第2話:クロムハートの子守唄


 7th TRACK

 公園の周囲はすっかり静まり返っていた。
 人の気配はなく、囲まれているとは信じがたい。
 でも、人の姿はおろか鳥の声や車の音さえ聞こえないのが不気味だった。
「……きてる」
 陸がひどく険しい顔をしていた。
 真義だって感じている。
 公園の周りから殺気の波が押し寄せているのを

 圧倒的な量の殺気に真義は思わずびびりかけるが、ねねが悲しみにくれているのを見て真義は表情を引き締めた。
「だいじょうぶだよ。ねね」
「……」
 ねねの表情は変らない。
「なーに言ってんの。ねねよりも自分の心配しなよ」
「なにを」
「ひびってるくせに」
 陸に図星を差されて真義は真っ赤になる。
「びびってなんか……」
「オン・マリシェイ・ソワカ」
 陸や真義をよそに委員長は冷静にやるべきことを進めていた。
 懐から呪符を取り出すと真言を唱え、九字を切ると呪符を放り投げた。
 次の瞬間、呪符が爆発して当たり一帯が白い煙のようなものに包まれた。
「なにをしたの? 委員長」
「なんだよ。これ」
「……」
 三者三様の表情で動きが止まる三人。
 天使がいるのだから魔術も使えても当然なのだけど、いざその現場を目の当たりにすると感覚が事実を事実として認識することを拒否する。
「こら、呆けていない。さっさと逃げる」
「ちょっと待てっ!!」
 委員長はどさくさ紛れにねねの手を握るとそのまま走り出した。
 この黙々と立ち込める世界の中で、委員長に置いてけぼりにされるということは遭難を意味するので陸と真義は委員長とねねの後を追って走り出した。

「いいんちょ、いまのは……」
 聞こうとしたけれど、じろりと睨まれて沈黙する。
 確かに視界が効かなくなっているとはいえ無駄に音を立てるのは危険だった。
 白い霧の中にちらりちらりと男達の姿が見えた。
「おい、なんだこの白い霧は。ぜんぜん見えねーぞ」
「だぁぁぁぁーっ。ノクトビジョンがきかねーってなんだそりゃ」
 少なく見積もっても10人以上の男たちが周囲にいて、むせない代わりに赤外線による熱探知も効かない都合の良すぎる白い霧に視界を阻まれて混乱に陥っていた。
 これから攻撃をしかけようとした彼らにとって、委員長の呪法は思いがけない奇襲であった。
 委員長は何者なのだろうと真義は思う。
 神社の家の出であるから術が使えるのだろう。
 神社の家の子全てが呪法使いというのは日本人全てがニンジャだといってるのと同義であり、本来なら使えるわけがないので尚更驚きだった。
 ただ、だから囲まれていても落ち着いていたのかと感心してしまう。
「いたぞ。こっちだっ!!」
「囲いこめー」
 視界が効かないにも関わらず、男たちは真義たちの位置を割り出すと包囲にかかった。
「…ちっ」
 委員長は舌打ちをすると再びポケットから呪符を取り出した。
「真義くん。ねねちゃんのこと頼むね」
「委員長。何を」
 その物言いに不吉な予感を覚えて真義は委員長に問うが、委員長は真義を無視して真言を唱えながら呪符を撒き散らした。
 呪符が空中で爆発し、激しい閃光が網膜を乱打する。
 まともに見てしまって真義の視界は効かなくなったが、それは真義たちを取り囲む男たちも一緒で落ち着きかけた場が再び混沌と化す。
 ただ、委員長が真義たちから離れて男たちに真正面から突っ込んでいくのはわかった。
 真義は叫びかけたけれど、陸がぐいっと真義の手を引っ張る。
「いくよ。真義」
「…ああ」
 真義にも分かっていた。
 ねね達を脱出させるために委員長が囮となったことを。
 あまりにも早すぎる展開、これが今生の別れになるのかも知れないと思うと呆然とする。
 ねねの手が真義の手を強く握る。
 「真義さん」
 ねねは泣きそうだった。
 自分のせいで他人にひどい目を合わせてしまった後悔に溢れていた。
 「だいじょうぶ」 
 そんなことをさせてよかったのかとは思うのだけど、報いるためには委員長が指し示した好意に甘えるしかない。
 陸に手をつながれて、前を見ると烏が飛んでいた。
 もちろん委員長の呪法によるものである。
 白い霧の中、烏の軌跡を頼りに三人は走っていった。

 白い霧を抜けるとそこは大通りで、いつも通りの街の喧騒が戻っていた。
 霧はまだ後ろに立ち込めていて、委員長がどれだけ粘っているのかは分からないけれど霧だっていつかは晴れるし委員長が暴れるのにも限界はある。
 いずれにせよ、立ち止まってはいられなくて真義はおろか陸でさえも何処に行こうか迷っていると通りがかった1BOXが止まってはドアが開いた。
「お客さん。どちらまで?」
「プ、プポーネ!?」
 開いた助手席のドアから身を乗り出してきたのは何と空に飛んでいたはずのプポーネだった。
 いつの間に車を用意してきたのかと開いた口が塞がらない。
 でも、躊躇っている暇なんてないから陸がスライドドアを開けるのと同時に真義は助手席に乗り込んだ。
 三人が無事に乗り込んでドアが閉められたのを確認するとプポーネはアクセルを踏み、1BOXはゆったりと走り出す。
「…シンギ、ケースからステアーだしていつでも撃てるようにしておけ」
 プポーネは助手席に置かれていたギターケースを抱え込んでいる真義に向かって指示を出した。
 真義がギターケースを開けると、そこにはコンパクトに纏められた銃身とストックと機関部、キャリングハンドル兼用のスコープをつけた一目でステアーAUGだと分かるライフルが収められていた。
 本物自体が玩具っぽいので真贋を見極めるのは難しいが、ライフルとは別に収められているクリアブラウンのマガジンから透けて見えるのはBB弾ではなく、5.56mmライフル弾だった。
 真義はマガジンを引き金の後ろに装填すると、引き金の前方にあるグリップを起こして射撃体勢を取った。
 物騒なことになったなと真義はため息をつきたくなった。
 バックミラーには不安そうなねねとねねを勇気つけようとする陸が映っている。
 ねねを守ると心に決めた。
 守るためだったら何でもやっても見せると硬く心に誓っていたのに、3.8kgなはずのステアーが20kgはあるように重くのしかかる。
 敵が襲い掛かってきた時、自分には引き金を引けるのだろうと自問自答すると疑問に思わざるおえなかった。
 人間誰しも、隣で車を運転しているイタリアンのように突き抜けているわけではない。
「で、その車は何処で手に入れたんだよ」
 車内に立ち込めるヤニ臭さに真義はむせた。
「落ちてから拾ってきたんだ」
「拾ってきたって……」
 ハンドルを見て真義は絶句する。
 何故ならエンジンキーが刺さる場所にエンジンキーはなく、代わりに針金が刺さっていたからだ。
「それ落ちてたっていわない」
「あんたね……」
 おそらくは不法駐車されていた車を盗み乗りしているのだろう。そんなことを平然とできるプポーネに呆れるだけど、それによって助かっているのだから「渇しても盗泉の水は飲まず」とはいえない。
「帝都高速度鋭弾…って、なんかやばくない?」
 乗っている1BOXは極端にタバコ臭く、後ろの窓はスモークガラスで後部のガラスには帝都高速度鋭弾というロゴが張っていた。どうやら珍走賊の車をからかっぱらってきたらしい。
「たくさん車が落ちてたんだけど、どうせ拾ってもいいやつがいいなということで」
「大問題でしょうが……」
 珍走賊連中だから乗り逃げ犯の身元を知ったらどんなトラブルになるのかわかったものではない。
 いや、それ以前の問題である。
「検問には引っかかりたくないなあ」
 真義が唖然としながら呟いて陸が乾いた笑いで同意する。
 日本は銃を持ってもいい国ではない。
 警察に発見されようものならまとめて補導されても文句は言えない。
「あたしたち、新聞に載るのかな? それでワイドショーなんかで蒼衣や理亜さんが目線隠されて登場するとか」
「笑えないよ」
 プポーネが無免許運転なのは言わずもがなだろう。
 その割に運転がハンドル裁きやギアチェンジ具合が実にスムーズで破綻を感じさせないのは乗り慣れているからだろう。
 ……このイタリアンに日本の常識というのは通用しない。
「んで、おまえら。何処行く?」
 プポーネの常識の無さに頭を痛めることはいつでもできる。
 問題はこれからどうするかだ。
 ちなみに1BOXはごちゃごちゃした光沢駅周辺の街中を走っている。
「そうだな」
 安全を考えるなら光沢大社だろう。
 委員長が不可思議な力を見せ付けてくれたから、ねねを連れ込んでも守ってくれるに違いない。
 光沢大社に行こう、と真義が言いかけたがそれよりもねねのほうが早かった。
「研究所に……帰ります」
 その沈痛な一言は真義と陸を一瞬にして凍結させた。
 思いがけない、そして耳を疑う言葉。
「皆さんにこれ以上迷惑をかけたくないですから」
「迷惑って……そんな迷惑なんかじゃない」
 このまま去ろうとするねねに陸は文句を言う。
 陸のいうようにねねがいるのはちっとも迷惑ではない。
 なのに、ねねは首を横に振る。
「研究所の人達が私を連れ戻そうとしています」
 ねねは膝の上に乗せていた手を壊れそうなぐらいに硬く握り締める。
「そのために山尾さまを犠牲にしてしまいました」
 あの公園から逃れるために委員長は囮となって留まった。
 委員長のことだから大丈夫だろうとは思うのだけど、不吉の影を拭いされることができない。
「委員長が犠牲?」
 ただ一人、あの場に居合わせていないプポーネが笑い飛ばす。
「委員長が死ぬなんてありえねえ。クソラツィオがチャンピオンズリーグ制覇するよりありえねえ」
 バカにしているような言い草ではあったが、このような状況ではプポーネの修羅場を幾度も潜り抜けてきたようなマフィアの明るさが救いだった。
「そ、そうだよ。委員長は死ぬわけないよ。きっと生きてるって」
「死ぬのはいい人間って決まっているんだから、委員長は死なないよ」
「褒めてるのかよ、陸」
 プポーネのおかげで雰囲気は明るくなったのだけど、それでもねねは場に入れないように落ち込んでいた。
「一度は逃げ切れました。けれど、何時までも逃げ切れるとは思いません」
 沈痛なねねに引きづられるようにして、車内の空気がどんよりと重たくなる。
「……みなさん、ごめんなさい」
「なにバカ言ってるのっ」
 謝る必要なんてない。
「逃げた私が悪いんです」
「そんなことないっ!! ねねが逃げたのは当然のことじゃない。いくら目上だからといって嫌いなことは素直に従わなくちゃいけないわけ? 冗談じゃない」
 いくら従わなくちゃいけないとはいえ、ねねへの仕打ちは限度を越えている。
 従わせる側がねねが従うのは当然だと考えるのは勝手だけれど、それを言うならねねが嫌だと思うのも勝手だ。
 陸の絶叫を受けて、ねねの顔が悲しみに染まる。
 陸はポケットから携帯を取り出すとボタンをプッシュし出した。
 しばらくすると陸は吼える。
「なんでこういう時に限ってつながらないのっっ!! あの役立たずっ」
 掛けた先が何処なのかは言うまでもないだろう。
「あたしが守ってあげるから心配しなくてもいい。だから、諦めないで」
「陸さん……」
「ねねはそのままで生きていてもいいんだから、生きることを諦めないで。あたしたちに迷惑をかけるとかそういうことは気にしなくてもいいんだから」
 研究所に帰ったねねの末路を思うと引き渡すことができなかった。
 たとえ人を殺す羽目になろうとも、自分が死のうとも
「まさか、日本くんだりまできてドンパチすることになろうとは思わなかったな」
 ハンドルを握りながらプポーネが呟く。
「……ステアー程度じゃたりねーな」
「おいおい。ドンパチやる気かよ」
「奴らがふっかけてくるんだったら、こっちが高く買ってやるまでよ。ロマニスタを舐めるな」
 プポーネの気分はすっかりスタジアムで暴れようとするフーリガンになっていてそれを見ていた真義は苦笑してしまう。
「貴方たちは超遅野グループの恐ろしさがわかっていない」
「だったら、奴らはロマニスタの怖さを知らない」
 プポーネの場合はロマニスタというよりはマフィアの怖さの間違いかも知れない。
「ついでにいうとあたしの怖さも知らない」
 陸はやる気満々だった。
 天使の力を使うつもりだった。
 強大であることと同時にゆがみを広げるからつかっちゃいけない力なはずなの陸はICBMの発射スイッチに指をかけている。
 陸の力ならひょっとしたら超遅野をはねつけることができるかも知れない。
 けれど、真義は熊が凶暴化して陸に助けられた現場を目の当たりにしているだけに素直には喜べなかった。
「……海に行きたいです」
 ぽつりとねねが呟いた。
「おっし」
 それを聞いたプポーネは車を走らせる。

