天使のいる場所・第1部:「Dream or real」
3rd TRACK


 それは極普通の、極当たり前の昼休みの光景だった。

 4時間も終わった昼下がり、中学校の教室では給食の最中だった。今日のメニューはカレーライスと野菜サラダ。アルミ製の食器をスプーンで叩く音が響き渡り、その合間に話し声がかさなる。
 まことにのんびりした昼の時間。
 退屈かもしれなけれど、とっても平穏な一日。
 拓海は大して辛くもないカレーライスを食べ終えると前を見た。教師の座る席には教生だったころのうづきが座り、安物のカレーライスを美味しそうに頬張っている。よく、ああ単純に喜べるものだと拓海は呆れていたが、不意にニヤリと笑顔を浮かべた。

 拓海は黒板の時計を見上げた。
 おっきな時計は秒針を刻む。
 ちっちっちっ、と規則正しい音を立てて。

 ちっ、ちっ、ちっ、ちっ、・・・・・・ちっ
 「あなたたちはいったい・・・・・なんなんの?」
 スピーカーからおびえた小動物のような声がいきなり流れて、生徒たちのスプーンを動かす手が止まる。
 「へっへっ、オレたちの集会に迷いこむとは、運が悪いねえ」
 ガラの悪い男の声が響き、その後に別の声が続く。
 「アニキ、やっちゃいましょうか?」
 「おっ、それいいねぇ」
 「・・・・やめて」
 女は逃げようとした。
 しかし、その後に効果音が響き、女は地面に押し倒され、何人もおさえつけられる。
 「ふっふっ、まずは一発」
 「い、いや・・・・・・」男の声に女は恐怖していた。

 絶叫が昼休みの教室に響き渡っていった。

 それから先は女の悲鳴と、男の強制。それと水溜りにガムを落としてそれをかき混ぜるような音が聞こえいく。
 「いやぁ、やだよぉぇぇ・・・そこだけは・・・・・・」
 「おっ、おじょーちゃん。ガキのわりには淫乱だねえ。ケツをイヂラレいるくせに濡れ濡れじゃないか」
 「そんなのやだ、そんなのやだ、そんなのやだやだやだぁ・・・・・・・・・」

 生徒たちはすっかりスピーカーからの音声に聞き入ってしまっている。
 このクラスだけではない。このテープは全校放送で流れており、他のクラスもここと同じような状況になっている。

 ただ・・・・・

 「先生、どうしたんですか?」
 大声で笑い転げたいのを喜びで抑制しつつ拓海は自分の席で突っ伏しているうづきにたずねた。
 うづきは机に突っ伏したままだった。その表情は見えないものの、髪を上げたそのうなじは綺麗な桜色に染まり、身体が震えていた。
 「おや、やられちゃってる女の人の声って、うづき先生に似てますね」
 そういった途端、うづきの震えが止まった。

 最高だった。その時は拓海はそう思った。

 不意に時計のアラームが鳴り響いて、拓海の意識は覚めた。
 拓海はうるさく鳴る時計を止めると、何事もなかったかのように起き上がろうとして・・・・・できなかった。
 こなきじじいがへばりついているようで・・・・って、実際にへばりつかれていた。
 「・・・・たくみくん・・・だ〜いすき〜だよぉ・・・・・・」
 そんな寝言を言いながら、拓海にかじりつくように寝ているうづきを見て拓海は顔をしかめた。普段はツインテールにしている髪を下ろしているうづきは普段とは違った味わいがあるのだけれど、この男はなんの感銘も抱かなかった。単にうっとおしいだけである。
 拓海はうづきを引き離すと、立ち上がった。
 カーテン越しに日差しの暑さが伝わってくる。
 拓海は未だに寝ているうづきを哀れむかのように、うづきを見つめた。

 今ごろになって、何故、あんな夢を見たのだろう。

 一目見るなり「ママ」になりたいと言ってきたうづきが、どうしようもなくむかついた。
 だから、はめた。
 はめるのは簡単だった。
 族の集会が行われる場所へ呼び出した。それだけだった。
 あとはその模様をテープに録音して、時限式で校内放送で流しただけ。

 効果は絶大で、うづきは「淫乱先生」としてののしられ、いぢめられ、迫害されるように学園から追放されていった。
 
 とっても楽しかった。
 お腹がはじけるぐらいにおかしくて楽しかった。
 でも、それと同じようにむかついたのは何故なのだろう。
 
 そういえば、うづきを陵辱した暴走族たちはどうしているのだろうと、拓海は思った。
 答えはすぐに出た。
 簡単だった。
 彼らの集会に紛れ込み、盛大にガソリンをぶっかけた。
 ただ、それだけ。
 彼らは良く燃えた。
 本当に良く燃えた。



 拓海はパンと目玉焼きの自分だけの朝食を取ると、マンションから外に出る。
 出た途端、外の熱さに拓海はクラってきた。
 今日は晴れ。六月だというのに雨は降らず、太陽が憎憎しげな光を放っていた。天気予報では近いうちに雨が降るといっていたが、季節はすでに梅雨から夏に突入しているようだった。
 あれから・・・もう、一ヶ月はたつのか?
 拓海はここに来てからの日々を思い起こしてみた。
 ・・・・・思い出せなかった。
 それは、平原を突っ走る道路のようにあんまりにも平坦で、起伏に富む事態が起きなかったからに他ならなかった。
 さつきを幼児退行させてからというもの意外にも平穏に時間を過ごしていた。やくざをカツアゲしてぶち殺すということもしなければ、防火対策がいいかげんな雑居ビルに放火するといったこともなく、家と学校と病院を何事もなく往復する日々が続いていた。
 良くトラブルを起こすことなく平和に暮らしているもんだと、拓海は思う。
 うづきが気に食わないのは相変わらずだけど、あれ以来、人を殺そうとか町を焼こうと思うこともなく、今のところもそのつもりはない。
 それを考えるととっても意外・・・・だと思ったところで拓海は自己嫌悪にかられた。
 「おはようございます、拓海くん」
 そこへやってきたのは担任の一文字むつきだった。むつきは拓海を見つけると優しい笑顔で寄ってくる。拓海はうざったそうに手を上げた。
 「おはようございます、先生」
 「うづきちゃんはどうしたの?」
 「あいつなら寝てる」
 拓海がそっけなく答えると、むつきは苦笑しながらもたしなめる表情になった。
 「・・・もう、ちゃんと起こしてあげなくちゃだめですよ」
 一言二人のやりとりだけであったけれど、むつきは拓海がうづきを起こさず一人だけ学校に向かっていることを看破したらしい。拓海は何もいわなかった。そんな拓海を見て、むつきはため息をつくと優しい顔になった。
 「ところで、さつきちゃんはどうしてます?」
 拓海の表情が変化した。
 「・・・・何故、オレに聞く」
 拓海は不愉快そうに、凄みを利かせた。
 「さつきのことだったら、うづきややよいに聞けばいいだろ」
 「拓海くんの口から聞きたいんです」
 そういう時のむつきの顔は随分と年の離れた弟を見る、姉のような笑顔をしている。
 拓海は何もいわない。ただ、疲れ切ったように肩を落とした。

 拓海があれ以来、問題を起こしていないのはなんといっても子供になってしまったさつきが存在が大きかった。
 ・・・・はっきりいって苦手だった。
 こういう事態になるのなら、どうしてあのとき殺さなかったのだろうと本気で思っている。

 「さつきちゃんの調子はどうなんです?」
 むつきは笑っている。
 優しいけれど、拓海がよく見せる邪気が少しだけ混ざっている。
 拓海はそれには答えなかった。
 「先生、人が来たみたいだよ」
 「えっ?」
 「委員長が来る」
 拓海がそういった直後、遠くから誰かがやってきた。ウェーブのかかった長い髪にメガネをかけた真面目そうな女生徒。拓海のクラスの委員長である。七転ふみつきだった。
 「おはようごさいます、一文字先生」
 二人ところで止まるとふみつきは丁寧に会釈した。礼法どおりにきっちり決まったお辞儀。それを見て、むつきはにっこりと挨拶をかわす。
 「おはようございます、七転さん」
 「おっす」
 拓海が陽気に挨拶するとふみつきを目をむいた。
 「おはよう、遠野くん。今日は早いのね」
 「早く起きたものだから」
 「学校、さぼらないできちんと来るんだよ」ふみつきは拓海にそういうと今度はむつきに向かっていった。
 「私は用事がありますので失礼します。先生は遠野くんがサボらないよう、ちゃんと見ていってくださいね」
 「はいわかりました」
 むつきが優しい顔で答えたのを確認すると、ふみつきは立ち去っていった。
 その姿が完全に消えたのを確認してから、拓海はため息をついた。
 「オレってよっぽど信用がないんだな」
 「うーん・・・・・」
 それを聞いたむつきは真面目な顔をして考え込んだ。ここは素直に「そうだよ」といえばいいのに、むつきはそうとはいえなかった。そこがむつきのいいところなのであるが。
 「私は拓海くんを信用してますよ」
 「どのあたりで?」
 「・・・・・・うーん」
 むつきはすぐには答えられなかった。
 「まあ、いいや」
 拓海は破顔して答えられなかったことを許すと学校に向かって歩き始めた。

 こうして、一日が始まる。

 とは言っても授業を聞いているだけの退屈な日々。
 黒板に書かれている内容をノートに書きとめ、先生のいうことを聞いている。
 しかし、どちらかといえば講義の内容は右から左へと抜けていくし、寝ていることも多い。

 そして、昼休み。

 英語の担任が去っていくとその後を追うように男子生徒たちが外へと駆け出していった。昼休みともなれば学生食堂が戦場となる。この戦い勝つコツはただ一つ、それは早く行くこと。だから、学食頼りの生徒たちにとってはそれが重要な問題となる。
 しかし、弁当派の拓海にとっては何処吹く風だった。
 さて、と。
 拓海は何処で食べようか思案した。
 
 学食に向かっていたのは全体の6割ほど。4割のうちの2割はお弁当を広げながら仲間内の会話に興じていた。ご飯を食べながらの会話はとっても楽しそうであったが、ふと拓海と目が会うと、狂犬病にかかった野良犬を見たかのように目をそらした。
 
 そういう反応をされるのは拓海にとっては初めてではない。

 こよみ学園に転入してから一ヶ月も立つが、クラスのみんなと打ち解けられずにいた。まるでペスト菌のような扱いでクラスの人々は拓海のことを敬遠していた。通常なら迫害が起こりそうな雰囲気であるが、「大阪たちが拓海によって病院送りされた」という噂が立ってからは後難を恐れて何もすることができず(実際、うかつに迫害をかけようなら、この教室に天然痘菌を振りまかれていただろう)結局のところは無視という立場に落ち着いていた。また、拓海としてもその方が気分が楽だった。

 誰とも接触したくない。
 だから、こいつの存在がとってもうっとおしかった。

 「ねえ、遠野くん。私と一緒にご飯食べない?」
 メガネをかけたロングヘアの女の子がそう言ってきた。
 いわずとしれた七転ふみつきだった。
 
 ふみつきだけは他のクラスメートが病原菌のように恐れる拓海と、普通に接していた。
 「食べない」
 あっさりと断れてふみつきはむくれたものの、それでもにっこりと不機嫌さを押し殺すための笑顔を浮かべた。
 「それじゃ」
 拓海はその場から立ち去ろうとした。
 「待って!」
 するとふみつきが呼び止める。無視していいのだけれど拓海は振り返った。
 「なんだよ?」
 「・・・・やっぱり私もついてきます」
 「なんで?」
 「遠野くんが何をしでかすかわからないから」
 確かにこいつを野放しにしておくのは危険だった。
 放射性廃棄物を放置しているのにかなり近い。
 「ひどいなあ・・・・まるでオレが爆発物みたいじゃんか」
 「そうとまではいかないけれど、私は不安なのよ」
 「なにが不安なのかな?」
 拓海はニヤニヤした笑みを浮かべて、ふみつきを問い詰める。
 「えーと」
 ふみつきは詰まりながらも、なんとか口を開いた。
 「遠野くんって、足が地についていなくて、目を離した隙にどこかに飛んでいっちゃいそうな気がするから不安なのよ」
 「ほう」
 拓海の見る目が一瞬だけ、変化した。
 しかし、それだけで口元に笑みを浮かべる。
 「オレとしては、その方がいいと思うんだけど」
 「なにを言ってるの・・・・」
 自分自身のことなのに他人事のようにいう拓海に、ふみつきは腹が立ったようだった。
 「そんなことを言うのは七転だけだよ」
 拓海は教室の周りを見回したながら言った。
 「他のみんななんか、こんな病原菌みたいなオレなんか一刻も早く消えてほしい。お願いだからさっさと立ち去っていってくれ。と思っているんじゃないの。ねっ」
 「ねっ」っていったとたん、発泡スチロールを燃やしたようなものが教室の中を流れていった。
 拓海は笑っていた。
 しかし、その笑みにふみつきのみならず、このクラスにいた人たちは寒気を覚えていた。
 首筋にナイフを突きつけられたような寒気を。
 「消えてほしいというのも当然でしょ」
 その空気を破ったのは、若い女性の声だった。
 「あ、三千院先生」
 クラスの中に入ってきたのは白衣を身にまとった、腰辺りまで伸ばした髪が綺麗な20代の女性だった。
 「クラスメートを脅すような奴なんて、消えてほしいと思うのは当然でしょ」
 「まあ、そりゃそうだ」
 自分のことなのに、拓海にとってはあくまでも他人事だった。
 「七転さんの言うように、遠野くんは目を離すと危険だから私が見ていることにします」
 「はい」
 「こんな奴のために自分の時間を費やす必要なんてないんだから」
 「・・・・・そうですか」
 敬遠しているのは生徒のみならず先生も同様で、一ヶ月にして早くも厄介物として扱われていた。本音としては一刻も早く退学してほしいところであるのだけど、そうすると何をしでかすのかわからないので、放置されている。しかし、幸いなことにこの女性こと三千院やよいがにらみを効かすことができるようなので、拓海の扱いはもっぱらやよいに任されていた。
 「ひどいなぁ、こんな奴だなんて」
 「当然でしょ」
 拓海はそうはいうものの顔は笑っていた。やよいもこれはこれで拓海とちゃんとコミュニーケションが取れているようだった。
 「それでは、遠野くん。いくわよ」
 「ちぇっ、しょうがないな。貸しにしておく」
 「なにが貸しよ」
 そんなやりとりをしながら、やよいと拓海は教室から出て行った。

 拓海が教室から出て行くと、教室から重苦しい空気が抜けたようで、みんなは一様に安堵した。
 しかし、ふみつきだけはため息をついた。

 「ひどいなあ、やよい先生」
 保健室へと連行される途中で拓海は言った。
 「いいんちょもそうだけれど、オレって危険人物かい」
 「違ったの?」
 普通ならここで絶句するはずなのだが、拓海は平然と続けた。
 「そうかもな」
 認めるな。
 「・・・・あのねえ。自分から認めないでちょうだい」
 拓海の発言に、やよいは苦笑いを浮かべ、それからため息をついた。
 「とりあえず、ここに来てから一ヶ月も立つけど、感想はどう?」
 「うざったい」
 拓海の返答はあっさりとしていた。
 「他の連中は無視してくれるからいいけど、いいんちょうとかかがね」
 「・・・・あんたねえ」
 この場合は委員長だけではなく、やよいやむつき、うづきという人間が入るのはいうまでもなかった。彼らが拓海のことを心配しているのに、そういう言い方をされるとやよいとしてもむかつかないでもない。
 しかし、どう思うかどうかは拓海自身の問題だろう。
 自分が好きだからといって、その気持ちを押し付けることは間違っている。

