マシュダの孫と叔父の会話 逆転四面楚歌 2001.12.12.09:00
「電話でごめんね」
「ジッチャン、まだそこにいるの?」
「家に帰りたくないって。ところで四面楚歌の意味、説明してくれる?」
「自動入力入ってる?」
「もうオンにしてる」
「中国の古典といえばまっさきになんだ?」
「中国の古典といえばまっさきに史記を思い出しますね」
「マラシータが四面楚歌と言っていたしな。だがな、俺は司馬遷は大嫌いだ。左丘明の聡明さに比べて、司馬遷は自分の物語りに酔いすぎている。余りに個人的なうらみつらみが見え隠れしている。事実を叙情的に表現した後で、自ら醸したその弱い部分を否定するという手法は、鼻持ちならない。あれは司馬遷の自虐からでたものであって、決して冷徹な目では有り得ない。流行作家のようなものだ。だから大衆受けしている」
「手厳しいですね。では叔父さんの四面楚歌の解釈をお願いします」
「紀元前202年、始皇帝没後、漢の劉邦と楚の項羽は4年間覇権争いをしていた。ついに項羽は漢軍と連合軍に取り囲まれる。夜、四方の敵陣から祖国の楚歌が聞こえてくる。これを項羽が聞いて、味方の楚の兵士までもが敵軍についたと司馬遷が勘違いするのが四面楚歌だ」
「いきなり司馬遷の勘違いですか?」
「当たり前だ。敵軍についた者が、祖国の歌を歌ってなんで寝返りうったことになるんだ?問題は何を歌ったかなんだ。司馬遷は勘違いしてるよ。ソ連解体後のロシアでインターナショナル歌ってるか?」
「それもそうですね」
「これは敵軍に幽閉された楚の兵士が、文字通り祖国を偲んで歌っているものであるはずだ。俺ならこう解釈する。それを聞いた項羽は、かつての味方の兵士を想って、そこで初めて死を覚悟すると」
「見てきたような言い回しですね」
「敵に捕らわれている時に祖国の歌を歌うというのはたくさん前例がある。旧約聖書のネブカドネザル王の時代の話が歴史上最も有名な例だ」
「バビロンの捕囚ですね」
「そう。囚われの民はこう歌った。
ヨルダンの岸辺越えて
全ての家に伝えよ
失われたわが祖国
ああ懐かしい思い出
竪琴はもう歌わぬ
枝にかけられたまま
どうか思い出しておくれ
いつかの歌声を 祖国の悲しいさだめ
つらい嘆きの歌を 神の御言葉によって
どうか我らに勇気を 苦しみに耐える勇気を
四面楚歌はそのはるかあとにできた物語だ。敵軍に捕らわれた楚の兵士が、祖国の歌を歌ったのは史実だろう。だが司馬遷はそれを勝手に解釈した。 項羽のセリフは種本があるとしても、司馬遷はそれをよく吟味しないで、なんと美辞麗句で逆の意味のセリフにでっちあげたんだ。100年以上前の参謀本部の総大将がそのときに思ったことは、史実として残りようがないために、創作が許されると勘違いしている。しかも、逆の意味にするとはひどすぎる」
「逆の意味だったんですか?」
「まず項羽がその歌声を聞いたこと自体がおかしい。人間の歌声が敵軍から聞こえると思うか?叫ぶような声で祖国の叙情的な歌が歌えると思うか?」
「それもそうですね。でも軍歌だったらまとめて歌えば遠くまで聞こえるかも知れませんよ」
「歌は歌われたに違いない。だが歌われたのは軍歌ではなかったはずだ。それが楚の軍歌であったなら、その歌詞は楚がいかに強いかを示すものだ。敵軍に寝返りうったものが、そんなもの歌うか?米軍に寝返りうったラバウル航空隊が、米軍キャンプで敵は幾万ありとてもーとでっかい声出すようなもんだ」
「なるほど、軍歌はないですね」
「とすると望郷の歌しかないんだよ。だから項羽がそれを聞いたなどということ自体怪しい。可能性は否定できないが」
「でも叔父さんは解釈しましたね。それを聞いた項羽は、かつての味方の兵士を思って、そこで初めて死を覚悟すると」
「そうでないと項羽という人物を表現する物語が完結しないからだ。そこで俺はそのわずかの可能性でこう考えた」
「どうぞ」
「多くの幽閉された兵士は殺されずにいた。ほとんどの兵士は空腹だったはずだ。彼らは敵軍に寝返りをうたなければ殺されたかもしれない。そこで昼間は頭を垂れて食事をいただく。だが夜になって祖国の歌を歌う心境を考えてみろ! 腹が減っているのに、余計に腹が減るようなことをなぜするんだ?」
「胸が締めつけられるんでしょうね」
「そうだ。マラシータは腹が減ると骨盤が開くんだが、楚の兵士は胸が締めつけられ、その圧迫から少しでも解放するために横隔膜を震わせる。するとな、かすかな声でも倍音が発生するんだよ。それは夜の空気をぬけるように伝わる効果がある。それを聞いた隣の兵士も口ずさむ。そうやって四方に自然に伝わって行き、四面楚歌となるんだ。第一、そうやって伝わる以外にだだっ広い四方で歌などセエノで歌えるものではない。
それはリフレインをともなった哀歌だ!