 市街地から遠く離れて1BOXは街の北側、真義が初めて光沢に来た際に陸に救われたエリアにほど近い海岸だった。
 道路から外れて、砂利道を進むこと数分。
 浜辺に来て、水平線が見えるところで1BOXが止まるとスライドドアが開かれて陸が勢いよく飛び出した。
「うっみだーっっっ!!」
「元気な奴……」
 飛び出す陸を見て真義は呆れた笑みを浮かべる。
「海なんて見慣れてるだろうに」
 だいたいVDMの反対側は海なのだけど、それでも陸は興奮していた。
「いいじゃん。別に」
 声が聞こえていたのか陸が振り返っては舌を出す。
「元気ですね」
 同じようなことを遅れて出てきたねねが言ったが、こちらは純粋に感心していた。そこへプポーネが退屈そうに出てくる。
「とっと遊ぼうぜ」
「とっとと遊ぶって、どうやって遊べばいいんだよ」
 当然の疑問だった。
 遊ぼうといったって水着もなければ、シーズンにはまだ早すぎる。
「ふっふっふ。こんなこともあろうかとこんなものを用意しておいたのだよ」
 何を思ったのかプポーネは後部のドアを開けると何かを取り出した。
 それは丸々と大きいスイカだった。
 しかも、でんすけスイカだったりする。
「なんでこんなものがあるんだよ」
「いや、おじさんが日本のスイカが食べたいって言ってたから送ろうと思って買ったんだ」
「よくそんな暇があったな」
 ……ねねにふっ飛ばされたくせに。
「叩くものはあるかな?」
 言いたいことは山ほどあるのだけど、このイタリアンに突っ込みは無意味なので必要なことを尋ねた。スイカ割りには棒が必要だ。真義たちにはマスター大山ほどの力はなく、ステアーはスイカ割りに使うものじゃない。
 プポーネは問題とはしていなかった。
「叩くものだったら、こっちに山ほどあるぜ」
「…………」
 プポーネは後部の荷台から鉄パイプを引き釣り出した。
 恐らくは本当の持ち主が持っていたものだろう。
 鉄パイプの表面にはまだらに血痕らしきしみがついていた。
「チェーンもあるぜ」
「使えるか。ぼけっっ」
「でもさ、ふと思ったんだが……せっかくステアー持ってきたんだから、スイカを撃たん?」
「撃たん撃たん」
「もったいないなあ。せっかく実弾射撃できるチャンスだっていうのに」
「スイカのほうが勿体ないだろ」


「なぜ、このようなことをするのですか?」
 血痕のついた鉄パイプを持たされてねねは怪訝な表情を浮かべる。
「こんな手間をかけずとも、普通に切ればいいのではありませんか?」
「わかってないねー。ねねは」
 スイカ割りをやることにねねが疑問を抱いていると、陸がねねの肩を叩いた。
「普通に切ったら面白くないでしょうが」
「面白くない?」
「なんていうかな……ほんの些細なことでも楽しみを見つけるのが人間なの」
「そういうものなのですか?」
「そういうもの」
 タオルでねねの顔を目隠しすると、陸はねねの身体を回した。
「回ります回ります〜」
「スイカ割りにはこれが礼儀なの」
 ねねが戸惑っていることににんまりすると更に勢いつけて回し始めた。
「プポーネもやってみなよ。楽しいよー」
「おうおう。よし、これこれいいではないかいいではないか」
「なにをするのですか?」
 回すことに面白がる陸とプポーネ
 それに戸惑うねね
 回されるたびに足首まで伸びた白い髪が翼のようにはためきながら舞う。
 そんな様子を真義はひとり離れて見つめていた。
 みんな元気でいいよな
 こうやって楽しんでいる様子を見ると追われる身であることを忘れてしまう。
 とっても和気藹々していて、こうやって真剣に悩んでいるのがバカらしくなってくる。
 いいではないか。
 ねねのために歪みが広がって
 たとえ歪みが広がったところが陸がいれば何とかなるだろう。
 根拠なんてないが、深く考えれば果てはなくてしまいはドツボに飲み込まれてしまうからあんまり深く考えなくてもいいのだろう。
 「それじゃ、スイカに向かってれっつごー♪」
 ようやく陸が回すのをやめると、ねねはスイカに向かっていく。
 ねねの足取りは最初はふらついていたが、スイカにまっすぐ歩いていてしばらく歩いていくうちにふらつきがなくった。
 ねねは立ち止まると血痕のついた鉄パイプを振り下ろす。
 鉄パイプは狙い過たず、黒いでんすけスイカを真っ二つにぶち破った。
「……だいじょうぶですか?」
 あっさりと割られたことに陸とプポーネは唖然としていた。
「割っちゃいけなかったんですか?」
「そんなことはないんだけどね」
 陸はごまかし笑いを浮かべて、プポーネはつまらなそうにする。
「あれだけ回したんだから、もたつくと思ってたんだけどな」
「Anti-Shake機能が働きましたので」
「デジカメかよっ」
 プポーネが突っ込みいれている横で、陸が割れたスイカを回収していた。
「それじゃみんな食べるよー」
「おーっ」
「了解」
 プポーネが元気良く、真義は何もかも受け入れて答える中でねねだけが済まなそうに答えた。
「わたし、食べられないんです……」
「あっ」