 「正直いってわかんないだよなー・・・・・」
 拓海はふと呟くと、窓の外を見つめた。
 そこには学園の緑に覆われた敷地と空が映っている。
 空は青かった。
 
 風が流れていた。

 「わかんないんだよな」
 気にいらないんだったら壊してしまえばそれでいい。
 確かに、昔とは違って色々な人間関係はあるけれど、
 その気になれば平然断ち切れる。

 だから、拓海はわからない。
 好きでも嫌いでもないのに、
 何故、ここにいるのだろうか。

 乾いた空気が流れる世界の中で。

 拓海は立ち止まりはしたものの、再び歩き出した。
 「あ、そうそう」
 そこへやよいが話し掛けてくる。
 「うづき、怒ってたわよ」
 「・・・・へぇ〜」
 どんな言葉でさえも拓海に感銘を与えることなんてないようだった。
 「うづき、拓海くんと一緒に学校に行きたがっていたわよ」
 「寝顔があんまりにも可愛かったから、あんまり起こす気にもなれなかったんだ」
 それを聞くとやよいはため息をついた。そう思っていたことはバレバレであったけれど、突っ込むと、「じゃあ、うづきは可愛くないのか?」と返されそうなので、やよいは何も突っ込まなかった。
 
 やがて、保健室にたどり着くと、拓海は無造作に引き戸を開けた。
 その途端、入り口辺りで待機していたとおぼしき人間がミサイルのように、拓海めがけて飛びかかってきた。
 「あっ、拓海く・・・・・」
 拓海はその人間がドア枠にあたるスレスレのところで引き戸を引いた。
 引き戸は閉まる。
 ほれぼれするぐらいに絶妙なタイミングだった。
 その直後、ドアから物体がぶつかるような音と特有の振動が走って、更に泣き声が響いていった。
 「ふぇぇぇ〜ん、いたいよ、いたいよぉ・・・あたまがずきずきするのぉ〜、われちゃってるよぉ〜、死んじゃうよぉ〜」
 「拓海くん。あんたねぇ・・・・」
 流石にこればかっりはやよいも頭を痛そうに抑えていた。
 拓海はにこりともせずにいった。
 「大阪的ギャグ」
 「何処が大阪的ギャグなのよ」

 「んとにもぉ・・・・拓海くんったら、ひどいよぉ・・・・・」
 額にでっかいバンソウコウをつけたうづきが、ベットの上から泣きそうな目で「じぃぃぃぃぃ」っとにらみ付けていた。
 「うづき、んとにんとに痛かったんだからね」
 そうやってすねている様子はどう見ても先生には見えなかった。
 どう見てもガキである。
 「それにうづき、拓海くんと一緒に学校に行きたかったのに、拓海くんだけ一人で学校にいっちゃってぇ・・・・・・おかげで、寝坊しちゃったんだからね」
 「それは寝坊するのが悪いんだろう」
 「ぶぅ・・っ」
 そっけなく返されて、うづきはますますふくれた。
 「こーら、拓海くん」
 その様子を見ていたやよいが渋い顔をしてたしなめた。
 「うづきに対してそんな態度はないでしょ。少なくてもうづきを起こす責任が拓海くんには会ったんだから」
 「オレはうづきを起こすのが可哀想だったから」
 「そういうのは嘘だと・・・・」
 「それ、ほんとなの!?」
 やよいの言葉を、うづきの大声が打ち消した。
 「そっか。うづきのことをそういう風に思っていてくれたんだ」
 どう考えても言い訳にしか聞こえない拓海の言葉をうづきは本当のことだと受け取ったようだった。こればかりはやよいも何もいえない。あまりのアホさ加減にぶん殴りたくなるがそれも出来ず、振り上げた腕はそのままの態勢で固まっていた。
 「そういうのなら、許してあげよっかな」
 「朝飯はうまかっただろ」
 拓海が無表情で口を開くと、うづきは喜びを爆発させた。
 「うんっっっっ!! 拓海くんの作った卵焼き、とってもおいしかったよーーーっ!!!」
 さっきの不機嫌さは何処へやら、たったそれだけのことでうづきは笑顔へと変わっていた。おもいっきり単純である。しかし、精神年齢が20ほど下がっていそうなノリは相変わらずだ。
 「弁当もいちおう作っておいたから」
 「へへっ、楽しみ楽しみっ♪」
 「メインディッシュは犬肉のステーキに、ゴキブリの佃煮」
 「ふぇぇぇぇぇ〜ん。それだけはやめてよぉ」
 「冗談」
 「・・・・もう、拓海くんったら大人をからってばかりなんだからあ」
 「何処にやよい以外の大人がいるんだ?」
 「ここに」
 「・・・・そこにいるのは小学生じゃなかったのか」
 「もぉぉぉぉぉっ、ひっどーい!! 拓海くんってば」
 拓海の言うように今のうづきはどう見ても二十歳過ぎの大人には見えなかった。
 しかし、うづきはさっきまでの不機嫌が嘘のようにハイになっている。それはそれで落ち着いてよかったのだけれど、見ているやよいは複雑な顔をした。
 「せんせい、どうしたの?」
 そこを拓海に突っ込まれると、やよいは苦笑いを浮かべた。
 「あんたたちってほんと仲がいいわね」
 「まあね。うづきと付き合うのって大変だとは思うけど」
 ・・・・・それを言うなら、拓海と付き合うのだって大変だろう。
 とにかく、やよいは自分のことを棚に上げている拓海の言い草にあきれるしかなかった。
 「それじゃ、飯でも食べるか」
 そういう拓海は平然とナップザックからプラスチックの弁当箱を取り出した。
 「食べよ食べよっ♪」
 こうして、昼の昼食会は始まった。

 
 
 やがて、チャイムが鳴り、先生が去って拓海の今日の授業は終わる。
 チャイムが鳴ると気が早い生徒はさっそく外へ飛び出し、そのほかのものは談笑を始めていた。
 拓海は立ち上がりはしたものの、それからどうしようか迷っていた。

 「拓海くん。今日は一緒に帰るんだよ」
 昼食会の途中、うづきがそんなことを言っていた。
 「理由は?」
 「だって、うづきは拓海と一緒に帰りたいのっっ それに・・・・」
 「それに?」
 「ううん、なんでもない」

 無視して帰るのはいつものことだけれども、最後の沈黙が妙に気になった。
 「遠野くんはどうするの?」
 そこへふみつきが話し掛けてきた。
 「ふみつきはこれからどうするんだ?」
 「私はこれから音楽室にいくの」
 「そっか。オレはその辺りを適当にのんびりしている」
 結局のところはそういう結論になる。別に普段どおりにすればよかった。

 拓海はいつも通り、早々に校門を出たものの道行きの途中にある公園に立ち寄ると、ベンチに腰を下ろした。砂場とブランコが置いてある広い空間には今は拓海しかいない。
 拓海はこれから先のことを考えた。
 
 とりあえず、彼が今、考えていることはバイトをどうしようかということだった。
 うつぎの厄介になっているけれど、拓海としてはうづきに頼らず生活してみたいと思っていた。そのためにはアルバイトが不可欠だった。
 しかし、殴られ屋のアルバイトはやろうという気は今は起きないし、やくざをカツアゲするのは今は危険すぎた。
 となると通常のアルバイトしかないのであるが、その仕事をちゃんとやれるかどうかが問題だった。
 流石に拓海も協調性の無さは自覚している。
 それ以前に雇ってくれるかかくれるかが問題か。
 拓海は大きく伸びをすると、ベンチから立ち上がった。
 ネクタイを外すと、膝を屈伸させた。
 身体を上下に動かしたあと、股をゆっくりと広げる。
 股が地面についた。
 とりあえず、バイトはやらない以上は肉体の鍛錬をするしかない。
 鍛錬をしないと身体はさびついていく。
 戦闘機械としてしか機能していない拓海にとって、それは重要な問題だった。

 柔軟体操にじっくりと時間をかけて、身体の関節がじんわりと温まってきたところで拓海は鍛錬を開始した。
 「・・・!」
 無言で気合をかけながら前へと踏み込み正拳突きを繰り出す。
 それを何十回も、何百回も、何千回も繰り返す。
 左足が大地を踏みしめると、同時に右の正拳が空間を矢のように貫いていく。
 繰り返すたびに汗が滝のように流れ、一発ごとにごとに凄愴さが増していく。
 不意にやめると、いったん空気を吸って落ち着かせる。
 と、突然、視線が鋭くなった。

 足跡が複数、聞こえる。
 よくない気配を感じた。

 「そこのにーちゃん、勉強熱心だね」
 そこに現れた数人の不良たちだった。
 手に手に金属バットや鉄パイプを持って、下卑た目で拓海を見ていた。
 「あんたらはいったい?」
 奴らの態度から、彼らがどういう行動に出るのか読めていた。
 「大阪たちを殺ったのはおまえか」
 「まだ、死んでないだろ」
 彼らは一ヶ月前に拓海にぼこぼこにされて今もなお入院中である。
 「とりあえず、大阪をやったてめぇの腕を見てみたいと思ったんだけど」
 そういって、代表のひとりが金属バットをかざした。それを合図に仲間たちも拓海を逃さないように取り囲む。
 「こんなカマ野郎にやられるんなんて、大阪もたいしたことがなかったんだな」
 「そうだね」
 拓海はクスリと笑った。
 「でも、あんたらもやられるんだよ。こんなカマ野郎にね」

 なんだかんだ、といって帰るのが遅くなった。

 夜もふけたころ、拓海はようやくマンションのエントランスを抜けて階段を上がっていた。火照った身体に生暖かい風が流れていく。
 「ただいま・・・・」
 鍵穴に鍵を差し込んでまわすと、重たい扉を開いて、中に入った。
 「にいや・・・」
 はい?

 玄関に一人の少女が待っていた。
 いや、少女と呼べるのだろうか?
 少女にしてはちょっと身長が高すぎるような気がしたけれど、水色の長い髪を首の後ろでいくつものお団子にまとめたその顔はあまりにも幼かった。

 こいつだれ?

 目の前に少女がいる。
 青と白のブルボン王朝時代の派手派手で、中にバズーカーを隠せそうな巨大なスカートを持つドレスを着て、頭に白いフリルのボンネットをつけたお姫様のような少女。
 
 その子はじっと、拓海のことを見詰めている。
 「・・にいやぁ」
 吐息がエッチをしているようにほんのりと甘く、熱くなってきている。
 顔がほんのりと紅く染まり、目がうるんできた。
 「にいや・・・・・・・あいたかったの・・・」
 そういうと、少女はとてとてと歩いて、拓海と接近するとそこから飛びついてきた。これがうづきだったら平然と無視するところなのだが、拓海は素直に抱きとめる。
 「あいたかったの・・・あいたかったのぉ・・・・・」
 その少女は抱きとめられると、そのまま拓海を抱きしめて泣きじゃくった。その意外なほどの力の強さと、
 「ふぇぇぇぇ〜ん、たくみちゃん。あいたかったよーーーーっ!!」
 その声で拓海は誰だかわかった。
 
 「おまえはさつきか?」
 「うん」
 さつきは無邪気に返事をする。
 「そーだよ、さつきだよ。えへへ、かわいいでしょー」
 「派手な格好してるなあ」
 拓海はさつきの身体を引き剥がすと、マジマジと見つめた。
 白とブルーを基調とした派手なドレス姿のさつき。
 「あのね、うづきおねーちゃんがこれをきろなんていったからきてるの」
 「そうそう」
 そういって奥からに現れたのはうづきだった。いつもはツインテールにしている髪をおさげにしていて、髪の一房を束ねた部分にまきつけてお団子風にしている。ボディラインを強調した服を着ているが、元がつるぺたに近いだけにあんまり色気はなかった。
 「でもね、さつきちゃん。その姿の時は拓海くんのことは「にいや」っていうんだよ」
 「えっ、なんでー?」
 うづきがそういうと、さつきは不思議そうにうづきを見つめた。
 「だって、さつきちゃんはコスプレしているんだよ」
 そういう子供にコスプレさせるな。
 「じゃあ、うづきもコスプレしているのか?」
 「うん。そーだよっ!! お兄様」
 それを聞くと拓海は露骨に顔をしかめた。
 「ぜんぜん似合ってない」
 ちなみに、拓海はこの後にこのコスプレの元、シスタープリンセスのことを知らされて絶句することになる。

 「おかえりなさい、拓海くん」
 「おかえり」
 ようやく居間までやってくると、そこではやよいとむつきの二人が待っていた。
 「あれ? むつきもコスプレの犠牲にされたわけ?」
 むつきはめがねをかけておらず、その代わりに両サイドにかかる髪を三つ編みにしたスタイルにしていた。プライベートではコンタクトしているのをメガネにかえて三つ編みにまとめていると拓海は本人から聞いたことがある。むつきはそれを聞かれると曖昧な笑顔を浮かべた。
 「うづきったら、相変わらずなんだから」
 やよいがそういって苦笑する。やよいは普段どおりの格好で、どうやらコスプレの強制から逃れたようだった。
 「それにしても随分と遅かったじゃない、どうしてたの?」
 「ノーコメント」その問いにはそれで答えて、別なことを聞いた。
 「昼間に言ってた、早く帰ってこい、とはそういうことだったのか」
 「そういうこと。うづきったら言わなかったら驚くだろうと言ったから、あえて言わなかったのよ」
 「あいつは子供なんだから」
 そういう拓海よりも大人なのであるが。
 拓海としては、さつきの退院というのは予期できぬ出来事であったけれど、驚きというよりは不思議さの方が大きかった。
 「やよいセンセ、さつきは確か3ヶ月は入院とかって言ってなかったっけ」
 医者の診断ではそういう判断だった。あれからはまだ一ヵ月程度しか立っていない。
 「ああ、そのことね」
 やよいはおもむろにため息をついた。
 「先生が言うには脳内出血を起こしたわりには、身体機能に問題ないというの。退院を早めても問題はないだろうって」
 その代わりにさつきは情緒面を司る部分をやられて子供に返ってしまった。運動機能に障害を残すのとどっちがよかったんだろう。もっとも面倒を見る者に多大な負担をかけることは代わりはないのだが。
 「いいかげんな先生だな」
 「一番の原因は・・・・」
 やよいは拓海がよくやるように、口元をにやっとゆがめた。
 「夜中、拓海くんがいないと「たくみちゃんどこ、たくみちゃんどこなのーーー」といって泣きじゃくって、他の入院している患者さんから苦情がいっぱい来たから退院させたのよ」
 その時のやよいは、あまり人がいいとはいえなかった。
 流石にこの時ばかりは拓海も無表情でいられなかった。
 「・・・ったく、さつきったら、一人で寝れないのかよ」
 「さつきちゃんってば、甘えんぼさんになっちゃったんですから」
 むつきがくすりと笑っていた。
 「さつきちゃん、病院のベットにひとりぼっちでいって寂しかったんですよ」
 「だからといって・・・・」
 「そんな風に慕われることってとっても素敵なことですよ、お兄ちゃん」
 「お兄ちゃん・・・・・」
 拓海はそこで言葉に困ってしまった。

