水滸伝分析-替天行道 2001.12.13.02:30

日本の女傑はどこにいる!


リンリン

「あ、叔父さんですか」

「ジッチャンどうしてる?」

「あの録画、まだ見てます」

「そんな、おもしろいか?」

「夢中です。」

声(ツケーサイダー!)

「じゃあ、あの話しとくか」

「どうぞ」


「今日は水滸伝」

「あらすじプリーズ」

宋時代1119年-1125年、中国は4人の政府高官の悪政で腐敗していた。そこで虐げられた無頼漢が宋江を頭領に36人梁山泊に終結。それが108人となって替天行道を旗印に官民と抗争する話だ。梁山泊の英雄豪傑は次々に死を遂げ、また出家し、最後に27人が残る。和平条約でその半分は官民となり、半分は野に下るが、最後は宋江も暗殺されてしまう。前半は英雄伝、後半はその悲劇的末路という構成

「すっごそう」

抑圧された大衆の願望を象徴するものは、日本なら忠臣蔵、中国なら水滸伝。共通するものは、それが亡びの美学となってしまったこと」

「なってしまった?」

「水滸伝はほとんどが作り話だ。宋史には、宋江ら36人がクーデターを起こしたが官軍に降伏したという記述があるのみ。それを民衆が膨大な物語に仕立て上げた。文化大革命の前は革命小説として絶賛されたが、以後は宋江は卑劣な投降主義者と見做された。その点忠臣蔵はスケールが小さくても事実がほとんどだし、評価も最近まで変わっていなかった」

「日本人なら水滸伝より忠臣蔵ですかね」

「忠臣蔵は結末が見事だ。47士は切腹だ。水滸伝の作り話の比ではない。ここが中国と日本の決定的な違いだった。ところが70年代以後は水滸伝が日本人に親しまれ始めている」

「たとえば?」

「梁山泊という言葉が横行した。安保闘争以後の世代は、鬱屈した不平不満を敵国ではなく自国に向けたんだ。学校の半分子活動では何何梁山泊という名前が流行り、都市の地下ではアングラ劇団名となり、地表の世界ではバチプロ集団に梁山泊という名前が付けられた。半分子活動まではクスブリ集団だが、新宿梁山泊の手法はまさしくその名に恥じないものだった」

「どんなことしたんですか?」

パチンコを徹底的に研究して必勝法を次々に生み出した

「パチンコで食っていけるんですね」

「ところが初代頭領は投降して堅気になった」

「結末も水滸伝と同じですね」

「だが日本の一番危ないところをついてきた点では革命的だった

「千島改造計画ですね」

「それは、ジッチャンが話すんだろ?」

「・・・・・(背後で声) イケーサイダー!

「では水滸伝分析だ」

「どうぞ」

梁山泊の108人もともと伏魔殿に封じ込まれた魔王たちだった。36と72に分割できる。彼らは生まれ変わり梁山泊に集結する。各自の前世は、武官24人、盗賊19人、商人12人、下級役人10人、地主6人、エンジニア6人、プー太郎5人、学者3人、資産家3人、漁師3人、その他諸々」

「108という数字は煩悩の数ですね」

「煩悩?抽象的すぎる。せいぜい携帯電話でヘッダーなしで送れる文字数だとか言え。梁山泊のメンバーを半角文字換算すると偶数66人+42人だ。最後まで生き延びた数は奇数27人。ジッチャンんとこしょっちゅう覗きにくんのそんな数だろ?」

「プー太郎はいないと思いますが」

「未来のプー太郎かもしれない」

「その真意は?」

「その前に概要を分析する。政治は腐敗していた。そこで民意は相停滞し、反乱軍を梁山泊に吸引する力を生む。108人のメンバーとはこの壮大な民の吸引力を擬人化したものだ。反乱軍はクーデターを起こし各地で官軍を撃破する。この戦いは実際の戦闘だが、相転換ではない。108人のメンバーは全員生き残り、政府の和平案を一時受け入れることになる。ここではまだ民意は相停滞している。忠臣蔵ならここまでだ。全員切腹で相転換し、戦士は永遠の命を授かった。だが水滸伝ではこの先に相転換がなかった。政府側は彼らを城内に招安。政府側は国家安泰の為にそこで反乱軍の首謀者たちを皆殺しにすることができたが、もっと有効な利用方法を考えた。宋と敵対関係にある遼国を彼らに征伐させて、その功労として反乱軍の首謀者たちに官位を授けるというものだ。

