空の記憶
-出会い-
イラスト:巴和佐様(提供:OMC)
大陸の空は鮮やかに晴れ渡っていた。
澄み切った蒼が空を染め上げ、視界を越えて何処までも広がっている。雲の一欠けらもない純粋なままの蒼をモニター越しに見ていると、御給智機(おぎゅう・ともき)はいつしか自分もその蒼に飲み込まれて世界の一部になりそうな錯覚を覚えそうになって計器に目をやった。
モニタの表示を切り替えてざっと機体の様子をチェックしてみたが、特に異常は見当たらなく、レーダーには敵機はおろか僚機の姿すらない。
機体に異常がないのは当たり前だとしても、敵機がいない空の下を飛ぶのは極稀だっただけに、極稀な状況に置かれると落ち着かない。存在がなくなるというにも関わらず、敵機の出現を期待したくなるのだから慣れというのは恐ろしいものである。
智機が出撃しているということは仮にも戦闘状態なのだから、こういう時こそ危険である。油断していたら気づかないうちにあの世に行っていたということもなりかねないから、残心を維持することに気を使わなければならないのだけれど、油断していると気が抜けていく。
……無理もないといえるのかも知れない。
純粋なまでのスカイブルー
その色は悲しみや憎しみ、全ての物を無へと還元していくように見える。
それほどまでに空は美しいのに、智機を乗せた水色のエレメンタルフレームの遥か下に広がるのは、コンクリートの破片や、崩れ落ちた高速道路など、建物の残骸に覆われた荒野だった。
智機が何十回目とも携わってきた戦争の中で、これほど最悪な結果に終わったものはなかった。
発端は、ある惑星が母国からの独立を宣言した事から。
惑星の独立を認めない国家は鎮圧にかかるが、独立勢力も頑強に抵抗、膠着状態に陥ってしまう。
その状況を打破したのが、国家側に雇われた傭兵集団。
星団有数の精強で知られた渋谷艦隊と、智機とのタッグは赤ん坊の首を絞めるような容易さで、独立勢力側の戦力を粉砕していき、瞬く間に支配地域を都市一つまで狭めていった。
いつも通りの戦略
いつも通りの戦術
いつも通りの終息
精密に組み立てられた設計図と、設計図に描かれた概念を一分の狂いもなく形として表す匠によって、戦争という不確定要素でいっぱいな舞台にも関わらず、ルーチンワーク通りに戦況が進み、後は都市を降伏に追い込んで仕事完了……と思った時にそれは起きたのだった。
「こちら、トモヨ。ティーガー、状況を報告してください」
女の子の声で本部から通信が入ってきたので、智機は通信に入った。機体が捉えている画像も同時に旗艦ともよにリアルタイムで送信する。
「こちら、ティーガー。ただいまヘイシュイ市上空を飛行中。下は見ての通りの廃墟です。レーダーに敵機の反応は無し、放射能測定値は特に問題ないです。おおかた払われているみたいですね」
「了解しました。生存者は?」
「これから調査を開始するところです」智機はうんざりした。「恐らくはいないでしょうね」
建物は全て崩れ落ち、その跡だけがぽっかりと人を焼いた後のように黒く残されている。大地にはただ瓦礫を無造作にばらまいたような有様になっていて、瓦礫や道路を雪の代わりに白い灰がクリスマスケーキのようにデコレートしていた。
見渡すばかりの残骸残骸で、無事な建物は見当たらなく、見た感じでは生者を確認することはできなかった。上空から俯瞰しただけであるから詳しい調査は高度を下げてからにはなるが、生きている人間はおろか死体さえ見つけ出すのも広大な砂漠の中でダイヤモンドを探すような至難なことのように思えてならなかった。
そこは死都。
人々の営みが完全に消滅した、抜け殻だけの都市。
あるのは過去のまま。
ある瞬間を境に時が停止してしまい、智機の時間は流れていくというのに、ここだけはずっと消滅した時のまま変わらない。
オペレーターのかすかなつぶやきが、スピーカーから流れ出る。
「……ここまでする必要があったんですか?……」
「納得できるはずもないだろ」
私語の領域ではあったが、緊迫した状況ではなく、オペレーターが転送されてきた画像に衝撃を受けている沈痛な面持ちが伝わってきていたので、反応しないわけにはいかなかった。
気持ちはオペレーターと同じだった。
領土を都市一個にまで縮小されたとはいえ、攻城戦は野戦のように一気にはいかず、落とすためには蟻すら這い出る隙間も与えずに包囲し、時間をかけて飢餓に追い込むか、あるいは犠牲を度外視して攻撃に出るのかそのうちの二つに一つになるが、スポンサーが選んだのは強攻策だった。時間に余裕があったにも関わらず。
それはまだいい。
無茶ではあるが、智機が単騎で突撃して、こうして生きているのだから
問題は攻め込まれた敵のとった対応。
「しょうがないよ。こんな末路を選んだのはオレ達じゃない」
実際のところ、智機たちが責任を負ういわれはまったくない。交渉の余地があったにも関わらず、核で自爆という道を選んだのだから。
むしろ、智機こそ自爆に巻き込まれそうになったのだから。
「わかっているんですけどね」
「スポンサーだって……あんまりいいとはいえないんだけどさ」
攻勢の終盤で余計な茶々を入れなければ攻城戦に持ち込まずに済んだはずで、この他にも依頼主は智機たち傭兵に尊大な態度をとっていた。
智機単騎だけの特攻が失敗したら核を落とす手はずになっていただけに外道といえる存在であり、それだからこそ独立を意図し、降伏を潔しとせずに自爆を選んだのも分からなくはない。実際のところは分からないし、真実が明らかにされることもないだろう。
ただ、自爆を選んだのは指導者層の極一部の人間であり、大多数の人間は明日を生きることを望んでいたはずである。
「ティーガーの調子はどうですか?」
オペレーターは愚痴るのをやめると再び仕事に戻る。
ティーガーは強攻突撃の終盤で行われた自爆の巻き添えを受けて破損していた。
修理じたいは概ね完了しており、哨戒作戦に出ているのもテストを兼ねてというのもある。
ティーガーは市販されているフレームを徹底的に改修したもので、ベース機と比較するとケタ外れのパワーを発揮する代償として、修理に手間がかかる。修復した後に本体と修復したパーツを噛み合わせる、智機の操縦特性に合わせた細かいチューニングを施さないと100%の力が出せないからだ。
「特に問題ないよ。MTZドライブも出せるし」
渋谷艦隊の優秀なスタッフチームや戦闘終結といった条件もあって、色々とアクロバット飛行まがいの事をやっていたわけであるが問題はでなかった。
「やってみますか?」
「機材をぶっ壊してもよかったら」
MTZドライブはティーガーをティーガーたらしめている必殺武器だが、それだけに制約が多すぎる武器である。哨戒装備は間違いなく耐えられない。
「中佐が修理費を負担してくださるならかまいませんが」
「ばーか」
笑い声がもれる。
「智機さん。無事に帰ってきてくださいね」
笑えることはとっても幸せなこと。
「了解」
自分たちは悪くないにも関わらず、後味の悪さに罪悪感のような覚えるけれど、こればかりは仕方がなかったと頭を切り替えるしかない。嫌なことばかり引きづるものではあるが、これくらいの事は幾度となく体験してきた事でもあり、 できなかったら今頃とっくに死んでいる。
「ティーガーはこれより任務を続行する」
智機は通信を切ると、右側のサイドスティックを動かして機体を降下させた。
機体が地上に近づくにつれて、地上の様子が拡大されていくが、それは瓦礫の細部や、灰の積もり方が細密になるだけで大局に変化が訪れるはずもない。
今回の探査には関しては、偵察装備にしているが、強化された偵察能力をもってしても生体反応は確認できず、智機のティーガー以外にも多数の偵察ドローンが射出しているので、それらのデータを参照しても、あまり変化はない。敵が来ると危惧……というよりもティーガーの能力を発揮できる事を期待してレーダーを見るが、敵機すらこないし来るはずもない。
数分に渡って、低空飛行を続けたが状況に変化はなく、却ってむなしさが漂うだけだった。
ゴミ屋敷のように散乱している瓦礫たち。
しかし、三週間前までは高温にさらされて焼け焦げ、飴細工のように溶けたままで固まっただけのゴミではなかった。それはビルであり、道路であり、家であり、学校でもあった場所で、そこには人々の営みがあった。涙があった。笑いもあった。たくさんの人々が生きているという証があった。
でも、今は何もない。
全てが何の利用価値もないごみクズへと姿を変えてしまった。
じっくりと見れば分かる建物と道路の境界線から、この都市がかなり栄えていた場所である事がわかるだけにギャップが激しい。
……ため息が出てくる。
智機は帰ろうと思った。
EFで出れば違ったものが見えるのかと思ったけれど、得られる情報はドローンの物と変わりがないからあまり意味がない。
せめて、あそこだけは見て帰ろうと、智機はELの首を横に向ける。
その先にあるのは地上に穿たれた巨大な穴だった。
5分ほどで、爆心地と思しきクレーターの上空に出た。
ここでは残骸も何もなく、ぽっかりと湖ほどの巨大な穴が穿たれており、底の方には水も溜まっていた。
灰がまぶされた汚い水。
ガイガーカウンターのゲージが極端に跳ね上がるが、単にそれだけで目立った変化がない……ように見えた。
「帰ろうか、あい……」
乗機でもあり、相棒でもある機体に呼びかけたところで智機は機体の異変に気づいた。
ガイガーカウンターの濃度は高めだが、これは核自爆してから三週間過ぎた後の事だから疑問はない。
計器類をチェックしても全ての数値に異常はなく、仮にメカトラブルが発生しているのだから自問する間もなく身体が自動的に適切な対応をとっている。
レーダーにも敵影どころかドローンの反応させない。
にも関わらず、突如として発生した肌が泡立つような緊張感が発生しているのは何故なのか?