 だから、たとえさつきが自分のせいで子供になってしまったとはいっても、
 責任をとることなんてなかった。
 係わり合いを持つことなんてなかった。
 なのに・・・

 「もう、たくみちゃんってば」
 気がつくと、目の前にさつきが立っていた。
 「たくみちゃんは、さつきがかえってきてうれしくないの?」
 「そんなことはないよ」
 これがうづきだったら、平然とうれしくないと答えただろう。
 でも、拓海はさつきの頭を撫でていた。
 わからない。
 どうして、こんなことをいうのを感じるのか、拓海自身でも理解ができなかった。
 「えへへ、ありがと。拓海ちゃん。さつきはねえ、さつきはねえ・・・・たくみちゃんとはやく一緒になりたかったんだ」
 頭を撫でられて、さつきは目を細めて嬉しそうに笑った。そんなさつきを見ていると、拓海としても照れくさくなってくる。
 不思議な感覚だった。
 「かつらぐらいつけろ」
 拓海がそういうと、さつきはうるみがちな目で拓海を見つめた。
 「あたま、あついんだもん」
 もともとショートヘアだったから、水色のお団子を作った髪がかつらだったというのはいうまでもなかった。しかも、開頭手術をした時に髪を剃っているので、それから一ヵ月立った今では少し髪が伸びた坊主頭という感じだった。だから、
 「その頭だと服装に合ってないっていうの。男が着ているみたいだ」
 坊主頭でドレスというのは似合っていないけれど、余計だった。
 「もう、たくみちゃんのバカバカバカバカぁ」
 そういって、さつきは拓海のことをぽかぽかと叩き始めた。拓海はそれをにこりともせず受け止めている。それを見て、うづきがため息をついた。
 「さつきちゃんってばいいなあ。拓海くんに優しくしてもらえて」
 「えへへ、いいでしょ」
 さつきは得意そうにうなずいた。
 「もう、拓海くんもうづきにも優しくしてくれたらいいのにぃ」
 その時のうづきはまるっきり子供だった。
 「うづきはうづきだから」
 「なによそれー、ぜんぜん答えになってなんかなーい」
 うづきはつれない拓海の態度にむくれる。
 「じゃあ、そろそろ始めませんか」
 そこへむつきが呼びかけてきた。テーブルの上には中央に大きいショートケーキが乗っており、キッチンの方からむつきがステーキをテーブルのほうに運び出していた。肉の焼けている匂いが拓海の胃袋を刺激する。
 「拓海くんも手伝いなさいよね」
 「しょうがないな」
 キッチンから料理を運んでいるやよいに言われると、拓海は腰を上げた。
 「じゃあ、さつきも手伝う手伝う」

 「それではさつきちゃんの退院を祝して」
 準備が全て整って、うづきが音頭を取った。
 「かんぱーいっ!!」
 大声が鳴り響き、グラスとグラスが触れ合う音が軽やかに響き渡たる。拓海も申し訳程度に「乾杯」というと、泡が立っている金色の液体に口をつけた。
 「アルコール、入ってないな」
 「当然でしょ」
 やよいが答えた。理由はいわずもがなである。それについては拓海も聞かなかった。
 「えーーーっ、うづきのも入ってないよう」
 「うづきもお子様だからな」
 拓海がそう突っ込むと、うづきはむくれた。
 「う゛ーーー、拓海くんのいぢわる、いぢめっ子ぉ」
 「私たちもアルコールじゃないですよ」
 そこへ苦笑しながらむつきがフォローを入れた。
 「明日も仕事がありますから、そうは飲んでいられませんよ」
 「そういうこと。明日も授業があるからね」
 「なるほど」
 ゆっくりとステーキを切りながら、拓海は隣に座っているさつきを見た。
 「・・うんしょ、うんしょ・・・・・・」
 さつきはステーキ肉を切り分けようとしているのだけれど、うまくいかずに苦労していた。肉を切るのは少しのコツがいる。拓海は切ってやろうと思ったが、
 「あっ」
 力任せに切りつけたナイフはステーキ肉を切ることはかなわず、逆にステーキ肉はお皿の外へ、ゆっくりとテーブルの外へと落ちていった。
 気まずい沈黙が走る。
 「ふぇぇぇぇぇぇぇ〜ん」
 肉が丸ごと落ちてしまったのを見て、さつきはおもいっきり泣いてしまった。
 「さつきちゃん、ごめんなさい」
 「ふぇぇぇぇ〜ん」
 むつきが慌ててハンカチでさつきの顔を拭うものの、さつきは相変わらず泣きじゃくっていた。この世の終わりが来たというぐらいに泣いていた。
 「さつきちゃん、泣かないで」
 「だって・・・・・」
 「泣くなよ、さつき」
 拓海の重たい声に、さつきは振り向いた。
 「だってぇ・・・・」
 さつきの目に再び涙が滲む。
 しかし、拓海はそれには反応せず、自分の分のステーキを半分に切り分け、更にそのうちの半分を細かく切り分けると、それらの肉片をさつきの更に移した。
 「こういうことでいいか」
 「たくみちゃん・・・」
 さつきの目から涙が流れ出すが、さっきのとは違っていた。
 「たくみちゃん、ありがとーーーーっ!!」
 「・・・・だからといって抱きつくな」
 さつきは嬉し涙を流しながら拓海に抱きついてきた。拓海はクールに反応するがあっさりと無視されてしまう。
 ゜「もうっ、さつきちゃんばかりでずるーい」
 さつきにばかり優しくする拓海に腹を立てたのだろうか、うづきもさつきに負け時とばかりに拓海に抱きついていた。こうなると拓海には勝ち目はない。二人の少女に抱きしめられたまま、なすがままにされるしかなかった。

  

 昼間は暑かったけれど、夜の風はとても優しかった。
 「むつき、どうしたの?」
 楽しかった時間も終わり、むつきとやよいは帰路についていた。途中までは同じで、二人は一緒に歩いている。二人とも無言であったが、やがてやよいが口を開いた。
 驚いたようにむつきはやよいを見る。
 「どうしたの、といいますと・・・・・」
 「むつきが宴会の最中に寂しい顔をしていたから」
 沈黙。
 宴会は楽しかった。
 拓海はどう思っていたかは知らないけれど、うづきとさつきは無邪気に楽しんでいた。
 ステーキのお返しの代わりばかりに、自分の分のケーキを食べさせたり、じゃれあっていたり。
 でも、やよいは時折、むつきが切なそうな瞳でさつきのをことを見ていたことに気づいていた。
 やがて、むつきは口を開く。
 「宴会、さつきだったらもっと騒いでいただろうな、と思いまして」
 さつき、
 その単語に懐かしそうな響きを篭っていた。
 「・・・そうね」
 少し遅れてからやよいは嘆息した。
 もう、戻ることのない過去を思い起こして

 ああいった宴会の場合、うづきに増して盛り上がるのはさつきだった。
 とっておきの一升瓶を持ち出してはそれをラッパ飲みなんかしたりして、それで景気よく酔っ払うと他人に一気飲みを強要したり、際限なく笑ったり、それははた迷惑だけど楽しい酔っ払いだった。
 でも、そのさつきはもういない。

 目覚めたさつきはもう、昔のさつきじゃなかった。
 彼女は奇跡的に一命はとりとめたものの、その代償として精神が子供のものとなってしまい、今までの記憶を失ってしまった。
 むつきややよい達のことなんて覚えてなんていなかった。

 そこにいるのは自分達の知っているさつきではない。
 そのことを思い知らされるとさつきとやよいは悲しい思いをした。泣きそうになるけれど泣くことなんてできなかった。自分たちの知っているさつきはいないけれど、五箇条さつきという人間ならそこにいるから。
 あれから一ヶ月も過ぎて、そのことには慣れつつあるけれど、やっぱり時にはせつなく思うこともある。

 「昔のことばかり見てもしかたがないわよ」
 やよいのその言葉は諦念よりも、前向きに生きていこうという意思が存在していた。
 「悪いことばかりじゃないんだから」
 「そうですか?」
 やよいの言葉に疑問を感じたむつきであったが、目を閉じて考えるとその疑問は氷解した。
 「そうですね。拓海くん、あれから明るくなったような気がしますから」
 「明るくなったというよりもさつきの玩具にされているという感じなんだけれど」
 「そうですね」
 むつきの声も思わず弾んだ。

 むつき達の知っているさつきはいないけれど
 その代わりに拓海に新しい妹が出来た。

 悲惨なことではあったけれど
 無邪気に甘えてくるさつきの存在が拓海にいい影響を与えているようだった。

 拓海としたら初めて会うタイプであり、どう付き合ったらいいのか戸惑ってしまっている。
 その戸惑っている拓海の姿は微笑ましくもあり、笑いのネタでもあり
 そして誰にも望まれず、愛されることもなかった拓海の前歴を知っているだけに2人は胸がつまされた。

 「このままずっと生きていけたらいいんですけどね」
 「そうね」
 結局のところむつきはさつきやうづき、やよいに拓海がいる生活を望んでいた。
 それはやよいも同じであり、何事もなく生きていけたらいいと思っていた。

 でも、やよいはそれが難しいと知っている。
 そして、その困難さはむつきにも思い知らされることところとなる。

 「・・・・・・・・・・」
 マンションのゴミステ場。コンクリートブロックで仕切られた何の変哲もない場所に何の変哲もあるものが存在していた。それを見て、むつきは言葉を失った。
 やよいはそれを凝視するとこみ上げてきた苛立ちを吐き捨てた。
 「・・・・・・拓海くんの仕業よね。これ」

 ゴミ捨て場はオブジェによって1mmの隙間もなく埋め尽くされていた。
 夜なので判別がつきにくかったけれど時折、小さなうめき声をもらすそれは人間だった。
 ヤンキー風の人間が手足を強引に折りたたまれて長方形の形に加工されている。折りたたんだその人間達を寄木細工風に組み合わせてゴミ捨て場を埋めていた。
 首を折り曲げずにジグゾーパズル風につなぎ合わせているが、その首を受ける部分が折り曲げられている。もちろん手足も、オブジェクトを形成させるために強引に折り曲げられていた。
 息もあるが、幸いというよりは生き地獄を味合わせるためだろう。
 
 死なない程度に骨を折り、苦しみを味合わせる嗜虐性と
 被害者を生きながらオブジェクトに加工してそれを飾りつける歪んだ遊び心
 そして、思ったことを表現できる実行力を兼ね揃えている奴をやよいは一人しか知らなかった。

 「もう・・・・・あの子は」

 これまで楽観的に生きていたけれど
 越えていくハードルの多さを思い知らされてやよいはため息をついた。

 「やよい先生。どうします?」
 「しかたがないでしょ。無視するわけにもいかないし」

 
 拓海は宴会で出たゴミをようやく分別し終えると居間に座りこけた。
 「てめぇら・・・・・・・・・」
 耳を澄まさなくても規則正しい寝息が響いていた。
 
 うづきとさつきの2人が折り重なるようにして寝入ってしまっている。

 たくみはケーキの残り滓がべったりとついたナイフを取り上げると2人に向かって振り上げてみた。
 一度振り下ろしたが最後。2人はチーズケーキみたいにバラバラに切り分けられてしまうだろう。それはとっても新鮮で美しい肉隗になるはずだった。
 想像してみると拓海の口からため息が漏れた。

 その顔には笑みが浮かんでいる。

 しかし、拓海は無表情になると無造作にナイフを放り捨てた。
 ナイフは楕円形の軌道を描いて、後ろにあるナマゴミの入った袋に突き刺さる。
 
 「たくみくん」
 うづきの寝言が漏れた。
 「だいすき・・・・・」
 「だいすきだぉ」

 コーラスでもするかのようにさつきの甘い寝言が重なった。
 
 2人ともとっても幸せそうに眠っている。
 この姿を絵に描くとしたら題は「天使達の寝顔」とでもなるのだろうか。
 いい歳した大人であるにも関わらず
 世俗にまみれて汚れていない天使のような清純さで眠りについていた。

 ほんとうはドロドロに汚れまくっているのにも関わらず。

 「・・・・・・・くそっ」
 気がつくと拓海は2人に毛布をかけていた。
 その手は毛布の切れ端を硬く握り締めている。
 握り締める手に血管が浮き上がる。
 拓海は憤怒の表情を浮かべていた。

 いつまでも


 それから数日が過ぎた。

 ベーコンが充分に炒められたことを確認すると、拓海はフライパンに卵を落とした。
 白い皮膜がフライパンに一杯に広がり音が立つ。
 鍋の蓋でフライパンを覆い、数分後にコンロの火を落とすとベーコンエッグの中身をフライパンから皿に移した。
 それからベーコンエッグをつくるべくフライパンに油をたらす。
 「おにいちゃんっ♪」
 そこへさつきが後ろから体当たり、もとい抱き付いてきた。
 「さつき・・・・・・邪魔」
 衝撃で揺れながらも冷静に文句をいう拓海であったが状況を見てないとしかいいようがなかった。
 「たくみちゃんのばかぁっ♪」
 ふんわりとした甘い声とは裏腹に強烈な力で締め付けにかかった。
 心は小さい子だけれど力は大人そのものだから相当なパワーがある。
 「さつき。今、御飯を作ってるんだ。いい子なら邪魔しないだろ?」
 「さつき、いいこ?」
 「ああ、いい子だ」
 拓海がそういうとさつきはニパって笑った。
 「さつき、いいこだからはなれる」
 そうやってさつきはようやく離れた。いい子といわれたのかよほど嬉しかったのか、さつきはうれしそうだった。
 「いい子だったら頼みがある」
 「なに?」
 「うづきはどうしてる?」
 「まだねてる」
 「だったら起こしてきてくれ」
 「ラジャー♪」
 「どんな手段を使っても構わない」
 「ラジャー♪」
 拓海からの命令を受けるとさつきはスキップしながらうづきの部屋へと走っていった。
 抱きつきを喰らっても平然としていた拓海であったが、遅れて痛みがやってきたかのように顔をしかめてはキッチンに身体をもたれた。
 苦しそうな拓海ではあったけれど、うづきの部屋から悲鳴が聞こえてくると満足そうな笑みをもらした。
 ん?
 悲鳴に混じって雨音が聞こえてきた。ここからでは外は見えないものの、どうやらかなりの雨が降っているようだった。

 「ひどいよぉ 拓海くん」
 ベーコンエッグに味噌汁という朝食の席上、まだ眠気が残っているうづきが文句を言った。
 「痛かったんだからね」
 さつきの起こし方が相当に過激なものであったらしい。痛そうな顔で紅くなっている肘をさすった。
 「寝坊しているのが悪い」
 「寝坊したっていいじゃない。せっかくの休みなんだから」
 祝日があって土曜日曜と連休になっている。学校の仕事はお休みだ。
 「ゲームの仕事はどうなってる?」
 その事を出されるとうづきの顔が一気に凍りついた。
 「・・・・・そ、そりは・・・・・・・」
 さつきは学校の教師だけではなくイラストレーターとしての仕事を行っている。
 あるゲームの原画を担当しているのだけれど、そっちのほうの仕事があんまり思わしくなかった。
 「これから頑張るということで」
 汗をおもいっきりかきまくっていた。
 「だったら寝てられないんじゃないのか」
 「あう・・・・・・たくみくんのいぢわるぅ」
 完全に2人はいじめっこ&いぢめられるっこモードに入っていた。
 「さて、食べようぜ」
 そういいながら拓海は朝食を食べ始めた。
 「うう・・・・・」

