開戦前夜の泡踊り

MashudaBBS2003.03.17


マシュダ一家が明日の閣僚会議に参加した場合 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月17日(月)23時55分05秒

このように進言するであろう。すでに日本政府は米国支持を表明した。あとは人間の盾となっている日本人数名を説得するために首相自らがイラクに行く。彼らの母親は嘆いている。しかし説得に応じない。コイズミなら彼らを説得し一緒にチャーター機で連れて帰ることが出来るであろうということである。現地と成田で記者会見をする。すると米国民も感動し「なぜガザ地区で先日人間の盾となってブルドーザーの下敷きとなった23歳の女性を米国は救えなかったのか」と世論が情に訴えるであろう。


醜い筋が美の要素となる場合 番外 世論 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月17日(月)19時31分30秒

不透明という言葉を日本人は好む。欧米人は否定的な意味で使うが日本人はこの不透明という言葉に逃げる為に居心地がよいのである。そこでイラク攻撃に対して日本人の態度は不透明であると言う世論だけでは困るので米国の戦争支持率などをニューズウィークから転用することになる。これが相転移の範疇で健全に引用されるのが朝日新聞である。このような引用でなんとか不透明感をぬぐおうとする相転化型が読売新聞である。毎日は矛盾をさらけ出す王道の為、相停滞型となる。


醜い筋が美の要素となる場合4 男女と母子の関係 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月17日(月)19時10分25秒


単純な話に戻そう。男女関係と母子の関係についてである。
男は外で戦い女は家で男の子種を育てる。女の本性は「男は外で戦死してくれ」である。
母の息子が戦地に行く場合=お国の為に前線で死んできなさいと言う母もいるが、そのような母でも「生きて帰って来てネ」が本心である。
「人間の盾」としてイラクに邦人が10名ほど滞在しているが、息子の母は「バカなマネをしないで、帰国しなさい」と言う。
同じ母でも発言する時は周囲に理解できる言葉を選択する。棋士の場合彼らの言葉である棋譜は周囲に理解されないことも多い。棋士自身もその棋譜で何を言っているか自分でわかっていない場合がある。
それでもコメントを求められたら何か言うしかない。そこで棋譜の本性を語れる者などいないであろう。だから生きて帰ってくればよいという生死、即ち将棋では勝敗でしか棋士の棋譜をみられなくなってしまうということになる。母の発言の根拠と同じである。我々はそれを女々しいと考えるのである。戦士の性格が母の発言で美化された場合、我々は相転換とは呼ばない。


醜い筋が美の要素となる場合3 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月17日(月)18時17分28秒

醜い筋が美の要素となる場合とは、実はこのような後進的な世界観で有効であった。将棋ならば筋悪でも最後に勝てばすべてよしという結論の出し方となる。このようなことを言うのは棋士の扶養家族だけでよい。彼女らは棋士の稼ぎと名声しか理解できなくとも立場をわきまえている。彼女らは別に棋譜を楽しもうとは思わないのである。その棋士の女房の悟りと関連付けて棋士は勝負師などと相変わら豪語しているオマヌケ米長は精神の後進国で暮らす老兵であろう。筋悪で勝てた場合にそれだけで即、美への変貌とは呼べない。それでは未熟な道を村の掟に従って過去に遡るだけとなる。世界史の教科書の解釈をめぐって学者同士が醜い争いをしているのと同様である。そんなことでは大きな声だして平和などと言うことさえ恥ずかしい。米長のような貧弱な世界観では少し悪いことをしても勝負に勝てばそれが正義という人生観は決して変わることがないであろう。それが戦後日本人の平均的精神構造であるから大人にも子供にも歴史は嫌われてしまうのである。毎日の論説委員でさえ読売同様に欲求不満になっている様は見苦しい。理想と現実を分けろと彼らまで叫ぶのである。それでは理性などいらない。理性による理論にならなければ政治家やマスコミは延々とゴマカスだけとなる。
我々は羽生を題材に筋悪の手である羽生のグランサタンを解剖してきた。これは1筋の短二度音程や53-57地点のトリトヌス空間などと同じように美に変貌するワケではない。グランサタンの場合は、和声進行の禁じ手としてまず見るべきである。羽生はこの筋悪の手を好手に相転換していると我々は考える。単なる終盤の勝負術、所謂「生死は運で決まる」という短絡思考だけは避けなければならない。


醜い筋が美の要素となる場合2 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月17日(月)17時33分39秒

