将棋界を救済する為のカント三大批判書解剖シリーズ6
Kritik zum Kritik der Urteilskraft 1790 von Immanuel Kant 010603-2
判断力批判 表と裏 2 上級者コース 2001.12.27.01:00
「講義再開」
「お願いします。でもなんか不機嫌ですね」
「昨日のガラスと麺の不正アクセスを、怒りを持たずに楽しく片づける判断力を、カントは反省的判断力と名付けた」
「反省的判断力?」
「そもそも判断力とは、こうした日常で特殊なエピソードを、普遍的原理に統括しようとする限定的な判断力のこと。これに対して、ディズニーランドのように特殊な世界だけがあらかじめ与えられていて、これに対する普遍を見いだそうとする判断力を反省的判断力とカントは名づけた」
「反省してるんですか?」
「日本語の反省という意味ではない。それでは日光猿軍団がゴメンナサイというのと同じ。日本ではそれで全国民チャンチャンで通用するが、外国では日光猿軍団以下だと覚えておけ。あちらでは判定するための判断力を反省的判断力と呼ぶ」
「せちがらいですね」
「日本もそうなるかもしれない。他人ごとじゃない。ところで目的という言葉があるね?」
「はい」
「判定して値段を出すのが鑑定の目的だね?」
「そうですね。不正アクセスを鑑定したらアトラクションの入場料と同じ金額だったということですね」
「その目的はなんだった?」
「怒りを抑えて楽しく後かたづけするということですか?」
「後かたづけとは、反省的判断力によれば、アトラクションの待ち時間。待ち時間が目的で行列するか?」
「しませんね」
「カントはそこでさらに合目的性という言葉を使った」
「合目的性?」
「対象の概念は目的と呼ばれるが、目的に従ってのみ可能な性質に事物が合致するとき、それは事物の形式の合目的性であるとした。従って反省的判断力の原理とは、雑多な自然の合目的性だとカントは言う」
「楽しく後かたづけするということは、その合目的性ですかね?」
「その前に聞くが、楽しく後かたづけするという感情は、快の感情だね?」
「コップを投げられたときが不快の感情ですね」
「そう簡単に否定の接頭詞をつけるな。誤解する。快不快は相反するようで手をつないで逃げる二兎のウサギ。快とは反省的判断力に対して対象が適合し、対象が主観的形式的合目的性をもつことを現す感情とカントは述べた。不快が快と逆なら、不快とは反省的判断力に対して対象が適合せず、対象が主観的形式的合目的性をもたないことを現す感情になってしまう。ところが事実は逆だ。
不快がなければそもそも合目的性など存在し得ない!」
「では快の感情とはなんですか?」
「美的判断」
「美的判断?では不快は醜的判断ですか?」
「醜的判断と言う言葉をカントの国は知らない。それは美的判断の応用でしかない。快不快を判定する能力が趣味と呼ばれるもの。問題はこの先。カントは美的判断は主観的普遍性へ要求をもつとし、事物の形式の反省から来る快の感情は、対象の合目的性だけでなく、主観の合目的性をも表すとした」
「どういうことですか?」
「ディズニーランドに行って快の感情を満たす時には、
光のパレードや花火を見るという合目的性だけでなく、
恋人にキスするという主観の合目的性をも表すということだ」
「なるほど」
「カントは後者の美的判断を、崇高と呼んだ。美的判断は、こうして美と崇高という双頭の鷲を生んだ。じっちゃんの指摘どおり、藤井システムの四間飛車が先手後手でヤヌスとなったことで、今期竜王戦は美と崇高を体現した」
「美と崇高という双頭の鷲?」
「第三帝国の双頭の鷲でさえ、結果的に美と崇高の象徴として戦後認識し得ることを俺たちはさんざん目の当たりにした。そう表現してもいいはず。事実あれほど美しいデザインの殺戮兵器はその後出現していない」
「でもあの戦争の目的は、美しいデザインを作ることにあったのでないでしょう?」
「そう。そんなこと言ったら誰も賛同しない。そこで目的論的判断力というものが必要になってくる。カントはこの目的論的判断力と美的判断力を大別して批判分析した」
「目的論的判断力?」
「目的論的判断力とは、事物そのものの可能性とその事物の形式とが一致するという客観的合目的性に関わる能力のこと」
「どういうことですか?」
