中庸 性即理 誠解釈 010612
「なんじゃ、まだアホなワイドショーごっこやっとんのか?」
「どうします?」
「とりあえず、あいつに講義させとけ」
「ということでお願いします」
「性欲至上主義って言葉知ってる?」
「いいえ」
「日本では、明治時代に性描写のある小説に対して批判するために初めて使用された言葉」
「性欲が一番ってことですね」
「性欲というものが何だか知ってる?」
「オマンコ」
「では性とは?」
「セックス」
「ところが中国語の性とは、天が人間に賦与したもののこと。性即理という朱子学の命題ともなった重要な言葉。中国形而上学の最高峰と見做される中庸という書が出典。中庸は紀元前430年ごろの書。中庸の中とは偏りがないこと。庸とは永久不変のこと。誠という言葉もこの中庸に出てくる」
「誠とはなんですかね」
「中庸では、偽りのない心を誠と呼んでいる。誠の道を修行する方法も記されている」
「どうやって修行するんですか?」
「博学ー審問ー慎思ー明弁ー篤行というのがそれ。有名な言葉。これは儒教の言葉を引き継いで使ってあるからキナくさいが」
「ほかに有名な言葉ありますか?」
「隠れたるよりあらわるるなしというのがある。隠し事ほど顕現するという意味」
「隠れマンコは慎め?」
「悪銭身につかずとかにしとけ。お前、明治時代の批評家みたいなこと言うね」
「性欲至上主義でしたっけ」
「それは本当は理性至上主義と同義語であるべきだった。明治の批評家は性というものの精髄を性交に貶めて使用した。当時のリアリズム私小説の大衆受けに嫉妬しただけ」
「マンコ至上主義が理性至上主義なんですか?」
「マンコとはそれ自体がなにか足りないという意味。足りないから求める。これは物理のエントロピーの法則とまったく同じ原理。ソクラテスのエロスもそのような意味で使われた。中国語の性即理という言葉は見事だな。たった三文字でそれをうまく言い表している。この合理性にはギリシャ語もラテン語もかなわない。日本人は本当に賢いね。こういう言葉をうまく取りこめるんだから。マンコが日本語ではないことを知らないで使う所もいい」
「漢字嫌いなひともいますよね」
「最近、漢字には女性蔑視の言葉が多いと主張している教授もいる。お前が今使った嫌いという言葉は女へんだろ。女へんの言葉にはそういう言葉が多くて、それが女性蔑視だと言うんだな。こんなこと言うのは国会議院になったT女史」
「嫌い嫌いは好きのうちって言いますよね」
「漢和辞典ひくと姓、娯、婚、妙、如、始、妖、姿、絹、娘、婿、嬉など沢山女性賛美の言葉がある。女性の本質をうまく言い表している」
「どうしてこんなに便利な漢字が嫌われるんでしょうね」
「明治時代に西洋哲学を取り入れたときに、同じ漢字が相変化したせい。中にはまったく逆の意味に使用されてしまった場合もある。性が典型」
「性即理だったんですよね」
「性を接尾語とする場合は本来の意味が持続した。理性、知性、特性とね。ところが、接頭詞になると意味が相転換してしまった。性欲、性交、性愛など知と情が逆転している。日本語では西洋哲学翻訳が難解になるのはこのため。だが都合よく加工できるという柔軟性もある」
「悪くも良くもとれるということですか?」
「そんなポジティヴかネガティヴかといった問題じゃない。もっと大きな枠組みをもつ柔軟性、可塑性に溢れているということ。日本語はその点、世界最高の言語。あらゆる熟語の可能性を内に秘め、ダイナミックな運動を日々続けている。あらゆる言語を吸収する海綿体のような柔軟性は、日本語最大の利点。この言語を駆使した日本人が世界でその優秀性を誇示し得たのは当然だ。その証拠に日本語でだめな分野は神学と哲学ぐらい。厳密な言葉の意味が要求される分野では、前世紀西洋人に太刀打ちできなかった。だがそれはむしろ誇るべきことであった。では本題」