醜い塊は美に変貌することは説明した。変貌には二種類。これがマシュダ一家TISC理論である。ひとつは美への相転化。これはクラスターの手法である。もうひとつは美への相転換。これはバッハのように葛藤にまみれた音楽に顕著である。美への相転換を目指す進行の方がより立体的な世界を構築する。これを区別するためにマシュダ一家理論では相転換前に相停滞というカテゴリーを挿入している。我々が知る限りこれを全変貌の一形態として理論の線上においた例はない。諸君らがジュラシックパークでご存じのカオス理論とは相転化から相転換へいきなり飛んでしまうものである。それが漫画や映画の手法でもある。だから漫画や映画では人が大勢死んでしまうことになる。人の生死が最もわかりやすい相転換の大きな境目となっているからである。人類の歴史上の文芸も生死に相転換の分岐を求めた。そこにある様々な葛藤は相停滞の範疇となる。ところが文芸の傑作は余りに生死の扱いが鮮烈であるために相停滞というものが能動的な概念として挿入される精神構造にはなりにくかったのである。その証拠として経済理論では決して相停滞を理論に組み込むことができなかった。


醜い筋が美の要素となる場合 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月17日(月)17時08分24秒

音楽には醜い筋というものもある。将棋の筋と似ている。作曲法では平行八度-五度や陰伏五度などが該当する。古典和声ではこのような和声進行を禁じ手としたのである。なぜこれが禁じ手かというと上声と下声の進行が協和しすぎるために音楽がペチャパイとなるからである。音が立体的に響くように理論的にこうしたことを作曲家は学ばないといけない。これは高度な作曲家であればあるほど徹底しており、モーツァルトほどになるとこのような禁じ手の和声進行を極端に嫌った痕跡が伺える。バッハもそうである。ところがバッハの場合はモーツァルトと違って短二度音程を好んで使用している。人間臭い音楽と言われる由縁である。この不況音程を効果的に使用する手法は実はもっと古くから行なわれており、極端な不協音程は音楽史の影の主役であったと言うこともできる。肉をおいしく食べる塩と胡椒の役目を不協音程は音楽史で延々と果たしている。サダムもジョンイルもそのような不協音程としてみれば音楽と同じように世界が楽しくなるはずである。米長のオマヌケな言動もそのように楽しむとよい。
ところが醜い筋は最近の音楽では作曲家の無知のために横行している。ポップスなどの和声が貧弱なのはその為である。これは逐一修正をしないとレベルはどんどん下がる。将棋も実は今はその下がったマンマのレベルであり、まだまだこれからの世界である。諸君等も羽生がSMAPと一緒のレベルではすぐに飽きてしまうであろう。しかし我々もモー娘が好きであった時がある。この「好き」のレベルを「羽生タンが好き」と一緒にしたくはないということである。


醜い塊が美の要素となる場合 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月17日(月)16時36分52秒

醜い塊というものは扱い方次第で美の要素になる。ヒンデミットなどは短二度音程は永遠の不協音程であると述べたが、現代音楽では不協音程を積極的に美の要素として取り入れた。クラスターという手法である。音が団子になったようなもので一瞬雑音に聞こえるのであるが、それが変容して行くのである。するとクラスターは特殊効果を連続性の中でもたらし独特の音楽となる。


男女の戦争 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月17日(月)16時27分42秒

さて将棋は人生などと棋士たちはよく言う。米長など一体何度将棋と人生を同一視して民衆を誘惑してきたことか。このような棋士はバカであるというより有害かもしれない。将棋などの純粋遊戯を汚泥だらけの人生などと比較していたらまともな観賞法などいつになったら話題になるのかわからない。子供にピアノの観賞法を人生と一緒に語る者は良い教師ではない。子供の人生はこれからなのである。人生は男女関係が基本構図であるが男女は縁が深まれば憎しみも深まる。そこに金がからむからである。将棋に金をからめると男女関係の泥沼と同じである。そんなことを子供に語る親はいないであろう。
稼ぎが多い人は何人も内妻をもてる。内妻とその子供は扶養家族として認められているので税金が安くなった分で養えるからである。中には会社の給与として内妻に生活費を支払っている中小企業の社長も多い。そのように恵まれた女性たちは文句を垂れない。正妻にとっても別に自分の貯金が減るワケではないので文句の言いようもない。ところが遺産相続になるとモメルのである。現在の将棋連盟の会長戦などその醜い争いの典型であろう。米長は中原がうまく林葉と縁が切れなかったので最低の男だと昨日自分のHPに書いている。そのかわりに秀行の内妻を褒めている。バカであるならばまだよい。米長は醜いだけである。その醜さを世間が楽しむことがあるということは我々も否定しない。


