観戦記考

MashudaBBS2003.03.04-06


ハンデの意味 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月 6日(木)21時27分52秒

先後というハンデをどのように後手は克服するのか。
駒落ちというハンデを上手はどのように克服するのか。
棋力というハンデはどのような戦略で克服されるのか。
これらのハンデは差異という言葉で一旦くくることができる。温度差も差異である。
強さとはこの差異が逆転しえないものである。同等の棋力をもつものに駒落ちのハンデを与えたら上手が勝つということが絶対的な強さとなる。
平手において差異が最初から見える場合、棋士の威厳となる。プロ棋士の存在理由はハンデを必要とする土壌にある。


三枚目棋士の大きな役割 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月 6日(木)21時19分13秒

神崎や先崎が駒落ちの将棋に言及することは大変有意義なことである。これはプロ棋士が対局以外に行なうべき最大の仕事のひとつである。駒落ちはプロ棋士の指導対局で必ず大きな楽しみをアマチュアに広く与えるはずである。湯川恵子は週間ポストでいい仕事をした。先崎が駒落ちに目をつけたのも視点が素晴らしい。今何をすべきか。木村の将棋大観がなぜ名著なのか再考していただきたい。


棋士への応援とは 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月 6日(木)21時11分19秒

棋士のポコチンを立たせるのが応援団の役目である。女の子であれば口に水を含み刺激する。この役目はむしろ女性が主役である。我々がそれを行うと卑猥である。


中原と米長に望むこと 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月 6日(木)21時03分57秒

加藤一二三があそまで棋風を変えようとしている。中原も凄い。米長もアンチテーゼの痕跡が顕著である。まあ意地っ張りにしか見えないのであるが。
いずれにしても棋譜が全てを語る。棋士の人格などはクリティカルエディションの場合には全く不要である。棋士が殺人者であっても棋譜は全くそのように読まれることはない。
ところが中原の場合は、たかが林葉とオマンコしたことを世間で騒がれた位で棋譜の総体レベルが低下してしまった。クソ米長やあそこの掲示板に水虫のようにへばりつくSakuSakuという米長のホモ門下にまで中原は突撃と年中揶揄されている。クリティカルエディションの楽しみを将来にもつ我々にとって、ゴミのような言語が生クリ以上に影響力を世間にもたらす土壌には荷担し得ない。


クリティカルエディションの場合 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月 6日(木)20時49分25秒

これはマシュダ一家の未来の楽しみである。第一弾は中原誠であろう。だから今中原誠全集など必要ないのである。逆に今せっせと出される谷川浩司全集がコキおろされることになるはずである。棋士の解説など全く必要ない。棋譜さえあれば良いのである。むしろ丸山のように沈黙していた方が棋士の名誉の為にはよいかもしれない。将棋世界に掲載される程度の内容は我々には全く参考にさえならない。せいぜい二言棋士のコメントがあれば十分である。


クソ米長の言い草 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月 6日(木)20時20分02秒

今さっき米長掲示板をみて呆れた。もうコイツはクソ米長とでも呼ぼう。これが老害の典型である。順位戦の給料など老害のうちにはいらない。今ある米長には我々が知っている米長という名前を付すのも不快である。
クソ米長は昨日の羽生VS丸山戦の疑問手は一手だけだと言う。丸山が強すぎたと結論する。挙げ句に羽生VS丸山の将棋について、指し手の批評をするなと説教垂れている。クソ米長には批評の意味がわかっていない。我々が行ってきたのは過去を見直すクリティカルエディション制作ではない。現実の棋譜の進行に影響を与え得るかという生クリそのものである。我々が知っている米長の棋譜にはその痕跡がある。クソ米長が説教垂れる筋合いか?


先ほどは 投稿者:凡夫  投稿日: 3月 6日(木)23時07分05秒

 タイミングの悪い書き込み失礼致しました。
 羽生などが大山論を書いてくれるとしたら望外の喜びであり、その時は同時に真の羽生善治論が読めるでしょう。これも待望しているものです。


Re観戦記考補遺 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月 6日(木)19時38分36秒

羽生や丸山に分析能力はあっても彼らの貧しい語彙では表現不可。彼らの思考を棋譜で表現しても無意味。
観戦記考は後日前項とだきあわせ別枠UP予定。確認。
丸山位相空間8以後、2時間後に続行。