「ごめんね。ねねちゃん」
 スイカをおいしそうに頬張りながら陸がすまなさそうに謝った。
「いえ、いいです。そういう仕様なんですから」
 そうはいうもののねねも残念そうだった。
「ねねってロボットなんだ」
「はい。ロボットです」
 プポーネの目線が隙なくねねの身体をサーチする。顔、髪、手先と動いた後に10歳前後の外見にしては不釣合いなぐらいに大きすぎる胸に焦点が固定される。
「…………いい。実にいい……」
「プポーネ、よだれよだれ」
 よだれが出ているのはスイカが美味しいからだけではないからだろう。
 明らかに目線が蕩けていて、周りを不安に落としこんでいく。
「なあ、ねね。これから二人で一緒に夕日を見ないか?」
「もちつけプポーネ」
 今にも食いつかんばかりのプポーネの勢いに怯えたのか、真義の腕におもいっきり抱きついた。
 真義は動揺しかけるものの、とっさに頭を撫でると恐怖は和らぎ、その代わりには幸せそうな笑顔を浮かべるが真義になでられていることに気づくと顔を真っ赤にしては俯いた。
「……ご、ごめんなさい」
「いや、謝ることじゃないって」
 スイカを食べながらプポーネを軽くにらみつけた。
「悪いのはイタリアンだから」
「……人が奢ってやってるのにそういうこと抜かすか」
「だからといってねねを怯えさせてもいいっていうことじゃないだろ」
 真義が正論で責めると、プポーネはかっかっかっと水戸黄門笑いをする。
「いや〜 ねねにはそそられちゃってさー」
 反省してないだろうと突っ込みたいのだけど、このイタリアンにその手の突っ込みは通じない。フーリガンに暴れるのはやめろと言っているのと同じだ。
 プポーネを無視して真義はねねの頭を撫でる。
 ねねの髪は上質の絹のように肌触りがよくて気持ちよかったが、じんわりと熱くなってきたので撫でるのをやめた。
「……ごめん。まずかった?」
「いえ、そんなことないです」
 髪を振り乱しながら否定する。
「やっぱり、真義さんに頭を撫でられるとわたし、どうかなっちゃうんです……でも、嫌いとか憎いとか怖いとかそういうのじゃなくて、なんていうかかんていうのか……」
「落ち着いて。ねね」
 沸いてくる感情が分からなくて混乱するねねの肩を叩いて真義は落ち着かせる。
「わからないものを無理に喋らなくていいから」
「……はい」
「力を抜いて」
「こう、ですか」
 真義の腕を握っているねねの手から力が抜ける。
 同時にねねの身体が傾いて、真義に預ける格好になる。
 慌ててねねの身体に力がこもるが
「抜いて……」
 その一言でねねの力が抜ける。
「……あの、いいのでしょうか」
「ねねが嫌っていうんじゃなければ」
「だったら嬉しいです」
 ねねの顔がほんのりと赤くなるのだけれど身体からは余計な硬さが取れていた。
「気持ちいいです」
 ねねは心の底から幸せそうだった。
「落ち着きます」
 その一言に真義は報われたような気分になる。
 が、冷ややかな目線が突き刺さっていることに気づいて愕然とする。
「うらやましいなあ、こんちきしょう。サンバ隊や恥呆士の気分がわかってきたような気がするぜ」
 プポーネがラツイアーレを見るような目つきになっていた。
 こういう時のプポーネは実にやばい。
 懐に手を突っ込んでいるが、プポーネの場合だと引き抜いた手に拳銃を握っていそうでおもいっきり怖い。
「だいじょうぶ。奥さんにお仕置きされるから」
 その一言でプポーネは落ち着いたが代わりに真義がぱにっくに陥る。
「頼むから瑠柁には言わないでくれ」
「どうしよかっかな……」
 いつの間にか真義はラツィアーレ認定されていた。
「ラツィアーレには天罰が落ちるべきだな」
 同情してくれる奴なんていない
 当然といえば当然なのだけれど、真義にしてみれば必死だった。
 可憐な外見とは裏腹に凶悪なまでの握力で破壊されたくない。
「あたしが内緒にしたところでいつかはバレるんだから遺書でも書いておいたほうがいいかもね」
「一回、カイシャクっていう奴を試してみたかったんだ。ハラキリが見られるなんてワクワクするぜ」
「うひぃ〜〜」
 約束された未来ならぬ末路に真義は泣くしかなかった。
「……ごめんなさい」
 猫のように身を預けていたねねが真義に釣られるようにして表情を曇らせる。
「わたしが来たから、真義さんに迷惑をかけてしまうんですね」
 何がいけなかったのだろう。
 ねねがまともに受け取ってしまったことによって、まるで会長の寒すぎるギャグのように場の空気はすっかり乾いてしまっていた。
 嘘を嘘だと見抜けなければインターネットはやっていけないということを端的に現れしているようだった。
「……いや、そんなに深く落ち込まなくていいから。迷惑じゃないし。そもそもシンちゃんがモテモテなのが悪いんだよ」
 陸のフォローが空しく響く。
「そんな何もかも自分が悪いんだっていう考え方はやめなよ」
「そうなんですか……でも」
 陸に抱きしめられることによって声がさえぎられる。
「でももクソもない。ねねだって生き続ければそのうち分かるってば」
「そうなんですか?」
「そういうものなの」陸はぐりぐりとねねの頭の天辺をなでた。「だって、ねねは人間だから」
 さりげない一言だったけれど、銃弾がヒットしたようにねねは驚きで撃たれた。
「わたし……人間じゃありません。ロボットです……」
「いーや」
 陸は抱きしめる腕に力をこめた。
「人間である人間でないというのは身体がタンパク質であるとか機械だかそういうことはぜんぜん関係ない。要は意思があるかどうかなの」
「意思……ですか?」
「プログラム通りにしか動けなかったらねねは逃げてこなかったし、あたしたちにも遭えなかった。プログラムに従うのが嫌だからねねは逃げてきた。ねねにはちゃんと意思があるんだよ」
「そうなんですか?」
「だから色々と困ってるんじゃない?……特に真義にあんなことやこんなことをされたら」
 茶化すような言い方だったけれど、ねねは顔をぽっと赤らめた。
「不思議です。真義さんのことを思ったら……」
「そ、そこ。思わせぶりに赤くなるなっっ!!」
 真義が絶叫するけど、表情コントロールの機能が管制下から外れているようでねねの顔色はますます赤くなるようだった。
 初々しいねねの反応と慌てる真義の反応を見て、陸はくすっと悪戯っぽい笑みをもらす。
「そのうち、別の女の子と一緒に歩いていている真義を見て腹立つようになるかもね」
「いえ、多分。そうならないとは思います」
「なる」
 ニヤけたっぷり自信たっぷりに否定する。
「だって、真義ってモテモテだもん。……どうやら樹だって真義に気があるみたいだし♪」
「そ、そうなのか?」
 思いがけないところで樹の名前が出されて真義は動揺する。
「あの子、プポーネと真義じゃ見る目がぜんぜん違うから。気づいてなかった?」
「気づいてないよ」
「樹もかわいそう。ま、恋愛っていうのはちゃんと口に出さないと実現しないからね」
 陸が軽口を叩いていると、プポーネが肩を叩いた。
「やあ〜。真義」
 プポーネは不気味なまでに爽やかだった。
「オレのタンホグリオが目の前にいるこのラツィアーレを撃ち殺せ撃ち殺せと叫んでいるんだけど、どうしたらいいと思う?」
「撃つな撃つな」
 ……超遅野グループのことよりも目の前の脅威になりつつあるこいつをどうにかすべきだった。
 まあ、瑠柁に甘えられたり樹に慕われていたりするのは悪い気持ちじゃなかったから有名税だと思って甘受するしかないのだろう。
「おい、ねね」
「はい。なんでしょうか」
 プポーネがスイカを食べ終わると立ち上がった。
「オレと一緒にトリゴリアを作ろうぜ」
「……スタディオ・オリンピコじゃないのかよ」
 ASローマのスタジアムではなく、その練習場を作ろうというプポーネのマニアックぶりに真義は呆れた。
「オリンピコはうんこラツィオも使っているからよ」
「はい。わかりました」
 ねねは立ち上がるとプポーネと一緒に浜辺に向かって歩いていく。
「どんな風に作ろうか……」
「どんな風に作ります?」
「そうだな。まずは作る場所はあそこでスタンドから作るか」
 プポーネとねねが和気藹々としながら砂浜で建造物作りに熱中するのを真義は暖かい眼差しで見つめていた。
 色々なことはあるけれど、高校生だっていうのにガキに戻ったように建物作りに熱中するプポーネと戸惑いながらも、それでも後についてくるねねを見ていると表情が自然とほころんでくる。

 見ているだけでも良かったのだけど、不意に苦いものがこみ上げてくる。
 自分はいったい誰が好きなんだろう?

 ねねだって嫌いではない。
 感情が分からなくて戸惑っている純粋さは大変に好ましく、この子からおにいちゃんと呼ばれたら天に舞い上がってしまうぐらいに嬉しいだろう。
 けれど、真義には既に「おにいちゃん」と呼んでいる子がいる。
 ねねを抱いているにつれ、瑠柁の姿を思い出すたびに暗い気分に襲われる。
 瑠柁だって好きで真義を痛めつけているわけではない。
 むしろ、好きだからこそ瑠柁は苦しいのだ。
 そのことが分かっているだけに心が痛い。
「これこれ、そこのお兄さん。何かお悩み事のようですな」
「うん。まあね……」
 陸のひやかしに真義は力なくうなずく。
「瑠柁にしようかねねにしようかお悩みのようですね」
 ひやかしているように聞こえるが、その眼差しは真面目だった。
「ねねに転ぶのは間違ってないとは思うよ。問題は瑠柁をどうするかだよね。瑠柁のお婿さんになれないっていうのなら早めに言っちゃったほうがいいと思うんだけど」
「分かっている」
 余計な期待をさせるから瑠柁がその強力で真義を苦しめるわけで、辛いことは辛いのだけれど自分の気持ちをはっきりとさせて想いから解き放ったほうがいい。
 にも関わらず真義の表情は晴れなかった。
「あれ……ひょっとしてハーレムを狙っているとか?」
 真義は答えない。
 答えられなかった。
 問題なのはどちらにしようか決まりきれてないからだ。
 ねねが好ましいと同じぐらいに瑠柁も好ましいからで、素直にいえないという点を割り引いても決断することなんてできなかった。
「あきれた」
 陸の顔は笑っていた。
「自分でも腹が立つ話なんだけど、どうも決め切れないんだよな」
 ねねも瑠柁も好ましいのだけど一生の伴侶と決定づけるには何かが足りない。
 その何かを捜し求めるために真義は迷走している。
「ひょっとして二人以外に好きな人がいる?」
「いないよ」
 真義は笑い飛ばそうとして切ない感じになる。

 惹かれる人がいないでもない。
 瞳は今、どうしているのだろう。
 
 真義は知りたかった。
 瞳のことが。
 瞳が何を抱え込んでいるのか知りたくてねねと出会った。

 だけど、知れば知るほど瞳が遠ざかっていくような気がする。

 ねねから逃げ出した訳、その"姉"が日頃、何をされていたのかということを知ったのは愕然とした。
 真義が能天気にその日その日を暮らしている影で、その人は汚濁に塗れて苦しんでいた。
 何故、言ってくれなかったのだろう。
 何故、相談してくれなかったのだろう。

