10の先後裁判
MashudaBBS2003.03.08
先後の差異というものが将棋の全てである。その不均等な勝率を持ち時間で調整することなど新聞社が勝手にやってよいことである。将棋連盟という組織があり卑しくもプロ棋士と自称するならばそんな興業主の都合だけに頼ってはいけない。将棋の為にもっと根本を変えるべきである。それは「持将棋24点引き分けルール」の分岐点を23点にすることである。これで後手は持将棋引き分けに持ち込める将棋が本気で研究できる。後手が千日手を目指すよりはるかに素晴らしい。このような壮絶な戦いを我々は望むのである。羽生と阿部の死闘には誰もが釘付けになったはずである。大山升田も点数合戦をやってきた。しかしあの頃は棋士も新聞社に迎合せざるを得なかった。白黒ははっきりしないとダメな時代であった。そんな過去の遺物をいつまでもエンヤコラ引く継ぐ諸君等はバカである。
なぜ米長ほどの優秀な才能がこうもよじれ曲がった盆栽となったか諸君等にはわかるであろうか?先崎も林葉も稀にみる才能の持ち主であったのに、なぜあのようなエロ芸となったかわかるであろうか?
これは大山のハゲのせいである。大山は升田と違って戦争に行かなかった。そのかわり戦死した英霊の鎮魂歌を生涯歌い続けるという宿命を背負ったのである。出所がすべてこのように怨念と鎮魂にまみれたものである。だから懺悔、贖罪、祈祷というものが一方にあり、その対極である堕落、皮肉、嘲笑が商品化してしまうのである。
ところがプロ棋士の中には、この米長オマンコ処世術を盲信しているバカがいる。米長は自分の愛弟子のオマンコ話さえも煽るほどである。なんでもアリである。もしかしたら石原と米長はホモかもしれない。昨日は彼らの席が隣同士であったことを米長自身が嬉しそうに日記に書いている。酒場で米長が弟子の先崎のポコチンまで出させた話は有名である。だから林葉のオマンコを師匠の米長が拝んでも不思議ではないなどと言うバカもいる。実は本人がそれを言ってほしいのである。このような米長オマンコ処世術とは、どんな手段を使っても人生に勝つということである。それを本人は「ヨネちゃん哲学」と信者に呼ばせている。先崎のようにイジケた将棋でも勝てばなんとかなる。林葉のようなタカリ人生でも注目される。そしてプロ棋士にはこうした米長オマンコ哲学でエグイ将棋を指す者が本当にいる。三日前の羽生が典型である。アレは酒場のポコチンであった。
「朝まで生テレビ」を見たことない若い諸君等は月末まで待ってわざわざ見る必要はない。バカげた議論とはどんなものか知りたければ米長掲示板を見ればよい。あそこでは年中井戸端会議で中原誠のオマンコ話に花が咲いている。中原が米長の愛弟子だった林葉とオマンコしたから将棋界が汚されたとわめいている。これを管理している米長は中原の将棋のライバルであった。このような醜い議論を将棋と一緒にしてはいけない。
将棋の裁判官は口が悪いと思ってはいけない。原告と被告が余りに自分勝手なので裁判官の言葉が厳しくなって当然である。そうでないと裁判がいつまでたっても終わらない。原告と被告は裁判所を「朝まで生テレビ」と勘違いしている。将棋をあのバカ議論と一緒にしてはいけない。因みに羽生の将棋は「朝まで生テレビ」の田原総一郎のようなモノである。
後手番が千日手を狙うのは当たり前なのであろうか?諸君等はバカである。将棋の棋理の為などときれいごとを並べるのはマシュダ一家だけでよい。諸君等は将棋で生計を立てているプロ棋士である。卑しくも商業将棋を指しているならば身の程を知るが良い。後手番が千日手を狙うのは当たり前などと貧しい思想を開陳するくらいなら、堂々とプロ棋士らしく先後のハンデをキチンとつけろと主張すべきである。後手が持ち時間を増やすというだけの話である。こんなことは主宰紙の一存でもできる。
レ・ミゼラブルのジャンバルジャンとジャベル刑事を独りで演じている丸山を救済するには、やはり後手の持ち時間を1割増やすしかない。
丸山は現行法を追及する求道者である。だから先手で角換り、後手で横歩取りを徹底的に貫く。それをテレビでバカにする先崎には死んでもらいたい。
後手番戦法の横歩取りやゴキゲン中飛車まで谷川がやるようになっては将棋はそれまでである。目先の変化を苦し紛れに研究することは日傭い仕事である。人間の才能が惜しい。このような戦法は創造性に乏しい。全軍を駆使するという将棋の原点に戻るべきである。持ち時間にハンデをつけられないならば、谷川は後手で負けてもよい。谷川まで羽生のようになる必要はない。己の道を突き進んでほしい。後手番で死刑を宣告されたら堂々と死んでもらいたい。
先手の勝率が高すぎる。この先後のハンデを持ち時間で調整することは健全である。なぜならば現在先手の検察側は闇雲に情況証拠だけそろえて勝訴しようとしているからである。こんなものをいちいち調べていたら20年やっても後手番である被告の不利は変わらない。なんとか示談に持ち込もうとする千日手も増える。後手番が貧乏人であれば優秀な弁護士もつかない。後手の持ち時間を1割増やせばよい。
将棋は裁判と同じである。先手が原告であり、後手が被告である。
先手の初手「君は死刑」
後手の対応「私は無罪」
三浦裁判が最高裁で無罪となった。この場合後手の勝ちとなる。原告は被告に損害賠償をする。