スピーカーから低くサンプリングした犬のうなり声が鳴り続けている。
「……おまえ。感じているのか?」
ELはただの機械ではない。
犬や猫なみの知能しかないとはいえ、自律的に動ける存在ではある。
名前はティーガーであり、星団一凶悪だと恐れられているEFではあるが、そのパーソナリティはボルゾイで、戦闘時には獰猛になるが平常時は人懐っこくて寂しがり屋なタイプである。そのティーガーは戦闘モードに入っている。
「ここに何かいるのか?」
ティーガーが一際高く吼える。
「……わかった」
退屈にまみれていた智機の表情にやる気がみなぎってくる。
敵もなく、生存者がなく、退屈な哨戒飛行にうんざりしていただけに変化が訪れたのは歓迎すべきことだった。たとえ、それが危険なことであったとしても。
軽くサブモニタに目をやると、クレーターの内部の様子が解析された上空からの画面と、横方向から見た画面が表示され、ポイントが赤く表示される。口に出さなくても理解してくれる辺りは一緒に激戦を潜り抜けてきた仲ということだろう。
ティーガーは穴の中へと一気に飛び込んでいく。
水に触れるスレスレのところで、ティーガーが静止する。
智機は武装を確認する。
偵察装備なので、いつもの仕様に比べて弾数は落ちるが全ての武装は問題なく使える。
しかし、どれもこれもが強力すぎるので、どの程度の力を使えばいいのか迷ってしまう。
生体反応はない。
智機はティーガーの左腕の二倍はある甲殻類を思わせるような異形な右腕を壁になった地面に押し当てた。
右スティックについているトリガーを押し込むと、巨大な右手が赤く発光して振動する。
ティーガーが上昇してからゼロコンマ数秒遅れて、小規模な爆発が発生。土砂がすぐ下にある池に雪崩落ちて、粉塵が宙を舞った。右腕に内臓されたシリンダーが回転して、次弾のエネルギーパックを装填する。
「シェルター?」
煙が消えて現れたのは通路だった。智樹から見て横方向に通路が延びている。
シェルターがあるという事は避難していた可能性があるということだ。
突入するかどうか考えた。
どう考えてもEFが通過できない環境で、一人で探索せねばならず、避難している人間が襲い掛からないとも限らないのにティーガーを盾にすることもできない。ここは報告をして、捜索隊を編成してもらったほうがいいのではないかと考える。
しかし、智機は通路にティーガーを突っ込ませた。
天井が崩落して破片が落下するが、この程度で破壊されるティーガーではない。
通路に食い込ませる形でティーガーを強引に着地させると、周囲の状況を確認。それからコクピットの片隅にしまい込んであったバックパックとアサルトライフルを取り出し、折り曲げていた金属ストックを展開して、バックパックを背中に背負うとコクピットハッチを開けた。
空気が抜ける音がして、外気がパイロットスーツ越しに伝わってくる。
ガイガーカウンターの針は揺れておらず、放射能がないことを伝えている。
「いってくる」
膝折り曲げた状態のティーガーから飛び降りると、そのまま歩き出す。
主人がいなくなった事を確認してから、ティーガーのコクピットハッチは独りでに閉まった。
白い床に、足音だけが響く。
非常用電灯の薄暗い光の中に智機の影が浮かび上がる。
かれこれ歩き回って十分ほどにもなるが、人影は見当たらない。
ドアというかドアロックのようなものが随所で見当たるがどれもがテンキー式でロックされており気軽に中には入れない。
番号表示がLEDなので、正解を推理するのは難しく。爆薬使って強引に開けられなくもないが限りがあるので、ここぞというところでしか使えない。
爆薬を使用する判断を下すのはもっと見て回ってからでもいいだろうということで、智機は探索を続けている。
ELという鎧に守られていない以上、気を抜くわけにはいかないわけではあるが、どうして考え込まざるおえなかった。
事前に入手した情報に、このシェルターの事はなかった。
情報後に建造されたのか、情報が入手できなかったのかは定かではないが、いずれにせよ謎な部分が増えたのは確かだった。少なくても自爆の理由が単に政府による統治を嫌っただけではなさそうではある。
もっとも、頭でいくら考えても答えなんてでるはずがないので、得るためには行動しなくてはならない。
しかし、前方から漂ってくる臭いが思考を強制的に中断させた。
………吐きそうになった。
ELに乗っての戦闘が大半だとはいえ、空気に乗って伝わってくるシュールストレミングを熟成させたような臭いが死臭であることがわかる。
臭いの発生源がかなり遠くだとはいえ、フィルターを貫通して鼻腔に突き刺さってくる。
やっぱり捜索隊を編成してもらおうかと考えた。
距離があるというのに臭ってくるということは、現場では相当凄まじい有様になっているはずである。見なくても状況が理解できた。
丸腰に近い状態で多数に襲いかかられるのも最悪ではあるが、望まないのにグロな映像を見せられるのも最悪ではある。
いくら智機が傭兵パイロットではあっても、三度の飯より殺人が好きというほど病んでいるわけではないので、誰であろうと生きていてほしかった。シェルターを発見して喜びはしたものの、再び落胆へと変わろうとしている。
しかし、ここまで来てしまったら逃げることなんてできない。
智機は歩を進めた。
近づくにつれて臭いの強度は増していき、フィルターを通してでも頭痛がするぐらいに耐え難いものになっていたが、それでも現場の近くまで辿りついた。
目の前には戦車の装甲のように分厚いスライド式の扉があり、傍の壁には開閉用と思しきコンソールがある。
ためしに隙間に手を突っ込んで開けようとしたが、開けられるどころか爪すら入る隙間がない。
「網膜認識式、か」
ここまで厳重なロックがされているということは、人には見られたくない、あるいはお宝があるということを意味する。
いずれにせよ、正規の手段では開かない。
一瞬、ティーガーを呼ぶことも考える。
ティーガーの火力ならどんなに厳重なロックをかけていても全然意味を成さないのではあるが、全てを壊してしまうので思案のあげく、弾薬ベルトからプラスチック爆薬を抜き取った。
プラスチック火薬をちぎり、円を描くように扉に貼り付けるとそれぞれに5分信管をセットした。
充分な距離を取ってから数秒後でセットした爆薬が爆発、轟音と衝撃、そしてドアの破片を周囲に撒き散らした。
爆発が収まり、噴煙が消えたのを確認してから三分ぐらいの間を置いて、智機はドアの前に来る。
派手に爆発したにも関わらず、扉は原型を保っていたがストックで軽くこづくと簡単に崩れ落ちた。
「……なんだよ、これ」
自分の喉から出た声だというのに、他人が喋っているように聞こえる。
ティーンエージャーながらも、無数の戦歴を重ねて生き残ってきた智機でさえ、驚きを抑えることができなかった。
何かの研究所であり、工場のように見えた。
縦型で透明の培養槽が一列に続いていて、基部や天井からパイプでつながっているようだった……というのは培養層が全て割れていて、培養液まみれのガラスの破片が床に散らばっていたからだ。
そして、生れ落ちる前に母親の胎内から取り出されたような胎児の死体が転がっていた。
恐らくは自爆と同じ時期に死んだのだろう。簡単に見ても胎児たちは死亡してからかなりの日にちが経過しているようで、その遺体には蛆や虫がたかって、その小さな亡骸を食い荒らし、なおかつ腐敗した臭いを漂わせていた。
それらがたくさん転がっている。
「……なんだよ。まるで安物の小説の中にいるみたいじゃないか」
恐らくは悲惨な光景が広がっているのだろうとは予想はしたいけれど、事前の予想なぞ簡単に吹っ飛ばしてしまった現実の前に智機はとりあえず立ちすくむ。
床を埋め尽くすほどの胎児の死体。
しかし、智機も今まで罪を犯さなかったわけではない。
物心ついた時から戦士として戦ってきた智機は戦いに勝って生活の糧を得ることと引き換えにたくさんの人々を殺してきた。
世の中にはたくさんの仕事があり、傭兵として人を殺すのも仕事として認められているのだから正しいも悪いも何もない。
引け目なんて感じていない。
何も感じない。
敵機の爆発という形ではあるが、人の死をたくさん見てきたことによって、智機は命の絶つことへの畏れや興味でさえも失っていた。
つまるところ、智機がEFを駆って敵機を撃破するということは空気を吸うようなもので、空気は大事なものであるが吸うことに人は何の感慨も抱かない。