 そんなの人に言えるわけがない。
 何も疚しく思う必要はない、とはいうもののやっぱりショックを受けてしまう。

「……なんか物足りないなあ」
 ねねを動員しておきながらプポーネが文句を漏らす。
「何かがいけなかったのですか?」
「いや、まあなんつうか……」
 素で受け取って落ち込んでしまうだけにさしものプポーネが言葉を選んでいると真義が口を出した。
「トリゴリアなんて建物作ればおしまいじゃないか」
 練習場だから建物を数棟作ってしまえば後は芝生を再現するしかない。
「そうだな。オリンピコ……作るか。真義も陸も手伝え」
「了解」
 普段なら砂細工なんて作らないのだけど今回は別だ。
 ねねと何かをなし遂げるその思い出がほしい。
「でもさ、どうやって作るの」
「任せろ。オリンピコだったら隅々まで覚えている」
 陸とプポーネが会話をかわす横で真義はねねに向かって笑みを浮かべる。
 ねねは真っ赤になりながらも笑みで返す。
 その時だった。

「……見つけた」

 突然響いた合成音声に和やかな空気が一瞬にして吹き飛んだ。
 声のした方向に振り向くと、道路側から一人の女性が現れていた。
 黒いレザーのつなぎに豊満な胸を包んだ、スキンヘッドにサングラスの女。真義とプポーネがデパートのトイレで見た女だった。
「ヴァッファンクーロッッ!!」
 砂場でねねとオリンピコスタジアムを作っていたプポーネが罵声を浴びせながら懐に手を突っ込んだ。
 何かを取り出そうとしていたのだが、その時4人は信じられないものを見た。
 道路側にいた女が、プポーネがその何かを取り出した時には既にプポーネの至近まで接近していた。
 道路側の茂みから砂浜までかなりの距離があったのに、プポーネが取り出すその短い間に隔たっていた距離が一瞬で詰められていた。
 周りで見ていた真義たちでも信じられなかったのだから、当事者であるプポーネはもっと信じられなかった。
 そして、対処しようとした時には宙を舞っていた。
 女は伸びきったプポーネの腕を掴むと大きく引き釣りこみ、態勢を入れ替えながら背負い投げの要領でぶん投げた。
 プポーネの長身は低い弾道で地面に叩きつけられる。
 叩きつけられて、うめきながらもフポーネは起き上がろうとするがそれより早く女はプポーネの金的に蹴りを入れて悶絶させ、抵抗ができなくなった上で馬乗りになるとフポーネの右手に持っていたものを奪い取ってはそれを鼻先に突きつけた。
「……危ない子だね。キミは」
 女の右手に握られているものは銀色に光るCz75に良く似ているが微妙に違うフォルムの拳銃だった。
「ちきしょう……」
 プポーネはうめくが死命を制せられてはどうすることもできない。
「動くな」
 それは真義たちも同じだった。
 真義たちが動けば彼女は間違いなく引き金を引いてプポーネの顔を前衛芸術に変えるだろう。
 彼女のサングラスがねねを捉える。
 サングラスの表面にねねが映りこむと怯えたように後ずさった。
「こいつを助けたかったらその子を引き渡せ」
 誤解のしようのない要求だった。
「オレの命なんてどうでもいいから、このクソ野郎なんかに屈するな」
「プポーネ!?」
 銃を突きつけられているくせに、プポーネは不敵に笑っていた。少なくても怯えてなんていなかった。
「オレが間抜けなのはしょうがないけど、それ以上に相手の言いなりなるのが腹立つんだよ」
 この男にはかなりの欠点がある。
 言葉遣いが汚くてやることなすことぶっとんでいて法律遵守なんていうのは都合のいい時にしか守らないと欠点だらけのように見える。
「まったく持って胸糞悪りなあ。やりたいならとっと殺れや」
 処刑人の持つ斧が首筋を撫でているような状況にも関わらず不敵に笑っていられる勇気と誇りは感服するより他になかった。
 なんだかんだと言ってこいつは男なのだ。
 銃から音が鳴った。
 プポーネの男っぷりの前に押されていた彼女であったが拳銃の銃身を覆うカバーがスライドさせて、剥き身の銃身が露出させるとプポーネの鼻先を突いた。
「なら殺してやる」
「ナイスバデイのねーちゃんに殺されるなんて最高だね」
 引き金に指先がかかると一気に引き絞ろうとしたが、最後まで引き絞られる前にねねの声が空間を引き裂いた。
「おねーさまっっ やめてっっっ!!」
 ねねが瞳を大きく見開きながら叫んでいた。
「わたし、帰りますからプポーネさんを殺さないでください」
 ねねの絶叫に彼女の手は止まり、プポーネは点目になると張り詰めていたものが切れたのか急速に情けない顔になる。
「……んな腰砕けするようなことを言ってるんじゃねーよ」
「わたしのために犠牲になることなんてないです。プポーネさんには生きていてほしいんです。だから、そんなことは言わないでください」
「わたしのためって……ねねだったら犠牲になれる価値があったんだけど」
「なんで、皆さんはわたしのことをそこまで思ってくれているんですか?」
「ねね……」
 ねねの涙の前にプポーネの勢いが沈んでいく。
「おねえさま。プポーネさんを解放してあげてください」
 少しのタイムラグをおいて彼女はプポーネから立ち上がり、ねねの傍に寄り添った。
「みなさま、今までありがとうございました。とっても楽しかったです」
「なんでそんなこと言うのよ!」
 陸が吼えた。
「ねねはあたしの妹なんだから、あたしの言うことを聞けっっ あたしから勝手に離れるなっっ!!」
「陸さん……すいません」
 駄々っ子のような陸にねねの顔が揺れる。
「でも、やっぱりわたしがいけなかっ……」
「ふざけるなっ」
 言っている途中で陸に遮られる。
「言いつけに背いて逃げ出したからいけなかった!? だったらあたしたち出会ったことは無駄だった意味がないことだったというわけ? いいかげんにしろっっ あたしはねねと出会ってとっても楽しかったんだがら、その時間を無駄なんて言うなっ!! 謝るなっ!!」
 陸は怒っていた。本気で怒っていた。
 たとえそれが痛みをもたらす出会いでしかなかったとしても
 陸はねねに出会えてよかったと思っていた。
 よかったと思っていただけに、それを無価値にされるのは腹が立った。
 それは陸のみならず、プポーネも真義も同じだ。
「陸さん……わたしだって陸さんたちと出会えてよかったです。よかっと思えるんです」
「ねねは本気で戻りたいんか?」
「私が戻らないと研究所にいるみな……」
「そんなことを聞いているんじゃない。ねねの気持ちを聞きたいのっ」
「わたしはわたしは……」
 軽く拳銃でこづかれただけでねねの声は止まる。
「それ以上は言うな」
「瞳ねえっ!!」
 銃をちらつかせることによってねねの発言を封じたことで、陸の怒りの矛先が彼女に向く。
「ねねは瞳ねえの妹なんでしょ。なんで妹にそんな仕打ちができるの」
「私はねねを引き戻せと命令を受けているだけだ」
「瞳ねえだって知ってるでしょ。この子があんなことやこんなことをさせられるんだっていうこと。研究所に戻ったらどうなるかということも読めてるんでしょう」
「……命令ですから」
「命令だってぇっ!?」
 陸は折れんとばかりに歯を食いしばった。
「……本気で言ってんの」
 とうとう怒りが臨界点を越えたのか広げた陸の両手が淡く発光する。
「瞳ねえってそんな人間だったんだ」
 彼女は本当にねねのことを妹だとは思っていないのだろうか?
 でも、真義は気づいていた。
 銃を持たない彼女の手が硬く握られては震えていることに
「私は瞳ねえではない」
 あくまでも冷ややかな彼女とは対照的に陸は限界まで突っ走る。
「許さないよ。なにもかも許さないよっっ!!」
「やめてくださいっ!!」
 両手に生まれた光が爆発するよりねねが叫んだほうが早かった。
「……ねね?」
 思いがけないねねの行動、自分を死地に連れて行こうとする人間を庇うねねの行動に陸は呆然として動きを止める。
 破裂しようとした光が、そのまま滞留し続ける。
「私にはわかっています。おねえさまだって苦しんでいられることが」
「……嘘っっ!!」
 否定しなければ自分の存在を否定されるような陸の叫びだったが、ねねは無情だった。
「おねえさまはそういう方なんです」
 笑っていた。
 ねねは優しく微笑んでいた。
 ……覚悟を決めたもののみが浮かべることができる明るくて優しい笑みだった。
 その笑みを目の当たりにして、陸から力が抜けて掌でまばゆく光っていた光も消える。
 その様子を真義は無言で見守っていた。
 
 これでいいのか。

 彼女はそっとねねの背中に手を差し伸べるとそのまま歩き出す。
 プポーネを一蹴したように彼女は大変強い。
 陸が力を出しても……ひょっとしたら勝てないかもしれない。
 登場しているのは彼女だけで、他の男たちが取り囲んでいたりしたら終わりだった。
 これで納得できるのか。
 陸と気持ちは同じだから、あらかじめ持ってきていたステアーを構えてはその銃口を彼女に向けていた。

 だけど、撃つことはできない。

 残酷だった。
 もしも……あの彼女が推測通りのあの人だったら撃つことなんてできない。
 真義にはどうやら人を撃つなんて出来そうになかった。
 プポーネみたいにはっちゃけられそうにない。

 でも、ねねは行ってしまう。
 遠くへ行ってしまう。
 二度と手の届かないところにいってしまう。

 真義を見て、恥ずかしそうにしていたあの子が行ってしまう。

「おい。ねねっっ!!」

 そう思った瞬間、真義は叫んでいた。

「おまえはどう思うんだ」

 オレはどう思うんだ。
 ……答えは決まっている。

 ねねが立ち止まる。
 つられるようにして彼女が立ち止まる。
 真義はステアーをスリングで肩にかけると二人に向かって突っ込んでいく。

「菅野真義やめなさい」
 彼女は冷静に拳銃を真義に向けると狙いをつけた。
 が、ねねの囁きが彼女の動きをとめた。
「……いきたくない」
 ねねは俯いていた。
 身体から熱気のようなものが立ち上っている。
 ねねが赤面した時にCPUが熱くなって放熱するのとは明らかに様相が異なっていた。
 そして、全身が光輝いた。
「いきたくない……みんなといっしょにいたい」
 彼女はとっさに真義に向かって駆けていた。
 ねねの異変に気づいて止まって棒立ちになった真義に体当たりをかけて吹っ飛ばした。
 そのまま彼女が真義の身体に覆いかぶさる。
「かえるの……かえるのなんていやぁぁぁぁぁぁっっっっ!!」
 そして、光が爆発する。