 ベーコンエッグの焼き加減はまずまずといったところで満足できる味に仕上がっていた。
 「ねえねえ」
 そうやって御飯を食べているとうづきが子供のように話し掛けてきた。
 「日曜日に女子バスケ部が試合するんだって」
 「だから仕事はどうなんだ」
 先回りして答えるとうづきは一気に沈没する。
 「はぅぅぅ〜 だから仕事も頑張るって」
 「どうだか」
 早くも現実逃避モードに入り始めたうづきを拓海は生暖かい目で見ていた。
 こんなことを言い出すということは詰まっているし投げかけているということだ。
 今日と明日、必死になって頑張ったところでとてもじゃないが終わらないだろうということは見て取れた。
 「ねえねえ、さつき。しあいみたい」
 さつきがそういうと複雑な表情を浮かべた。
 
 さつきを連れていきたいのはやまやまだった。
 しかし、さつきの存在が秘密になってしまった今、こよみ学園に連れて行くのは危険だった。

 重苦しい雰囲気になる。
 そんな時、インターホンの音が気楽に鳴り響いた。

 「うづきが出るね」
 うづきが立ち上がると、インターホンで確認することもなく無造作にドアを開けた。
 「あっ」
 ドアを開けるとそこにいたのはMIBとおぼしき黒服の男2人組だった。
 「ステークの者です」
 「あ、はい」
 うづきは蛇に睨まれたなんたらのようにすっかり硬直していた。
 「佐々木先生、原画は完成していますか?」
 「いや、その・・・・・・まだ完成していませんけれど明日中には」
 うづきはかわいそうなぐらいにおびえていた。
 「その様子だと完成しそうにないですね」
 黒服の男はサングラスに覆われた目で事態を冷静に見透かしていた。
 「佐々木先生の原画が遅いと制作に支障を来たすのですよ。よって、連行させてもらいます」
 冷徹な口調で判決を下すとうづきを2人がかりで羽交い絞めにしてそのまま外と連行していく。
 「拓海く〜ん 助けてよぉ〜」
 ただ、ドナドナの子牛のようにうづきの悲鳴が流れていって、そして消えた。

 あまりの急変ぶりにさつきと拓海はついていけずただ、呆然とするばかりだった。
 「・・・・・うづきおねえちゃん。これからどうなっちゃうの?」
 「さあ・・・・・」
 あまりにも急なことだったので拓海も対応に遅れた。
 「死ぬまで絵を書かされるんじゃないのか」
 ただ、対応できたところで拓海には助けようという気はさらさらなかったのであるが。

 
 師走浅間神社という神社がある。
 深い森の中にある小さな神社であんまり流行っている神社とはいえなかった。
 なおかつ分厚い雲の中から雨が降り注いているため参拝客が来るわけもなく
 その神社の境内、お賽銭箱のあたりで一人の巫女さんが暇そうに佇んでいた。
 腰まで流れる黒髪がとっても美しい正統派な巫女さんである。
 鳥居を潜ってその巫女さんを見ると拓海とさつきは声をかけた。
 「やよいセンセ」
 「やよいおねえちゃん♪」
 声をかけられるとその巫女・・・・・三千院やよいは2人のほうへ振り返る。
 「こんにちわ、拓海くん。弥生ちゃん。うづきはどうしたの?」
 「うづきなら連行された」
 「連行された?」
 「絵の仕事がなかなか進まなくて、ごうをにやした会社の人に連行された。今頃は「たくみく〜ん助けてよぉ」って泣きながら必死こいて絵を描いてんじゃないのかな」
 「楽しそうにいわないの」
 悪魔が笑っているような拓海にやよいは眉を潜めた。
 「でね、たいくつになっちゃってやよいおねえちゃんのところにあそびにきたの」
 「いい子なら大歓迎よ」
 「えへへ」
 やよいに頭を撫でられて、さつきはとっても嬉しそうにした。
 「さつきいいこ、とってもいいこ」
 「じゃあ、オレはどっかに行くとしますか」
 さりげなくこの場から去りかけた拓海であったが、ガシっとその手をつかまれた。
 「駄目」
 「なんでダメなのさ」
 「拓海くんは目を離すとなにしでかすか分からないんだから」
 「ちぇっ」
 おもいっきり疑われて拓海は表向きには気分を悪くする。
 「信用ないんだな」
 「あると思っていたの?」
 「ぜんぜん」
 「・・・・・・・・」
 「たくみちゃんはきょうは、ずっとさつきといっしょにいるんだからね」
 さつきも拓海の手を握り締めては上目遣いで訴える。
 「・・・・・・・・・・」
 今度は拓海が黙ってしまう番だった。
 「やよいセンセに拓海くん、さつきちゃん。こんにちわ」
 そう言いながら、今度はむつきが鳥居を潜り抜けてきた。
 「むつきちゃんおはよー」
 「さつきちゃん。おはようございます」
 さつきが元気よく挨拶して、やよいは礼儀正しく挨拶して返した。
 「むつき先生も暇なんだね」
 「今日はお休みですから」
 「忙しくて大変だっていう人もいるんだけれど・・・・・・・まあ、その誰かさんの場合は自業自得だけど」
 「拓海くん・・・」
 容赦がなくてなおかつ的中している皮肉にむつきはただ笑うしかなかった。その隣ではやよいが苦笑いを浮かべている。
 「それじゃ、お茶にしましょうか。さつきちゃんにはおやつも用意してあげるからね」
 「わーい」
 「この雨だと参拝客が来るわけないしね」
 「・・・・・・こらっ」

 朝から降り始めた雨は昼過ぎになっても降り続いていた。

 雨が降っているのはこよみ町だけではなく埼玉のこの地でも降っていた。
 「中津川先生。頼みがあります」
 河川沿いの田園地帯にある、農家を改造した診療所の診察室で2人の男が椅子に座って対峙していた。黒いベットに腰をかけているのは中堅企業の幹部とおぼしき中年の男性で、医者の席に座っているのは白衣を着たナイスミドルの老人でこんな場末な診療所で診療しているようには見えないのだけれど、良く見るとその身体は鍛え上げられている。
 中年の男は机に一枚の写真をそっと差し出した。
 「この少年を殺ってもらいたい」
 医者はその写真を取り上げるとその写真を見つめた。
 髪は短く切ってあるものの、どちらかといえば少女のように見えた。
 医者はそっと目を閉じると首を横に振ってその写真を押し戻した。
 「何度も言うようですが、うちは殺人だけは行いませんので」
 「春秋より伝わる殺人鬼の血筋の癖にか」
 その一瞬、ビジネスマンという仮面が剥がれ、男の残虐な本性が剥き出しになる。
 「確かに我が一族は殺人鬼と言われてもしかたがないですが、それはやもやえずにやったこと。自らの意思において動いたことはないですな」
 医者は済ました顔で答えた。
 中年は医者の顔を見てしばらく考え込んでいたが、立ち上がるといらだちを隠そうとせずに診察室から立ち去っていった。
 医者は椅子に背を預けると無言でなにやら考えていた。
 「よぉ、親父」
 しばらくしてから男と入れ替わるようにして高校生ぐらいの少年が入ってきた。背はやや小さくてリス系な顔立ちをしている。医者とは非常に顔形が似ていておそらく血縁だろう。左が緑、右が蒼と左右の目の色が違っているのが特徴的だった。
 「なんかとっても楽しい会話をやってたみたいだな」
 「楽しいものか」
 少年を前にして医者は吐き捨てた。
 「ったく、うちをなんだと思っているんだか」
 「しょうがないだろ」
 少年は第三者のように笑いながらいった。
 「伊達に”神煬”の名を背負っているわけじゃないんだし」
 「そりゃまあそうだけどな」
 否定するわけにもいかなかったようで医者は苦笑を漏らした。
 「で、誰を殺せっていってたんだ」
 「中学生ぐらいの少年だ。ちょっと目にはとっても可愛い女の子に見えたんだけど」
 「楽しい話だな」
 少年は不敵な笑みを口元に浮かべた。
 「あのおっさんが殺したがっているなんて、どんな悪いことをやったんだが」
 「さあな。それ以上はわからんよ」
 といったところで医者は話題を変えてきた。
 「明日のことなんだが」
 すると少年の表情が不機嫌なものに変わった。
 「ああ、新宿で無修正のロリコンDVDを手に入れてくるんだろ」
 「大声で言うな大声で。真衣に聞かれたらどうする」
 医者は文句を言ったけれど、少年は涼しい顔で聞き流した。
 「親父の鬼畜ぶりはとうに真衣に知れてるんだから気にするまでもないだろ」
 「気にするわいっっっ!!」
 

 「ねえねえ、たくみちゃんってば」
 さつきは床の間の柱に背を背をもたれている拓海を揺さぶった。
 「たいくつだおぉ〜」
 「・・・・・・・・」
 拓海はうんざりした表情で雨に濡れる外を見つめていたが、それでも子犬のようにさつきは拓海にじゃれ付いてくる。
 「たいくつだったらたいくつだお〜」
 その余波で叩かれたりするのに飽きたのだろう。
 「だったら、室内テニスでもするか?」
 「しつないてにす?」
 「読んで字のごとく、だよ。室内でテニスすんの」
 「うわー。おもしろそー」
 退屈から逃れる方法が見つかってさつきの顔が輝き出すけれど、やよいが冷や水をぶっかけた。
 「残念なんだけど却下」
 「えー、なんでー」
 途端にさつきはブーイングを上げる。
 「テニスなんてやったら周りの物が壊れます」
 当然のことながらそうなる。
 無論、拓海はそうなることを見越してさつきを誘ったわけで。
 「どーせ、壊すものなんてないくせに」
 「こらっ」
 拓海がへらず口を叩くとやよいは吠えた。
 「まあまあ・・・・・」
 険悪になりかけた2人の空気を、むつきが汗を流しながら仲裁に入る。
 ちなみに場所は社務所と一体になっているやよいの住居である。
 「お茶でも飲みませんか?」
 むつきの傍らには小さく湯気のたつ急須と湯のみ、お茶菓子としての饅頭が用意されていた。 「お茶はうまいんだけど・・・・・・・」
 渋茶のように拓海も渋くなっていた。
 「なんかお茶しか飲んでないよな・・・・・」
 「そうともいいますよね」
 むつきは笑ったけれどいささか強張っていた。
 「さつき、おちゃでおなかがたぽたぽだぉ」
 さつきはお腹を手で揺らしてみせた。その様子は微笑ましかったけれどかといって退屈な空気が去るわけではなかった。

 課された宿題も終わってしまい
 室内で出来る遊びもあらかたやってしまうと後は暇な時間が流れるだけだった。

 「・・・・・・・雨がやんでくれればいいんですけどね」
 スペースだけはやたらと広いのだから外でなら色々と遊べるのだけれど、雨が降っていては遊びようがない。ただ、時間だけが過ぎ去っていく。
 「この分だとやみそうにないわね」
 うんざりした様子でやよいは呟いた。日頃、校医としての仕事が忙しいだけに神社を見る機会がなかなかなく、ようやく暇が取れたと思ったら雨ではのっけからつまずいたようなものである。
 「そうだ」
 むつきは何か妙案を思いついたらしい。
 「拓海くん、さつきちゃん。お外に出てみる気ない?」
 「外?」
 つまらなそうな顔で結局はお茶を飲んでいる拓海がさつきの声に反応する。
 「おそとに出られるの?」
 一方、さつきは話も何も聞かないうちにノリノリになっている。ノリノリさに押されながらもむつきはその妙案を説明した。
 「私達とは違ってうづきさんは忙しいと思うんですよ」
 「うづきの仕事がとろいのが原因だな」
 「拓海くん。そんなこといわない」
 拓海が口を挟んでやよいがたしなめる。
 「多分、うづきさんも他のスタッフのみんなも忙しいと思うから差し入れしたら喜ぶと思うんですよ」
 なかなか仕事の進まない原画屋を連行監禁するぐらいだから相当忙しいのだろう。
 「拓海くんとさつきちゃんが差し入れにいったら喜ぶんじゃないかって」
 確かに拓海が来るというだけでうづきは喜ぶだろう。
 けれど、拓海にしてみればあんまりいいアイデアとは思えなかった。
 「オレが来たら「たくみちゃ〜ん」で仕事が止まるじゃないのか?」
 「それはそうですけれど」
 拓海が来ることによってうづきが仕事を放棄するかも知れない危険を問われてむつきは詰まったけれど、そこへやよいが助け舟を出してきた。
 「それ、いいアイデアね」
 「いいアイデアなのか?」
 「さつきちゃんを外出させてあげられる機会なんて滅多にないもの」
 これには拓海も唖然とさせられた。

 今のさつきを公にすることができない以上
 さつきは拓海やうづきがいっている間はさつきは軟禁生活を強いられていた。
 記憶を無くした前も無くした後も活発さだけは変わらないだけにさつきにとっては辛いことだったに違いない。
 たとえ口に出していわなくても

 だから今回のは滅多にないチャンスだった。
 こよみ学園の生徒に見つかる危険性はあるが拓海に任せれば大丈夫だと言い切ることができる。
 
 「さつき、おそとにいきたいいきたいいきたい!」
 さつきはすっかりその気モードに入っていた。
 「たくみちゃんといっしょにおそとにいきたい、いきたいのっ!!」
 拓海の身体を力づくで揺さぶり、必死になって拓海に訴えていた。
 「これで行かなかったら、いいお兄ちゃんじゃないですよね」
 珍しくむつきが意地の悪い笑顔を浮かべていた。
 「オレ、いいお兄ちゃんじゃない」
 「開き直るのはよくありません」
 あくまでも開き直ってこの場を切り抜けようとする拓海であったが
 「たくみちゃんはいきたくないの?」
 さつきは揺さぶるのをやめると拓海の顔をじぃっと見つめた。
 大きく見開いた目から涙がじわっと滲み出す。
 「・・・・・・やっぱりたくみちゃんはいきたくないんだ」

 いきたくない、といえばどんなに楽だったのだろう。

 でも、現実にそんな言葉はいえなかった。

 昔はそんなことはなかった。
 必死になって命乞いしてくる連中はいくらでもいたけれど、拓海はその願いを靴で踏みにじるかのように冷酷に殺していった。
 むしろ、命乞いされるたびに陶酔していた。
 そうやって無残に殺していくことに無常な楽しみを覚えてきたのだから、むつきややよいに人非人と呼ばれようがさつきに泣かれてもいかないはずだった。
 そうすることによって楽しみを覚えたはずだ。