それと同じレベル。
ただ、思い出すだけ。
戦いが終わって、戦後の静けさが流れているコクピットの中。ティーガーのモニタに打ち出されたメッセージを
ワタシタチヲ、コロシテクレテアリガトウ
あの時の事は今でも覚えている。
殺すことでしか救えなかった、殺すことしかできかった事に怒りが生まれ、忘れかけていた殺意の炎が燃え上がる。
けれど、ぶつける相手は存在しない。
その相手はとりあえずはこの手で葬り去っているが、憤りは埋れ火となって今でもくすぶっている。しかし、燻っているからといってむやみたらと爆発させるのは、ただのバカでしかない。
気がつくと握り締めていた拳をゆっくりと開き、深呼吸を二度三度繰り返して、ようやく高ぶっていた熱を発散する。
とりあえずは、扶桑の古来から伝わっていた風習により、手を合わせて培養液まみれで腐り果てた胎児たちの冥福を祈ると同時に探索を開始する。
フィルター越しに………生身の環境では到底耐えられない悪臭の中で、ガラスの破片や死体を避けながら歩いていく。
……それでも踏んでしまい、破片の尖った感触よりも生柔らかいくて、強烈な臭い発散させる官職に嫌気を覚えていく。
延々と続く歩行
その先に違った変化が訪れる。
ようやく培養層の列がなくなり
見えたのは机が並べられたスペースだった。
机と一体となった複数のモニタ。
椅子の前にある、智機にはなにやら意味の分からないコンソール。
そして、机周辺に散らばる白衣を着た死体たち。
彼らは死後数週間といったところであり、胎児同様腐り果ててはいたが、中年から老人といったところの年代であり、みな一応に苦悶で顔を固まらせたまま、死に絶えていた。
………自然、というわけでもないか。
智機はアサルトライフルを構えた。
胎児の死体を気にする余裕なんて消滅する。
足の爪先や、指先、まつげの一本一本にいたるまで自動的に戦闘モードに切り替わっていく。
死体は見て分かるぐらいにガチガチに固まり、腐敗の兆候が見てとれたが、死に方は様々だった。
首を折られていたり
右腕を引きちぎられていたり、
左胸に大穴を開けられていたり
あるいは、腹部を大きく引き裂かれて内臓が露出していたり。
生前なのか、死後なのかはわからないがそんな事はどうでもいい。
……問題なのは、死体の傍に明らかに食い散らかしたと見られる骨の破片があるということ。
そいつが科学者を殺したのかは分からない。
が、食べているのは明らかで、そいつが死んでいるのか生きているのかどうかは分からないが、得体の知れない危険な奴であることには変わりない。
智機はアサルトライフを構えながら慎重に、気配を悟られないように索敵を続ける。
右、左、床、天井
智機の感覚には何の反応もなく、じりじりと時間だけが過ぎていく。
神経にハンダごてを当てられてるような時間。
感じれないだけのか、それともいないのかはっきりとした証拠は得られず、分からないままに耐えていかねばならない時間。
一秒でもタイミングが遅かったり早かったりしても死につながる決死の綱渡り。
でも、生き残った。
智機はこんなにやり取りを繰り広げながら生きていた。
常人だったら緊張に耐え切れずにぶっ飛びかねないが、物心ついた時からこんなやり取りを続けていたのだから、こんな間隔は当たり前。むしろ、心地よいほとだっだ。
敵機が飛んでこない空をただ飛んでいることよりも。
注意はしていた。
たとえ、EFに乗っていなくても反応はできる。
勝てる相手ではなかったとしても、存在を感じ取ることは難しいことではなく、センサーに捉えてしまえば逃げるなりのやりようはある。
気づけるはずだった。
気づかないはずがなかった。
前兆もなかった。
気づいたという感覚もなく智機はいきなり地面に倒されていた。
後頭部を打ち付けられ、ヘルメット越しに強い衝撃が来る。
身体の上に重たいものが圧し掛かってきて、起き上がることすらできない。
死体の山を見るよりも接近に気づくことすらできなかったという衝撃の方が大きかったが、それでも現状把握に動いていた。
智機の身体の上に圧し掛かっているのは10歳未満ほどの女の子だった。
髪がおもいっきり長く、豊かなスノーホワイトの髪が、蔦のように全身に絡みつきながら下に流れている。智機が重たいと感じたのも道理で、ちっこい身体とはいえ優に身長の五倍強はある髪ともなれば重さは壮絶なものになる。
その膨大な量の髪の隙間から見えるその体は、一糸まとわぬ裸で、折れそうなぐらいに細い。
髪と同じようにその身体も白かったが、その腕は痩せ細り、肘から先が茶色に紫が混ざったものがこびりついていた。
……血が乾いたものである事に間違いない。
重たそうに真ん中から分けた髪から見える女の子はまだあどけない。
けれど、やせ細っていて
その琥珀の色の大きな瞳に浮かぶのは虚無。
何故、この子はこんな目でオレを見る?
それはブラックホールを目の当たりにして立ちすくむよう。
それは見る物の全てを無へと化していく。
兵士も、普通に暮らしている人々も、政治家も、王族も、宇宙戦艦やEFでさえも、善悪関係なしに無へと同化させる存在。
安らぎさえ感じさせる虚無に智機は恐怖を覚えた。
大量の死体を縫って歩いた記憶がふっ飛んだ。
………心臓を鷲掴みにされて揺さぶられる感触。
久しぶりだった。
物心ついたころから戦いを経験し、ティーガーと一緒に剣林弾雨の戦地を潜り抜け、死神の手から1mm単位のところで避け続けているうちに、恐怖についてわからなくなりかけていただけに、久しぶりの感覚が智機の背筋を冷たく濡らしていく。
命が無へ同化される……
その一方で、智機は生き残るための方策を模索する。
馬乗りにされた時点で生死は決したもの同然。
女の子のメートル単位であって、しかも豊富な髪の重量によって身動きすることすら、ままならない。
銃は動かせないし、この態勢では撃つ方が危険だ。
恐怖に浸る余裕があることがおかしいかった。
殺すにしてはあまりにも時間がかかりすぎている。
上からか正面からかは分からないが、高速で接近して智機を押し倒した。
口にしてしまうと極めて単純ではあるが、問題なのはその過程が見えず、後付けで推察するしかないその速度の速さだった。
智機でさえも反応どころか知覚する事ができなかったのだから、殺そうと思えば智機が死んだ事すら気づかないで殺せる。智機がもし、女の子ほどの技量を持っていたとしたら恐怖なんか抱かせる間もなく殺せる。
いたぶっていたぶりぬいてから殺したほうが美味しいと考える殺人鬼なら、押さえつけたままで静止している理由も納得がつくが、そういう風には見えない。
その腕は細身の体型ではという説明ではならないぐらいに細く、その愛らしい顔も頬がやせこけていた。
理由は簡単だった。
「……オレは敵じゃない」
まずは敵意を解くことから始める。
状況から考えて胎児や科学者たちを殲滅したのは彼女である可能性が濃厚で、智機に対応させる間もなく押し倒した強敵であるが、熊などの猛獣ではない。
人であるなら交渉が通じる。
腕力では勝ち目はなさそうであるが、交渉の結果によっては助かることも可能だ。
「君を傷つけない。オレはキミを助けにきたんだ」
言った後で、自分の言葉に智機はぶん殴られたような衝撃を受ける。
智機はこの子の事を知らない。
能力的には危険であり、性情的にもどんなタイプであるのか分からない。
彼女を迎えいれるという事は虎の幼獣を飼うようなものだ。
その場凌ぎの嘘?
そうであったとしてもかまわない。
この世に正義があるとするならば、利用するだけ利用して使い捨ててでも、だまし討ちにしても、どんな汚いことをしようが生きのびることが正義なのだから、嘘でごまかすに躊躇いはない。
帰るのを待っている人がいるのであれば
……なのに、胸がかすかに痛んだ。
本当に彼女は危険なのか?
見た目がどんなに可愛くて弱弱しくても油断できないことは理解している。
まだ何も分からないのに彼女を信用するのは甘いと思う。
智機は自分が甘い人間だと自覚させられることに気づかされて自嘲する。
でも、彼女が始めて表情を見せた時。
顔に、瞳に、苦しみの色を浮かべた瞬間、独りでに言葉がつむぎだされていた。
「大丈夫。キミはオレが守るから」
………言ってて恥ずかしいせりふだとは思ったんが、女の子の瞼が閉じたと思ったら智機の身体に倒れこんだ。
……オレ、助かったのか?