リフレイン部で完全な斉唱に統合される!
項羽はそれを夜に聞く。そこでこう思うはずだ。彼らは囚われの身になっても、わが祖国の歌を歌ってくれている。彼らのために命をかけて最後まで戦おうと!」
「四面楚歌は確かに正反対の意味になりますね」
「そうだ。そこでいよいよクライマックスだ。項羽には愛妾の虞と駿馬のスイがいつも側にいた。これは史実だろう。虞は美人だと言うがこれはどうかわからん。第一それをどうやって確認する?グラビア写真があったか?」
「そういう記録があったんでしょ」
「そりゃ、当時は大将の愛妾をブスだなんて誰も言えるわけない。記録に残るものは美辞麗句だ。項羽は四面楚歌の中、愛妾と即興の歌を歌うとあるが、祖国の歌を聞くべき身で、そんなことするかな。項羽の歌はしかしあまりに有名だ。これを創作と断定するべき根拠もない。種本があるから史実と考えてもいい。そこでこれを時世の歌として項羽自身が書記に記録させたものと考えてみよう。それは司馬遷によればこういう歌だ。
力は山を抜き 気は世を蓋う
時、利あらず、スイ、行かず
スイ行かざるをいかにすべき
虞や!虞や!汝をいかにせん
項羽はこの即興の歌を、虞と共に何度も歌ったと司馬遷は書く。これはどういう意味の歌かわかるか?」
「猥歌でしょう」
「そうなんだよ。基本の音韻構造は定型のようだが、スイで変化をつけている。馬をダシにしたわけだ。司馬遷はこの場面をクローズアップして項羽を貶めたんだ。項羽の有名な言葉がある。自分は戦に敗れたのではなく、これは天命だというものだ。司馬遷はこの項羽の境地をなんとこう批判した。
独善に陥った項羽は最後に戦に負けたのは自分のせいではなく、天命だと言うに至っては反省なき筋違いだと!甚だしい誤謬だと!」
「それが言いたかったんでしょうね」
「自分が勝手に脚色した将軍を、最後に貶める手法は許し難いね。」
「それはいいんですが、さっきの猥歌、本当はどういう意味だったんですか?」
「やっぱし、それ聞きたいか?」
「**さんがどうせ聞きたがりますよ」
「そういうことは周囲の者が知っていたんだな。だから現場をみていなくても、記録に残った。司馬遷はそれを露骨な猥歌にしたということだ。ますます許せんやつだな!これは愛妾との婚礼の歌なんかじゃないんだよ。ヒトラーは愛妾エーファ・ブラウンと最期の日に婚礼を挙げたが、司馬遷は少なくともここの部分をそのような話しにはしたくなかったんだ。それでも司馬遷は、項羽こそは数百年に一度の類まれな武将と認めざるをえなかったはずだ。ならばその武将がこのような女々しい歌を部下の前で愛妾と歌うか?俺は旧制高時代に漢文の**という独身先生が、ここの部分を涙声で朗々と読み上げたのを思い出すよ」
「最後に一言」
「おい、司馬遷!金玉ついてんのか?」
「ちぢこまる?」