将棋界を救済する為のカント三大批判書解剖シリーズ2

Kritik zum kritik der reinen Vernunft 1781 von Immanuel Kant

純粋理性批判はアホ 初級者コース 2001.12.21.17:15


「ここからは初級者コース」

「では続きをお願いします」

「オチンチンは一本と数える。これは形式だ。ではオマンコはどうやって数える?」

「昨日の講義では一筋でしたが」

「今朝は違う。気分はお万個」

「オマンコ?」

「O-MANCO、すなわちゼロ万個」

「そんな数え方あるんですか?」

「ない。こういう形式を通さない、単なる悟性の対象であるモノ自体は、現象でもなく、対象でもないもの。自分のオマンコを数える形式は存在しない」

「でも郵便局員の藤沢さんは言いましたね。オマンコたくさんあるなって」

「彼は封じ手の開いた封筒をみるとオマンコに見えるそうだ。たまにノリづけが甘くて開きかかった封筒を見ると興奮するらしい。そういう処女のふりをする封筒は、彼が立会人として糊付けし直してあげるのがたまらなくいいらしい」

「それで郵便局員になったんですか?」

「学園きっての秀才だったからね。大学に進学するのがバカらしくなって当然。だがタンソ菌の被害も被る。そして、藤沢に糊付けされた封じ手は恋人の元へ配送される。これが時間的形式

「処女の封筒、開けるのが楽しみですね」

「鋏でバッサリ切る残酷な者もいれば、ちょっぴり残す者もいる」

「ちんちんいきなり入れませんかね」

「まず開封が先。中にはペーパーナイフでぐさっと開く者もいるが、俺はアレ嫌い」

「どちらがお好みですか?」

「俺は手でやさしく千切る。なんの話だっけ?」

時間的形式についてです」

「時間とは内的直感、継起の形式。時間を通して一切の表象が現象する

「わかりません」

「なんでこんな用語使うか俺もわからんが、それがアカデミズム。恋文という精神的表象を入れた物質的表象である封筒が、郵便局員に運ばれるという、すなわち時間という内的直感、継起の形式を経て、受取人に開かれて読まれることによって、中身の手紙すなわち内的表象が外的表象として現象するということ」

「わかったようなわからないような」

「こんな表現でないとわかない者の方がおかしい。だから日本の大学の西洋哲学は死滅に等しい。表象文化論に逃げたくなるわけだ。以上を一言で言えば、オマンコしたいと伝えるには時間が必要だということ」

「わかります」

「オマンコとチンチンという空間上のモノは時間を経て交わる。これを説明するのに延々と議論した結果、先験的論理学が生まれた」

「子供生んだ方が手っ取り早いですね」

「カントは生涯独身だったからね。そこで先験的論理学を生んだ。それは双子だった」

「双子?」

先験的分析論と先験的弁証論という双子」

「先験的分析論と先験的弁証論?」

「先験的分析論では可能的経験を吟味する。その手法は数学と自然科学」

「先験的弁証論では?」

「先験的弁証論では経験不可能だったもの、すなわち形而上学を吟味する」

「面倒な双子ですね。畠山兄弟と違いますか」

「普通の双子ならまだよかった。カントはこの双子をベトちゃん、ドクちゃんにしてしまった」

「ひとつの体にふたつの頭ですか?」

「かつてはサーカスの見せ物でしか生きて行けなかった。医学の進歩のおかげで頭をふたつに切り離すことはできても、一方は死んでしまう運命」

「でも生んじゃったんですね」

「生んだものは認知するのがアカデミズム。あっちの村はもっとひどい。健常者をカタワにしている」

「誰にいってんですか?」

「いやね、独り言。先に進む」

「はい」

「先験的分析論では悟性の先天的形式である純粋悟性概念を取り扱う」

「純粋悟性概念?」

範疇とよばれるもの。量、質、関係、様相の四種類のカテゴリーのこと。このカテゴリーによって生じる認識がいかに客観性をもてるかを証明しようとした。その方法は演繹法と呼ばれる」