あっさりと生命の危機から脱せられたので拍子抜けをするが、倒れ込んだまま起き上がってはこないのだから、危険は去ったと言ってもいい。
炎を抱いているかのように女の子の身体が熱い。
どうにか這い出て、女の子の顔を見ると苦しそうな顔で昏倒していた。
衰弱が激しい。
原因は分かっている。
そりゃ、食えるからと言って数週間も経っている肉を食べ続ければ食中毒になるに決まっている。
それでも食べられなかったら、言うまでもなく衰弱する。
こういう場所だと得てして何処かに非常食が収納されているはずなのだが、女の子に探し出せる知恵があるとは思えなかった。
いずれにせよ、急がなければならない。
「……ダメだ」
女の子を担いでこの場から離れようとしたが無理だった。
いくら羽毛のような髪だとはいえ、メートル単位の量があれば重さは膨大なものになる。持ち上げることはできるが運ぶのは難しい。
普通だったら躊躇いもなくウェイトを軽くする手段に出られるのだけれど、その対象が女の子の髪だという事に躊躇ってしまう。
赤毛のアンは髪を染めるのに失敗したというしょーもないことで断髪されたことに泣いていたけれど、このケースは浪漫も風情もへったくりもない。
しかし、一刻を争う状況だというのに無駄に時間を消費するわけにはいかないから切らざる終えない。
バックパックから切れ味重視で調節したナイフを取り出すと髪を引っ張っては首元辺りでナイフを当てた。
………しかし、やめてしまう。
一気に首辺りまでの長さにしてしまえば運ぶのは非常に簡単ではあるが見た目のイメージが大幅に変わってしまう。もしかしたら本人がショックを受けるぐらいに。
女の子の心理を斟酌する義理はないのだけれど、智機は気にした。
結局はイメージがあまり場所。つまり、再び髪をある程度まで束ねて引っ張ると今度は足元辺りで刃を白い髪に当てた。
力をほんの少し入れると、何の抵抗もなく刃は髪束に入り、切断される。
「いいの。おにいちゃんが「かわいい」っていってくれるんだったら、かまわないから」
「ご主人様……その…いえ、なんでもないです」
女の子の髪を切るたびに色々なことが蘇ってくるのだけど戦場で鍛えた精神力でねじ伏せて、1分の範囲で散髪を完了させる。
散髪とはいっても足の辺りで切りそろえただけだから見た目のイメージの変化はないが、これだけでだいぶ軽くなった。
羽毛のように軽くて、片手で簡単に担げてしまう。
余分なウェイトがなくなれば見た目よりも軽い女の子だというのがわかる。ダイエットに励む妙齢の女性ならともかく、この年頃の女の子ならあまりいいとは思えないのであるが。
呼吸が荒く、苦しそうに顔が歪む。
智機はバックパックを開けて、隙間に折りたたんだアサルトライフルをねじ込んだ。
最後に部屋の内部を確認する。
欲をいえば、この研究施設に関する資料を欲しいところであるがコンソールのモニタは一つ残らず破られ、スーパーコンピューターらしき装置も破壊されている。ユニットの一つを無理やりもっていって解析を頼むという手もあるが、女の子と一緒にはもっていけない。
智機は女の子をお姫様抱っこすると走り出した。
ルートはほとんど一直線だから、10分もしないうちにティーガーの巨体が見えてくる。
智機の姿を見るなり、嬉しそうに頭部カメラを点滅させるが、智機が抱きかかえている女の子を見るなり、警告音を最大音量で発して威嚇を始める。
警報と一言で片付けるが、高いのから低いの。更には一音を伸ばし続けるのや、一音を短く区切ってゆったりしたペースから連打まで無限のバリエーションがあるなんて思いもよらなかった。
……単にうるさいだけであるが。
「黙れ!! バカ虎!!」
ティーガーは何が危険か気づいていたのだろう。気持ちは分からなくもないが、智機が怒鳴りつけると一瞬で盛んに鳴り響いていた警告音がやんだ。
機体から一気に落ち込んだ雰囲気が漂う。
「開けろよ。こら」
自動で前部のコクピットハッチが開くが、ゆっくりとした元気の欠片もない様子に智機は苦笑してしまう。智機もこんなことをしたくはなかったがこれしかなかった。機体にも調子の並があるので出力が低下気味になるかも知れないが諦めるしかない。
灰が付かないように注意して、一息でコクピットに飛び乗ると、女の子を膝の上に乗せてコクピットハッチを閉めた。
ハッチが閉まったと同時に機体各所からの映像が360度に展開され、計器に灯が点る。
軽く、機体に異常がないかどうか検査するが特に問題はない。
こころなしか項目の切り替わりが微妙に遅いので実際に飛べば吹けが弱いんだけれど、しょうがないだろう。
智機は本部に連絡を取ろうとした。
連絡したいのは艦隊指揮官でもある艦長であるが、旗艦にはスポンサーである政府の軍人も乗っている。気取られるのはまずい。
思案したあげく、智機は言語を扶桑語にし、通信モードをチャットモードにして旗艦の航空指揮官に連絡を取ることにした。
「こちら、ティーガー。姐さん。聞こえますか?」
少ししてから真正面にあるモニタから扶桑語で文字が流れてくる。
「こちら、トモヨ。何やらかしたん? 中佐」
通常の通信ではなく、お目付け役に気取られないように文字通信にしている理由を事情を察してか、言いたいことはあるのかも知れないがとりあえずは意図を理解してくれている。
「提督はどうしてます?」
「提督なら会議中。後少しで戻ってくる」
返答にタイムラグがあるのは、智機が音声を自動で文章にしてくれているのに対して、航空指令である姐さんはキーボードで文章を打ち込んでいるからである。
「提督に内密で連絡したいことがあります」
「いいけれど、あたしではダメなのか?」
「提督の裁可を仰がなければならない事になるので」
航空巡洋艦ともよの全艦載機の運用を取り仕切る姐さんとは長年の付き合いになるだけに隠し事をすると公言するのは辛いことではあるが、膝元で苦しそうに眠っている女の子を公にすることができないのだから仕方がなかった。秘密保持のためには知る人間を最小限にとどめておくのが鉄則である。
「了解した。今後の予定は?」
「詳細は言えないが緊急事態が発生したのでこれより帰頭する」
「何か分からないけど、無事に帰ってくるんだぞ。こちらから連絡を入れさせるから。じゃあな」
「ありがとうございます」
複雑なものがあるにせよ、何も言わずに要求を呑んでくれた姐さんに感謝して通信を打ち切るとティーガーを上昇させた。
1分もかからないうちにクレーターの中から空へと上昇すると、最短ルートで旗艦へと向かう。
いつもだったら最高速を出すところではあるが、乗員への負担が大きい機体なだけに、出せないところが呪わしい。
「こちら提督。ティーガー応答せよ」
幸いなことに上昇して水平飛行に移行した直後になって通信が入ってきた。もちろん艦長からのである。
通信モニタにはスラックスの制服を着て、少将の階級章をつけた30代ぐらいの理知的な青年の姿が映し出されている。
「こちらティーガー。聞こえてます」
「ただいまこの通信は艦長室から行なっている。奴等から傍受される心配はない。で、智機は何を見つけ………」
この通信は通常通信だから、双方向の映像が見える。
智機には艦長室の様子が見える代わりに、艦長にもコクピットの様子が見えるわけで、智機の膝で白い髪の女の子が眠っているのを見るなり、インテリぶっていた表情が一変する。
「智機、その子を何処で見つけた!! ボクにも紹介しろ。きちんと知り合うチャンスを与えろ!! 身長は!? 体重は!? スリーサイズは!? で、どんなタイプの男性が好みなんだ。「お兄ちゃん」って呼ばせるにはどうしたらいいんだっっ!!」
……予想はしていたとはいえ、げんなりとする。
渋谷艦隊のトップであり、ともよの艦長でも渋谷達哉は名将としての評価を得ている人物であるが、ロリコンであるのが最大の欠点だった。
ロリコンだろうがホモだろうが、艦隊指揮や会社経営の達人なのだから問題ないのだけれど、とはいえ頭が痛くなる事ではある。
「……マリアに言うよ」
騒いでいた艦長が一発で固まったのはある意味、爽快であった。一回見れば充分とも言うが。
「あんなに可愛くて性格もよくて、なおかつ優秀な奥さんがいるのに何が不満だっていうんだ。捨てるんならオレにくれ」
8歳という年齢を覗ければ、妻としてパートナーとして実に得がたい人物である。
「マリアは渡さん……って、ひょっとして智機も幼女の魅力に目覚めた!?」
「ちげーよ。あれほど仕事ができる奴なんて大人でもいないだろ」
「幼女というのはあくまでも愛でるものであって、鉛筆やパソコンじゃないんだよ。本当は連れていきたくなかったんだけど」
言い方こそぶっとんでいるが、大切な人を戦場に連れていきたくない気持ちは理解できる。ましてや本来なら普通に初等教育を受けている世代なのだから。
「言い出したら聞かないし。マリアは提督には過ぎた相手なんだから、浮気するなよ」
「智機だって藍美がいるだろ。目の前でハーレム作られるのが許せないだけだ」
「ハーレムって………」
こないだメイドに迎えたばかりの少女の姿が脳裏に浮かぶ。
困ったような表情と、たわわに揺れる巨乳が網膜に蘇って、思わず赤面してしまう。
「僕はここに一つの予言をする。きっとこの子は智機のことを「おにいちゃん」と呼んでベタベタすることだろう……すげーうらやましい」
「マリアにいい子いい子してもらえよ」
艦長の異様なハイテンションを前にして気力がごっそりともっていかれたのを感じながら、智機は強引に軌道修正をした。