 超新星が生まれたような閃光が世界を支配して、爆弾が落ちたような衝撃波が押し寄せていた波を沖の方へと押し流し、砂を吹き飛ばして士四方八方に押し流した。
 もちろん人間だけが衝撃波を免れないわけじゃない。
 真義も押しつぶされそうになるが、何かが真上に覆いかぶさっていてそれが衝撃波を軽減してくれた。
 何が起こったのかわからない。
 押し付けられる胸のふくらみに真義は危うく状況を誤解しかけるが、近くから壊れた原子炉のように振りまかれる怪しい空気に気づいて我に戻る。
 でも、なんでオレは助かったんだ。
 この被さっているものはいったい誰なんだ。
「……よかった」
 その誰かが分かった時、真義はようやく物事を筋道立てて思い出せた。
「瞳さん!?」
 真義の真上に被さっていたのはあのスキンヘッドの彼女だった。
 おかげで真義にはダメージがない。
 その代わりに彼女の身体からは力が抜けていて、その体内から火花が散り、背中から薄く煙が立ち込めていた。
 爆風を受けて、彼女の背中の表面が吹き飛んでいた。
 露になったのは筋組織や血液ではなく、人工繊維の皮膚やフレーム、ケーブルなどのどう見ても機械の構造だった。
「瞳さん……瞳さん!?」
 真義がよろよろと起き上がると彼女は真義に身体を預けたまま動かなくなった。
 何度呼びかけても反応がない。
 まるで、機能を停止してしまったように。
「瞳さん……瞳さんっ……っ!!」
 真義は呼びかけるが彼女は答えない。
 けれど、彼女にかまけている贅沢は与えられなかった。

「なんなんだ……いったい……」
 プポーネが半ば呆然としていた。
 その視線の先にねねがいた。

 「わたしはろぼっと……わたしはろぼっと……」
 砂がぼろぼろとこぼれるような声が空間をふるわせた。
 爆発の元が明らかにねねにあるにも関わらず、ねねはそこに立ち尽くしていた。
 「おねがい……わたしをこわさないで……」
 ねねの半径5mのエリアが隕石でも落ちたようなクレーターになっていた。
 「……はいって……こないで……」
 ねねは苦しんでいるのに誰も近づいてはいけない。
 ねねの身体から迸る熱量は空間の気温を真夏のように上げ留まることを知らない。また、淡く輝きだしていてさっきのように爆発しかねない危険さをかもし出していた。
「何が起きてやがる……」
「そっか。歪みがねねちゃんに出ちゃったんだ」
 陸の呟きが悲しげに響いた。
「歪み? なんだよ、それ」
「……うーん。まあ、なんだろうね」
 プポーネにはいえなくて陸は日本人らしい曖昧とした笑みでごまかした。
 単純な話である。
 この街には、この世界ではありえないものが存在するために歪みというものが存在して、その歪みが天変地異を引き起こす。こないだの子熊の件もそうだった。
 今回のは子熊がねねが置き換わっただけのことである。
 委員長がねねは常人よりも生気が足りないと言っていたように本来はロボットで無機物だから人間よりも抵抗力は弱い。子熊とどっこいどっこいかあるいは子熊よりもないのかも知れない。
 ――こないだのことを思い出して陸は唇をかみ締めた。
 子熊が化物化した時、どうしようもなくて倒すしかなかった。
 その法則でいったらねねを殺すしかなくなる。
 殺すと思ったら陸の手が震えた。
 子熊でさえ倒したのは悲しかったのだから、ねねを倒すのはとっても悲しい。
 妹のように可愛がっていた相手を殺さなくちゃいけない、と思うと心が引き裂かれそうになる。
「だいじょうぶか。リク」
「うん。大丈夫だから」
 陸は気丈にも笑うが、プポーネは選手の動きを見る監督のように首を横に振った。
「リクがそんなにしおらしいんじゃ遺書書いておいたほうがいいかな」
「なによ。それ」
 プポーネの軽口によって泣きたくなるぐらいに悲しい気分がまぎれたのは救いだった。
 笑いながら軽口を叩いていたプポーネであったが、戦場にいることを思い出したように真顔になると再びねねを見た。

「ねね。しっかりしろっっ!!」
 もちろん真義もあの熊のことがちらりとよぎっていた。
 化物化した熊に危うく殺されそうになって、あの時は悲しいとはいかないまでも複雑だったのは覚えている。
「いやっっ 入り込まないでっっ!! 」
「負けるなっっ!!」
 自分を好きだと言ってくれた女の子が化物になってしまうのは悲しかった。
「わたし……へんになっちゃう。へんになっちゃうっっ!!」
 その子に襲われることが悲しかった。
「わたしを潰さないで」
 その子を倒さなくちゃいけないということは辛かった。
 その子を手にかけてしまった喪失感は想像してみるだけで怖かった。
「いやっ、いやぁぁぁぁぁーーっっ!!」
 ……光量と衝撃波の想像するとあの時の子熊よりも遥かに強そうで、生きてVDMに帰れるのか不安になる。

「……おねがいです……」
 浸透してくれるウィルスのような敵と戦って、ねねは病に倒れたように片膝をついた。灼熱色に光輝く豊富な髪が砂浜にばさりとついて、砂を焼いていく。
「……わたしをこわしてください……」
「何言ってるんだ。バカっっ!!」
 到底認められることじゃなくて真義は間髪入れずに叫ぶが、ねねの態度は変わらなかった。
「だめなんです……わたしこわれてしまいそうなんです」
「あきらめるんなっっ!!」
「ねねは生きてるんだからあきらめるなっっ!!」
 真義と陸が一緒に叫んでねねを必死になって引き止めようとするが、ねねは侵食してくる何かにすっかり押し潰されていた。
「だめなんです……わたし、何もないですから・・・・・・・いだっ」
「ねねっ!!」
 苦しそうに顔をゆがめたねねを見て陸が駆け寄ろうとしたが、ねねの手が髪の間からぬっと出てくると、掌から光線が発射される。
 狙いが甘く、光線は陸の頭の上を通過しただけだったが陸の脚を止めるには充分だった。
「……ねね」
「言うこと聞かないんです……わたしのからだ。そんなことしたくないのに、したく……ないのに」
 掌から立て続けに光が発射され、砂浜や海面に炸裂しては砂煙や水煙を立てた。
 身体のコントロールが何かに乗っ取られつつある現実に陸も真義も呆然とする。
「おねがいです……わたしがわたしでなくなっちゃうまえに、わたしをころしてください……」
 気がつくと足元にステアーが転がっていた。
 銃身が曲がっているといったトラブルもなく、普通に撃てそうな気がする。
 どうすればいい?
 このまま手をこまねいているようだとねねは何かに身体を乗っ取られてしまう。そうなれば倒すか倒されるかの二者択一しかない。
 どうすればいい? どうするんだ、オレ。
「真義、ステアーよこせ」
 真義と陸には撃つことはできないけれど、プポーネは撃つことができる。
 けれど、真義は首を小さく横に振るとステアーを拾い上げてはねねに狙いをつける。
 震えるスコープの中で、ねねは佇んでいた。
 点滅が激しくなっている。さっきみたいに光の爆発を起こした時が最後になるだろう。
 ……手遅れじゃない。
 今ならねねを救える。
 でも、どうやったら救える?
 どうやったら元のように笑いあえる。
「菅野くん……」
 今まで動きが止まっていた彼女がそっと囁いた。
「おねがい。ねねを救ってあげて……」
 まだ終わりじゃない。
 終わりじゃないから救う手立てはある。
 唐突にその手立てが見つかって、見つかった瞬間、真義は手に持っていたステアーを捨てるとねねに向かって歩き出した。
「真義さん。やめてください」
 伸ばした手から光線が発射される。
「なにやってるのか分かっているのですか? 死んじゃいます」
「……わかっているさ」
 光線がかすって肩がかすかに焦げる。
 真義は乱射される光線をモーゼのように無視してねねに接近する。
 そして、抱きしめた。
「つかまえた」
 光の結晶が固まってできたように見える今のねねはとても熱くて炎を抱いているようだったが、それでも構わず真義はぎゅっと力をこめた。
「負けるな」
「でも、わたしは……」
「大丈夫。オレがいるからねねは負けない」
 熱さによって急激に気力が吸い取られていくがそれでも真義は笑ってみせた。
「ねねはどうしたい? オレたちといっしょにいたい?」
「……いたいです。いっしょにいたいです」
 ようやく聞けた素直な言葉に真義はほろりとする。
 意思があれば生きていける。
 折れなければ負けはしない。
「ねねはオレのことが好きか?」
 普段ならばあまりにも直球すぎていえないのだけど、非常時だから照れとかそういうのは眼中になかった。
「はい。好きです……」
「だったらオレのことだけを好きだと思え、いつまでも一緒にいたいと思え。そしたら、オレはお前に応えられるだけ応えてやるから」
「本当ですか……?」
 期待に目を輝かせるがしょんぼりする。
「でも、私はロボットですから……はうっ」
 真義は焼け付く腕を無理やりに動かして、ねねの頭をなでた。
「ねねは人間だ」
「わたしはにんげん……なのですか?」
「機械だからとかそういうのは関係ない。意思があるから人間なんだ。間違いなくねねは人間だ」
「わたしも意志があるのですか……」
「そうだ。ねねにもちゃんとある。ねねが欲しいことをいってみろ」
「わたしは……」恥ずかしくなったのかねねは俯き、呟きが小さく漏れた。
「わたしは……真義さんが大好きです……」
「もっと大声で」
 急かされて、ねねの頭が真っ赤に輝く。
「わたしは真義さんが大好きです」
「……いい子だ」
 真義はまるでプポーネの生霊が取り憑いたようにニンマリと微笑むとそのおでこにキスをした。
 初めてのキスの味は……熱いだけで火傷しそうだったけれどその効果は覿面だ。
 真っ赤にしたまま硬直。
 そして、何かの線が切れたのか狂ったように絶叫した。
「わたしは真義さんのことがだいすきですだいすきですだいすきですだいすきですだいすきてだす。あいしてますあいしてますあいしてますっっっっっっっっっ!!」
 ねねが叫び終えた瞬間、光と熱がふっつり消えてねねは真義の腕の中で崩れ落ちた。
「大丈夫か!? ねねっ!!」
 ねねが死んだのかと不安になるが、ねねの表情は安らかなままでしばらくすると寝息が聞こえてきたので真義はおもいっきり脱力した。