「演繹法?」

「経験可能なものから経験不可能なものを認知する方法」

「子供の認知と同じですか?」

「役所ではまどろっこしい言葉はいらない」

「怒ってますね」

「認識の主観的制約がいかにして客観的妥当性をもつかという問題を解決するために、彼は自分のチンチン一本の認識からはじめたもんだからまどろっこしくなった」

「なるほど」

「お前という俺の認識の主観的制約をもつ存在に、客観的妥当性をもたらす方法はもっと簡単。お前が生まれたというその事実だけで充分だった」

「なるほど、なるほど」

「お前の存在は簡単に証明された。アレが認知したという事実で」

「ありがとう」

「涙ぐむな。俺まで泣けてくる」

「泣かないでね」

「ところで、この涙は感性と呼ばれる」

「はあ?」

「それは仮象の世界だ」

「いきなり仮象の世界に引き戻すんですか?」

「甘いぞ。先は長い。先験的分析論ではカントがひとつだけ明解にできなかったことがある」

「なんですか?」

「先験的分析論では、量、質、関係、様相の四種類のカテゴリーがどういう変化で転移するか説明できない箇所があった。それは質量をもつモノが転換する変化に、知悉された関係や様相では説明できない状態があるということだった。これは俺達の用語では相転換のことだが、カントはそれを演繹法で説明するために、先験的弁証論というものを同時に作り出す必要があった」

「今度は双子の片割れの講義ですね」

「先験的弁証論で扱うのは仮象の論理自己認識機能は自分を越えた無制約者、絶対的な存在を認識しようとしている」

「神様を認識しようとしている?」

「そういう表現はまだ使用しない。先験的分析論では無制約者絶対的な存在としか呼び得ないものだった。自己認識機能のこの切実な要求を俺達はU認識機能と呼ぶ。U認識機能から必然的に生じるものを、カントは先験的仮象と呼んだ。ところが彼は、この先験的仮象世界を経験世界の範疇に入れることを誤認としたんだ」

「困りますね。すると僕は誤認の産物?」

「お前の涙は質量を持たないソラ涙にされた」

「彼はやなヤツですね」

「もう少し素直になれなかったものかな。U認識機能に該当する言葉を使用しなかったのがカントの敗因。U認識機能は確実にある。誰だって目に見えないものを認識しようとしている。盲人達はそれがどういうプロセスなのか直感的に知悉している。カントは、U認識機能が認識しようとする世界をわざわざ先験的理念と呼んだ。ところがその先験的理念は認識の対象ではないというんだな。ここがおかしい。U認識機能が認識しようとする世界は確実にある。カントに敬意を表し彼の言葉を使うならば、先験的仮象があるからこそU認識機能が存在し得る」

「彼は、先験的理念は認識の対象ではないといってるんですよね。ならばなぜそんなものを、先験的理念などと名付けたんですか?」

「彼は、先験的理念は悟性認識を指導して経験の体系的統一を成立させるべき純粋理性の統制原理として役立つと考えたんだ」

「はあ?」

「まどろっこしい訳語だろ。こういう日本語群では便秘になる。先に進む。彼は先験的理念を三つに分けた。

1=先験的心理学の対象

2=先験的宇宙論の対象(いわゆる理性の二律背反で有名)

3=先験的神学の対象

彼の先験的弁証論は、この三つを分析批判するものだった」

「その結論は?」

「以下の帰結となった。

1=科学的認識は精神の自発的かつ受動的な働きの所産であり、可能的経験の範囲内で、現象はどこまでも客観的、普遍妥当的な認識として成立する。

2=この限界を超えたモノ自体の世界は認識され得ず、主体的、実践的においてのみ初めて意義をもつ」

「別の言葉で訳してくれますか」

「簡単だ。子供はオマンコして生まれるもんだ」

「ちょっと簡単すぎませんか?」

「だからカントじゃだめなんだ。彼はこれしきのことを言うのに、無駄な言葉を羅列した。彼はお前などこの世で存在し得ず、自己認識機能の中でしか存在しないと結論した。自己認識機能では、マスしても子供は生まれませんよと述べたのが、純粋理性批判という本だった。この本の欠陥はU認識機能に該当する言葉の欠落

「でも最後に、彼は僕が実践的においてのみ初めて意義をもつと言ってますよね」

「そう。ではこれで初級講座終わり。

ちょっと休んで、中級講座を始める。次はカントの実践理性批判の批判」