本来なら漫才をやっている余裕はない。
「見たことを報告するから、艦長は判断してくれ」
「了解した」
智機はティーガーの警報によってクレーターに降りたこと。ためしにクレーターの壁を破壊してみたら、シェルターにあたったこと、内部を探索してみたら研究所になっていて死体が転がっていたこと、そして、女の子に襲われたことを手短に報告した。
「素敵すぎるぐらいにキナ臭い話だね」
報告を聞き終えた艦長の一声。
地下でこんな施設があったとあれば核自爆も裏で怪しい事情でもあったのかと勘ぐりたくはなる。答えを得るには情報が足りないが。
「しかし、信じられないねえ。智機が押し倒すんじゃなくて押し倒されるなんて」
「オレだったら殺してると思いますが」
言葉に棘というには軽いものが入っていたけれど、平然と流す。
「殺すなんてもったいないこと言うなよ。僕が許さん」
「許さん……って、あのですね。殺されかけたのはオレなんですよ。彼女じゃないんですよ」
「はっきり言おう。いくら智機でも美幼女の爪先ほどの価値もない」
冗談でも何でもなく、本気なのが救いようがないというべきか。
見た目は可愛いが中身は危険だというのはいくらでもいる。油断したら気づかないない間に地獄に落ちているという事でもあり、彼女は最たるものにも関わらず嗜好を優先させる提督には頭が痛くなってくる。
……あんたは軍人だろと言いたくなるところだった。
「場所の情報はそちらに送るから捜索するなり、焼くなり好きにしてくれ」
「智機としては焼きたい気分だろう」
女の子の安全を考えるなら、脱出した後に焼くのが最上ではあるが、勝手ができる立場ではないのが辛いところである。
……心臓がうずく。
女の子の安全を考える必要なんて本当はないはずなのに。
「にしても……大丈夫か? 智機」
「大丈夫。一時はどうなるかと思ったけれど、なんとか生きてる」
女の子に襲われた時のことを言っているのだと思ったのだが、外れた。
「違う。いっぱいグロいの見たんだろ? 一回ぐらいはカウンセリングを受けたらどうなんだ?」
提督が言っているのは死体を大量に見た事に対してだった。普通の人間なら重大な衝撃を受ける。PTSDで治療を受けるべきだろう。
「オレ達がどんなことをしているのか再確認できてよかった。このところ生ぬるかったかったからいい薬になった」
「再確認っておまえ……」
乗り物に搭乗して戦うのが一般的になっているこの時代。死体が瞬時に蒸発するので殺している感覚が鈍くなりがちだとはいえ、こんな事を平然と言ってのける智機には唖然とするし、別の意味で心配にもなる。
「まあ、いいや。ところで犯人はやっぱり……」
「提督の想像通りだとは思うんだが…」
流石に智機も言葉を濁した。
胎児や科学者たちの大量の死体
胎児ついては何もいえないが、科学者については他殺であり、犯人は女の子である可能性が濃厚……というよりもそれ以外の可能性がない。
智機は複雑な感情に捉われる。
充分に気を配っていたにも関わらず、接近されたことを思うと。
「その子の具合は?」
「食中毒に栄養失調といったところ」
「微妙だね」
この時代でも直せない病気ではないとはいえ、楽観できるようであれば焦る必要はない。
「智機はこの子をどうしたい?」
智機は即答できなかった。
膝に抱かれている女の子
この子は間違いなく科学者を食っていて、なおかつ絶滅させた疑いもある。虎の子供みたいなもので、可愛いけれど迂闊に近寄ったら頭から食われる。反応すらさせてもらえずに組み敷かれていたことを思い出すと背筋が寒くなる。
恐怖というのは楽しむものではない。
「取り決めでは見つけたものはスポンサーに引き渡すんじゃなかったっけ?」
スティックを握る手に力が入る。
この星全てがスポンサーの財産であるから、見つけたものを私有物にしてしまうのは盗難にあたる。女の子だって財産の一つであるからスポンサーに引き渡すのが筋というものだろう。
「危険な存在だったら渡してもいいんじゃないのか? 彼女が暴発しても僕たちには何の関係ないわけだし」
危険物を引き渡せばこの件はこれで終わり。
もし、女の子が何かのきっかけで暴走して、多数の死者が出たとしても、それは引き渡された方の責任になるわけで何も思い悩む必要がない。
逆にいえば智機が引き取るとなれば、女の子の行動に責任を負わなくてはならない。たとえ、旅客用宇宙船が爆発するような惨事になったとしても。
けど、女の子自身の幸せはどうなる?
あの様子だと実験体として扱われていた。
スポンサーの物になるとしたら、どう考えても人間として扱われるとは思えなかった。
智機は思い返す。
「いいか。一時間以内だ。一時間過ぎたら、核をヘイシュイ市に落とす」
「核って……正気ですか?」
「これは見せしめだ。我が国家に反逆する輩には罰を加えなければならん。謀反を起こしたらどうなるか、ヘイシュイ市民には我が国安定の人柱となってもらおう。市民には反乱軍を支持したという罪がある。これは万死に値する」
………腹が立ってきた。
智機たちが責任を負うことはないとはいえ、仮に智機が一時間で落としたとしても、おそらく都市単位で虐殺していただろう。
女の子の吐息がかすかに打った。
あいつらに女の子を引き渡していいのだろうか。
しかし、リスクを受け渡せるのなら受け渡すべきで、女の子によってスポンサーが被害を蒙ろうが知ったことではない。それこそ天罰というべきものだろう。
一時は苦い想いをするのかも知れない。
しかし、この程度の事は幾度となく経験しており、幸いなことに人の記憶容量というものはたいした量がないのだからすぐに忘れる。
いい事も悪い事も。
守る、と約束した事も忘れて、最初からなかったかのように生きていける。
けれど……
「智機はこれから帰頭しろ」
立場的には同格であるとはいえ、指揮権は提督にあるのだから死ねと命令を下されようとも従うしかない。
いくら気に入らなくても、スポンサーと対立してはならないから、引き渡さなくてはならない。
「彼女は任せておけ。こっちでごまかしておくから」
だから一瞬、唖然としてしまう。
「……やつらに引き渡すとでも思ってたんだろう」
してやったりと画面の中の提督は笑っていた。
「あんたが約束破りしてどうすんだよ」
契約というのは守るものであり、破ったら信用という金よりも大切なものを失う。一個人ならともかく露見した時の被害は渋谷艦隊という企業で働いている人全てに及ぶわけであり、智機の願いが無茶であって、渡らなくてもいい橋を渡る必然性なんて全然ない。
「艦隊は僕の物だ。僕の好きにしていいだろう」
「あのなあ……」
スポンサーから派遣された軍人とのやり取りで、提督は平然としていたが実は腹が立っていたらしい。事実上、二人だけであり相手が気のおけない智機ともあって本音をさらけ出している。
「僕は星団100兆人の幼女の味方だからさ」
表情は魅入られるぐらいに爽やかだったが、セリフは巨大なライフルを突きつけるように物騒だった。
常識も、社員達の運命も、何もかもがこの笑顔の前にふっとんでしまう。
堂々と幼女愛を宣言した提督に、智機も二の句を告げなかった。
「違うだろ。こういうのは若いのが非常識で大人が常識的ではないんじゃないのか」
「確かにそうかも知れないね。でも、幼女が好きで何処が悪い。幼女と真剣な恋愛をするのは常識ではないのかね」
「真剣な恋愛と書いて、強姦と読むんですか」
「悲しいね。僕はそんな世の中の偏見を一掃するために日夜戦い続けているのに」
「はいはい」
言いたい事は山ほどあるが、狂信者と同じで説得で変えられるものではないから、やるだけ無駄である。
「……というより怖いんだよ。智機」
提督の言った意味が分からなかった。
「何が怖かったんですか?」
提督はこの天然野郎と言いたげな眼差しをする。
「さっきの智機。無茶苦茶怖かったぞ。幼女と結婚できなければ皆殺しにしてやると言いたげに怖かった」
表現はアレであるが、ようやく智機にも飲み込めてきた。
「…オレ、そんなに恐ろしい顔してました?」
「幼女のお漏らしのごとく殺気がただ漏れしてた。仮に僕がNOと言ったら間違いなく、白ティーガーにしていただろうね」
自覚していなかった。
殺意をぶちまくけるぐらいに激怒していた事に。
頭の中では冷静だと思っていたのに、気づかないところでヒートアップしていたらしい。
感情と肉体のつながりが断絶している事に呆然とする。まともに考えれば危険なことだ。気持ちとしては笑っているのに、殺してしまっているのだから。
そこまで思いつめるまでもないのだけれど、感情と表情の乖離について原因を探してみた。
何をそこまで駆り立てているのだろう。
提督が口を開く。
「仮に僕がNOと言っていたら、渋谷艦隊にも、スポンサーにも不幸な結果になっていただろうね。智機が心配する事はないから早く帰ってこい」
ロリコンだとか変態だとか、色々と欠点はある提督ではあるが、その言葉には仲間を思いやる暖かさに溢れていた。そして、安心感があった。表情は軽くてもやると口に出した事は必ずやってのけるのが提督の最大の美点だった。
「恩に着るぜ」
「貸しを作るほど楽しいことはないからね。楽しみだなあ。あの子の髪を編み編みするの」
「……結局はそれかよ」
モニターの向こうが女の子の長い髪を編むことを想像して悦に浸っている艦長を見てため息をついた。変態なのは玉に瑕のだが、艦隊指揮にはまったく影響がないので、いいのか悪いのかわからない。