 どうやら熊の時とは違って最悪の結果にはならなくて済んだらしい。
 その事を悟ると真義の身体に一気に疲労が押し寄せてきて、そのまま砂浜に座り込んだ。
 最高だった。
 素敵だった。
 ねねが化物にならずに済んだから。
 真義は視線を海に向ける。
 何事もなかったかのように日は輝き、波は規則正しいリズムで押しては返し押してはかえす。
 このまま眠りにつけたら最高だろうな、と思った。
「ラブラブだねえ」
「ラブラブだよな……」
 陸とプポーネの呆れとニヤケが混ざった笑みが、真義の襟首を掴んで
け現実へと引き戻した。
「お、おまえらいつの間にっっ!!」
「いつの間にって、さっきからここにいたんだけど」
 現実に引き戻されたわけだが真義は全然平静にはなれなかった。
 むしろ、これから起こるであろう未来を想像すると恐怖がこみ上げてくる。
「「ねねはオレのことが好きか」って、よくもまあそんなことがシラフでいえるわね」
「しょうがないじゃないか。どうやったらねねが帰ってくるかそのことしか考えられなかったんだから」
 今にして思えばもうちょっとマシな言い方があったのかも知れないけれど、もう遅い。
「瑠柁の前でも言えるのかな?」
 言えるはずがない。
 言ったら最後、間違いなく真義は殺される。
 確実に殺される。
 多少、未来が違ったとしても死因が窒息か内臓破裂かの違いでしかない。
「…………シンギってたらしだなぁ。うらやましい」
 笑うしかなかった。
 どこからどう見ても、ねねは真義に落ちたとしか見えない。
 誤解のしようがなかった。
 たとえねねが目覚めとしても、これからのねねの行動を予想すると決してバラ色とはいえない。
 頭痛がした。
「あのさ、今日のことは瑠柁には黙っておいてくれないかな」
 瑠柁という存在が傍にいる真義にとって出来ることはさっきの口封じだった。
「どうしよっかなー」
「オレは今、猛烈にルダにちくってやりたい気分だぜ」
 二人の反応は芳しいとはいえない。
 口封じ料はブラックベリーカフェでのランチでは足りない。駅前周辺の寿司屋での奢りが必要であり、そのためにはいくらかかるのだろうと真義は暗澹たる気分に襲われた。
「……よくやったぜ。シンギ」
 プポーネが真義の肩を叩いて祝福する。
「うん。よくやったよ。ねねを救えたんだから」
 でも、ねねが助かったことは確かで空気はすっかりいつもの空気に戻っていた。
 真義の背後で殺気が立ち上るまでは

「……まだやる気なの?」
 彼女は懐からグロックを抜くと真義に狙いをつけていた。
 今までの間で少しは体力が回復したらしくて、グロックを持つ手は弱弱しいかったけれど戦闘意欲があることだけは確かだった。
「それが命令ですから」
「命令ですからってさっきの見ていてなんとも思わなかったの」
 普通の人間だったら何らかの衝撃を受ける。
 しかし、陸の糾弾を彼女は無表情で受け流す。
 真義はねねを抱きしめ続けたことによって気力体力ともに大きく殺がれていたけれど、危機が終わっていないことを悟るとねねを抱きしめながら立ち上がることができた。
 真義の前に陸とプポーネが立ち塞がる。
「引っ込むのはそっちだろ?」
 彼女がグロックの狙いをつけているのと同様に、プポーネも拾い上げていたステアーの狙いを彼女につけていた。
 真義とは違い、構え慣れていて隙がない。
 拳銃とアサルトライフルでは火力にあまりの差がありすぎる。
 歪みを誘発するから陸の力が使えないとはいえ、彼女が真義を撃ったとしてもプポーネに始末されているのがオチだろう。
 RPGの雑魚キャラならいざ知らず、まともな判断を持ち合わせているのなら退却を検討するところなのに彼女は退こうとはしない。
 緊張が、夕焼けに染まりだした海岸に満ちる。
 何故、彼女は退かないのだろう。
 彼女は退こうとはしないのではなく、退けないのだと真義は悟った。
 その退けない理由を真義は知りたいと思った。

 彼女は決して話し合えない相手ではない。
 ……あの時、彼女は真義を守ってくれたのだから。
 もしも彼女が、茶色の髪を膝まで伸ばした暖かくて優しいお姉さんウェイトレスの同一人物だとしたら

「この戦い、ボクが預かろう」

 緊張を破ったのは道路側から現れた一人の優男だった。
 学ランにどんな緊張感を吹っ飛ばす笑み。
 
「か、かいちょう!?」
「……大志さま?」

「如何にも、ボクは厳しい超遅野大志だ」

 ……ギャグを飛ばそうとして訳がわからなくなっているので超遅野大志そのものにしか見えなかった。

「なんで、あんたがこんなところに来るのよ。さんざん電話かけても
出てこなかったし」
「ボクだって忙しかったんだよ」会長の優しげな眼差しが真義の腕に抱かれているもねねに注がれている。「その子が逃げ出して研究所内がパニックってたからね」
 実家が超財閥だからといって研究所での混乱にわざわざ大志が乗り出す必要はないのだが、その辺りは謎である。
「まさか、こういう事になるとは思わなかったね」
「……はい」
 会長が視線を投げかけるとどんなメッセージが伝わったのか、彼女はこくんとうなずいた。
「どうするつもりっ!!」
 陸が躾のなってない犬のように吼えた。
「ねねを連れ去るっていうなら会長でも許さないっ!」
「……運がいいなあ。返答次第によっては身体が涼しくなるぜ」
 陸は熱く、プポーネはステアーを振りかざして爽やかに脅しをかける。
 陸はともかくプポーネの脅しはマフィアのように恐ろしかったのだけど会長のにこやかな笑みが耐えることはなかった。
「やだなあ。ねねちゃんを捉えるつもりだったら一人でこないよ。……そうだな、キミたちのことだから第一空挺団を導入するね」
「第一空挺団って、おい」
「権力っていうのはこういう時に使うものだからね」
「……権力の使い方が間違っている」
 ジト目で突っ込んだところで陸はポイントに気づいた。
 真義もプポーネもそれに気づく。
「ひょっとして、ねねちゃんを助けてくれる?」
 一人で来たというのは会長も真義たちと同意見だということに違いなかった。
「いいのですか? 会長」
「……正直言って気にいらなかったんだ。確かにセクサロイドの開発は儲かるとは思うんだけど生み出す過程が気にいらなくて。ましてや今度の事件だ。神野博士の理論で作られるだとしたらこの手の問題は避けられないとボクは思う」
「……はい」
 真義は「神野博士」という単語で彼女が憂いを浮かべたことに気がついた。
 名字が同じで、会長の口から語られているのだから瞳とは何らかのつながりがあると考えたほうが自然だ。
 でも今は彼女ではなくねねである。
「そういうわけだからねねちゃんはボクが預かったほうが丸く収まるとは思うんだけど、どうかな?」
 ねねにされる仕打ちを思うと引渡したくはないのだけれど、超遅野グループを敵に回してねねを守りきれる自身もない。
 いくら陸が天使の力を使うとしても三人だけでは限界がある。
 会長に預けるのが落としどころだろう。
「ほんとうに預けても大丈夫?」
「ここで約束を破ったらヴィア・デル・マーレにはいけないまーれ」
 かっこいいのに何故ここで崩すのかが謎である。
 もちろんウケるわけがない。
「……しょうがないか。それでいいよね。プポーネ、真義」
 乾いた笑みを浮かべながら会長の掲げたプランを了承すると陸は男二人に尋ねた。
 もちろん真義は了承だった。
「ちきしょう。渡す前にはぐはぐしたかったんだけどな」
「ねねちゃんはロボットだから食べられませんよ」
「…………」
 プポーネがプポーネらしい表現で了承して、会長は「それはぱくぱくだろ」と突っ込まれることを予測してギャグを飛ばしたのに誰もがスルーしてブリザードが吹き荒れるのを真義はただ眺めていた。
 助かる、と直感した瞬間、張り詰めていたものが切れた。
 ねねを抱きしめた時点で気力が尽きてしまい精神力で立っていたようなものだからその必要がなければ冬の日の夕暮れのように落ちるのも早かった。
 ほとんど一瞬で意識は無意識に塗りつぶされて、真義は安らかな寝息を立てる。
「……寝ちゃったか。まあ、しょうがないよね」
「ニクの字でも書いてやろうか」
「やめなって」
「真義くんはしんぎられないぐらいにがんばりましたね」
「…………」

 真義が落ちて、三人がそれをネタに話し込んでいるのを彼女はじっと見つめていた。
 サングラスに覆われているので表情は見えない。
 ただ、頬がかすかに緩んで笑っているように見えた。


  ■■■

 
 真義はどうやって家に帰ったのか覚えていない。
 おそらくは会長が手配してくれたなり、プポーネが盗んだ1BOXで送ってくれたのだろうとは推測がつくのであるが、目が覚めるとそこは海岸ではなくてVDMの自室だった。
 夢さえも見ない熟睡ぶりだった。
 ただ、傍にはねねはいなかった。
 どうやら、会長がねねを運んでいったのだろう。
 多分、大丈夫なのだろうとは思うのだけど真義に他人のことを気遣う贅沢はなかった。
 目が覚めると真義には地獄が待っていたから。