「簡単。第三帝国は主観の合目的性で美的判断力を駆使してデザインに凝った。さらに大衆の指示という客観的合目的性を得るために、目的論的判断力を駆使して、第三帝国理論を作ったということ。そしてそれが双頭の鷲の裏の姿だったということだ。後手番藤井システムのこと。じっちゃんはそれが藤井システムの真の顔だと言った」
「続けてください!」
「ヒトラーユーゲントみたいな生真面目さはいけない。また反感食らう。例が悪かったな。言い直すから、今のは忘れろ」
「はい」
「70年代にイタリアで真っ赤なケースに収まる携帯用のタイプライターが出来て、爆発的に売れたことがある。今ではタイプライターなど使うのは、嫁に行った娘に手紙を書くおばあちゃんくらいだが、当時は家や会社で大いに活用された。ところが、今この携帯用のタイプライターが御値打ちものなんだ」
「使えるんですか?」
「タイプライターとしては使用しない。デザインがあまりによかったので、飾って磨くだけ」
「それじゃ真っ赤なケースだけでも御値打ちですね」
「ところが、中身のタイプライターもちゃんと使える状態じゃないと、コレクターは気が済まない」
「気が済まない? 実際は使わないのにですか?」
「これはパソコンでも同じ現象が起きている。死滅したはずのモデルが値上がり始めている。これもデザインがいいから」
「実用では使わないのに、使える状態にしとくんですね?」
「客観的であるはずの目的論的判断力は、主観的美的判断力に吸収されてしまった。美しい実用器具は、美しいまま趣味の器具に相転化」
「それって将棋の古い定跡そのものですね。まだ使える、でも博物館入りってことですね?」
「その例で言うと、シンメトリカルな美術館と博物館の狭間でMは子供たちと共にブロンズ像になってる」
「美術館と博物館?」
「趣味と実用と言ったのでは実体とそぐわない。美術館と博物館の違いはなんだ?」
「さあ」
「ともに過去から続き、美術は精神界において開き、博物館は自然界において開いている」
「その狭間にあるブロンズ像とはなんですか?」
「ふたつの世界を融合し、維持するための国の未来。女帝は政略結婚で子息子女を各国の王族に送り、帝国の拡大を計った。それがH帝国だ。大戦はそこから始まった」
「女帝はHが好きだったんですかね」
「腹がやすまる間もないほど励んだ。だから腹も立たない。膨らむだけだった」
「母たる存在そのものが博物館?」
「そうだとすると、お前は生まれてこなかった」
「それもそうですね。では母さんは美術館?」
「美術館と博物館に分ける事自体が単なる実践上のテクニカルな問題。カントはこうしたテクニカル上の区分けをしただけ」
「博物館のは雑魚ども?」
「そこまで言わない」
「でもイカせてくれた男は一杯いたって」
「それを覆すのは至難の業だろう。法悦がまだ見えていないから」
「最高善のことですか?」
「カントの国の言葉じゃ至悦」
「至悦?」
「ロマン派が掲げた用語。灯台守たちは、この上ない悦楽などと、音韻もでたらめに訳した。いつまでもああだから、カントなんて死滅して当然」
「ところでヤキソバ食べたんですか?」
「まだ鍋に残っていた。それが愛情」
「鍋に残っていたヤキソバが?」
「それが血となり肉となれば愛情。お前は鍋どころか、ゴミ箱から拾ったおかげで、知となり憎らしくなった」
「注釈付の苦笑いは嫌われますが」
「逆また然り。フロイトも引用したビーダーマイヤーの言葉遊びは翻訳すると高尚な比喩と読んでくれる外国人もいる」
「逆股叱りってのはどうですかね?」
「?」
「逆さまのお尻を叱りつけてる恰好」
「準採用。金で叱りつけて完成。知と情の融合した体位に、神が命令を下す神聖な瞬間と言う注釈付きではすぐに捨てられる」
「天井を向いたのがですか?」
「正確には、45度斜め上」
「正常位はどうですかね?」
「角換り腰掛け銀は主観的な世界。逆股叱りの客観的美を奏でる知情意の三和音ではなく、ふたつの肉体が直線的に運動し、吹き出す汗の海に漂いながら、意識の結合音として神が出現する」
「出現した神は主観的でないのですか?」
「言い換える。主観と客観を認識していた自己認識機能は消滅し、U認識機能のみが瞬間実体をもつ。カント風に言うとふたつの魂が触れ合う最も神聖な時間」
「母たる存在にも神聖な時間はあったと?」
「それを得た後、急速に体が冷えて行く。それはU認識機能として認識される程まで実体を伴わなかったはず」
「ひとつ聞いていいですか?」
「また後始末大変」
「でも」
「ウンコする前にケツふくやつはいない。先行く」