仮に10歳の以下の女の子を誘拐すればそれはそれで問題なのだが、そういうことは多分、ない。
「いつまでも過去を見ているよりも、前向きに生きることが重要ではないのかな。では、また」
「おい、ちょっと…」
最後に思わせぶりなことを言って通信は切れた。真意を聞きたいところではあるが、一度切れた通信がつながる事はない。
「ったく、しょうがねえな」
智機はオートパイロットを設定する。
戦闘機動するというわけでもないから、後は索敵レーダーに目を通して万が一にも敵機がこないかどうか確認するだけで事足りる。
幸いにも哨戒装備なので、索敵範囲が通常よりも拡大されているから、大抵の敵なら先制できる。先制できたら落ちたも同然である。
智機は考える。
どうしてこんな行動に出たのだろう。
女の子は危険な存在であり、爆弾を抱えるようなものだとすればわざわざ背負い込む事はなかった。
スポンサーたる政府に引き渡せばそれで終了。女の子がどんなトラブルを起こそうが関係はない。むしろ、見つけたものはスポンサーに引き渡すという取り決めを破っているのだから、露見した事を考えると色々なところに迷惑をかけている。たとえ、艦隊指令であるある提督が配慮をかけてくれたのだとしても。
近くない将来のうちに、この時の決断を後悔する羽目になるのかも知れない。
でも……
智機は女の子を見つめる。
自分という人間は甘いのかも知れない。
少なくても、殺そうとしていた相手をリスクを負ってまで保護しようとするのだから、お人よしにもほどがある。
女の子が目覚めたからといって、どんなリアクションをとるのか読めない。
感謝すると思うのは智機の見方であって、人には人の数だけの見方がある。
目覚めた瞬間に智機や廻りの誰かに襲い掛かったとあれば立つ瀬はなくなる。
考えれば考えるほどネガティブな気分に陥ってくる。
………笑うしかなかった。
どういう存在だか分からず、苦しむ姿を見ていたら病院につれていくように、彼女を守りたいと思ってしまったのだから。
単純。
あまりにも単純で、よくこんなので生きていたのかとおかしくてたまらない。
でも、後悔はなかった。
後悔するようであれば最初から普通に通信をしている。
助けてよかったと、
………なるほどな。
答えは簡単だ。
あの時、智機は殺すことでしか救えなかった。
それは冷たいけれど、厳然たる事実であり、結果を覆すことは出来ない。過去を変えることはできない。
開かない扉を叩き続けることに意味はない。
智機は彼女を見る。
膝の上の彼女はぐったりしていて、危険な状態であることには変わりない。
過去を変えることができないけれど
明日は決まっていない。
あの時はどうしようもなかったのだけど、今ならば助けることができる。
殺した子たちは幸せにする事ができなかったのだけど、この子はそうではない。
自分の決めたルールに背くようなことにならなくてよかったと
自分自身を壊すようなことにならなくてよかったと智機は思った。
「これから、どうしようかな」
銀行に預けている預金額を思い出そうとするがすぐには出てこない。しかし、傭兵としてのランクは高く、難しい任務を数多くこなしている上に出費も少ないのだから、相当な額が溜まっているはずである。
一人、ではなくウスタリで留守を預かっているメイドを合わせても面倒は見切れるだろう。
今まで智機は戦場から戦場への生活を続けていた。
戦争と休息の繰り返し
延々と続くかと思われた日常がこの日を境に変わっていくわけで、智機も薄々とではあるが気づいていた。
十分もしないうちにカロシュティ上空に来ると、鋭角的なシルエットを持つ巨大な軍用艦が同高度で飛んでいるのが見えてきた。
航空巡洋艦ともよ。
大国の空母と比べると小ぶりではあるが、空母並のEF運用能力と戦艦級の砲撃力を持たせた艦船で、砲撃力を持たせている都合でEFの搭載量が減っているという欠点はあるが、それでもたくさんの戦場を勝ち抜いてきた歴戦の艦である。
「こちら、ティーガー。着艦許可を求む」
「了承しました。右舷甲板から進入してください」
「了解」
ともよの前方両側に密閉式の滑走路が二つずつ展開されていて、EFはここから発艦していく。
智機はサイドスティックを倒して、機体を旋回させると、ティーガーをともよへと接近させる。
ゆっくりと大きくなる船体と前方に大きく突き出た飛行甲板。
智機はスティックを小刻みに合わせながら、ティーガーを甲板と同軸を合わせるようにコンドロールした。
甲板から人間の目では目視することが不可能なガイドレーザーが発射され、ぴたりとティーガーに合わさった。
智機は気を抜くと、サイドスティックから手を離した。
何も操作しないのに、ティーガーの高度は下がり甲板との距離が狭まっていく。
ガイドレーザーに捕捉されれば後はオートパイロットで誘導から着地まで何でもやってくれる。智機が操作する余地はない。
ふと、膝で眠っている女の子を見ると、相変わらず女の子は苦しそうに眠っている。
めまぐるしく変わっていた各種の数字がゼロになった。直後、軽い衝撃がして、ティーガーは滑走路の中へと吸い込まれる。
自動的に膝を曲げてしゃがんだ態勢になったティーガーはガイドレバーを捕まえると出撃とは逆の形で、短い通路を走り抜けて格納庫へと到達する。
機体は完全に静止し、着艦は終了した。
それと同時に格納庫に設けられたスプリンクラーからティーガーめがけて洗浄液が放出される。放射能汚染された大地を飛んだための処置であり、智機はもどかしい思いをしつつも洗浄が終わるのを待つしかなかった。
1分が10分ぐらいに感じる時が過ぎて、洗浄が終わると近くにあるランプの表示が赤から緑へと変わった。
ハッチオープンOKのサインを見ると智機はスイッチを押して、コクピットハッチを開けた。
女の子は相変わらずぐったりしている。
「……もう少しだからな」
声をかけるが反応はない。
智機は女の子を両手で抱えたまま飛び降りた。
「中佐」
かなりの高さであるにも関わらず、傷一つ負うことなく飛び降りると既に待機していた医療スタッフが駆け寄ってきて、智機はストレッチャーに女の子を乗せた。
間髪いれずに医療スタッフの手にストレッチャーは医療室へと移動する。
ここまで来ると智機にはやれる事がないから、見送るしかなかった。
「中佐も検査のために、医務室へお急ぎください」
「……了解」
放射能汚染された地域を飛んでいる上に、彼女から何らかの病原菌をもらっている可能性がある。
旗艦に戻ってからも、1日は終わらなそうだった。
「中佐の身体には特に異常が見当たらないわね。放射能の影響もないし、病原菌も伝染していない。おめでとう」
綿密に検査を受けた後の結果を担当のナイスバディが自慢な軍医に告げられた。良好ではあったが智機の表情はうかないものだった。
「あの子の事なんだけれど、正直言って厳しいわね」
智機が何を気にしているのかを聞くような事はしなかった。愚問だから。
「病名は病原性大腸菌。早めにかかれば治る病気なんだけれど、合併症を併発して非常にやばい状態になっているわね。おまけに栄養失調も加わっているし。中佐に襲い掛かれたのが不思議なぐらい」
「助かるんですか?」
「厳しいけれど、かといって手遅れというほどでもないから難しいところよね。とりあえず、やるべき事はやったから、後は彼女次第という事かしら。ま、私の見立てではもってくれるとは思うけど、ここ1日2日が山でしょうね」
前渡は厳しいが、絶望するほどではない。
軍医が手を尽くしてくれたのだから、後は天運に任せるしかない。手の届かない領域で物事が進んでいく事に納得するというのは嘘になるが、そのような例はいくらでも有り触れているし、ベストを尽くしてくれたわけであるから、諦めもつかないわけではない。
正確には諦めをつけることができる。
「心配?」
「心配しないといったら嘘になるでしょうね」
生きていたら生きていたで対応に困らないというわけではないが、せっかくリスクを犯して助けにいったのであるから、助かってほしい。生きていてほしいと思っている。
「私もあの子には助かってほしいとは思っているんだけれど、こればかりは神様に願うしかないものね。それより、私には気になる事が一つあるんだけど」
「それは?」
「気づいていないみたいね」
何故か、軍医は呆れ顔になっていた。
「中佐の身体よ。ライダーとしてはまだ早いとは思うんだけど、引退も視野に入れておいたほうがいいわね」
「引退…ですか?」
まだ先だと思っていただけに、現実味が沸かない。
「血反吐吐いているのに、ライダーが務まるかっつーの」
それを言われたら智機も何も言えなくなる。
「よく、あんな化け物を乗りこなせているとは思うんだけど、流石に白ティーガーは無茶でしょ。引退というのは言い過ぎだけど、少しは自分の身体を労わりなさい。ああ、そうだそうだ。提督が言うにはグロいものを見てきたってん言うんだけれど、大丈夫なの?」
戦場に受けるダメージには肉体的なものではなく、精神的なものも含まれる。
「平気ですが。提督にも言ったんですが、俺たちの戦いというのは死体が残らなくて、実感を忘れがちになりますから、こういうのも貴重な体験だと思いますけどね。一回だけで充分ですが」
「……嘘だとしても心配だし、本当だとしても問題かもね」
戦争、殺し合いというのはヤスリでこすられるように人の心を蝕んでいくものである。
