将棋界を救済する為のカント三大批判書解剖シリーズ3

Kritik zum Kritik der praktischen Vernunft 1788 von Immanuel Kant

実践理性批判 解剖 1 中級者コース 2001.12.22.08:30


「先手が打開するという義務が生じている」

それが実践理性ということですね」


「カントの実践理性批判をどう読むか」

「今回は落ち着いてますね」

実践理性批判という本は読みようによって面白い。純粋理性批判の刊行後、道徳形而上学の基礎が書かれた。実践理性批判はその続き」

道徳形而上学ですか?」

「胡散臭い?」

「いえ、そんなことは」

実践理性批判では意志を規定する理性を批判することがテーマ」

「それを今回はまた批判するのですか?」

批判という日本語は現在真っ向から否定するという意味になってしまったが本来は違う」

「もとは違うんですか?」

「批判はクリティークの訳語。今の日本語だと批判的に分析するという意味に近い。ところが分析にはアナリーゼという言葉がすでにある。クリティークとアナリーゼは違う。そこで誤解が生じる」

「前回はかなりカントを真っ向から否定していましたね」

「前回の批判手法は原点に戻り、生死の勝負にこだわったもの。カント定跡は古い。この古典定跡を元に、ここでは勝負のプロセス、即ち新定跡を作ることを主眼とする」

「はい」

実践理性批判ではいかにして先天的な意志規定が可能かという問題を論じている。U認識機能が認識しようとする知の対象に対してではなく、自己認識機能自己保存機能によるこちら側の世界での知の実践」

「僕の存在はこちら側の世界から遠のきますかね」

「逆。近づく。お前は知の世界で生まれ、情の世界で質感を与えられた」

知と情のふたつの世界があるのですか?」

「脳は明確にその世界を分業している。人間はどちらの世界も所有している。問題はプロセス上、どちらに傾くかということ。

将棋だと

序盤は知の左脳

中盤は情の右脳

終盤は左右の脳

最終盤は知の左脳でしか思考できない仕組み。恋愛も同様」

「恋愛も?」

恋愛

知の左脳=知の世界で互いを認知

情の右脳=体を通じて情の世界へ突入

左右の脳=別れ際には情に溺れつつ理性を保ち

知の左脳=最後は荷物を整理する

脳の働きは将棋と同じ」

「箇条書きだと恋愛も味気ないですね」

「いいや。恋愛も将棋も、もっと崇高なもの。そして違うものもある」

「恋愛と将棋では、なにが違います?」

「人間が将棋盤の前に座るという行為は、将棋自体のルールに無縁だね?」

「そうですね。人間は将棋盤に鼻くそつけたりします」

「お見合いだとどうなる?」

「相手の人に鼻くそつけたら破談です」

「ではインターネットでチャットでお見合いしたら?」

「鼻くそつけられませんね」

「インターネットで将棋したら?」

「相手が機械でも人間でも同じですかね」

「そう。インターネット上ではまったく同じ」

「セックスもできますか?」

「できる」

「子供はできませんね」

「できない」

「では将棋と恋愛のプロセスの違いは子供ができるかできないかということですか?」

「カントは純粋理性批判でそう結論した」

「この考えは違うのでしたね」

「だってそうだろ。将棋は閉じてる?恋愛は開いてる?将棋は勝負だけの結果を争うゲームではない。恋愛は子供を作るためだけのプロセスでもない」

「でも将棋は勝負を争うものですよね?」

「違う。将棋の真理を探求する過程でたまたま勝負がつくだけ。勝負は持将棋となるかもしれない。或いは千日手となるかもしれない。将棋は知の世界だけでつきつめると、引き分けか千日手になる

「それじゃファンが誰もいなくなりますね」

「プロもそれでは金がとれない。やはり切った張ったの戦いでどちらかが倒れなくては面白くない。そこで先手が打開するという義務が生じている」

それが実践理性ということですね」

「ものわかりがいいね。では始めよう」