 …………

 今日という日が終わりに近づいている午後11時。
 明日も授業だから真義は必死になって寝ようとしたものの寝ることができなくて、ベットから起き上がると電気をつけてはしきりにむせた。
 火災が発生しているように腔内が熱い。
 色々な理由があるのだけど、真義が眠れない第一の理由は理亜や瑠柁から仮病を使って抜け出したことを責められて、その罰としてカレーを飲まされたからである。
 飲んでから数時間が経つにも関わらず熱さが続く超激辛カレーだった。
 思えば真義がVDMに来た時、出迎えパーティで蒼衣が泣きながら鍋をつついていたのもそのせいだったのかと納得する。
 いずれにしても耐えられない辛さであり、真義は水を飲もうと一階に降りようとした。
 その矢先にドアをノックされる。
「真義さん。起きてらっしゃいますか」
 その優しい声は紛れもなく瞳のものだった。
 どうやら帰ってきたらしい。
 ――いつもだったらすんなりと開けるのに今日に限っては戸惑った。
 早めに寝ようとしたのも瞳と会うのを避けたかったからだ。
「どうぞ」
 けれど、拒むことはできなかった。
 ドアが開かれて、瞳が入ってくる。
 瞳は白いブラウスに黒いスカートという姿で七三に分けられた茶色の艶のある髪が素直に膝まで下ろされていた。片手にはトレイを持っており、トレイにはところどころにオレンジが混ざったヨーグルトドリンクのグラスが涼しげな存在感を主張していた。
「ヴィア・デル・マーレ。特製裏メニューの味はどう?」
「……すっげぇ辛いです」
 それでチャラになるとはいえ、辛いものは辛い。
「そんなことだろうと思って。はい」
 瞳からマンゴーラッシーを手渡されると、真義はほとんど一気で飲んだ。
 まだ燃えているように痛んでいる喉と食道にとって、ヨーグルトとマンゴーの甘さは慈雨のように心地よく通った。
「ごちそうさまでした」
「おあいそだした。気分はどう?」
「おかげさまで楽になりました」
 辛さは残っているものの、さっきより和らいで我慢できるレベルになったのも事実だった。
 そんな真義を暖かく見守っていた瞳であったが、不意に表情を曇らせる。
「隣、座ってもいい?」
「……オレに瞳さんの着席を拒む隣なんてありません」
「真義くんって意外と口が上手なのね」
「そ、そんなっ……」
 口説く事を意識していなかったので真義はおもいっきり動揺する。
 条件反射といってもよかった。
「冗談よ」
「からかわないでくださいよ」
 動揺がだんだんと落ち着いていく。
 これから瞳がとっても重要な話をすることを知っていたからだ。
 ……それでも瞳が隣に座るとやっぱり胸がドキドキしてしまうのだけど。
 瞳がベッド座ると茶色の量がある綺麗な髪が布団に付き、余った部分が布団の表面に流れるが瞳は髪全体を前に回して一まとめにすると毛先を掴んでは一気に引っ張った。

 わかっていた。
 こういうことじゃないのかと読めていた。
「……驚いた?」
 伏線があるどころかバレバレなはずだったにも関わらず、それでも魂が飛びでるぐらいに驚かずにはいられなかった。
 瞳は真義の隣にいる。
 してやったりと言った表情で真義を見ている。
 真義にはその瞳が別人にしか見えなかった。
 隣に座っているのは豊満な肢体を白いブラウスと黒いスカートで包んだ美人だったけれどその頭に髪はなく、髪があった痕跡すらない頭皮を白熱電球の下にさらしていた。
 さっきまで瞳のチャームポイントとして膝まで彩っていたストレートヘアは茶色の毛束になって膝に置かれている。
 表情仕草は変わらないものの、髪がなくなったおかげで印象が激変していた。
 イメージの激変ぶりについていけなくて真義が呆然としていると瞳はスカートのポケットからサングラスをかける。
 そこにいるのは服装こそ違えど昼間、ねねを巡って対峙した黒レザーのつなぎの彼女だった。
「驚いた?」
「うわっっ」
 それでも胸はあって女性だということはわかるから、外見に似つかわしくない合成音声で喋られるとびっくりする。
「本当に驚きました。見た目のイメージとぜんぜん違いますから」
 髪切ったら女性は変わると言っていたけれど、瞳なんかまさにそうだった。
 サングラスをかけられると優しいというイメージは消滅して、サイバーの世界から出てきた戦闘機械にしか見えなくなる。
 こないだのと瑠柁ともくろんだ「瞳ろりろり化計画はなんなんだったのか」と悩みたくなった。
「瞳さんもロボットだったんですか?」
 真義は直球で勝負しながらもそれは違うだろうと予感していた。
 もしも瞳がロボットだとしたらCPUを冷却するのに膝ぐらいまでの冷却装置、つまり人工髪を必要とする。なのに瞳は必要とはしていない。
 瞳はサングラスを外すとしんみりとした表情で呟いた。
「私はサイボーグなの」
「サイボーグ!?」
「真義くんが見たように私の体のほとんどは機械なの。ううん、生身で残っているのは脳と脊髄だけ。真義くんを見ている目も、真義くんの言葉を聞いている耳も、言葉をつむいでいる口もそれから真義くんがさっきからじぃぃぃっと見つめている胸も作り物なのよ」
「あぅぅぅぅぅっ〜」
 つい胸に視線がいっていることをターゲットから指摘されて真義は悶絶する。
 信じられなかった。
 真義が見ている瞳の全てがみんな作り物だなんて
 瞳、耳、鼻、頬、頭の天辺から爪先まで天から与えられたものだと思っていた。
 でも、あの時。真義は見ていた。
 真義を庇って瞳が怪我をした時、皮膚が溶けて露出したものは人とは違う機械構造の肉体だった。
「だいじょうぶだったんですか?」
「ええ。パーツを変えてコーティングするだけで済みましたから」
 瞳は笑っていたけれど真義には笑えなかった。
 人はあの時の瞳のように怪我をしたら破損した筋組織や血管、神経などを新品の物に入れ替えるこということはできない。
「わたしはこの身体になる前のことは覚えてないの」
「この身体って……えーと、まだ生身だった頃ですか」
 瞳はうなずくと真義を驚愕させる一言を言った。
「本当は50歳ぐらいのおばさんだったり、ひょっとしたらトラック乗っているおじさんだったのかもね」
「えーーーーーーーーーっっっ!!」
 大声を出さずにはいられなかった。
 その可能性は否定したかった。
 でも、否定できる材料なんてどこにもなかった。
 真義は瞳をマジマジと見つめる。
 つやつやと光るスキンヘッドだったとして瞳は美人ではあったが、その中身が筋肉ムキムキのおっさんだと思うとトイレの入り口でウンコを踏んだようなショックを味わった。
 もしも、そうだとしたら瞳はオカマだということになる。
 何故か緊張の時間が流れて、真義はうなずくと丹田に力を込める。
 わざわざそこまでという気もしないでもなかったのだが真義にしてみれば必死だった。
「オレ、瞳さんの中身がおばさんだとしても好きですから。いや、おっさんだったとしても大好きですから、一生大好きでいますからっっ!!」
 本心からの言葉だった。
 たとえ瞳がサイボーグになる前はどうだとはいえ、そんなことは関係なかった。
 ……関係あるとは思いたくもない。
 ただ、今の瞳がとっても好きであり、一生好きであり続けたかった。
「ありがとう。真義くん」
 真っ赤になって俯く真義の頭を瞳の手が撫でる。
 機械の手なはずなのに、その感触は柔らかくて暖かだった。
「そういうこと言われるとお姉さん、真義くんに惚れちゃうかも」
「えっ?」
 本気ではないとはわかっていてもドキっとする、
「でも、真義くんには私なんかよりも大切にしなくちゃいけない人がいるでしょ」
「ま、まあね」
 瑠柁のことを思うと冷や汗が出る。
 そして、ねねを救う際に連発した言葉の数々を思い出すと顔が真っ赤になる。
 綸言汗の如しという言葉あるけれど、冗談であれ自分の言った言葉に責任を持たなくてはいけないのは君主だけではない。
「ねねは大丈夫……かな?」
「大丈夫です。大志さんがそうおっしゃられているのですから」
「そんなにあいつって信頼できるのか?」
「信頼できます」
 瞳がそういうのだから信頼できるのだろう。
 ……そしたら、真義はねねと結婚することになるのだろうか。
 そう思うと真義としては照れくさくなっているのだけれど、次の一言で浮ついた気分が吹っ飛んだ。
「ごめんなさい」
 ……その言葉は悔恨に彩られていた。
 昼間の光景がまざまざと蘇る。
 彼女は和やかな空気をぶち壊すとプポーネを人質にとって、最愛の妹であるねねを無理やり引き戻そうした。
 その時の瞳は冷酷無比なように見えた。
 でも、真義は知っている。
 ……瞳が本当は辛かったんだっていうこと
 泣きそうなんだけれど、決して涙を流そうとはしない瞳を見て確信できた。
 陸に鬼と罵られた時、泣きそうになる感情を掌で握りつぶしていたということを。
「ほんとうにごめんなさい」
 真義は謝る瞳に何を言ったいいのか迷った。

 聞きたいことは山ほどある。
 瞳とねねのつながりのこと、
 研究所で瞳が何をされていたのかということ。
 何故、瞳が刺客になったのかを
 非常に興味はある。
 瞳はそれらを告白しにきたのだろう。
 でも、聞く一言一言が瞳をえぐるとなると言えなかった。

