内卵と外卵 (2001年12月31日<月>22時37分


「人生をひとことで言うとなんですかね?」

「自己認識機能がパッケージをつくる現場」

「それが最後まで続くんですか?」

「パッケージの最終は墓碑。その先は?」

「あの世?」

「あの世という言葉もこの世のパッケージに包まれている。そこでこの世を内卵と表現し、あの世を外卵と表現してみることにしてみることにしよう。ここは内卵だ」

「卵の内と外ですね」

「生命と呼ばれてきたものは、細胞の膜に覆われている。それが内卵。生命はこの膜をいかに拡張して、生活圏を広げるか日夜活動する。これがパッケージ運動。人間の場合、自分の名前をつけたビニールパックの商品がいかに多く売れるかなどということを考える」

「ビニ人間ですね。その最終は墓場?」

「墓場じゃなくて墓碑。歴史という墓場に墓碑を残すということ。その管理者はあくまでも卵の内にいる人間たち。ところが外卵は、卵の殻の外にある世界。ここで問題。内卵と外卵では、どちらが大きな世界だ?」

「外卵だと思いますが」

「理性はそう考える。ところが現実は一目で違う」

「違うんですか?」

「仮にそうだとしよう。卵の殻の外にある世界の方が大きいと。すると、今まであくせく卵のパッケージを作っていた作業は、小さな世界で行っていたということだね?」

「そうなりますね」

「それでは、卵の殻の外にある世界、外卵に、より大きなパッケージを作る場があると思うか?」

「それができるとすれば、外卵の内部にまたパッケージができるわけですよね」

「そうなるね」

「それでは、その外にまた外卵があるということになりませんか」

「そうだ。このような考え方を繰り返すと全ての世界は卵の内部に包まれているということになる。世界はビニ本と同じ」

「ビニ世界ですか。では外卵というものはそもそもなんですか?」

「卵の内部から外側を認識するときに使う用語。内部から見ると一時避難所。U認識機能で作動する」

「では外卵から内卵を認識するときには?」

「その時には、内卵という言葉は別の意味をもつ」

「別の意味?内卵と外卵は対の言葉ではないんですね?」

「外卵が内卵を認識するときには、場所を確定する。実は人間が自分のパッケージを作りたいという欲求は、この場所決めの欲望。まず位置を確認する」

「森の中で迷ったら誰でも困りますものね」

「お前、それで困ったことあるの?お前が今いるところは4000メートル級の山ばかりだろう」

「僕は困ることはありません」

「不安もないよね」

「はい。ちっとも」

「お前のひい爺ちゃんがお年玉をあげたいそうだよ。悪夢をみたらしい」

「ひ孫のことまで考えますかね。娘が小さかった頃のことでも夢見たんじゃないですか?」

「その子供というパッケージは徐々に大きくなって行く。風船は大きくなると、やがて親の手元を離れて飛んで行く。手元に戻ってきたときには、風船はすでにしぼんでいる。もう一度ふくらませてみようと思うが、なぜか空気がもれる。よくみるとそれは娘が脱皮したあとの脱殻だった」

「歌みたいですね」

「ABA形式は歌の基本パッケージだ。悪夢の歌はABAではない。ひ孫がいるのにひ孫が抱けない。この苦痛を老人のわがままと呼んでいいのかな?」