(参考=紫綬褒章受賞者/木村-升田-塚田-大山-加藤一二三、受賞順)

 ここでは官僚の自己保存機能と国家安泰を目指す国家認識機能が働いている。国家認識機能とは実は自己保存機能の一部だよ。遼は宋江らによって征服されたが宋の官僚に賄賂を送って停戦条約を結ぶ。ここまでは梁山泊ユニットにとって功なり名遂げたということだ。梁山泊ユニットは官爵授与を得るはずであった。今まで武力によって外で散々政府批判を行なってきた者が、内閣の一部に取り込まれるという構図だ。こういうものは相転化でしかありえない!そしてユニットはグループを目指す。ここまでは男の権力闘争であり、女の登場と言えば、李師師という高級娼婦が暗躍するくらいだ。その男の覇権争いは、凝り固まった自己保存機能と自己認識機能のぶつかりあいだ。U認識機能のかけらもない。民衆は自己を確立しようとする梁山泊ユニットの戦いぶりに熱狂するが、いざ彼らに政権を委ねるかというと否だ。ここで物語の真相が露呈する。梁山泊ユニットに政権が移っても国が豊かになるわけではないと作者たちも知っていた。そこで少なくとも彼らには博物館効果として機能してもらわなくてはならなかった。彼らにはもともと理想国家を建設する高邁な思想などなく、戦う技術があっただけ。だがそう言い切っては戦士に失礼だから博物館入りしてもらおうということだ。物語が開き直ると、そこで女傑が登場した!

「女傑?」

「中国の女ダビデ、石つぶての名手ケイ英がそれ。若干16歳の美少女ながら、戦場の猛者たちも彼女の石つぶてで退散だ。もはや水滸伝が政治的革命思想を放棄したために、このような女傑が登場したんだが、実はケイちゃんが大変重要な人物だった。ここからの話は北欧のニーベルンゲン神話と似ている。ケイちゃんは自分と同じくらい石つぶての名手がいれば結婚しても良いと思っていた。そこで彼女と結婚したい葉清は、 策略を巡らし、まず石つぶての名手-張ちゃんに彼女と腕くらべをさせた。どっこい、ケイちゃんは張ちゃんにメロメロとなる。濡れ場は図書館で読んでくれ。英雄ジークフリートに恋した女傑とおんなじだ。ところがここから水滸伝は独自の路線にこだわり続け失敗する」

水滸伝は失敗作ですか?

女傑の話がそこで終わってしまったんだ。そのあとの梁山泊ユニットには往時の影も望めない。男たちの嫉妬がからんだ相変わらずの権力抗争の中で惨めな末路しかなかった。梁山泊ユニットは瓦解する。メンバーは病気で出家、官民になった者は毒殺され、それを悲しんで最後のメンバーも首吊り自殺」

「忠臣蔵の切腹とはエライ違いですね」

「女傑の扱い方を過ったからこうなってしまった」

「でも忠臣蔵とは規模が違いますよね」

「そういうことを言ってるんじゃない。水滸伝は英雄叙事詩として失敗したということ。それは史実がそうだったからだ。政治的に極端な粉飾ができなかった。そして梁山泊の替天行道という旗印は傲慢さの極致天に替って道を行うという傲慢さ自己認識機能の自己完結でしかない。だからケイ英のような類まれな女傑に意味を与えることができなかった

「英雄叙事詩として失敗したんですか?」

「同じ時代に日本で出来た源義経伝説の方がはるかに英雄叙事詩の題材としては完成している。これは史実が多いし、結末も見事だ。

だが女傑がいないんだよ、この国には!」


「ジッチャン、まだ興奮してるよ」

(そこだー、いけー!イシバシーキーーック!)

「血圧計っとけ」