 想像がついていて、しかも正解だと確信できるのだから聞くべきではない。

 瞳は苦しんでいる。
 過去の傷と罪にもだえている。

 真義は瞳を傷つけたくない。

 瞳を護りたい。

 瞳のことを知りたかったのも
 瞳を護らなくちゃいけない状況で護りたかったからだ。

 思えば光沢に着いた時から今に至るまで真義は瞳の世話になった。
 その恩義に報いたい。

 それが今だ。

 言葉が滑らかに出た。
「がんばったね」
 真義は瞳の頭を撫でた。
 瞳の髪が生えていない頭は髪同様に触り心地がよくて、滑らかに滑っていく。
「がんばった?……わたしが?」
 瞳は知らない土地に置き去りにされた子供のように呆然していた。
「私は真義くんたちにひどいことをした。どんな運命が待っているのか分かっているくせにねねを連れ戻そうとした」
「しかたがなかったんでしょ」
「しかたがなくないっ!!」
 ……瞳が吼えたのは初めてだったような気がする。
「私はひどい女なのよ。あいつらの命令に従ってねねを捕まえようとした」
「従うしかなかったんでしょ」
「でも……」
「従わなければ死んじゃうから……そうじゃない?」
 指摘の前に瞳は黙り込む。
 エネルギーの補給を特別な燃料に頼っているように瞳を存在させるためには特殊な環境が必要になってくる。その環境がなくなってしまえば瞳は生きていけない。
 瞳に意に沿わぬことを強制した連中は、瞳の生死を左右できる立場にあった。
 その他の色々な状況を想像してみるととてもじゃないけど瞳に拒否権はなかった。
「あの時。瞳さんはオレを助けてくれたじゃないですか」
「でも、あれは……」
 ねねが最初に爆発した時、瞳が庇ってくれなかったら真義はどうなっていたからわからない。
「瞳さんの意思はどうあれ、オレにとっては瞳さんが庇ってくれたということが嬉しかったんです」
 瞳はがんばっていた。
 VDMの経営面で、ウェイトレス頭として、そして意に沿わぬことを強制されても辛さや涙を笑顔の下に押し隠していた。
 そのことを真義は知った。
「困った時や泣きたい時はオレを頼ってくれませんか?」
「真義……くん?」
「苦しいのに泣きたいのに表に出せないのはとっても辛いですから、その時はオレが支えさせてもらってかまいませんか? そりゃオレは瞳さんよりも年下ですし学生で頼りないかも知れませんけど、全力でもって瞳さんのことを支えますからっっ!!」
 一気に言い終えると沈黙が訪れる。
 言い終わった後に恥ずかしさに気づいて墓穴があったら埋まりたいようなもどかしさ。
 顔に柔らかくて大きいものが押し当てられて真義はドギマギする。
「わたし……真義くんに惚れちゃったのかも知れないな」
 大きい胸が頭を押し当てられて、瞳のソプラノボイスが耳たぶをくすぐって真義はドキドキする。
「瑠柁ちゃんやねねの存在を知ってなければ」
「あうっっ」
 暗に浮気者と罵られたような気がして真義は再び悶絶する。
 そんな真義を見て元気を取り戻したように瞳は微笑んだ。
「瑠柁ちゃんやねねや樹ちゃんが真義くんに惚れちゃうのも分かるような気がする。真義くんってとっても素敵だもの」
「……そんな。いや、その、オレって……」
「でも、さっきからの言葉って口説いているつもり? それとも素? たくさん彼女がいるのに無意識でそんな言葉を言えるなんて行く末が心配ね。瑠柁ちゃんが嫉妬深くなるのもわかるような気がするなあ」
「お願いだからプポーネやクラスメートのようなことは言わないでください」
 ほとんど事実なだけに瞳までそう言われると悲しい気分になる。
「冗談よ」
 どこまでが冗談なのかと言いたくなるのだけど、それ以上は悲しくなるから言わない。
 真義は真顔になった。
「瞳さん。お願いがあります」
「なに?」
「かの……」
「かの?」
「かの、じゃなくて」
 思わず彼女になってくださいと言おうとしたのだけれど、瑠柁やねねで突っ込まれて自爆するのは目に見えていたからいえなくて代わりにこんなことを言った。
「オレのお姉さんになってくれませんか?」
「わたしが真義くんのお姉さん?」
「そうです。菅野瞳っていうのかなんというか……」
 伝えたい想いがたくさんあって、それだけに整理がつかなくて何もいえなくなる。
「ど、どうもすみません」
 瞳が悲しげに目を伏せたので真義は慌てた。
「わたしが真義くんのお姉さんでいいの?」
 悲しみにくれているのは真義が危惧した方向の逆であった。
「わたしはサイボーグなのよ。見た目はお姉さんだけど、本当はおばさんだったりおじさんだったりするのかも知れないのよ」
「本当は8歳の幼女だと思っておきます」
「やだ。真義くんってロリコン?」
「学校ではロリコン認定されてますから」
「もうっ」
 その割には嫌がっているようには見えてなかった。
 瞳はちらりと膝の上に置かれている茶髪のかつらに視線を移す。
「今までの姿は嘘だったのよ。本当のわたしはこんな姿なのよ」
 膝までの茶色い髪はカツラで、本当の瞳は髪が生えない艶々としたスキンヘッドだった。女性という概念から遠く離れているように見える。
 けれど、真義は首を横に振ると静かに言い放った。
「今の瞳さんもすっごく可愛いです」
「可愛い?」
 そういわれることはまったくの想定外だったらしく、瞳は虚を突かれていた。
 そして、顔を赤面させる。
「し、真義くん。ありがと……」
 恥ずかしそうなそぶりはお世辞でも嬉しいと言外に語っていた。
「お世辞じゃないっす。スキンヘッドな瞳さんも素敵ですよ」
「どの辺りが素敵?」
 澄んだ瞳で見つめられておもいっきりドキッとして、しどろもどろになりながら説明を開始する。
「なんつうか、今の瞳さんってシンプルなんですよね。無駄というものをそぎ落としたというか素材そのもので勝負しているっていうか、そんな感じ……」
 更にいうならば、胸が大きいこともあってその何もない頭から色気が匂い立っていた。
「真義くんって口がうまいのね」
「そんなっ!! 心から言ってるんですよ」
「じゃあ、明日からこの姿でいようかしら」
「そ、そんないつものロングヘアも素敵ですよっっっ!!」
 膝までも茶色のロングヘア姿が見られなくなると思った瞬間、脊髄反射で叫んでいた。
 時が止まる。
 瞳は「ほら。お世辞だったんじゃない」という視線で真義を見やると真義はしゅんと落ち込んだ。
「ありがとう、真義くん。そう言ってくれて私はとってもうれしいです。この頭を可愛いって言ってくれたのは真義くんが初めてだからおどろいちゃった」
「そ、そうなんですか」
 撫でられて、真義は心をどきまぎされる。
「頭、撫でてもいいですか?」
「うん。いいよ」
 完全に保健室の女医に魅入られた小学生と化していた。
「ほんとにスキンヘッドの瞳さんも素敵ですから」
「…好きでスキンヘッドになったんじゃないのよ」
「……はうっ」
 本気じゃないとはわかっているとはいえ、縮こまってしまう。
 そんな真義の頭を瞳の手が優しくなでる。
 たとえその白い手が作り物であったとしても込められた愛情は本物だった。
「でも、その姿でもデートできますから」
「ほんと? 嘘じゃない?」
「本当です。腕を組んで見せびらかしましょう…ってデートしてくれるんですか?」
「今回は真義くんにお世話になったもの」にこやかに了承するが途中で瞳はジト目になる。
「真義くん。口説いてる?」
 三回目だとはいえ、相変わらず絶句することには変わりなかった。
 正直な真義の反応を楽しむと瞳はベットから立ち上がる。
「なんていう顔をしているのよ。これから私が旅立つわけじゃないんだから」
 言葉通りとはいえ、瞳が離れることに真義は一抹の寂しさを禁じえなかった。
「真義くんって寂しがりやなの?」
「ほっといてください」
「よかったら、これから一緒にねます?」
 思いがけない一言に真義は驚いた。
 一緒に寝る一緒に寝る一緒に寝る一緒に寝る一緒に寝る一緒に寝る一緒に寝る一緒に寝る。
 まさかそこまで突っ走るとは思っていなかっただけに心臓が破裂しそうになる。
 でも、危ういところでその言葉が冗談だということに気づく。
「いえ、一人で」
 朝起きて、瑠柁に同衾しているところを発見されようなら間違いなく真義はぶっ殺されるからだ。
「ったく、瞳さんったらいぢわるなんだから。人をからかうのがそんなに楽しいかよ」
「真義くんだって、スキンヘッドのわたしが可愛いなんてからかってるじゃない」
「それはからかいじゃなくて、ほん……」
 真義の額に小さくて柔らかくてとっても甘酸っぱいものがそっと押し付けられる。
「ひ、ひとみさん……!?」
「……むっ」
 口付けの時間はかなり長かった。
 ようやく口を放すと瞳はにぱっと微笑んだ。
「これはつながりのキスよ」
「つながりの……キス」
「私と真義くんが姉弟になったという証のキス。今日からは私は菅野瞳でもあるのですよ。これからよろしくおねがいしますね。真義くん」
「こ、こちらこそ。よろしく」
「それではおやすみなさい」
「おやすみ」
 瞳はかつらを帽子のように適当に被ると真義の部屋から出て行った。

 ドアが閉ざされて後には真義が残される。
 ひとりぼっちになって真義は何を言ってしまったのだろうと顔が赤くなる。
 もう一人の自分がいたら、自分のことを浮気者と断罪しただろう。
 クラスメートやファンクラブの連中が糾弾するのが理解できてしまうのが悲しかった。
 いったい誰を選んだらいいのだろう。
 早いうちに決定しなくてはいけないとはいえ、決定できないのが悲しかった。
 でも、嬉しかったりするのだ。
 真義は額のキスされた辺りをそっと押さえた。
 ほんの小さいスペースなのだけど熱を持ったように疼いた。
 それは刻印だった。
 神野瞳と菅野真義が両親は違えど姉弟になったという証。
 瞳のような素敵な人を「姉さん」と呼べるようになったと思うと布団の上を転げまわりたくなるぐらいに嬉しいのだ。

 でも、その歓喜は不意に消えて憂鬱が訪れる。
 
「頼ってくれ」と言ったはずなのに瞳は頼ることもなく泣くこともなかった。
 本当は信じてくれていないかな、と思うと真義は落ち込む。
「……しょうがないか」
 頼ってくれといったところで年下でしかも人生経験がない奴に頼れるはずがない。
 頼られるためには人として頑張るしかない。
 そう思うことにした。

 こんな真義を慕っていてくれている女性たちのためにも

 
.........to be continue

[NEXT]   [BACK]