ゲノムは神の設計図ではない 2001.12.29.19:00


「人間の遺伝子情報は30億文字分ある。この全遺伝子情報をゲノムと呼ぶ」

「人間の文字とは何ですか?」

「ATGCという4種類の塩基だ。それが2メートル連なったものが一個のDNA」

「各細胞に含まれるデオキシリボ核酸ですね」

「DNAは二重らせん構造をもっている。数十億年前からこの構造だ」

「人間が生まれるはるか以前からあるのですね」

「それを人間は愚かにも神の設計図と称し、それを垣間見たのは、我々が最初だと現代人は興奮しっぱなしだ。そのように言うことは魅力的だが、間違っている」

「ゲノムは神の設計図ではないのですね?」

「30億文字分の遺伝子情報が行なうことは、アミノ酸をつなぎあわせてタンパク質をつくること。人間の構成材料の半分はこのタンパク質。ゲノムの設計図は肉の形をつくるだけのこと。家の設計図を作るのは建築家だろ?」

「神様を建築家のレベルに落としてはいけませんね。この設計図には住人が不在ということですね」

「それらしきモノはいるんだが、各細胞レベルで自己を認識しているだけであって、それを統一する人間としての自己認識機能のすべてが遺伝子情報に書き込まれているとは俺には到底考えられない。これはロゴスにも関わる問題だからだ」

「言葉ということですか?」

「そう。ロゴスはふたつに分かれた。ひとつはゲノム、ひとつは音だ。音は言葉となった。音楽の構造が最初に発見され、次にそれに匹敵するほどの緻密さで解析されたのがDNAだ。ところが言葉の構造はそれほどまでに解析は進まなかった」

「なぜでしょう?」

「言葉によってのみ自己認識機能を把握するようになってしまったからだ」

「もともとは違うんですか?」

「言葉はあとからできたものだ。自己認識機能自体は言葉が生まれるはるか以前からあった」

「どこから来たんでしょうか?」

「染色体と比較してみよう。染色体は顕微鏡で見えるね?」

「はい。22種類の常染色体と、X染色体、Y染色体の合計24種類からなります」

「染色体を拡大すると、DNAが折り込まれたクロマチン構造という蛇がみえる。これは目では見えないが、お前には見えるね?」

「なんかぐにゃぐにゃしてますね」

「クロマチン構造をさらに拡大すると、ヒストンコアという円盤にDNAが巻きついたヌクレオソーム構造が見える。ぐにゃぐにゃしたクロマチン構造をほどくと、そこに二重らせんとなったDNAが現れる。見えるか?」

「はい。梯子をひねったみたいですね」

「二重らせんの間にかかった梯子は、4種類の塩基だ」

「アデニン、チミン、グアニン、シトシンですね」

「そう。ATGCだ。AはTと、GはCとしか結びつかない。ATとGCが結びついてひとつの梯子を作っているのがみえるか?」

「はい。確かにすべてAとT、GとCが結びついています」

「さらに拡大する。ATGCの塩基は環状の分子構造を持っている。それは窒素、炭素、水素、酸素の4元素だけで構成されたものだ。この分子構造によって、AはTと、GはCとしか結びつかないようになっている」

「質問があります。このクロマチン構造は音楽や言語に例えるとなんですか?」

「音楽なら二つの音によって生じる音程。その基本は5度音程と4度音程。これを重ねると全ての音が生じる。言語なら母音結合。母音は現在5つが主流。突き詰めると、AIOUしかない。AIとOUが結びつきやすい母音」

「わかりました」

「さらに塩基の環状分子構造を拡大してみよう。するとそこにあるのは窒素、炭素、水素、酸素の原子とそのつなぎ役でリン原子がある。DNAとはこれらの原子によってできたデオキシリボースと呼ばれる糖とリン酸が交互に規則正しく連なった分子のこと」

「その先は?」

「原子の中身は陽子という核を中心に電子が回ったもの。この電子の活動状態で物質の性質が変わる。だがどのような法則で電子が回っているのか不明なことが多い。量子力学や不確定性原理として研究されてきた世界だ。原子力とは、この中心の陽子に中性子を命中させることによって発生するエネルギーを利用したもの」

「窒素、炭素、水素、酸素の原子がなぜ結びついたんですか?」

「窒素、炭素、水素、酸素のような無機物が有機化合物になる実験はもう半世紀も前から行なわれている。密閉したガラス容器内にガスを入れ、放電を繰り返すと有機化合物ができるんだ。4つの塩基全てがこの方法で作られる」

「それが生命の始まりですか?」

「そこがわからない。ブラックスモーカーという海底の煙突付近で有機化合物の生成の仕組みが確認されているが、それがなぜより複雑な構造に相転化するか不明だ。リン酸の起源さえも不明。だから、最初の生命は隕石で宇宙から飛来したという説も未だに有力となっている」