 なのに・・・・・・

 拓海は再びマンションに戻っていて、うづきのワードロープをまさぐっている。
 うづきとさつきでは体格差があってうづき用の衣装がさつきに合うかどうか心配ではあったものの、「さつきちゃん用」という札の貼られたワードロープを見てそれは杞憂に終わった。
 このところ、うづきは徹夜で針仕事をしていたのはこのためだったのかと納得する。
 同時にそんな余裕があったら原画を描けよと思いつつ、拓海は白を基調としたフリルとリボンがいっぱいついたワンピースとスカート、ジャケットをセレクトすると居間に戻った。
 居間では縞パンにブラジャー姿のさつきがあどけない表情で待っていた。
 表情は幼子のようにあどけないけれど、身体はすっかり大人で背は拓海よりも高い。
 このところの運動不足は祟ってはいるものの、それでもしなやかなホディラインを維持している。ただ、身体自体の魅力よりも運動能力を重視しているので胸はそんなにはなく、わずかに膨らんでいるだけだった。
 髪の毛は短く刈り込んでいる、というか剃ったところから少し伸びただけなので少女というよりは男の子のように見える。
 「えへへ。たくみちゃん」
 さらさらというよりは動物の毛のようにザラザラする頭を拓海に撫でられるとさつきは嬉しそうに目を細めた。
 「これを着て」
 「はあい」
 さつきは拓海から衣装を渡されるといそいそと着替えだした。
 慣れない手つきながらもペチコートを着て、ワンピース、スカートと続く。
 ワンピースを着る時、拓海は無言でジッパーを締めた。
 その後はジャケットを着て、とりあえずのコーディネイトは完成である。
 「どう?」
 無事にふりふり衣装に着替え終えるとくるりと一回転してさつきは拓海にアピールしてみせた。
 「うーん」
 「にあわないの?」
 小首をかしげるその表情はとっても可愛いのだけれど、やっぱり頭が問題だった。ショートヘアでも何とか似合わせることができるが、フリフリの衣装の基本はロングヘアである。ましてや、さつきは五分刈りのような状態だから論外に近い。
 でも、カツラという補えるものがある。
 「さつき、かつらをつけるぞ」
 拓海が栗色のウェーブのかかったロングヘアをかざして見せるとさつきは渋った。
 「カツラ、あついよお」
 確かに熱いというのはある。
 でも、拓海は「つけなけきゃダメだよ」とは言わなかった。
 「かつらをつけたらとっても可愛くなるんだけどな」
 「ほんとにかわいくなれるの?」
 「うん。ほんとだよ」
 「じゃあ、つけるっ♪」
 子供ってほんとうに現金なものだ。
 拓海に言われるとさつきはいそいそとかつらをつけた。剥き出しになっていた耳が栗色の髪に隠される。かつらがさつきの頭にぴったりとくっつくと拓海はつけ毛の髪を梳かしていく。最初はもつれていた髪だっただけれど梳いていくうちに通るようになる。
 その間、さつきはとってもニコニコしていた。
 最後は後頭部に小さいリボンをつけて完成。
 「わぁ〜」
 さつきは鏡に映る自分の姿を見て呆然としていた。
 「これが・・・・さつきなの?」 
 鏡には栗色のウェーブのかかった髪を腰まで伸ばした愛らしい少女がいた。フリフリを着てくるために生まれてきたといわんばかりに衣装が似合っていて、人間世界に紛れ込んだ妖精を思わせた。
 その鏡に映っているのが自分自身だと信じられなくて、さつきはきょとんとしている。
 しきりに手や頭を動かしてみて、鏡に映っている自分がどういう反応を示すのか確かめていた。
 「これ、ほんとうにさつきなんだ」
 頭を両手で抑えて、カツラの髪の感触を感じるとさつきの顔が感極まっていった。
 「満足しているようだな」
 「うんっ」
 さつきは拓海に視線を移してうなずくとかじりつくようにして拓海を抱きしめた。
 「おい・・・・・」
 「たくみちゃ〜んだいすきっ!!」
 振り払おうとしたが甘さ120%のさつきの笑顔の前にその腕も止まってしまう。

 何故、腕が止まる。
 昔だったら何の躊躇もなく振り払い足蹴にすることが出来たはずなのに、そうすることが出来ない自分に拓海はいらだちを覚えていた。

 どうして、出来なくなってしまったのだろう。
 弱くなってしまったのだろうか。

 ・・・・・・・っ!

 そんな折、鏡に映る自分の顔を見て拓海は絶句する。

 笑っていた。
 心は千路に乱れているというように顔は笑っていた。
 とっても温かい笑顔だった。

 何故、笑っている。
 鏡の中にいる自分に問い掛けるが返事はない。

 心は苛立ちの局地にあるというのに、表情は正反対で心境と表情の不一致にいらだちを感じた。身体の中にもう一人の自分がいて、そいつが表情を支配している。
 さつきにじゃれ付かれて気持ちよさそうに笑っているその自分に拓海は殺意さえ覚えた。

 「たくみちゃん、どうしたの?」
 拓海の心の揺れを感じ取ったのだろう。
 気がつくとさつきは離れていて、不安そうに拓海を見上げている。
 
 拓海は答える代わりにさつきの頭を撫でた。
 身体が勝手に動いた。
 優しく撫でられただけでさつきの不安はあっさりと消えて目を細めた。

 拓海はそんなさつきを複雑な心境で見た。

 
 ・・・・・・・


 ・・・・・・・・・・・・・・


 師走町から電車で揺られること2時間あまり
 都心に出るとJRから地下鉄に乗り換えて、千代田区まで来て
 それから歩くこと数分でようやく、うづきが缶詰にされているソフト会社のビルまでやってきた。
 会社といっても古びた雑居ビルで、ワンフロアを占拠しているのみである。
 拓海は階段を上がってオフィスのある二階までつくと後ろを振り返った。
 「・・・・・・・・・」
 短い旅を楽しんでいたさつきであったが、たくさんの知らない人と会うのが怖いのか背を縮めて拓海にすがりついていた。
 そんなさつきを見て拓海は苦笑を浮かべるとインターホンを押した。
 1回押してしばらくすると、うざったそうな男の声がスピーカーから聞こえてくる。
 「どちらさまですか?」
 「佐々木先生の家族のものです。差し入れ持ってきました」
 すると男の声のトーンが上がった。
 「差し入れ!? 大歓迎だぜ、入ってくれっ!!」
 それからほんの数秒もせずに鍵が解除され、拓海は分厚いドアを開けた。
 「たくみく〜・・・・・・・・・・・うわわわわわわ」
 その刹那、ディスプレイの前で作業していたうづきが拓海の元に駆け寄ろうとしたけれどデスクから数歩歩いたところで身体がつんのめり、そのまま硬直した。
 「いだだだぁ」
 「面白い格好してるな」
 「あぅ〜」
 うづきの首には犬用の首輪がかけられていてチェーンで机と繋がっている。
 「佐々木先生は目を離すとすぐに逃げようとするからな」
 スタッフの一人の説明に拓海はうなずいた。
 「うづきって飽きっぽいからね」
 「もう2人ともいぢめないでよぉ〜」
 うづきはすっかり涙目になっていた。
 その時、袖を引っ張られて拓海が振り返るとさつきが上目遣いでおびえていた。
 「どうした? さつき」
 「・・・・・・・・・」
 さつきは目をウルウルさせたまま答えない。
 「あははは、怖がらせちゃった?」
 「俺の妹になってほしかったんだけどなぁ・・・・・・・」
 惜しそうに2人のスタッフが呟いたところを見るとさつきをナンパしようとしたらしい。
 拓海は無言ですがりつくさつきの背中を軽くさすってやった。
 「で、差し入れというのはどれかな?」
 「これです」
 拓海は持ってきたバックの一つを開いた。
 「おぉぉぉーっ!!」
 バックの中に入っていたのはたくさんの饅頭やスナック菓子、数本の大型ペットボトルなどかなり充実した内容になっている。
 スタッフの一人が感極まった様子で呟いた。
 「これで後、3年は戦える」
 「ガ○ダムじゃねーっつーの」
 もう一人のスタッフがハリセンでそのスタッフの頭を張り飛ばした。笑い声が起きる。
 たいへんノリのいい職場のようだった。

 拓海たちがやってきたことによって仕事は一時中断され、ティータイムに入る。
 
 「状況はどうなってるんですか?」
 拓海がスタッフに仕事の進捗具合を尋ねるとスタッフは疲れきった表情で答えた。
 「あんまり進んでないねー。誰かさんの筆が遅いから」
 「進んでなくてごめんねー」
 当てこすられて、その”誰かさん”は涙ぐんでしまう。それを聞いて拓海はため息をついた。
 「その様子だと、とてもじゃないけど授業には出られそうにないですね」
 「出来れば絵が描き終わるまで監禁しておきたいところだよ」
 スタッフはそういって笑うが力を描いていた。
 うづきを除いたスタッフ全員、目に隈ができており頬もこけている。”このところ何日も寝てませーん”と表情がそう物語っていた。まるでインパール末期の日本軍の軍営のようだった。
 「おまけにグラフィッカーの一人が階段から転げ落ちて腕骨折。これって痛すぎるよなあ」
 「そうですね」
 こんな厳しい状況の中で貴重な戦力がしょーもない事故によって戦線を離脱してしまったのだから痛すぎるのも無理はない。適当に相槌を打っていた拓海だったが事態はそこから思わぬ方向へと転び始めた。
 「そういや佐々木先生から聞いたんだけどさ、拓海くんって絵がうまいんだっけ?」
 「はい?」
 「いや、使えるようだったら、この際だから拓海くんにも手伝ってもらおうかと思ったんだけど」
 変な成り行きになっていた。
 「うづき」
 「なに、拓海くん?」
 さつきを交えて他のスタッフと仲良く談笑していたうづきを呼び止める。
 「いったい何処をどうしたら絵がうまいってなるんだよ」
 拓海はこのところ絵なんて描いたことがない。
 描いたことがあるとすれば授業の時ぐらいなものだ。
 「だって、拓海くんってば絵が非常に上手だったよー」
 うづきは口をとんがらせて力説をする。
 「教育実習の時に拓海くんの描いている絵をみたんだけれど凄かったんだよ。写真みたいに細かくて、蝿が本物と間違えてたかってきたぐらいなんだから」
 「そうだっけ?」
 「そーだよ。ただ、その絵がうづきのバラバラ死体遺棄の絵、おまけにウジがたかりまくりというのはあんまりだったけどね」
 確かにそのような絵を描いていたような気がする。
 「へー、そいつは興味があるなあ」
 スタッフが肩を叩いた。
 「よかったらイラストを描いてみないか?」
 「イラスト」
 変な成り行きになってきた。
 気がつくとスタッフやうづき、さつきの視線が拓海に集中してしまっている。
 スタッフのうちの一人が紙とペン、ついでに色鉛筆まで用意してきた。
 「拓海くんのイラスト、うづき見てみたいな〜」
 「さつきみたいみたい〜」
 常日頃、からかっているから復讐かと拓海は思ったけれど、2人の表情にはそんなものはなく、ただ純粋にわくわくなっていた。

 ここで癇癪を起こすことができればどんなに楽だったのだろう。
 何の前触れもなく殺戮に走っても構わない。

 そこまではやりすぎだとしても
 人に気まずい想いをさせても平気なはずだった。

 なのに
 「お題は?」
 「じゃあ、この子を描いてみてくれ」
 スタッフが差し出したのはポニーテイルの女の子のイラストだった。ポニーテイルキャラのパターンにもれず活発な感じがするかなりのレベルの高い、「萌え〜」なイラストだった。
 拓海は絵を凝視すると無言で描き始めた。

 手抜きしてしまえば煩わされることなんてないはずだった。

 「・・・・・・・・・・・」
 描き上げられた拓海のイラストを見てスタッフとうづきは絶句していた。
 下手だからじゃない。
 「・・・・・・・・・何者だ。君は」
 机の上に置かれた二枚のイラスト。
 一見すると一人の人物が描いたように見えるのだけれど、実はそれぞれ描いた人間が違う。にも関わらずカラーコピーしたようにそっくりに見えた。
 「拓海くん、すごいすごい♪」
 「しゅごいしゅごーい」
 寸分の狂いもなくコピーできることほどの才能はない。 うづきは自分のことのように喜び、さつきは何がなんだか分からないけれど喜び、ソフト会社のスタッフたちは色鉛筆で描かれた拓海のイラストを前にして考え込むと拓海の両肩を叩いた。
 「いやぁ〜 助かったよ。一時はどうなるかと思ったけれど、これでなんとかなる」
 「はい?」
 そのスタッフは満面の笑みを浮かべた。
 「良かったら仕事、手伝ってくれないかな?」
 「あ、それさんせーっっっ!!!」
 拓海が文句言うよりも早く、うづきが騒ぎだした。
 「うづきも拓海ちゃんと一緒に仕事したい仕事したいーーーーーっ!!」
 うづきは駄々っ子モードに入っていた。
 「でも、俺は何も・・・・」
 「もう、遅いだろ」
 時刻はもう真夜中。
 このまま帰ると師走町にたどり着けるのは終電ぎりぎりといったところになる。自分一人ならまだしもさつきの存在は邪魔だった。
 「かといって仕事せぬもの住むべからず、といったところですか」
 「そーいうこと。でも、バイト代は出すよ」
 「さつきもてつだうてつだうーっ♪」
 スタッフ達は突如として現れた救世主に期待の眼差しで見つめ
 さつきもうづきも「わくわく」と両手に力を込めて拓海を見上げている。
 「・・・・・・・・・・・」
 拓海は2人を見つめた後、ため息をついた。

 「どうでした?」
 やよいがようやく受話器を置くと間髪入れずにまだ残っていたむつきが話し掛けてきた。
 「拓海くん。うづきの仕事を手伝うから今日は泊まるって言ってた」
 「なんか悪いことしちゃいましたね」
 「そんなことないわよ」
 やよいはとっても晴れやかな顔をしていた。
 「拓海くんが手伝ってくれることをありがたがってくれる人がいるんだもの。それぐらいの奉仕は当然よ」
 たくさんの罪を犯して、その償いをしていないのだからそれぐらいは当然だろう。
 そう考えると気分は重いのだけれど全体的にはいい話だった。
 「拓海くんに絵の才能があったなんて意外よね」
 「拓海くんにそんな才能があったんですか?」
 「絵に関してはプロの人たちが認めているということなんだから本当なんでしょうね」
 と、同時にそんな拓海の長所を見抜いたうづきに驚かされる。
 うづきがただのアーパーじゃないことは知っていたけれど、教育実習の時に生徒の才能を見抜いていたこと、ちゃんと見ていて覚えていたことは驚きだった。
 「良かったじゃないですか」
 むつきも自分のことのように喜んでいた。
 「殺すためじゃない才能を見つけることができたんですから」
 「そうね」
 今までみたいに殺すことじゃない新しい道を見つけ出すことができたのだ。
 それは生きていく上ではとっても喜ばしいことに違いない。

 だけど、やよいはむつきみたいにその事を素直に賞賛することができなかった。
 嬉しいことは嬉しいのだけれど、不安が舞い上がりがちになる心をしばりつけていた。
 肝心なものをどこかに置き忘れてしまったようで



 ふと、周りを見ると仕事の喧騒は消え、代わりに寝息が漣のように響いていた。
 
 
仮眠タイムに入ってスタッフもうづきもみんな眠りについてしまっている。拓海も本当は寝ていいはずだったのだが仕事を続行していた。
 
 寝ることが怖かった。
 
 こうやって一人だけ起きていると最近は感じなかった感覚、母親に首を締められて殺されるという感覚が蘇ってくる。眠っていなくても首筋に手の存在を感じる。だから、このまま寝なくて仕事に没頭していたほうがマシだった。
 寝る前に教わった仕事、パソコンを使っての彩色作業に今は追われている。
 こんな才能があるなんて自分でも意外だった。
 絵心があるなんて思っても見なかったし、こうやってツールを使っての彩色作業なんてやれるなんて思ってもみなかった。
 それが楽しいのかどうか実感は沸かない。
 ただ、こんなことを思う時がある。

 こんな世界に埋没していいのかも知れない。

 うづきがいて、さつきもいて
 むつきがいて、ちょっとうるさいけれどやよいがいて
 
 うづきとさつきの奔放さには困るけれど
 こんな生活を送ってもいいのかも知れない

 そう感じた直後、かならず胸の痛みを覚えて拓海はうずくまる。

 