最初は穏やかな人間であったとしても、戦いを続けているうち、戦場のプレッシャーに荒み、荒廃していく。
もちろん、智機も例外ではないはずなのだが、荒んでいるようには見えない。
「ぶっちゃけ、すぐにでも出撃しろと言われたら出撃できますが。ティーガーも損傷を受けてませんし」
戦争に人間は不要だ。
心が荒廃しようが、破壊されようが戦い続けられることが重要であって、戦い続けられるのであれば心の有る無しは関係しない。
しかし、軍医の表情は重たかった。
検査から解放されても、気分ははっきりとしないまま、艦長室に向かった。
「提督、御給智機です」
「入ってもいいよ」
インターホン越しに返事が返ってきたので、智機はドアに触れて、艦長室に入った。
艦長室にいるのは予想に反して提督だけであった。
「あれ? マリアは?」
「マリアは色々と用事を頼んでいるからね」
「会話の内容が漏れたから、ではないですよね」
「いやあ、それはないと思うよ。うんうん」
あの狂乱ぶりは、マリアを怒らせるには充分だろう。
智機にしたところで提督が嘘を言っているとは思えないものの、あの時の会話の内容を思い出すなり頭が痛くなってくる。
「智機も人の事は言えないんじゃないのか?」
「藍美だったら文句を言わないし、言わせない」
仮にあの女の子の面倒を見るようであれば、ウスタリで待っている藍美がどのような反応を示すのか気になるのではあるが、藍美は親切で人懐っこいタイプだし、女の子はまだ子供だから対立する要素は何処にもない。
「言わせないってかっこいいねえ」
提督の何処か含みがある態度が気になった。
「藍美じゃないよ。智機は木の股とか実験室から生まれた存在ではあるまい」
現在のところ、家族といえるのはメイドの藍美ぐらいではあり、両親がいないわけではないがこの場所から遠く離れた場所でのんびりと暮らしている。
養母の連れ子だった女の子のことを思い出す。 ……見ているだけなのに、狼を目の前にしたウサギのように震えているような、そんな女の子の表情を今でも覚えている。
いくら話しかけても、怖がるばかりでまともな会話ができなかったのだから、何も思っているはずがない。
智機が生きようが野垂れ死んでいようが。
「智機が何を考えようと自由だけど、僕が何を思うのも自由だよね」
「何がいいたい?」
「別に」
靴の中に針を仕込んでいるような提督の物言いに引っかかるものを覚えたが、提督は真意を読まれるような事はしなかった。
そもそも本題からは脱線しているので、本筋へと引き戻す。
「提督。ヘイシュイ市上空を偵察しましたが敵勢力が……残っている以前の状態ですね。見つけた生存者は彼女一人だけです。詳しいデータは哨戒システムのデータを参考にしてください」
「了解した。残余の敵は……愚問か」
「生存者を探しているような状況ですから」
「今回の戦争はこれにて終了ということだね」
「そう…すっね」
オチにはすっきりしないものがあるが、敵勢力が殲滅されたのだから渋谷艦隊ならびに智機の仕事もこれが終了である。再建に長い月日と莫大な予算がかかるがそんなのは知ったことではない。
後はいくらかの交渉を済ませて、ウスタリに帰還ということになる。
これで終わったのだ。
悲惨ではあるけれど、よくあるような戦争が。
「スポンサーはどうしたんですか?」
通常なら、派遣されているスポンサー側の軍人が臨検するはずなのだが、その姿を見ることができない。
「見て見ぬふりをしてもらう事にした」
あからさまにはできないような手段を使ったらしい。
「大丈夫かよ。賄賂なんて」
「無駄金は使わないよ。数週間もあれば全てを知るには充分だからね」
弱みを調べて、脅し上げたようである。ため息が出るところではあるが悪辣すぎる手段に助かったのも事実ではある。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早いだろ」
個人的な事情で艦隊全体を危ない橋を渡らせているだけに智機としては感謝ではあったが、提督というようにこれで終わりというわけではない。
むしろ、智機にすればこれから始まったようなものだ。
「助かると……いいよね」
ロリコンであることを差し引いてもお世辞ではなく、本気で心配しているのは伺えた。
「微妙なんですけどね」
智機の見立ててでは栄養失調と食中毒である。智機なりにベストは尽くしたつもりではあるが、事態というのは人の手が届かないところで進んでいくものである。
「本気で心配しているのか?」
「心配はしていますけど、不安がないと言えば嘘にもなりますから。最悪の場合、刺し違える覚悟はあります」
「最悪って……よっほどトラウマになっているみたいだね」
最大限の便宜を図ってもらっているのだから、女の子が暴走した時、被害を最小限に留めなければならない。
「ひょっとして、緊張してる? 独立勢力と戦った時よりも」
「あいつらは単騎でも勝てる相手だったけれど、あの子には恐怖を覚えた。いい経験だったけど。恐怖というのは痛みと一緒で忘れちゃいけないから」
EFと通常戦力との差は圧倒的なものがあり、独立勢力側にもEFがあったが智機の敵ではなかった。実際の話、楽勝といえるものであって最終戦を除いて面白さを感じなかったほどである。
「相変わらずの天然ぶりだね。智機らしいといえば智機なんだけれど」
智機からすればゲームよりも簡単ではあるが、実際のところ、智機の認識と世間の視点はかなりずれている。
「僕が思うにはそんなに心配することもないとは思うんだけど」
「根拠は?」
「勘」
即答だった。
「………毎度毎度だけど、よくそんなんで軍人やってられるよな」
信じられる根拠もなく、勘だけで決定する奴はただの無能で、率いられる兵にすれば災難である。無論、戦場において勘だけで戦っているのではないが。
「実際、あの子が目覚めてみない事には何を言っても始まらないんだけどね」
「確かに」
「ちょっと話は変わるんだけど、この戦いが終わったら智機はどうする?」
「どうするも何も、次の仕事を探すだけだろ」
智機は渋谷艦隊で戦っているわけではあるが、艦隊に所属しているわけではないのでフリーランスなのでウスタリに戻ったら仕事を探すことになる。
傭兵としての戦いの仕事を
「戻ったら戻ったで仕事には事欠かないからね。白ティーガー目当てのモルモットは勘弁だけど」
「言わずもがなんだけれど、智機ってほんと天然だよね」
何が感に触ったというのか、提督は含みのある態度をとってきた。
「何が言いたいんだよ」
「藍美がいるというのに、今までと同じ生活ができると思っているのかい?」
一人なら、戦いの日々を続けることができたのであるが、智機には家族がいる。今回は留守を任せることができたが、これからも同じような生活を営めるかどうかはわからない。
「オレは戦うしか能がないから」
「世の中というのはままならないものだからね。才能に合う最適なステージを選べるのなら……ちきしょう。僕は幼女のハーレムでうはうはだったのに」
……やっぱり、こいつ犯罪者だと智機が思ったのは言うまでもない。
「智機は働かなくてもメイドさんを大量にはべらせてウハウハな生活ができるんじゃないかな?」
「オーバーじゃないのか」
智機としてはそこまでの稼ぎがあるようには思えなかった。
「智機は自覚してないかも知れないけど一応は佐官なんだし、天引きもひどくないよ。酒もやらないし博打もしない、幼女も買わないじゃないか」
「誰が買うか」
17歳という年齢にして佐官であり、宝石よりも希少価値のあるEFのエースパイロットなのだから、多額の報酬をもらっている。移動や補給、整備を渋谷艦隊に委託してもらっている形になっているのでその分の経費を差し引かれるが、大した額ではない。
幼女を買うのは論外であるが、明日をも知れない傭兵にあるように賭博や薬物にはまっているわけではない。
仕事で忙しい上に支出が必要最小限に抑えられているのだから、財務投資など余計な事をしていないので普通に考えれば働かなくても食っていけるだけの収入があるはずである。
「智機の生活に口を出すのもなんだけれど、少しは藍美たんを大切にしたほうがいいと思うよ。あの肉体を使わないなんて勿体ないの極みだと思うんだけど」
「…何が勿体ないんだよ。提督こそマリアを大事にしたらどうなんだ?」
話が下世話な方向に転がってきた。
「もちろん、大切にしているよ」
提督が爽やかな顔をしている事は大抵はロクでもない事は長年の付き合いでわかっている。
「やっぱり、話はあの子にいっちゃうよね」
「そうですね」
智機の明日はあの子に左右されているといっても過言ではない。
「あーだーこーだといわなくても、あの子が智機の言う実験施設で育てられたのは間違いないからね」
それ以外の可能性があるはずない。
智機の脳裏に過去の苦い記憶が蘇る。
実験施設で生まれた子に人権はない。
ただ、強制された目的のために生まれて、死ぬのみ。
「だから、いちいち殺気出すなっつーの」
「…すまん」
あの時のことを思いだすと、気づく間もなく憤ってくる。
「智機がそこまで根に持つなんて、よっぽど腹に据えかねてたんだろうね」
「俺でも不思議だと思う」
「何時いかなる時でも冷静沈着、ていうか天然な戦闘マシーン御給智機も人間である事を確認できるいい機会だとは思うんだけど、リスクのほうが大きすぎだよ。恐怖というのは楽しむものではなくて、怖がるものだというのを知るのは大切なことなんだけどさ」
