで乳が微妙に揺れるのだか、いくらAVを見ても持ち上がることのなかった息子が瞬時に起ち、血液が沸騰した。
 真義の対応に理亜はふくれるが……しょうがないだろう。これは
「なんなんですかはないでしょ。おねえちゃんはしんちゃんに話があってきたんだから」
「話って……」
 ワイシャツとパンティというあまりにも無防備すぎる姿なのだから、その辺りに起こることを予想すると視界が真っ赤になった。
 鼻血が出ないのが不思議なぐらいである。
 それだけに真義は慌てた。
「いや、その、あの……」
「しんちゃんっておもしろいね」
 子供のように無邪気に笑われ、真義はどうしたらいいのか分からずにそっと俯いてしまう。
 理亜はそっとドアを閉めた。
.......to be continue