 ・・・・・・・・

 「ありがとう。助かったよ」
 日曜日も午後3時を回り、休憩時間に入るとスタッフの一人が拓海に礼を言った。
 「はい、どうも。帰ってもいいんですか?」
 「ああ。君は助っ人だから引きとめるわけにもいかないしね」
 とはいうもの名残惜しそうだった。拓海も中途半端に仕事を終える形になって若干、釈然としなかったけれどさつきを連れている以上、翌朝の列車で学校直行というわけにはいかない。
 「うづき、じゃなくて佐々木先生は?」
 「佐々木先生は翌朝出勤してもらう」
 「ふぇぇぇ〜ん」
 スタッフに冷徹に宣言されるとうづきは泣きそうになるけれど、拓海はそれを無視した。
 「それじゃ、どうもありがとうございました」
 「ありがうごさいました」
 一応は礼を言って、さつきも拓海の真似をする。
 「じゃあね」
 その後にスタッフは付け加えた。
 「良かったらうちに就職しないか? 歓迎するぞ」

 
 ビルからようやく出ると近くの駅から地下鉄に乗って、師走町へと向かう。
 「たのしかったね」
 列車の中でさつきが話し掛けてきた。
 「たのしかったのか?」
 「うんっ」さつきは力いっぱいに返事した。「こんなてんかいめったにないもん」
 「こんな体験か・・・・・」
 修羅場っていたような気がするけれど、さつきは手伝いをするといいながらその実態は遊んでいたようなものだしすぐに眠っちゃったから、物事のいい面しか見てなかったのだろう。
 「たくみちゃんはどうだったの?」
 「わからない」
 「じゃあ、たのしくなかったの?」
 「わからない」
 「うーん・・・・・・・・」
 さつきは足りない頭で考え込みだした。
 遊びじゃないんだから楽しくはない。しかし、不思議とつまらなくはなかった。
 ただ、いらだちを覚える。

 深い海に沈み込もうとして
 何かが拓海の心を突き刺して、その身を常に浮き上がらせる。
 夢を見させてはくれない。

 地下鉄にはたくさんの乗客が乗っていて、ロングシートは全て埋まっておりさつきと拓海は立っている。
 スタッフのみんなは気付いていただろうか?
 地下鉄一編成丸ごと燃やせるほどの爆薬やガソリンを身につけていたということを
 今ここでその爆薬を作動させればどれほどの死人が出るのだろうか?

 「拓海ちゃん、どうしたの?」
 「いや」
 拓海が首を振るとさつきが不安げに尋ねてきたので拓海は答えた。

 何を考えていたのだろうか?
 突然、湧き上がった衝動。
 その欲望を抑えたのはさつきが巻き沿いになるからではなくて、自爆同然の形になって拓海も死んで、これからも破壊活動を続けることしかできないというただそれだけだった。
 「次は新宿、新宿・・・・・・・」
 その時、スピーカーから到着を告げるアナウンスが流れた。

 「たくみちゃん、どこいくの?」
 拓海の意図をおぼろげながら感じ取ったのかさつきの声音に不安が混じりだす。
 拓海は新宿で地下鉄を降りると新南口にさつきを連れて、新南口の改札の前に移動する。
 「なあ、さつき」
 そこで拓海は重たい口を開いた。
 「ちょっと出かけるから、ここで待っていてくれない」
 「うん。いいけど」
 さつきは上目遣いでお願いするように見つめた。
 「ぜったい、ぜったいここにもどってくるよね」
 「ああ、戻ってくる」
 拓海はさつきの頭を撫でると、そのまま改札から歩き去っていった。

 新宿・歌舞伎町。
 古びた雑居ビルが立ち並ぶ欲望の町。
 まだ夜になっているわけではないので、まだ普通の町の情景を保っているが夜になればネオンが一斉に瞬き、欲望と欲望が入り混じる不夜城と化す。
 拓海がここに来るのも久しぶりだった。
 一時は歌舞伎町が生活の場ではあったもののうづきの元で養われて以来、拓海は歌舞伎町に来たことはない。日々の忙しさにかまけて気がついたらこんなにも月日が立っていた。
 最後に来たのはいつだったか、と拓海は思い出してみる。
 あのデブの中国人を殺ったのが最後だ。
 けっこうえらい奴だったらしい。
 でも、拓海からすればただのブタでしかない。恐れるというわけではないのだけれど、結果としてほとぼりをさます形で来ることになってしまった。

 たくさんの人々がいて、拓海は埋没している。

 どうしようか?
 人ごみの中にたゆいながら歩いていると日頃は眠っていた欲望が下腹部からうずきだしてくる。
 
 殺したい。

 この瞬間、目に入った連中全てをぶっ殺したい。
 この町を丸ごとぶっ飛ばしたい。
 
 拓海は首を振って、衝動を拡散しようとした。

 目を閉じてしばらくすると衝動は収まると深く息をついた。
 もう大丈夫。

 帰ろう
 拓海はそう思うと駅に向かって歩き出した。新南口ではさつきが首を長くして待っているだろう。今はそれで充分だった。
 
 その時、ある人物が視界の中に入ってきた。

 ゾクリ
 心の中で何かが牙をもたげた。

 その人物は交差点の角で信号待ちしている少年だった。
 身長は拓海よりも少し高いけれど、小柄の部類に入る。
 アイドル顔の明るそうな少年で右目と左目の色が違うのが印象的だった。

 シマリスかハムスターかという小動物系の風貌なのだけれど
 拓海の感覚が”こいつは危険だ”と告げていた。

 短い人生の割には豊富すぎる戦闘経験の中でこれほど強い敵に遭遇したことはない。
 いや、そのレベルを遥かに超えている。
 人間じゃない。
 言うなればゴジラを目の当たりしたようなものだった。

 ”怖い、とっても怖い”

 全身に悪寒が走って身体が震えた。

 頭に手を当てると肩までのサイドテールが触れた。
 歌舞伎町に来る前にデパートのトイレにいって、用意していたカツラをつけ服もティーシャツにミニスカートと女物の衣服に着替えたのがこんなに役に立つとは思わなかった。
 昔にさんざんしかけまくったモノがここで役に立つとは思わなかった。
 発動させるにはまだ時間が早くて、ゴミが少ないのが難点であるがそれはしょうがない。
 

 口元が楽しそうに歪んだ。
 ”むかついた”
 ”こいつをぶっ殺す”
 トリガーがかかった。
 衝動はあっさりと理性の制御を突き破り、一つの方向へ走り始めた。
 「おい、そこのお嬢ちゃん」

 なんだ、あいつ。

 やくざがチンピラから、いずれにしてもカタギには見えない中年の男性が女の子をナンパしている。14歳ぐらいの肩までの軽くカールをかけたツインテールがとっても似合う可愛い女の子だった。
 助けにいくついでにナンパしようかとはちらっと思ったけれど、自分に向けられた殺意を感じないほど少年は鈍感ではなかった。
 感覚は女の子からある匂いを捉えている。
 
 濃密すぎてむせてしまうほどの血の匂いが、した。

 日々をまっとうに暮らしている善良な人間にはまとわりつかないものをその女の子はまとわりつかせており、普通の人間なら感じることのない微細なものを少年は感じ取っていた。
 感性がそっと少年に囁いた。

 ”あいつはたくさんの人間を殺している”

 「おい、俺と一発やらんか?」
 「えっ?」
 雑踏の中からチンピラと女の子の会話を少年の聴覚が聞き分ける。
 数言の交渉の後、女の子とチンピラは連れ立って歩き始める。どうやら交渉が成立したらしい。その直後に交差点の信号が青になって人が動き始める。
 
 わりぃなぁ・・・・・真衣。

 そう思いつつも少年はチンピラと女の子を追いかけ始めた。

 ・・・・・・
 
 拓海が「戻ってくる」と言い残してからたくさんの時間が過ぎた。
 さつきの目の前をたくさんの人々が通り過ぎていくけれど、その中に拓海の姿はなかった。

 たくみちゃん・・・・・・・

 いくら待ってもこないことにさつきの心は哀しみに染まる。
 「ねえ、どうした?」
 目の前にそっとハンカチが差し出されて、振り返るとそこには一人の少女がさつきを優しく見つめていた。
 14歳ぐらいの肩で切りそろえた黒髪にリボンをヘアバンド代わりに巻きつけた、活発で元気のよさそうな少女だった。
 「ふぇぇ〜ん」
 初めて会う他人だというのにも変わらず、さつきはその少女に抱きつきそのまま泣きじゃくった。
 おもいっきり迷惑なんだろうけれど、少女はさつきを受け入れるとその背中をさすってあげた。

 ・・・・・・・・

 その光景を見た時、少年は言葉を失いしばらくして苦笑が浮かんだ。
 防火法が守られていない雑居ビルとビルとの隙間にある狭い路地に居て、その路地にはチンビラの身体が16分割されて転がっていた。
 真っ赤に染まったアスファルトをバックにチンビラの目が恨めしそうに少年を見つめている。その頭も後頭部が分割されていた。
 「綺麗な切り口だなぁ」
 少年は無造作に切り取られた左手を取り上げると切り口を仔細に確かめ、切断面と切断面を合わせればぴったりとくっつきそうになるぐらいに鮮やかな切断具合に感嘆の声を上げていた。
 無論、普通の人間は死体を見たらまずは驚き、それから硬直するか逃げ出すかのどちらかであるから、この反応は只者ではない。
 「やっぱり只者じゃなかっ・・・・・おっととと」
 その途中で胴体が爆発した。どうやら爆弾が仕掛けられてあったらしい。少年は巧みなステップワープでかわしたものの爆風によって撒き散らされた臓物の一部を浴びた。
 「ひっでぇなあ」
 腸だったものを払いのけて少年は苦笑する。直接には被害は蒙りはしなかったけれど半身が返り血で染まって人前にはでにくくなってしまった。
 だが、そんなことを心配している場合ではなかった。
 耳をつんざくような爆発音がして、路地の左右にあるビルのてっぺんが爆発。それを皮切りに少年が確認できる世界のいたるところで爆発が巻き起こった。
 「おい、ちょっとま・・・・・・・」
 少年めがけて、ぶっ飛ばされたビルの残骸が落ちてきた。逃げる間もなく少年のいる路地は巨大な残骸によって埋め尽くされる。

 ・・・・・・・・

 「そっか。キミもまたされてるんだね」
 「おねえちゃんもなの?」
 「うん」
 その少女は苦笑いを浮かべた。
 「男ってほんとどうしようもないよね」
 「そうなの?」
 さつきがおもいっきり真面目な顔で聞いてくるものだから少女は言葉に詰まり、さつきの頭を軽くこずいた。
 「いたいよお」
 「こういう時は「どうしようもないよねっ」って同意するものなの」
 「そうなの?」
 「そういうものなの」
 その後で少女はさつきには悟られないようにため息をついた。
 さつきはフリルとリボンがいっぱいの洋服を来て少女チックではあるものの、それでも少女よりは年上に見えるのに中身は5歳ぐらいの幼女だった。これがアメリカだったら保護者が監督責任を問われるところだろう。
 そんなさつきに付き合うのはなかなか骨が折れるのだけれど、少女はそれを楽しんでいるようだった。
 「おねえちゃんのまってるひとってどんなひとなの?」
 「バカ」
 少女は鮮やか過ぎるぐらいの一言で切って捨てた。
 「ボクのおにいちゃんなんだけれど、脳味噌が筋肉でデリカシーに欠ける単細胞なんだ」
 「おもしろそうなばけものみたいだね」
 「ばけものって・・・・・」
 さつきは少女の兄を顔が6面、脚が6本といった化け物を想像しているようだった。
 「化け物っていうのは当たっているかもね」
 「うわーっ、おもしろそー。みてみたーい」
 「見ないほうがいいと思う。つまらないし会ったら後悔すると思うよ」
 紹介したことを後悔しているような少女の口ぶりではあったけれど、すぐに興味津々といった表情になる。
 「キミの待っている人ってどんな人なの?」
 さつきはにぱっと花が咲いたように笑った。
 「たくみちゃん!」
 「たくみちゃんってどんな人なの?」
 「うんとねー」さつきはどのようにして拓海のイメージを伝えたらいいのかと悩んだ。しばらくしてから口を開く。
 「たくみちゃんはおんなのこみたいなんだけれど、じつはおとこのこなんだよ」
 「女の子みたい?」早くも分からないところが出てきたけれど、すぐに少女は理解する。「女顔っていうことだね」
 「いぢわるなの」
 それを聞いて女の子は考え込む。
 確かにこうやってさつきを待たせているのはいぢわるなのかも知れないと少女は思った。
 「でも、いぢわるだけどとってもやさしいの」
 「そっか」
 多分、照れ隠しにいぢわるはするけれど要所要所では優しいのだろう
 さつきのとっても満足そうな笑顔から少女はそう判断する。
 「いいなぁ〜」
 自然とため息がもれた。
 「良かったらうちのバカりょうと交換してくれないかなあ」
 「だーめ。たくみちゃんはさつきのなのっ」
 甘えた表情でさつきは拒絶する。
 「きみはさつきちゃんっていうんだね」
 名前が出たので少女は聞いてみた。
 「うんっ ごかじょうさつき、っていうんだよ」
 「いい名前だね」
 「えへへ ありがとっ」
 名前を褒められてさつきは喜ぶと今度は少女の名前を聞いてみた。
 「おねえちゃんのなまえは?」
 「ボクは中津川真衣。よろしくね」
 「よろしくなのだっ」
 そうやってさつきが手を伸ばしてきた。仲良しの握手ということなのだろう。真衣も手を伸ばして硬く握手をした。
 