提督に言い回しを流用されても、智機は苦笑いするしかなかった。
あれから数ヶ月も経っていて、一応の決着はついているはずなのに怒りの炎は未だに燻っていて、尽きることなく燃え続けていた。
戦場ですら、さして高ぶることもないのに、自分ではなく、他人のことで高ぶれるなんて思ってもみなかった。
「普通の一般人なら問題ないんだけど、その可能性は紛れなく低いよね」
あの場所で発見された事や、智機が対応どころか感知すらさせてもらえずに押し倒された事を考えるとありえないと言ってもいい。
「智機が教えてくれた場所に部隊を派遣しているし、一応は検査させてもらっているけど、事と次第によってはどっかの連中が黙っちゃいないだろうね」
あの子の能力がティーガーを超える希少な物だった場合。知れ渡ってしまった場合、彼女を巡って様々な組織が暗闘するのは言うまでもない。
「あいつらが滅びたら少しはこの銀河も平和になるんだろうな」
「その代わりに、うちらのお飯の食い上げという事にもなるんだけど、戦争のない世界になったら幼女のハーレム築いてうはうはというのもいいかもね」
「ハーレムはともかく、藍美もあの子も平和に暮らせればそれにこした事はないんだけどさ」
いくら智機が戦うことしか能がないとはいえ、戦争を続けていることがいいとは思えないし、藍美や、何処かにいる家族も戦乱で命を落とさずに幸せでいてくれてほしいと祈っている。
「……迷惑かけるな」
彼女を守って血を流すのも、死ぬのも智機だけで充分であって、渋谷艦隊は色々と世話になっているだけに迷惑をかけられない。
下手したら銀河の半ばを支配する大帝国を相手に喧嘩を売ることになるかも知れないのだから。
「気にするなよ。僕は全世界3兆人の幼女の味方なんだから」
「あんたは企業のトップなんだから社員と社員の家族を考えろ」
この件に関して味方になってくれるのはありがたい事はありがたいのだけど、一個人ではなく傭兵企業のボスなのだから従業員たちの生計がかかっている事を忘れるなといいたくなる。
いざとなれば死ぬことを前提とした命令を下せる代償と引き換えに。
本来なら個人の感情で動ける立場ではないというのにも。
「それでは、提督。失礼します」
「ご苦労だった。御給中佐」
敬礼をきっちりすまして会話を打ち切ると智機は立ち去った。
航空隊オフィスで今回の出撃のレポートを手早く作成して姐さんに報告と提出を済ませると、ようやく仕事から解放される。
休憩スペースで缶ジュースを手に取ると自室に戻ると、ベッドに腰掛けた。
リングプルに指をかけて引き抜くと、そのまま一気に口をつけた。
オレンジ色の甘い液体が食道を伝って、胃袋へと流れ落ちる。
何が気持ちいいといえば、戦場から帰った時の一杯ほど何者にも変えがたいほどであり、この優しい快感を味わうために戦っているといっても過言ではない。
しかし、今日に限っては味覚の何割かが死んでいるかのように美味しく感じられない。
満足いかないままに缶ジュースを飲み干すと、そのままベッドに寝転んだ。
暗い天井。光の点らない電灯が目に映る。
疲れがどっと押し寄せてくる。
乗っている時は平気なのだが、戦いのプレッシャーから解放されて後は寝るだけという時になると疲れが圧し掛かる。
……若いとはいえ、やっぱりティーガーが負担になっている。
普段だったら1分も立たないうちに寝入ってしまうのだけど、今日に限っては眠れず、かといって他のことをやる気力もなくて、ただ天井を見ているだけだった。
「……引退か」
先の事なんて考えた事もなかった。
ただ、生き残ることに必死で、戦いが終わった後も休む間もなく戦場に身を投じていった。
延々と繰り返される戦闘の日々。
ずっと続くのかと思っていた。
いつか、戦場でこの身が滅びさるその日まで。
そう思っていたはずなのに、唐突に思い描いていたのとは違う明日を提示されて、智機は戸惑っていた。
戦場ではなく、平和のぬるま湯に浸かっている自身を想像することができない。
いたらいたで、何をすればいいのか分からない。
戦う以外に趣味があるかと自答して
無い事に気づくと絶句する。
ティーガーを駆って
空を、宇宙を思うがままに飛ぶのはとても楽しい。
曲がらない機体を強引に曲げて
敵機が密集している地帯に単騎で突っ込んで、圧倒的なパワーで薙ぎ払うのは凄く楽しい。
無数の敵からシャワーのように浴びせられるビームをギリギリのタイミングで避けながら、ティーガーの巨大な右腕や肩口に装備された粒子ビームで相手を粉砕するのは血が滾るぐらいに楽しい。
でも、戦うという事は智機の場合、人を殺すのと同じであり、それしか興味がないのであれば殺人鬼と変わりがない。もちろん、卑下するわけでもないが、殺すために生きていたと思うとあまりにも寂しい人生だと自嘲せざるおえない。
他にやる事はあるだろ、と自分突っ込みを入れたくなる。
殺すしか能がないのでは人間としてかなり問題がある。
智機としても、ようやく危機感覚えるところであるが、急に趣味を見つけられたら苦労はしない。
それを考えたら、提督の幼女趣味も、あるだけマシかも知れない。
実は提督よりも下の人物だと思ってしまって、更に自己嫌悪してしまう。
……実は戦闘よりも没頭できそうなものが一つだけある。
「まずいだろ。あれだけは絶対にまずいだろ」
智機は頭を振って、思い浮かんだ藍美の肢体を懸命に打ち消しにかかった。
元々は性奴隷で、宇宙船の操縦を覚えさせるよりもよっぽど適材適所であり、本人も嫌がらないどころかむしろ、何もしてくれない事に欲求不満を抱いているのかも知れないのだけど、一度踏み込んだら帰ってこれないような気がした。
戦闘とは関係ないところで化け物になってしまうのかもしれない。
趣味を持つということは提督並の下劣な人間になってしまうかも知れないと思うと嫌な気分になった。
一人の女に入れあげてメロメロになる。
人殺しと廃人。
どちらがマシなのかは微妙なところであるが、少なくても女の魅力にはまり込むことに智機は美を感じなかった。
プライドなんて、生きるためには邪魔なのかも知れないが、男にとっては必要なものである。
それでも、気がつけば股間にあるメガ粒子砲が発射寸前なぐらいに膨れ上がっているのは物悲しかった。
……だって、男の子だもの。
藍美と再会した瞬間に虎になって押し倒しそうで、違う意味で怖かった。
心も戦闘機械になっているのだとしたら、戦闘以外のことで興奮することはないので、まだ人間でいる事を実感できたが、感じられた原因があまりにも情けなさ過ぎていいのか悪いのか考えこんでしまう。
しかし、性的欲求があるのは人としては当然で、無理に否定しようとしても無益に終わるだけである。
性交渉は色々と制約があるが、他人があれこれいって枷を作っているだけで、相手が良かったらそれはそれでオッケーだと思われる。
……無理に我慢することなんてない。
相手が望んでいるのだから、やっちゃってもいいのではないか、と心の何処かで何かが囁いた。
非常にまずい。
智機としては今まで冷静だと思っていた。
実際に戦場では冷静に戦えていたはずなのに、あの出来事を境に感情をコントロールできなくなりつつある。冷静なようでいて殺気をただ漏れさせていることに気づかなかった。
怒っているのに、怒っている自覚がないというのは危険だ。
……提督や軍医が言っていたように、戦い続けるだけ日々を送るのは無理になってきたのかも知れない。
身体のことは、言われなくても自分がよく知っている。
ティーガーを操縦するのは問題がないが、軍医が言うように乗るたびに血反吐を吐くようになったらライダーとしては終わりだ。
いくら、智機でも今すぐ死のうと思っているわけでもなく、天涯孤独というわけでもないので、これからの事を考えなければならなかった。
EFに乗らない明日を
戦闘のない日常をどうやって生きたらいいのか分からない。
しかし、ウスタリまで帰りつくまでに問題がいくつかある。
正確には抱えてしまった。
「…どうしてるんだろうな。あの子」
食中毒と戦っている、女の子の事が気になる。
逝ったら逝ったで悲しいものがあるけれど、友達が死ぬことも、この業界では珍しいことではない。
右手にかすかに力が入る。
あの子が起きた時、態度次第によっては智機も死なねばならないからだ。
智機のEF抜きでの戦闘力は決して低いほうではなく、むしろ傑出しているほうなのだが、それでも対応どころか反応すらさせてもらえなかった。
もし、あの子が暴れだすようであれば自爆ぐらいしか止めようがない。リスクを犯してまで彼女を迎え入れてくれた艦隊にこれ以上の迷惑をかけさせるわけにはいかないからだ。
そうはならない事を祈っているが、最悪の事態になっても躊躇いもなく自爆できる覚悟はある。
残した藍美の事が気にならないといえば嘘になるが、提督がうまく事後処理してくれるし、死者は何も感じないものである。
……しかし、なぜこんな風に物事を考えてしまうのだろうか。
夢があったような気がした。
幼い頃に願うことを祈った、大人になったら絶対にかなえると誓った夢。
自分自身に向けた大切な誓い。
なのに日々の忙しさという言葉で片付けるには重すぎるような激動の時間の中に放りこまれ、ただ、生きるために必死になっていくうちに夢のことはすっかり忘れてしまった。
生きるために戦う必要がなくなり
夢をおいかけてもいいはずなのに
いつまでたっても思い出すことができなかった。