観戦記考補遺 投稿者:凡夫  投稿日: 3月 6日(木)14時28分49秒

 大山康晴論が読みたいと書いた。そう思い出したのはここ3、4年であろうか。凡庸な
将棋ファンであった小生は彼の全盛期には憎っくき大山であった。升田、二上、加藤、山 田らが惨敗する度に歯がゆい思いをしたものである。中原の名人戦勝利には当然快哉を叫 んだが、その前からぽつぽつ失冠し始めており、全盛期での王位簒奪ではない点ある種の 物足りなさを感じていた。全てのタイトルを失った後は大豪の一人として客観的にその存 在感を楽しんだ。始めて興味を抱いたのは、米長が王将戦で大山と対戦した折に過剰な敵 愾心を全面に出し、何としても勝つという意志を示した時である。米長は既に超一流の域 に達しており、大山は全盛期を過ぎている。勝っても誰も驚かないというその当時の力関 係は米長も当然承知していた筈であり、何を今更、という部分があったものの、彼ほどの 者のその本気は小生に様々な事柄を想起させた。先ず、人間の実力が将棋の実力である、 とする米長の考え方から判断して、自らの生き方と将棋に自信の出て来た米長が勝負の決 着をつけることにより、長年将棋界を牛耳って来た大山的なやり方は正しくなかった、米 長的なあり方が棋界を引っ張るのだ、という自説を形にしたがったのであろうということ 。又、大山対その他という図式の中ではやや格下であった米長が、老いたりとはいえまだ 別格的技術を発揮している大山を挑発し、本来の力を出した大山の将棋を超えてはじめて 真の強者たり得るのだという認識。大山に倣って全局正座を通すという意地と敬意。突き つめて言えば、米長がそれほどまでに意識する大山とは何者であろうか、という永年に亙 って米長に注目して来た小生が抱いた興味であった。
 その後大山について書かれたものを読み始めてみたがどれも隔靴掻痒の感を免れない。 伝記的なものは同工異曲で、大山論というよりはどちらかというと大山升田論になる。さ りとて棋譜集のようなものではこちらの棋力がお粗末過ぎて理解が及ばない。何より、本 人の自伝が最も退屈で、強さの背景にある精神性のようなものは伝わるが、それは他の伝 記でも十分に書き尽くされている。求めているものは、何故強いかではなく指し手に現れ る強さの精査な分析である。それは勝負術、心理にまで及ばなければ全体像が明らかにな らない種類のものであろう。そんなものを読みたがっている者は小生だけかも知れないし 、プロ棋士の中では既に十分に理解されているのかも知れない。しかしながら、大山は不 世出の棋士である。こんな強い人がいた、程度の通り一遍の記述で済まされてはならない だろう。羽生世代の行っている異様に追求された棋理と共に、その技術は将棋史において 徹底した分析的仕事が残されるべき分野だと思う。
 河口が大山論を書きたい、と言っているのを何年か前に目にした時、それだ、と思う反 面、如何に同じ振り飛車党とはいえ河口のようないい人にはこの仕事は荷が重いのではな いかと案じられた記憶がある。河口は老師ではあっても老獪ではない。これはやはり老獪 な人物、とりわけ老獪な棋士のすべき仕事であろう。プロなら誰でもという訳にもいかな いであろうし、ましてや一観戦記者の能く成し得る業ではない。小生は心中秘かに期待し ている棋士がいる。後10年は無理であろうが、彼なら大山の棋譜を十全に読み解き、完 璧な分析が可能であろうと考えている。
 


観戦記考U 投稿者:凡夫  投稿日: 3月 4日(火)20時49分51秒

 前回は河口に苦言を呈した。小生は河口の著作をほぼ全て読んでいる。ここ数年は買い
もらしているものがあるかも知れないが、力富書房版からの愛読者である。当初は彼の日 誌により将棋界の雰囲気を理解した。少し踏み込んだ記述もあり、又自ら三流と称しては いるがプロ棋士の端くれということも手伝って、他の新聞社・フリーランス系観戦記者を 断然離している様に思われた。しかるにここ数年は著作をたまたま見かけたら買う程度と なっている。内容の旧態依然さに物足りなさを感じたのであろう。相変わらず古い時代の人間ドラマを見出そうとするが、島世代以降の若手達からはその辺は引き出しにくい。そこで、若い者は人間臭さが希薄になったと嘆く訳である。更に「十年後の将棋」等でも明らかなことであるが、島以下の将棋が強いことは認め、羽生が天下を取ることも当然と予測する。大事な点は、彼にはしかし若い世代の将棋に魅力が感じられないということ。感じられないものは書けない。そこで、羽生達はおそろしく強い、といったことを繰り返す他ない。しかし、小生を含め羽生達の出現に胸をときめかしている一部のファンには如何にも物足りない。強さの先にある、言葉で上手く言えない何ものか、例えば指し手の思想といったもの、或いは棋理研究の哲学といったようなもの、もっと分りやすく言えば、羽生、森内、佐藤、丸山、藤井、郷田、谷川らは、互いにどのような対策を講じあっているかといったことを、詰まらないに決まっている日々の様子等からではなく、棋譜から読み解いて伝えて欲しい訳である。
 研究が高度さを増している故か、棋譜が今日ほど研ぎ澄まされている時代はかつてなか ったろう。逆にここまで究めると危険だなと感じてはいるが、いずれにせよ、こうした棋譜の真髄は芸術・思想といった観点から読み解く他ないレベルに達している。或いは、そういう風に読み解く以外面白くない、と言ってもいい。観戦記者は従って棋士に負けない鋭利な感性と深い教養と相当の棋力が求められている時代なのである。誰が何冠王等と数えている内に将棋の今日的価値は死蔵されていくことになるだろう。それはただ将棋界にとってのみでなく、大袈裟に言えば日本の知的文化の記録という点で重大な逸失である。河口に限らず、そんな因果な時代に観戦記を書いているのだという自覚を持つ者が増えれば、観戦記と雖も批評の一分野として独立した価値を持つことになると思うのだが。