 その時だった。

 それはまるで戦争が始まったようだった。
 何処からともなく立て続けに砲弾が炸裂したような爆発音が響いていった。
 「な、なに・・・・・・」
 突然の出来事にさつきは狼狽し、血響きのように伝わってくる音に驚いてずっこけた。
 「いっだぁあ」
 さつきは地面にスカートを花びらのように広げて尻餅をつき、涙目になる。真衣はそんなさつきを庇うように抱きしめた。
 米軍の絨毯爆撃を受けているような爆音が響いているのに、新南口からではその状況が確認できず、その結果、辺りは騒がしくなっていた。倒れたら最後、踏み殺されそうな雰囲気でそれからさつきを守るのに真衣は必死だった。
 さつきから言葉がもれた。
 「たくみちゃん、だいじょうぶかな・・・・・」
 「だいじょうぶだよ」
 今にも泣き出しそうなさつきを前に根拠はないと知りつつも励ます言葉をかけずにはいられなかった。
 「まいのおにいちゃんもだいじょうぶなの?」
 「遼だったらだいじょうぶ」
 さつきが心配そうに声をかけるが、真衣はちっとも心配していなかった。
 「あの程度で死ぬような遼じゃないから」
 「さつき?」
 男の声がし真衣は振り向いた。
 「たくみちゃんっ!!」
 さつきがその声を聞いて叫ぶ。
 「たくみちゃんのばかばかばかばかばかばかばかぁぁぁぁぁっ!!」
 真衣の力が緩むとさつきは立ち上がり、なおかつその勢いを利用してその男、まだ14歳ぐらいの少年に飛びついていった。
 かなりの勢いはあったけれど拓海はさつきを受け止めた。
 「さつき、かなしかったんだからぁっ!!」
 そして、少年の小さな胸に顔をうずめるとまたワンワンと泣きじゃくっていた。
 「かえってこなかったらどうしようかって・・・・さつき、しんぱいだったんだからあ」
 「でも、ちゃーんとかえってきたろ」
 拓海はさつきの頭を優しく撫でた。
 「うん」
 「ひとりにさせたといたのは悪かったけれど」
 「だったら一人にさせないでください」
 そこへ真衣が口を挟んだ。怒っていた。
 「さつきちゃん。一人ぼっちでとっても寂しかったんですから」
 真衣とは初めて会うのだから拓海にとっては知らない女の子という認識でしかない。
 しかし、拓海はちらりと真衣を見ただけで、後はさつきをずっと見つめていた。
 「ねえ、たくみちゃん」
 泣きじゃくっていたさつきが顔を見上げて話し掛ける。
 「さつきをひとりにしないで」
 拓海は優しく頭を撫でた。
 「わかった」
 真衣は横でその様子を見ていた。
 いいなあ・・・・・
 さつきの姿が変だというのはあったけれど、それでも微笑ましい光景であることには変わり無かった。いずれにしても、さつきは待っていた人に出会えたわけだから「良かったね良かったね」と喜びたくなる。
 「貴方がさつきを見ていてくれたんですか?」
 拓海が話し掛けてきた。
 「あ、はい」
 「うちのさつきが世話になったようでありがとうございます」
 「ありがとうなの。おねえちゃん」
 拓海はお礼をして、それに続いてさつきも一礼する。
 「いえいえ」
 「それでは失礼します」
 「まったねぇ〜 おねえちゃん」
 拓海はさつきの手を握るとそのまま改札の向こう側へと歩いていった。去り際にさつきが手を振り、真衣も手を振り返す。
 善行を施したことによる満足感を覚えていた真衣であったが、不意に違和感みたいなものを感じた。
 違和感
 それは拓海の身体から漂っていた。
 さつきの言うように拓海は小さくて女顔の少年だった。
 その身体から不意に濃厚なまでの血の匂いが漂ってきていた。
 突如として感じた違和感に疑問を覚えるけれど、その頃にはさつきも拓海も消えていた。
 それよりももっと重大なことがあって、感じた疑問は泡のように消えていった。
 「遼、大丈夫かな・・・・・・あんなこと簡単に死ぬ奴じゃないから多分、大丈夫だとは思うんだけど」

 ・・・・・・・やりやがったな。
 瓦礫のうずもれながら少年は毒づいた。
 流石に回り一面に降り注ぐ瓦礫から逃れるのは無理だったけれど、土砂のように落ちてきた瓦礫の直撃を受けても少年は何故か無事だった。
 ただ、瓦礫に埋もれていて身動きは取れない。
 やっばいなぁ
 視界はまったくないものの、フライパンで直に炒められているような熱さと吸い込むと肺が焼けそうな空気は瓦礫の向こう側が炎の海になってくれることを教えてくれた。
 歌舞伎町でテロるんだったら爆破よりも放火のほうが効果的だよな、と生命の危機にさらされているのにも関わらず少年はのんきなことを想っていた。
 少年はさして危機感は抱いてはいない。
 かといって困っていないわけではない。
 このまま瓦礫の中で寝ているのも一つの方法だろう。
 うかつに外に出て行けばあっという間に火達磨になるから、火が収まるまでじっとしているが一番の安全策のように思えてくる。
 しかし、待つのは好きじゃない
 少年は待ちの必要性は認識しているけれど、待ったほうがいいのか攻めていったほうがいいのか効果度がフィフティーフィフティーだったら、突っ込んでいくのが少年だった。
 待っていたところで、この身を守っている瓦礫さえ焼けるようになったら逃げ場はなくなる。

 やるか。

 「没遮欄を打つのって久しぶりだよな・・・・・・・・」
 そんなことを呟くと少年は大きく息を吸い込んだ。
 「はぁぁぁぁぁぁっっ・・・・・・・・・」
 焼けそうな空気に肺に激痛が走るけれど少年は耐え、吸い込んだ空気を力に変えて丹田に貯めていく 
 長いこと吸い込んだあと、少年は大きく絶叫した。
 「おやじのぉぉぉぉぉ、ばっかやろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!」
 それはまさしくゴジラの咆哮というべきものだった。
 ゴジラみたいに口から熱線は吐きはしなかったものの、その代わりに少年の周りに包み込んでいる瓦礫全てが一瞬で灰になって崩れ落ちていった。
 灰になったのもつかの間、世界一面に広がる炎があっという間に灰を飲み込む。
 その瞬間に少年はもう走りだしていた。
 瓦礫がなくなると広がったのは炎一色の世界。
 厚化粧のように看板やネオンを押し出した雑居ビルの姿はどこにもなく、ただ炎があるだけだった。瓦礫が落ちて大変走りにくいのであるが、その瓦礫でさえも火で覆い隠されている
 何処までも何処までも続いていて、地球全体が燃えているような錯覚を覚えるほどだった。

 そんな世界を少年は走っていく。
 吹き荒れる炎の嵐をもろともせず、フェラーリのような速さで荒れた大地を軽快に突っ走っていった。

 「・・・・・・・はぁぁぁぁっっ」
 人間の常識を遥かに超越したスピードで炎の海を走りきって、ようやく火の届かない場所にたどり着くとかがんで両膝に手をつくとそのまま激しく息をついていた。人知の超えた力を出した反動が激痛になって筋肉に走っていた。
 しばらくしてから痛みも収まると振り返る。
 新宿のビル郡をバックに炎が踊っていた。炎の尾は空一杯にまで伸びていて、新宿の空を違った色合いで染めていた。消防車が必死になって炎に向かって消化剤を吹きかけているが蟷螂の斧だった。救急車が赤いランプを点灯させて駐車しており、救急隊員が必死になって救助に奔走してはいるもののその表情は重く、絶望に満ちていた。
 そんな救急隊員が少年の姿を認めると急に表情を輝かせて駆けつけてくる。
 「だいじょうぶか!? 君」
 「至って健康、ぜんぜん平気っす」
 駆け寄ってくるのも当然だった。少年は歌舞伎町破壊に巻き込まれており、救急隊員が助けるべき存在だったからだ。
 しかし、少年のあっけらかんとした態度とその言葉通りに火傷の痕がぜんぜん見られない少年にみな一応に呆れていた。
 「ほんとにだいじょうぶそうだね・・・・・」
 「ええ。戦えますから」
 みな一応に「なにと戦うんだ」という顔をしていた。
 それはともかくして、少年の認識としてはまだ無傷というところだった。大技を連発して使って気力がちょっと減ったけれど余裕で戦える。今ここで戦争してみせろといわれればやってられるほどの体力がある。
 「ちぇっ・・・・・」
 ナップザックを肩にかけていたはずだったのだが、気がつくとナップザックは燃え落ちていて掛ける部分だけが残っているだけだった。
 ナップザックには父親から買い物を頼まれたアダルトDVDが入っていた。
 「しゃーないか」
 少年は頭をぼりぼりと掻いた。
 「あの、すいません。携帯貸してくれませんか?」
 そういって救急隊員から携帯を借りると番号をプッシュした。
 「もしもし。俺だ。ちょっと事件に巻き込まれて警察に行くから良かったら真衣も来て欲しい」

 「中津川遼君だね」
 普通だったら病院に行って診察を受けてから事情聴取ということになるのだけれど、少年が診察を受けることを拒否し、どう見ても健康体だったから先に事情聴取を受けることになった。
 場所は新宿署で目の前に刑事が座っている。
 「中津川遼です」
 「事件が起こった時の状況を教えて教えてくれないかな?」
 「状況か・・・・・・」
 さっそくその事を聞かれて少年は考え込む。
 考えるまでもなかった。
 「多分、アレは俺を殺そうして仕掛けられたんだ」
 少年がそういうと取り調べに当たっていた刑事数人が一斉に狐に包まれた。
 「君を殺そうってどういうこと?」
 「女の子が俺に殺意を向けてきたんだ。その女の子にチンビラが声かけてきて、女の子とチンピラが連れ立って歩き出したんだ。興味を抱いてついていったらチンピラが解体されてた」
 「どんな感じで殺されていたのかな?」
 「16分割。ほれぼれするぐらいな綺麗な切り口で殺されてた。その直後に爆発が起きた」
 「・・・・・マローダーなのか」
 少年が顛末を語ると取り調べに当たっていた刑事たちが騒然となり始めた。
 「あいつが帰ってきたのか・・・・・・」
 「その女の子は君の知り合いだったの?」
 一人の刑事が興奮する自分を静め、務めて冷静に聞こうとする。
 「ぜんぜん知らない。でも、あいつが俺を殺そうという気持ちは分からなくもないけど」
 「それは?」
 「あいつから血の匂いがした。あのキツさからするとたくさんの人間を殺しているんだろうな」
 刑事たちは少年を不思議なものを見る目で見つめた。
 少年は自分の内部でしか根拠がないことを涼しい顔でのたまわっているわけではあるが不思議と説得力はあった。
 それ以上に”血の匂い”を感じ取り、”あいつは人をたくさん殺している”なんてのたまう。
 一般的な環境で生まれ育った人間には決して、血の匂いを感じ取ることもできなければたくさんの人を殺しているなんて言えない。

 ”こいつは何者なのだ?”

 そう思った時、ノックと共にドアが開かれて警視正の階級章をつけた警察官が現れた。
 「署長。どうなされました?」
 「この方はこちらで聴取することに決まった」
 「署長自らですか?」
 署長は難しい表情をしていた。その事がこの少年が扱いが非常に難しい存在であることを教えてくれた。
 「それじゃ、どうも」
 少年は軽く挨拶をすると部屋から出ていった。
 後には状況がつかめない刑事たちが残される。
 刑事たちはしばらくの間無言だった。
 「思い出したよ」
 そのうちの一人がため息と一緒に言葉を吐き出した。
 「中津川遼。何処かで聞いたような名前かと思ってたんだが、あの少年がか」
 「何処で聞いたんですか?」
 「埼玉のある市で一人の中学生が怒っただけで数百人の暴走族を退けたという事件が起きただろう」
 「「真野新町の悪夢」ですね。まさか・・・・・・・」
 そういった刑事の表情が言っている途中で変わった。その「怒っただけ」が目の前で再現されたかのように
 「あの少年が、あの悪夢の」
 「その通りだ」

 「こんちわー」
 会議室に案内されるとそこには数人の男性がいた。
 「おっ、武内さん」
 背広姿の30男を発見すると遼は親しそうに挨拶をした。
 「やあ、遼くん。隆盛さんの様子はどうだい?」
 「相変わらず。とっとと死んでほしいんだけれど、しぶとくて」
 内容のブラックさの割には邪気が無さすきで武内は苦笑してしまう。
 「武内くん」
 背広姿のキャリア官僚とおぼしき男性が声をかけて二人の会話を中断させる。
 「初めまして、中津川遼君」
 「こんちわっす」
 「初めまして。私は公安委員の川辺です」
 「親父がいたら話が速かったんだろうけどね」
 川辺はなんともいえず苦笑を浮かべただけだった。
 「まずは状況を説明してほしい」
 「了解」
 その前に遼は視線をちらっと窓に投げかけた。
 遠くの空が真っ赤に燃えていて、炎は未だに燃え上がっている。
 歌舞伎町一帯は壊滅。もはや他の地域への延焼を食い止める勝負になっていた。
 再び視線を戻すと遼は刑事に説明したことをもう一回説明した。
 川辺は一通り聞いたあと、こう切り出した。
 「中津川君は犯人をどう見るかね」
 「行動は一流だけれど動機はガキ」
 遼は一言で斬って捨てた。
 建物を効率的に燃やし爆発させるにはセンスがいる。
 いうまでもないが仕掛けるには爆薬が発見されてはいけない。
 実際に歌舞伎町一体に仕掛けられた爆薬が爆発して街が燃やされている以上、技術面では一流であるといってもいい。自爆することしか方法がない原理主義のテロリストに比べれば遥かに洗練されている。
 しかし、いつでも爆破させることができるよう予め仕掛けている周到さと
 「むかついた」
 たったそれだけで爆破する神経はガキそのものであるといってもいい。
 
 小学生が核爆弾の起爆装置をもっているようなものだ。
 
 あいつは俺を殺そうとした。
 殺すために街一帯を爆破した。

 川辺と武内は2人だけで会話をしていたが、やがて川辺が話を遼に振った。
 「どうやらマローダーの犯行によるものと思うが、中津川君はどう思うかね」
 
 マローダー。
 歌舞伎町、渋谷、池袋の繁華街でやくざキラーとして名を馳せた殺人鬼である。格闘戦によって相手を血祭りに上げるのが特徴の殺人鬼として裏社会では恐れられていた。歌舞伎町で対立する中国マフィアの組織を二つほど壊滅させ、マフィアの大立者であった人物を抹殺してからは姿を消していた。