「はい」
「誠とはなにか」
「言葉が成ると書きますね」
「何度読んでもすごい言葉だ。中庸では誠がなにか、その実体を明らかにしている。それはカントが考えたことと全く同じ。中庸第20章の一節に、最高の道とは君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の五つ、最高の徳とは智、仁、勇のみっつというのがある。これだけ読むと古びた儒教臭いが、面白いのは、中庸ではこれらの根源は誠であると強調していること。これは実はカントが言った先天的意志規定とまったく同じ意味で使われている」
「だったらカントなんか読まなきゃ良かったですかね」
「お隣の国がああなっちゃったから仕方なかったんだよ、坊や」
「長いものにまかれろですね」
「しかし中庸の表現はカントより簡潔で見事。誠は天の道、これを誠にするは人の道」
「いいですね」
「さていよいよ中庸の誠解釈」
「マコちゃん解釈、お願いします」
「誠とは自己保存機能がもつ自然の法則と、自己認識機能が持つ自由意志のこと」
「わかりやすく説明してください」
「マコちゃんは宇宙の法則だ。これが誠は天の道という意味。マコちゃん人形は法則だけでは見えないから、人間がいろいろ着物をきせてあげる」
「わかります」
「さて宇宙の法則とはなんだ?」
「誠ですね」
「そう。言葉が成ったものが宇宙の法則。中庸ではこれを天の道と呼び、一点の偽りもなく限りなく物を生成するものであると説明した」
「はい」
「問題は次。天の道とは時間と空間をつらぬく根本原理のこと。ではその天の道をなぜ誠と呼んだんだ?」
「天の道は言葉が成ったものだからです」
「言葉とはなんだ?」
「誠です」
「誠とはなんだ?」
「天の道です」
「どうだ?堂々めぐりしてるだろう」
「はい」
「これを繰り返したのでは宇宙は先日手。打開しろ! 誠とはなんだ?」
「僕たちの認識です」
「いいぞ。言葉が成って認識するんだ。中庸ではこの認識を至誠と特別に名付けた」
「至誠?」
「いい言葉。カントはこうしたものを最高善と呼ばざるを得なかったが、至誠とはそういう最上級形名詞ではない。誠に至ると書いて至誠。誠に至る道の運動が示唆された言葉なんだよ。
ここからがクライマックス!
中庸に書いてある。至誠の道を体得した聖人のみが、自己の性を完全に発揮することができ、さらには他者の性、物の性をも完全に発揮させて天地の造化を助ける。そうすることによって天地と並ぶ地位を占める!」
「わかりません」
「人間になぜ自由意志があるのかを説明しようとしているんだ!
同時に、なぜ神は人間を生んだのかを説明しようとしているんだよ。考えてごらん。
一言で言うと誠は天の道、これを誠にするは人の道!
いいか、誠の実体は最初からあるわけではない。カントが使った最高善という最上級名詞は、想定言語だ。なぜそういう言葉を先に想定したかというと、神にすでに人格が与えられた国で行なわれた思想だから。だが中国ではそれに該当する言葉に運動を与えている。至誠とはU認識機能の運動プロセスを含有している。神も人間もこれをもっているのは、宇宙を創造するため!」
「はい」
「至誠とは別の言葉で天人一理という。天と人はひとつの理。中庸には処世術を説く儒教くさい言葉が残っていたから、こうした言葉の真髄がかすれてしまった」
「でもU認識機能の運動プロセスのことだったんですね」
「含有しているということを見落とすな!至誠の二文字で十分だったはず。60年以上前の高校の校歌にも歌われていた言葉だ。出来合いの社会に対する至誠が強調された時代だった。60年経って、戦争を経験し、立ち直った所で皆この言葉の意味さえ忘れてしまった」
「誠は天の道、これを誠にするは人の道ですね!」
「それが至誠」