「人間はなぜ原子爆弾や原子力発電を先につくって、それより大きな分子のDNAを今ごろ解析しているんですかね?」

「ひとつには戦争で使用できるかできないかという問題。最近は世界大戦がないので、人の命を研究する余裕ができた。そこで食物をつくったり病気を治療するために遺伝子が解析されている。もうひとつはコンピューターの発展にともなって分析が安価で行なわれるようになったこと。お金の問題。もっと早くやろうと思えばできたはず。1986年にレナート・ダルベッコがDNA解析をすれば癌などの病気の原因が遺伝子レベルで解明できると主張したが、そのような大きな計画で生物医学研究所の予算が全部食われてしまうことを多くの同業者が懸念したんだ。最初の予算がついたのは1990年。30億個の塩基配列解読に30億ドルの予算だった」

「一個1ドルですね」

「15か年計画だった。塩基配列解読装置という自動シーケンサーを使用して日米欧州で共同解析が始まった」

「なにか病気の治療に役立つ成果はありますか?」

「これからだよ。1994年に乳ガン遺伝子が発見されて世界中が小躍りしたが、それで乳ガンになるものは患者の5%だけだった。米国では年間4万人が乳ガンで死亡する。しかもアジアで少ないはずの乳ガンは、米国へのアジア人移住者にはなぜか多いので、これは遺伝子だけの問題ではないことは明らかだと皆が知っていた」

「ストレスが原因なんですね」

「そんなこと言っても商売にならない。だが遺伝子治療の可能性の道は開けた。そしてヒトゲノムの解析も進行した。その立て役者はクレイグ・ベンター。国立研究所にいた彼は、1998年にセラノ・ジェニオミクス社という民間会社を設立した。彼は独自の方法を考案して、まず細菌類のゲノムを短期間で解析してしまったんだ。彼は300台ものプリズムシケンサーを駆使して、DNAを超音波で分断し、こま切れにしたDNAをランダムに解析して、あとでコンパック製のSCでつなぎあわせるという方法で塩基配列を読みとった。全ゲノムショットガン・シーケンスと呼ばれたこの方法は画期的だった。それで時間が大幅に短縮化したんだ。ところが、それで彼が解析した遺伝子情報の一部は有料で公開し、その300ほどの遺伝子情報に対して特許を申請しようとしたものだから、予算も実力もない科学者はびっくりしてしまった。そこで急遽国際チームにも予算がついて、ヒトゲノム解析は今に至るというわけ。国際チームはベンターのショットガン方式に優秀性を認めつつも、その方式では分断部に何千も空白が出来るはずと批判。そうでもいわないことには自分達に予算が下りなかった。そしていざ予算が下りると、野心的で大胆なスケジュールをたてた」

「野心的で大胆なスケジュール?」

「遺伝子を順番通りに解析する階層的ショットガン・シーケンスを駆使した。ショットガン方式はベンターの真似。そして純粋に生物医学の研究の為と称してヒトゲノムの全解析に乗り出した。ところがベンターは自分の遺伝子を使ってそれを先にやってしまう。国際チームとベンターは競争してその不仲がマスコミを賑わした。そこで事態を重く見たホワイトハウスが、両者をとりもって、2000年6月26日の劇的な共同会見にこぎつけた。ここで面白いのは、国際チーム側のコリンズが傲慢にも、自分達は神しか読んだことのない設計図を垣間見たと述べたのに対して、民間のベンターは、もっと素晴らしいことを述べたことだ」

「彼はなんと言ったのですか?」

「化学物質でできた遺伝子記号から、物性では把握できない我々の精神が生じるという不思議さや複雑さは、今日以後何千年にもわたって詩人や哲学者の心をゆさぶることだろう、と述べた」

「彼はその時すでに解読を終えていたのですね」

「99%ね。国際チームはまだ三分の二ほどだった。そしてベンターのセレラ社は閲覧料を支払った数社の製薬会社といくつかの大学にしかデータベースを利用させなかった。ところが翌年、2001年2月15日にネイチャー誌で国際チームはヒトゲノムの27億2450万個の塩基解析結果を、その翌日の2月16日サイエンス誌でベンター率いるセラノ・ジェノミクス社が26億5400万個の塩基解析結果を発表した」

「それで全解析は終わりですか?」

「まだこれからだ。精度の問題もある。双方名誉をかけて奇術の種明かし合戦をやったようなもの。これを堺にベンターはパブリックドメインのヒトゲノム解析がばからしくなって、その間完遂作業を国際チームに委ねてしまった。すると、国際チームは呑気に構えて、結果は2003年に報告するとふんぞり返った」

「R戦思い出しますね」

「彼らは金と売名行為しか頭にない。特に組織から金貰って、実名で偽善ぶり、匿名でしたり顔する輩。勤務時間にイニシャライズしたがる禿の女歌手も、そのうち自分達が踊らされていると気づいて愕然とするだろう」

「国際チームなんて案外そんなものなのですね」