 「俺もそう思う」
 衝動と思いつきで殺しているとしか思えない無茶苦茶さと、衝動で動いている割には標的を的確に殺していることと証拠隠滅の巧みさは今回の歌舞伎町爆破の手口と共通している。
 正面から当たるのではなく、標的が存在している世界ごと壊しにかかるというのは実に的確だった。どうすることもできずに遼も瓦礫の下に埋もれるしかなかった。普通だったら瓦礫に押し潰されるかたとえ運良くその場の圧死は免れたとしても迫り来る炎によって焼き殺されていただろう。
 遼があくまでも普通であれば
 人を殺すためには大量破壊も辞さない神経とそうでもしなければ始末できないと瞬時に見抜いた視点の確かさに遼は呆れもし感心もする。
 「ということはマローダーを目撃したことになるんだね」
 「まあ、そういうことになるかな」
 マローダーの犯行現場を見た奴なんていなかった。必ずといっていいほど身体をバラバラにされていたからだ。本来ならば遼も死んでいた。
 遼はマローダーのターゲットにされながらも生き延びた初めての人物になる。
 「くるんとしたツインテールが可愛い女の子だった。でも、見かけで判断しないほうがいい」
 「監視カメラもあるから変装している可能性があるということか」
 「そういうこと。けど、ある程度は本当だというところがある」
 「身長の低さはごまかせるけれど、高さはごまかせないということですね」
 そこで武内が口を挟んだ。
 「そーいうこと」
 身長の低さは某国の将軍様のようにシークレットブーツでごまかすことはできるけれど、身長の高い人間が低い人間に成りすますために余分な肉を切り落とすわけにはいかない。
 それに衝動、単にむかついたとか気に食わないとか、ただそれだけで標的を殺し、その周りにいる関係ない人々まで殺すというのはガキでしかない。ただ、30過ぎてもガキのままという奴も多いのが世相というものなのだけれど。
 「いずれにしても困ったことになったものだな」
 「そうですね」
 川辺と武内は2人してため息をついた。
 何がややこしいって少年犯罪ほどややこしいものはない。12歳以下ではなさそうなのは救いだけれど捕まえたら少年法がどうとかこうとかめんどくさいことになるのは言うまでもない。
 「それ以前に捕まえるのも骨だと思うんだけど」
 遼が水をぶっかけるように言った。
 「投降なんて求めようもんなら死人が出るぞ」
 ガキではあるが戦闘力は侮れない。一対一では短時間で人間をバラバラに出来る能力があるし、爆薬設置のセンスでは右に出るものはいない。殺すことがもはや生きがいになってしまったようなき○がいだからそんな奴に説得が効くはずがない。言ってる側から爆薬を作動、あるいは自爆によって吹き飛ばされるのがオチだ。
 そういう形で死者が出ればただでさえ落ちている警察の権威というものが、ますます地に落ちることになる。
 現にこの歌舞伎町の火災で死傷者がかなりの数・・・・・・ではすまない。警視庁の幹部の首が数人吹っ飛ぶのは確定事項になっている。
 「だから俺と武内さんがここに呼ばれているというわけか」
 遼はちらりと武内を見た。
 「マローダーは化け物法で始末するっていうことか」
 その言葉は遼が呼ばれた理由を的確に言い当てていた。
 その証拠に奇妙な沈黙が出来る。
 「チャイニーズマフィアが動いている」
 武内が重たそうに言った。
 「どうやら彼らはマローダーの正体を掴んでいるらしい」
 「親父んところにもその危ない人たちが来てた」
 おそらくはマローダーを殺すために遼の父親に矢を立てたのだろう。
 「どんな依頼だ?」
 「それは言えない」
 どんな相手からの依頼でも言わないのが遼の生きている世界での不文律である。
 「いずれにしても面白くなってきたな」
 「そりゃ、中津川君にとっては面白いだろうけど」
 遼はともかくとして、手当たり次第に殺しまくる殺人鬼がいてそれを殺すために周りの被害なんかこれっぽちも考えないチャイニーズマフィアが襲撃するというのは治安を守る人間にとっては胃潰瘍を起こすほどにはひたすらに頭の痛いことだった。
 二つが激突して何の関係のない人々が傷つく事態は避けなくてはならない。
 「親父に止めてほしいと」
 遼は警察の上役からわざわざ事情聴取を受けている理由を言った。
 「中津川先生だったら少なくてもチャイニーズマフィアを抑えることができるでしょう。lお父さんに口添えてくれないかな?」
 「そりゃ構わないけど」
 マフィアからの暗殺の依頼は受けないけれど、公的機関の依頼というのであれば話は別だ。
 「どうして、親父なんだ?」
 「何故って、中津川君のお父さんは神煬流の宗家でハンター登録者じゃないか」
 「そのハンターに匹敵する実力の持ち主が目の前にいるじゃん」
 遼の言葉の意味を理解すると二人の男は絶句する。
 ハンマーでぶん殴られたかのような衝撃を受けていた。
 「中津川君。お父さんのような実力を備えているかもしれないが君はまだ未成年だ。ハンターではない」
 「法外法を使って人一人を殺そうっていうのにそんなことを気にするのか」
 川辺は未成年者に殺人させることを躊躇していたが、法律を拡大解釈して(しかも秘密法)を人間を殺そうとしているのだ。その点を突っ込まれて川辺は沈黙する。
 「あいつは俺を殺そうとした」
 会議室の気温が上がりだす。
 今回の歌舞伎町のテロは「むかついた」という理由で中津川遼を殺すために行われた。
  「殺そうとした奴を放っておくほど神煬は甘くないんだよ」
 遼のリス系の顔にティラノザウルスのように獰猛な笑みが浮かんでいた。

 
 ようやく事情聴取を終えて会議室から外に出ると一人の女の子が待っていた。
 12歳から14歳ぐらいのボブヘアの女の子で、リボンをヘアボンドのように頭に巻きつけている元気そうな少女だった。
 「お、真衣」
 遼の声のトーンが1段階上がっていた。
 「おつかれ。遼、大変だったね」
 「どうっていうこともないさ。真衣こそ長いこと待たされて退屈だっただろ」
 気遣ってくれるのは嬉しいのだけれど、真衣は苦笑する。
 「本当なら遼のほうがもっと大変なのにね」
 本来なら2人が会うのは警察の廊下ではなく良くて病院、悪ければ霊安室で言葉のでない面会になっていたはずだ。大変なことになっていたのにも関わらず遼にかかると気にするのもアホらしいということになってしまう。
 「それじゃ帰ろうぜ」
 「あ、警察の人が送るって言ってた」
 「サービスいいなぁ」
 遼は能天気だったけれど、真衣は複雑だった。
 「外、マスコミでいっぱいだったもん」
 「なぁるほど」
 警察が気を使ってくれたのは何も遼たちのためではない。
 自分達家族が難しい立場にいるのを遼は端っから理解していた。
 「脅しをかけるのは簡単だけれどめんどいな」
 「もうっ・・・・・・」
 そんなことを言いながら裏口に向かって歩いていく。
 「そうそう」
 突然、真衣は嬉しそうな顔になった。
 「今日はね 可愛い子に出会ったんだよ」
 「可愛い子?」
 途端に遼の目がランランと輝き出す。
 「こらこら、反応しないの」
 「まあな」
 「何がまあななんだか」
 呆れながらも真衣は説明した。
 「変な子だった。見かけはふりふりを着たお姉さんだったんだけど、中身は4歳か5歳ぐらいのちっちゃな子でちょっと大変だったけど楽しかったよ」
 「へぇ〜」
 遼の顔に微笑ましさが浮かんでくる。
 「なんでその子は幼かったんだ?」
 「そこまでは聞けないよ。あの様子だとあの子自身もわかってないみたいだし」
 当然だ。
 「保護者はどうした?」
 4歳ぐらいの子供をひとりでほーっとく保護者は保護者ではない。
 この場合、外見は考えないほうがはことにする。
 思い出したのか真衣もふくれたような表情した。
 「ひどかったんだよ。おにいさんがあの子を置き去りにしてどっかにいっちゃったみたいで、ずーっと一人ぼっちで待っていてボクが声かけたらわんわん泣いちゃって大変だったんだから」
 「そいつはひどいな」
 「ちゃんと戻ってきてくれたのには安心したけど。事故ったり誘拐なんてされちゃったりしたらどうするつもりだったのやら」
 「真衣が誘拐したかったんじゃないのか?」
 「うーん、ちこっとは・・・・・・っておいっ」
 真衣は遼の頭をぽかっと殴った。
 「危ないこと言ってるんじゃないの。警察なんだから」
 「真衣だって乗っていたくせに」
 「あははは」
 ごまかし笑いを浮かべた真衣だったが、何かを思い出したのか深刻な表情になるとスワヒリ語で遼に言った。
 「そのおにいさんっていうのが変な人だった」
 「どんな奴?」
 遼も完全にネイティプなスワリヒ語で返す。
 「ボクと同い年ぐらいの女の子っぽい顔のおにいさんで礼儀正しそうだったんだけれど、遼やお父さんと同じ匂いがしたんだ」
 「血の匂いか」

 血の匂い。
 それは人を殺したり、激しい戦いの中で生きていた者が帯びる雰囲気みたいなもの。
 当然のことながら血の匂いを感じさせる奴にカタギはいない。
 

 ひょっとして、もしかして
 真衣が会っていたその「お兄さん」というのがマローダーだったのかも知れない。
 小柄で華奢で可愛らしい印象といい、いなくなった状況といい似通っている。
 だいたい血の匂いを漂わせた人間というものはそうそういるものではない。
 マローダー本人と出会いながら見逃したのかも知れないけれど、こんなことが起きるなんて想像ができなかったわけで遼としては真衣を責めるつもりはなかった。
 「その子の名前は聞いたか?」
 「ごかじょうさつき、って言ってた」
 


 ・・・・・・・・・

 耳を澄ませば寝息が響いた。
 「・・・・・・たくみちゃぁん・・・・・」
 いい夢を見ているのだろう。さつきはとっても満足した顔をしていた。
 部屋の明かりをつけないまま、暗闇の中で拓海は膝の上にさつきの頭を乗せている状態でそのまま佇んでいた。
 家に帰ってからずっとこんな状態でいた。
 電話が鳴り響いたので拓海は手元に持ってきていた子機を取り上げた。
 「もしもし、四天王ですが」
 「拓海くん?」
 相手はやよいだった。
 「どうしたんですか?」
 「どうしたもこうしたもないわよ。帰ってくるのが遅かったみたいだけれど、何かあったの?」
 「何もないよ。新宿ではちょっと寄り道していたけれど」
 その後は沈黙が続く。
 スピーカーからはかすかに雑音が流れ、一秒一秒ごとに無駄に通話時間を消費していく。
 「単刀直入に言うわよ」
 スピーカーからはやよいの迷いが流れていた。
 「歌舞伎町を燃やしたのは拓海くん?」
 「ひどいなあ。やよいセンセ」
 拓海は嘲笑した。
 「疑われてもしょうがないかも知れないけど、なんでオレだと思うんですか」
 「拓海くんならやりかねないし、それが出来るもの」
 「先生なのに生徒を信じてくれないんですね」
 「信じるに足る子だったら信じれるけれど、拓海君のは信用できないもの」
 拓海の皮肉も激烈ならばやよいの反応も激烈だった。
 「オレがやったという証拠がどこにあるんですか?」
 受話器の向こう側でやよいは沈黙する。
 「それじゃ切りますね」
 
 受話器から通話音だけが空しく響いていた。
 やよいは受話器を手にしたまま呆けていたがやがて受話器を元に戻すといらだち混じりに呟いた。
 「もうぉっ、あの子ったら・・・・」
 「やよいさん。私たちは教師なんですから拓海くんのことを信じて・・・・・」
 言い終わらないうちにむつきはやよいに殺意の眼差しで睨まれて沈黙する。
 「そんなことを言ってるとあの子に遊ばれるのがオチよ」
 「・・・・あ、はい」
 そこまで可愛げのある存在ではない。
 やよいは歌舞伎町のテロが拓海の仕業であることは確信していたものの、それを証明できるだけの証拠を持っていないのもまた事実だった。
 そうやって悩んでいると電話がかかってきた。
 「もしもし、三千院ですか・・・・・・拓海くん。どうしたの?」
 電話の声の主は拓海だった。
 「ちょっと気になったことを思い出したから」
 「どんなこと?」
 「新宿を歩いてたら、こんな奴に出会ったんだ」
 「どんな人?」
 「血の匂いがした。絶対にあいつは人殺してる」
 自分のことは棚に上げて拓海はそんなことを言った。
 「人を殺してるって・・・・・・」
 「見た目は高校生で右目と左目の色が違ってるのが特徴なんだ」
 拓海がそういった瞬間、やよいの身体を衝撃が貫いていった。
 受話器を握り締めたまま、雷にでも打たれかのように呆然とした。
 「やよいセンセ、やよいセンセってば」
 「はっ」呼びかけられてやよいは我に帰った。
 「どしたの?」
 「なんでもない。なんでもないわよ」
 やよいはごまかし笑いを浮かべるもののさっきの出来事によって気力がごっそりともっていかれたのはありありだった。
 「あんなに強い奴は初めて見たから、やよいなら知ってると思ったんだけど」
 「拓海くん」
 その声は鉛よりも重かった。
 「とんでもないものを見たわね」
 「とんでもないもの、ですか」
 「当分の間、大人しくしてなさい。でないと死ぬわよ」
 「楽しみだね」
 そういうと拓海からの電話が切れた。
 切れた直後、やよいは精も根も尽き果てたかのように座りこけた。
 「やよい先生!」
 「だいじょうぶだいじょうぶ」
 心配するむつきを安心させるために笑うけれど力はない。そして、胃に穴でも開いたかのような苦しさが滲み出ていた。
 「あの子。とんでもない相手に喧嘩を売ったわね」
 「そんなにとんでもない相手なんですか?」
 拓海の出会った相手の正体がわかるとやよいは恐慌を起こした。
 あの常に落ち着いているやよいがである。
 やよいはうなずいた。
 「拓海君が喧嘩を売ったのは決して戦ってはいけない相手。正真正銘の化け物なのよ」

 思えばテロを起こすような兆候がちらほらとあった。
 拓海はうづきやさつき、やよい達に囲まれた生活に順応しつつあったけれど、その一方で適応できないところがあって時折いらだちを見せていた。
 拓海の本性、ちょっとしたきっかけで殺人や破壊を起こす凶暴性は牙を抜かれずに残っているのだから平凡に埋没していく日常に反発するのも当然だ。
 今までは殺戮への欲求を抑えることができた。
 しかし、抑えることができたわけで消えたわけではない。湧き上がる殺意は発散されることなく膨れ上がっていく。
 それが自分とよく似た存在に出会うことによって刺激され、それは火花となって殺意に点火したのだ。
 後は爆発するだけだった。

 それらの事情を悟るとやよいは悲しい気持ちにさせられる。
 拓海を止めることができなかったのかって
 どうして、気付けなかったのかって

 「もしもし、四天王ですが」
 電話が鳴ったので拓海は受話器を取り上げる。
 「拓海くん?」
 「どうしたんだ? むつき」
 するとスピーカーから安堵の雰囲気が流れていった。
 「良かったぁ」
 「何が良かったんだ?」
 「だって、歌舞伎町でテロがあったっていうじゃない。うづき、拓海くんたちが巻き込まれてないかって不安だったんだよ」
 「ったく大げさだなあ」
 うづきはその拓海が歌舞伎町でテロを起こした張本人だって気付いていない。なのに本当に心配していたのが受話器を通して伝わってくる。
 「さつきちゃんは?」
 「寝てる」
 「そっか」
 「仕事は?」
 「ふぇぇぇぇ〜ん・・・・・まだ終わらないのー。拓海くん代わりに仕事やってー」
 受話器から突如響いた泣き声に拓海は苦笑してしまう。
 「それじゃ」
 「拓海くんの声が聞けてうづき、本当に嬉しかったよ」
 子供みたいに無邪気な声が響いていった。
 「おやすみなさい」
 そうやって電話は切れた。
 
 拓海は子機を握り締めていた、ずっとそのままでいた。
 「くそっ」
 しばらくしてから物凄い怒りを込めて子機を叩きつける。



 結局、拓海のテロによって歌舞伎町という街は消滅した。
 死者も百人単位で出た。


 それから数日後



 その少年はやよいが言うほど危険なように見えなかった。
 身長が170cm代と小柄な部類に入る少年でリスのようにすばしっこい印象をもつ少年だった。 ただ、右目が青で左目が緑と色が違っているのが特別なイメージを少年に与えている。
 「初めまして。中津川くん」
 むつきは突然やってきた転校生に挨拶をした。
 「私がクラスの担任を務める一文字むつきです。よろしくおねがいします」
 「ちわーっす。中津川遼っす。こんな美人のおねえちゃんが担任なんてとっても嬉しいです」
 美人と言われてむつきはおもいっきり照れた。
 それから2人は廊下を一緒に歩き始める。
 「わからないことがあったらわたしに色々と聞いてみてくださいね」
 「はーい」
 やよいはこの少年のことを「化け物」とか「人間じゃない」とか評していたけれど、見た目には普通の少年だ。とっても明るくて人好きがする。この分であればクラスに溶け込むのは容易いだろうと安心する。
 「じゃあ、聞きたいことがあるんですが」
 「どんなこと?」
 「五箇条さつきちゃんは元気にしてますか?」
 むつきの背中が一瞬で凍結した。
 
 さつきのことを知ってる?
 さつきのことがわかられている?

 秘密なはずのさつきの存在を
 初めて出会ったばかりの教え子に知られてむつきは動揺する。

 「妹がよろしくって言ってましたから」
 やっぱりこの少年は只者ではない。
 「・・・・・・五箇条先生のことはおやめになった後のことは知らないです」
 「そうすか」
 どう考えても嘘がバレバレのむつきのごまかしぶりであったが少年は突っ込もうとせず代わりに笑顔を浮かべた。
 「それじゃ、今後ともよろしくおねがいします」