不具者の言語 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月17日(月)16時07分41秒

我々が棋士の給料のことなどどうこう言っても彼らにはよけいなお世話であろう。我々は良い将棋を見せて貰えればそれでよい。
康光が王将戦で4連敗しても内容が素晴らしいのでまるで気にならない。むしろあのテンションで7番まで行なわれたら疲れてしまう。しかし将棋の観賞法は確立されていないので、世間はどうしても勝敗だけの興味に片寄ってしまうのである。マシュダ一家に賭博部門があることは諸君等も知っているであろう。しかし博打など飽きてしまえばそれまでである。従って本家では末長く将棋を鑑賞できる方法をいろいろ摸索している。実は棋士達も自分達の将棋が世間でどこまで楽しめるのかわかっていないらしい。よくある棋士応援HPの平均レベルの低さはあらゆるジャンルで最低のモノであろう。棋士の批判などしようものなら総スカンを喰らうようなお子様同好会は壮観である。それを宣伝する棋士互助会も涙ぐましい。だから彼らはいつまでも勝負のみを基準に語るしかない。いい将棋を語ろうとしても棋士は負けたら負け惜しみと言われるのが悔しいであろう。だから棋士が自分達で自分の将棋を評価すること自体がおかしいのである。彼らの言葉が不具者の言語となって当然であろう。彼らの言葉は棋譜のみである。しかし羽生は開き直って不具者の言語で棋譜までも開拓しようとしている。これを好意的に受け止めると、イトーヨーカ堂の入社式で手話の講座をやるような感じになる。羽生の相振り飛車への興味とはそのようなものである。


競争原理 疎外された美と生命の調和 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月17日(月)15時19分41秒

さて諸君等は羽生が昨年の棋士総会で現在の競争原理を不当として強者に有利な賃金体系を提案したことは知っているであろう。好意的に受け止めれば羽生はみんなにもっと真剣にやってもらいたいワケである。そうでないと羽生にとって将棋は面白くなくなってしまう。ところが金の話になると将棋という疑似戦争とモノホンの戦争は全く同じ原理であると羽生は知らなかった。だから棋士の大勢から猛反対を喰らって孤立したのである。今の米国と構造が同じである。そこで孤立したまま軍備を強化しナニがナンでも勝ってしまえば相手も文句を言えないだろうと野心を燃やすのである。
本日、米副大統領のチェイニーがNBCテレビのインタビューでついに日本の軍事自立問題に触れた。戦後禁句であった言葉がついに副大統領の口からでたのである。俺達と一緒にやれなきゃ核開発でもやってアジアで軍拡競争でもやる気かい?と恫喝している。その換り俺っちはお前んとこと縁を切るから攻撃されても助けないよということである。その言葉の裏はヨソの国におたくらを攻撃させちゃうからネということになる。冗談ではなく米国はそのようにして毎回戦争を仕掛けてきた。今日の友は明日の敵となる。明日の敵は今日の友と言っているのが米国なので、北朝鮮と手を組んで日本に戦争を仕掛けることなどお手のモノであろう。相手を倒す力だけを競争原理の頂点にもってくるとこのようなことになる。悪役をその度に利用し、自分達だけ偽善ブルという手法は何年たってもかわらない。羽生の最近の将棋と同じである。美と生命の調和も健全な競争原理の力であることが最強者にわからないのである。


三バカ首脳の温泉会談 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月17日(月)14時40分35秒

イラクを攻撃しちゃおうと決めた米英+スぺイン三バカ首脳会談は昨日大西洋のアゾレス諸島で行なわれた。温泉で有名な島である。火山列島であるためにそこかしこ硫黄の香りがする。オナラをしてもわからない。ブッシュ、ブレア、アスナールが屁を嗅ぎあったのがテルセイラ島であった。彼らも週末はバカンスを楽しまないとやってらんないであろう。そこで三バカ会談となるのである。テルセイラ島はアゾレス諸島で三番目に大きな島で形はチンポコの先っぽのようである。ユネスコ世界遺産に指定された町アングラ・ド・エロイズモが有る島でもあった。アングラ・ド・エロイズモとは日本人にとって凄い名前かもしれない。エロのアングラ都市ではないかと疑ってしまう人もいるであろう。ここは現在ポルトガル領であるが、このような名前はすべからく泥棒大航海時代の落とし種である。万年勃起と異名を取る大砲でことどとく侵略戦争を繰り返したのであった。彼らにとってアングラ・ド・エロイズモは英雄のちっぽけな港という意味になる。かわいい入江と訳してもよい。隠語にすればワレメちゃんのことである。エロのアングラ都市と覚えた方が日本人にはなじむかもしれない。エロイズモはHEROISMOと書く。ヘロイズモと読んでしまうのは米英人と日本人である。現地ではHは発音しない。米英人と日本人はHが好きということである。


どちらが真実か 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月17日(月)09時58分53秒

ヤラセで本気を装う打開手と本気で踊る泡踊りはどちらが真実っぽいかと言うと断然「本気で踊る泡踊り」の方である。無理な打開手とは人間の愚かさをショーにすることを自認した手である。


オマヌケな日本人 大団円は泡踊りで 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月17日(月)09時49分01秒

千日手か持将棋でよいのであるが、米国がサダムに三下り半をつきつけて今日中に打開手を指したいらしい。
日本人は終始オマヌケが似合う。北朝鮮の核開発や弾道ミサイル発射実験などの情報はすべて米国から日本にもたらされている。不審船の情報も米国からであった。即ち日本は米国のヤラセに躍らされているということである。従って最後までオマヌケを演じるのがふさわしい。踊るときには日本人は世界最強のスタイルをもっている。ご存じ「泡踊り」である。