MashudaBBS2004.01.06
2005年の年明け1 見えない津波

2005年の年明け2 彼岸への挨拶

2005年の年明け3 個体死の再生

2005年の年明け4
 集団死の誘発


2005年の年明け4 集団死の誘発 No: 7122 [返信][削除]
 投稿者:マシュダ一家@謹賀新年  05/01/06 Thu 20:49:34

WPOは15万ユーロを被災地へ送る。東京ではワンルームマンションも買えない額なので水代とわざわざ言う。日本ショーギ連盟も2千万円相当の免状を送ると言えばウィーンフィル並かもしれない。その場合はモチ代とオチをつけても意味不明なので「紙代」とハッキリ注釈を付す。
恒例のラデツキー行進曲が今年は演奏されなかった。アレはアンコール曲として老いた聴衆には最も過酷な曲であった。「災害自粛ドタキャン」をキッカケに今後一切演奏されないことが望ましい。手拍子のテンポが早いとチンポは立っても心臓によくない。日本では正月にモチを喉に詰まらせて死ぬ老人が必ずいる。「ラデツキー行進曲」では夢中で拍手して集団死を誘発しかねない。WPOの日本人妻たちがチャンチキおけさのマ抜けテンポを彼らに伝授する日は来るであろうか?
その時には日本では「ラデツキー行進曲」は秋の運動会用の曲であったこともついでに伝えて頂きたい。さらに日本の運動会で見かける万国旗にはオーストリアの国旗だけがないことも。


2005年の年明け3 個体死の再生 No: 7121 [返信][削除]
 投稿者:マシュダ一家@謹賀新年  05/01/06 Thu 20:33:35

人間とはかくもいい加減な生き物だとWPOが象徴化した年明け。彼らは「美しき青きドナウ」が如何に名曲であるか逆説的に見せつけた。オリンピックで君が代を何度聴いても飽きないのとやや違う。どちらかと言うと「美味しくて安いウナドン」に近い。どんなにいい加減に演奏しようが「美しき青きドナウ」がそこにアルと言う存在感。国が滅びてもこの曲だけで全てが復活してしまう。静謐、躍動、枯渇、復活の循環の中で生死を語る楽しみ。だから個体の死が悲惨ではない。


2005年の年明け2 彼岸への挨拶 No: 7120 [返信][削除]
 投稿者:マシュダ一家@謹賀新年  05/01/06 Thu 20:27:41

今年の新年演奏会ほどWPOが気の抜けたビールになったことはかつてない。バーゲンセールのワインでもここまで寂しくない。オケ全員がアンタの元で弾きたくないと楽器で公言している。
新年演奏会はWPOの顔見せでもあった。今年も生きのびたとそれぞれの顔を見せて年賀状代りとする。あのヒトからクリマスカードが来ないと死んだのだろうと思う。しかしあの顔をみて生存を確認したと言う場合もある。クリマスカードや年賀状は生存確認手段としては無意味かもしれない。アルバイトの郵便配達員が雪に滑って道に落としてしまったという可能性もある。クリマスカードや年賀状をイチイチ書くのが面倒だと言う人は多い。身寄りのない一人暮らしの老人なら孤独の意味を知っている。彼らはすでに死んだホトケにせっせとラブコールを送る。あの世でヨロシクと。


2005年の年明け1 見えない津波 No: 7119 [返信][削除]
 投稿者:マシュダ一家@謹賀新年  05/01/06 Thu 20:11:58

昨年末の津波では十数万が死んでしまった。連日遺体の話ばかりで耳が痛い。
MVでの新年演奏会まで余波を蒙って史上最悪の出来であった。津波まで人工的に増幅利用して国威掲揚を計るのが人間の習性。「幾ら寄附する?」の大合唱が「イクラにキスする」と聞こえてしまう。イラクに寄付と聞こえたら国賊扱いであろう。
今年はシャイロックに撤したマゼールの指揮。「ピチカートポルカ」と「ウィーンの森の物語」のヴァイオリン演奏付。コンマスから楽器を借りる時はカリマスと会釈する。それが真っ当なカリスマ。マゼールは爬虫類なので冷笑が会釈。肝心なヴァイオリンソロだが、これほどヒドイとボスコフスキーはよかったと断言できる。佐藤康光でもここまでコケない。昨年NHKBSでマゼールのドキュメントが放映された。「WPOの永遠のキューピー」キュッヒェルがマゼールのヴァイオリン演奏はコンマスも唸ると褒め殺したのが最高のジョーク。あのユダヤ人はわずかなミスでも人前でクソミソに貶すことが趣味であった。1音を指摘するのに1皮肉。しかしピッチが狂ったら笑ってゴマカスしかない。カラオケ風「ウィーンの森」はコンマスがワザとチューニングを換えて渡したヴァイオリンのせいかもしれない。音程が狂ってはヴァイオリン演奏を中断して「農民ポルカ」同様に歌うのが最善であった。